社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第二十一回 テクニカル分析I―神の二つの顔
いよいよチャートについて。拙著『文学とセクシュアリティ』で、あらゆる文学作品に汎用性のある「テキスト曲線(©︎小原眞紀子)」を使いまわしているので、チャート的なるものへの想いは深い。チャートは本当に神秘的なものだ。神秘とは「人智を超えたもの」と定義されるわけだが、人智とは「言葉」、より正確にいえば「日常的な意味」のことだ。
「数秘術」というものがあるらしい。文字通り、数字の並びに神秘を見い出すのだろうが、それも数字を日常言語ではない「神の囁き」として見る。それはそれで楽しく、美しい世界が出現するかもしれない。ハマると、ロト6を当ててみせるぞ、という方向に行きそうではあるが。とはいえ、わたしは数学科は出たが、代数学や計算は好きでないので、へえ、という感じで通り過ぎた。計算しかしない計算機とはついに理解し合えず、計算機実習の単位は全部落とした。
人間の思考タイプは二つに分かれるらしくて、代数と幾何なら、わたしは完全に幾何タイプだ。幾何学は全部Aだった。こういうのは絵画が好き、図形が得意、というよりも思考のパターンが図像化されがちな人、だ。自分のやってることを図像に置き換えると納得がいくだけなので、絵描きとはかぎらない。空間図形把握能力ともいう。自分の経験からは、長編小説を書くには構造化が必要なので、この能力は欠かせない。聞いた話ではパイロット、サッカーの司令塔、それともちろん一級建築士にも必須要件だという。
それで株や商品先物の投資は、図形が得意なチャーチストなら勝ちまくりか、というと、そんなに甘くはない。けれども第一歩ともいえる考え方については、チャートにどれだけの意味、すなわち神秘を感じるか、というところで分かれると思う。すなわちファンダメンタルを無視するか否か、だ。
現在、株式やFX、商品先物の投資教育で名前が通っている先生は、テクニカル分析一辺倒、すなわちファンダメンタル無視を推奨される方が多いと思う。ただし世界情勢とか、10年単位の大きな流れとか、そういう視野やスパンを大きくとったときは、ファンダメンタルを完全に無視することはできない。たとえば大恐慌、リーマンショック、このコロナ禍は、やはりチャートに書き込まれると見やすいし、そうすべきだろう。
無視すべきファンダメンタルとは、すなわち予想不能なものだ。リーマンショックを予想した人はいたし、新型コロナ感染が世界的に拡がるには何ヶ月もかかった。トランプ大統領のTwitterも、なんとなく月末から月初にかけてが多く、あれで気をつかっている気配がある(笑)。予想不能なファンダメンタルで、まったく意味がないと思われるのは、毎日の株価の動きを後付けで説明するようなものだ。今日は何々がどうだったから上がった、どこそこの見通しがどうで不安感から下がった、などと日経ラジオなどで言ってるやつ。実際のところ、決算発表で業績が悪ければ下がって当然、もし上がれば「悪材料出尽くし」ということになるだけで、すべてもっともらしい後付けのコメントだ。
だが一方で期間を長くとると、たとえば今後10年で東南アジアの某国はどうなる、という予想のもとに指数(株価平均のETFなど)を買う、というのはありだ。数十年前のApple創業当時のメンバーの顔を見て、もしあのとき投資を決めることができていたなら、というのも誰もが夢想する。こういうファンダメンタル投資ができたら、さぞ楽しみだろう。ただし信じる材料をたくさん持ってなくてはならないし、揺らいではならない。毎日チャートを見るなんて、もってのほかだ。
10年も15年も揺らがない、というのは、要するにそこに神秘、この場合は決定的な「神の摂理」を感じるかどうかにかかっていると思う。若い女性をおとすキーワードは「運命の出会い」だ、とメンタリストたちが教えを垂れているが、似たようなものだろう。もっとも恋愛がメンタルなのは定義からして自明だが、「投資の8割はメンタル」と聞くと、なんだかヤワい子供騙しみたいで不快だ。きちんとしたメソッドが確立されている、という方を信用したくなるが、ようはメンタルという言葉の守備範囲にある。それが「気分」ではなく「信念」だとすれば、それをいかに確立・保持するか。ファンダメンタルであれ、テクニカル分析であれ、それ自体が方法論に反映されてしかるべきだ。
というより、投資家というのは結局、その信念の正しさを証明するために戦っているようだ。誰もが黙る証明は「儲かること」ではある。けれどもそれが目的というより、やはり世界を把握すること、これに尽きるのではないか。安月給の数学研究者がリーマン予想を解くのに寝食を忘れるのと、信念を持った投資家が巨額の含み損に耐えて数百億円を稼ぎ出すのと、そのメンタルに大差はない。「世界をこの手に掴んだ」という実感がほしい。それだけだ。
この企業は伸びる、と信念を持ち、それとの出会いに「神の摂理」を見る、というのはストーリーとしてわかりやすい。それに比べるとチャートに神秘を感じ、その解釈に信念を持つ、というのは、人によってはぴんとこないだろう。ぴんときたところで、それですぐさま儲かるわけではないのだから、「やっぱダメだね」ということになりがちでもある。その「ダメ」は「儲からない」という意味のダメに過ぎないから、話はそこで終わりだ。自分がダメなのか、それとも方法論がダメなのか、追究されることはない。ようするに儲からなかった、それだけだ。しかし「これでは世界を把握できない」という意味のダメなら、何らかの原因があるはずだし、それが問われる。
ファンダメンタルを無視するやり方には、相当に評価の固まった方法がいくつかある。広く知られたやり方もあるし、ごく一部の人にしか知られていない、あるいはたった1人が見い出したものでも再現性があり、しっかりした勝率が出ているなら問題ない。最近は外国の機関投資家が相手というか、EA(自動売買のプログラム)が相手なので、むしろロジック通りに動くとも考えられる。つまり確立された手法は存在する、ということだ。ではなぜ手法を習っても、なかなか上手くいかないか。上達するとは、この場合はどういう状態になることなのか。
そこで先ほどの「8割はメンタル」が出てくると、誰もがカチンとくるわけだ。2割しか保証できないメソッドが、確立されたものと言えるのか、と。しかしながら、その手法を確立した本人、その上級の使い手たちの勝率を聞くと、やはり基本は確かなものなのか、とも思う。この揺らぎや迷いは「儲かる」、「儲からない」を基準にしているかぎり、永遠に続くだろう。それこそがメンタル、と言われると、さらに袋小路となる。
しかし、ではどのように世界を把握するのが正しいか、という視点で見ると、いつでも興味深い。数字でテスト結果が出るのだから、なお面白味がある。どうやら確立された手法というのは、それぞれまったく違うようでも、思想としてはかなり重なり合ったところがある。重ならない部分は、どこを強調するか、どのように視点をずらすか、という微妙な差異でしかないともいえる。微妙な差異だが、それによってひとつの手法で覆い尽くせない思考の穴、把握しにくかったメンタルの揺らぎが固定されることがしばしばある。小さなネジ一つで不具合がカバーされるようなものだ。
どこを、どんなネジで留めるか。それを見つけるにはただひたすら、いじり回すしかない。倦むことなく子供のように。そして玩具に向かうように距離感をもって、楽しめる者のためだけに投資はある。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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