一昔前の話になるが、詩の世界では〈言語派〉と〈人生派〉という簡便な対立項があった。すべての詩人が明確な旗印を掲げて争っていたわけではないが、客観的に見て「あの詩人は言語派」とか、「あの詩人は人生派」というふうに色分けされていたように思う。当時、我々のように比較的に若くて理屈っぽい連中は、当然のことながらいわゆる〈言語派〉とされていたわけだが、他人はともかく自分にレッテルが貼られると首をかしげるのは、まぁ常のことである。
首はかしげても、もちろん自分たちを〈人生派〉とはつゆ思っていないわけで、それと思しき詩人や作品のことは、やっぱりちょっと馬鹿にしていた。その意識をもって〈言語派〉と呼ばれるなら、いたしかたないことではある。今思えば〈人生派〉も〈言語派〉も、もしそう呼ばれるに過ぎないレベルの詩人や詩作品だとしたら、どちらもある欠落を抱えていて、その欠落をもってそんなレッテルを貼られるのだとすれば、たしかに首をかしげたくなるのはお互いさま、というところだろう。
投資のための分析方法にも似たような対立項があって、それぞれテクニカル分析とファンダメンタル分析と呼ばれる。テクニカル分析が〈言語派〉、ファンダメンタル分析が〈人生派〉に当たると言えようか。テクニカル分析というのはいわゆるチャート至上主義で、チャートに現れるいろいろな指標を分析する。そのチャートが表しているものがどこの会社の株価であろうと、あるいはどんな金融商品であろうと、分析方法は同じ原理というスタンスだ。対してファンダメンタル分析は、その対象の実態、たとえば会社であればその業績であるとか、開発した新商品の評価とかを株価の上昇や下落の予測の基本とする。
昔からの小金持ちの年配者で相場が好きな人は、なんとなくある企業にこだわり、情報を集めたり、株主総会にも出かけてマイクを握ってちょっとワーワー言ってみたりとか、そんなイメージである。すなわち現物で買い、業績が悪ければ経営陣の責任を問うわけで、典型的なファンダメンタリストだ。いわば自分の人生とその会社の成功とを重ね合わせ、喜んだり哀しんだりしながら生きているわけで、市場における〈人生派〉だろう。
こういった尊敬すべき方々を、お腹の中でちょいと馬鹿にしているチャートのテクニカル分析派、別名チャーチストは〈人生派〉の小父さんたちよりは若く、外資系のヘッジファンド等でキャリアを積んでいたり、そういったプロから訓練を受けた人であったり、イメージとしては少々エリート意識があって鼻持ちならず理屈っぽいという、まぁかつての〈言語派〉詩人とたしかに似たような雰囲気の人々と思えばいいだろうか。
ただ、やはりテクニカル分析派の言い分は合理的であり、優位性があるように見える。すなわち経営に関する情報は、我々のところに降りてくる段階ですでに株価に織り込まれている。だから情報を待って動くのは常に手遅れだし、そもそもその情報が直接株価に影響するとはかぎらない。逆に変化の兆候をわずかなチャートの動きや数値から読み取り、建玉のテクニックをもって売ったり買ったりする、その手法を磨くことこそが勝ちに繋がる、と。
そしてチャーチストにとっては上げも下げも等価なので、上がったから素晴らしい、下がったから問題だ、というような人生的価値観は存在しない。むしろ暴落時にショート(空売り)で大儲けをするのが通常のパターンである。なぜなら上げるのは結構、時間がかかるが、下がるのは相対的に短い時間で大きな利益が得られる。下がるのは早い、いわゆる暴落は相場の恐怖心がもたらすものだが、この恐怖心と呼ばれるメンタルも数値化され、目に見えるチャートで表すことができる。
つまりチャーチストたちにとってはチャートがすべて、数字のみが信用できるわけだが、相場を動かしているのが〈人間〉であること、そしてその人間の〈広義のメンタル〉こそが相場というものを形作っていることを、もちろん全面的に肯定している。ただ、そのメンタルのすべては結局、数字やチャートの微妙な変化に現れているはずだし、ならばその前兆も捉えられるはず、と考えているのである。彼らは実証主義者であるから、そのことを折りにふれて証明してみせるのだが、実際のところそれはほぼ信念に近いものだと思う。
なぜなら秀れたチャーチストという存在は、秀れたファンダメンタリストと同じくらい、非常に稀だからだ。したがって実証となるほどのすばらしい実績を持っているチャーチストは、ほんの一握りしかいない。しかしながら、どんなへぼなテクニカル分析者であっても、上記のような信念を捨ててファンダメンタリストに鞍替えしたという話は聞かない。すなわち〈人生派〉が人生を愛し、信じているのと同様に、テクニカル分析の信奉者は情熱を持ってその原理を信じていると言える。
若い頃に〈言語派〉と揶揄された我々は、のちに自身を〈テキスト原理主義者〉と定義付けるに至った。それは「テキストにすべてが表れている」と信じるところからしか始まらない、という宣言である。正しいとか正しくないとか以前に、宣言しないと何も始まらないのである。そのことを認識したという、これまた要するに宣言である。
「テキストにはすべてが表れている」という前提で、それを精緻に分析していくのが〈テキストクリティック〉という手法である。これについて大学で授業するとき、よく学生に話すたとえ話が刑事ドラマなどで出てくる「現場百回」というやつだ。刑事は現場に百回でも足を運んで、どんな小さな証拠も見逃さない、という心構えである。実際には、今は鑑識が最初にその場を取り仕切ってしまって、刑事が百回行って髪の毛を見つけて、あーとか叫んだりする余地はないのかもしれないが。それでも学生にどういった立場で話すかといえば、刑事がたとえ百回足を運んだとしても、決められているからただ百回行ったというだけで何か見つかるだろうか、という問いかけである。絶対に何かある、絶対に真実につながるものがそこにはあるんだ、という信念で目を皿のようにして探す。あると信じるから探す。そうでなければ、絶対何も見つからない。テキストを読む場合も同じである、と話をするのだ。
初心者向けのテクニカル分析の指南書には、その冒頭によく書いてあるが、一番大事なのは何ごとであれ信じ続けることだ。信念をもって原理を信じる、という意味ばかりではなく、どんな手法であれ、それを基に自分自身にルールを課し、何があっても守り続けることだ、と。考えてみれば相場というのは上がるか下がるか二つに一つなのだから、放っておいても勝率50%はなければおかしい。つまりほんのちょっとでも優位性のある手法をとり、その手法をずっと守っていけば、必ずいつかは勝つことができるはずなのである。
ところが人間である以上、いつも平常心で同じ手法を取り続けることはなかなかできない。やはり事件があれば今だけは例外、と思うし、長いこと結果が出なければ手法を疑うこともある。プライベートな理由でしばらく休んだり、機嫌がいいので掛け金を倍にしてみたりと、やっぱり人間だから…。かといって、どんな場合にも馬鹿みたいに同じやり方を続ける自動売買なら勝てるかというと、これまた勝てるEAなど滅多にない。どんなに相場が下落し続けていても、まったく躊躇なくどんどんナンピン買いするのだから恐ろしい。もちろん無限に資金があって、それで無限にナンピンをし続ければ、いつか相場が反転して大儲けになるわけだから、EAの態度は原理としては正しい。けれども現実には資金には限界があって、含み損が膨らんだある段階で強制ロスカットされると、もうそのまま退場となってしまう。つまり原理は現実の運用場面では通用しないことがあって、長くやっていれば必ずそういう場面に遭遇する。そこで揺れ動くからダメなのだと罵られるのが人間、揺れ動かなくてロスカットされるのが機械ということか。
テクニカルを信じるなら信じるで、常にそれをブラッシュアップしていく必要がある。その上で、磨き上げたそれを信じる。しかし自分自身に対しては、未熟であるとの疑いを捨てない。誠に難しい技である。人生をかけて習得するべき、と言うべきかもしれない。だとすればテクニカル分析はテクニカル分析なりに、深く〈人生派〉でもある。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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