社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第二十回 グローバリズムII――神のいる山嶺
「木を見て森を見ず」。よく聞く言葉だが、あまり時間をおかずに二人の知人の口からこぼれた。二人とも優れた投資家だが、ジャンルが異なる。一人はFXトレーダーで、その同僚が言うには「負けない」。大袈裟かもしれないが、勝率100%ということだ。もう一人はファンドをあつかう会社の会長さんだ。まだ若いが、金融の世界でのキャリアは長く、業界では有名人である。
その言葉をそれぞれの口から(FXトレーダー氏はSNSチャットだったが)聞いたとき、急に肩から力が抜けた。信用できる、と思ったからだ。信用できるというより、何というか、疑う理由がない、というか。なぜならわたし自身も、しばしばその言葉が頭に浮かぶ。かといって心がけることもなく、率直な感想として思うことが多いのだ。
厳密には二人それぞれ「木を見て森を見ず」と、文字通り言われたわけではない。ビジネスマンとして毅然と、ちょっと俺さまふうの会長は「あなた方は木を見ている。わたしは森を見てるんだ」と言われ、それはそうだろう、と納得した。自分の長年の専門、たとえばわたしなら原稿を書くことについて、素人とりわけ若い人からしのごの言われると、まったく同じ返事をしたくなる。実感の言葉である。
対照的に、優しい雰囲気のFXトレーダー氏は、高い勝率の手法について「森を見るやり方」だと説明された。「木を見る」狭量を非難するわけではなく、それらは森の構成要素である一本一本の木なのだ、とヒエラルキーを示し、整理しようと試みる。どちらが上とか下とかではなく、ようは順番である。木から見はじめると森はいつまでも目に入らない。が、もし森を見つけることができたら、やがて一本ずつの木も見えてくる。それだけを見ていたときより、より正確に、より詳細に。
「木を見て森を見ず」はかくも実感の言葉であるし、戒めとして座右に置いてあるわけでもないのだが、自身としてはやはり、森を見る自分でありたいと日頃から思っている。だからこそ二人の知人の言葉は嬉しく響いた。木を見ている人に対して、どうしても言いたくなる言葉だ。わたしもまた、学生や若い書き手に言った。だから二人の信頼できる友を得たと感じると同時に、自分がそのように諭されることが、ジャンル普遍的に理想とする成長に直結することになる。
さて、ではなぜ「森を見る」自分でありたいと思うのだろう。ジャンル普遍的に、と考えることから、個人的な趣味嗜好とは違うだろう。会長とFXトレーダー氏、それにわたし。性別も性格も専門も異なる三人が、ある完全に共通する実感をもつとしたら、それは人間一般に通じる「物の見方の進歩」にかかわることではないか。
少し似たたとえとして、登山をして徐々に高いところに行き着くたびに見える風景が変わる、というのもよく聞く。視点の高さと距離感で、大事だと思われていたものがそうでもなく、雑多なものに紛れて目につかなかったものが要の役割にあることが見えてくる、ということはあるだろう。自分としては、えいえいと努力を重ねて登っていく登山のイメージより、騙し舟のようにぱっと視点が切り替わって、より大きな森が見える、というメタファーの方が好みではあるが。
ただ、その山登りのえいえいとした努力について、ではそれはいったい何のためのものなのか。そこに山があるから、という人を食ったような物言いもあるけれど、それについては夢枕獏さんの『神々の山嶺』を読んで心底納得した。岡田准一と阿部寛のW主演で映画化もされたようだが、ぜひ原作本を読むことをお勧めする。夢枕獏先生には文学金魚のフロント・インタビューをお願いした際に、なんとか(隙をついて)感動をお伝えする機会を得たけれど、ほんとうに素晴らしい大傑作である。
つまり彼らは山の巓に、その容赦のなさそのものに「神」を見るのだ。安心して暮らせる下界に降りてくると、なぜか吐いてしまうほどに。命がけで、ときに命と引き換えに得るものは、世界に向けられた自身の視点を神のものに近づけること。それを知れば、もう後戻りはできないだろう。森を見い出した目は、もう森を見ずに木だけを見ていることはできないのと同じだ。
できるだけ広い、大きな視野を得たい、という人間の欲望は、少しでも神に近づきたいという願いと同質である。「正しさ」は直接は測れない。しかし視野の広さや大きさは、客観的に測ることが可能だ。そして「正しさ」はかなりの程度、視野の広さと大きさに担保される。視野の狭い者が下す判断は、より広い視野を持った者から見たら、ほとんど当てずっぽうだ。そして判断基準を持たないとき、人はたいていその判断を自身のエゴにゆだねる。損得とか、好き嫌いとか。世界全体からすればちっぽけなもので、なおかつたいてい満たされない。
大昔、世界が一枚の板のようだと認識されていたとき、空が落っこちてこないようにアトラスが支えていた。その世界観においては、人々はアトラスに心を寄せて、その見える世界で価値のヒエラルキーを構築していただろう。現在の地球は、球のかたちをしている以上に、おもに経済力によってゆがんだ地形をさらし、それによって地球儀とは別の世界観をもたらしている。すなわちアメリカと中国、日本も含めたいくつかのアジアの国とイギリス、ドイツなどは肥大化して目に映り、そうでない国は面積のわりに相対的に小さな存在感しか示していない、というように。
グローバリゼーションが求めるもの、それがもたらすものは、世界のすべてに通用する尺度だ。ある物差しによって世界のすべてを把握したい、という願望は有史以来のものだ。その物差しは現在、最も便利でわかりやすいものとして「経済力」に置き換わっている。経済力をつけることは豊かになることで、「豊かさ」とはつまるところ、世界をどれだけ把握しているか、という実感にほかならない。
だから言葉の上では、ありふれたよく聞く結論と同じになってしまう。「豊かさとは金の問題ではない」。金の問題ではなく、家族愛とか、民族の誇りとか、文化芸術とか、だけどそれらすべてだって、金がなければ守れない。少なくとも質の問題ではなく、量的にそれらを確保することについては、やはり経済が物差しになり得る。
つまりは「豊かさとは金の問題ではなく」、《世界を把握しようとする根源的な欲望の達成》なのである。グローバリゼーションはその欲望のエネルギーによって必然的に推し進められるものなのであり、その欲望の、神に向かう根源性によってのみ正当化され得るものなのだ。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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