社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第十二回 ビットコイン I――神話の誕生
ビットコインのイメージ画像として、金色のコインに「B」と打ち出されたものがある。ビットコインってあれ、おもちゃの通貨みたいなものだ、と思っている人はまだ結構、いるんじゃないだろうか。なにを隠そう、わたしもそんなふうに思っていた。というか、それについてまともに考えたこともなかった、というに過ぎないのだが。
ビットコインは触ったり、手で枚数を数えたりできない。それはそんなに特殊なことではなくて、Tポイントだってマイルだって、データとして所有しているだけだ。カード決済しかしないなら、円に触ることもない。株券だって最近は見ないし、そのうち硬貨も紙幣も、紙の本もめずらしがられたりするのだろうか。
ビットコインの本質はだから、おもちゃの硬貨のように触れないことではなくて、その価値の源泉が今まで見たことないものだ、ということらしい。お金の価値の裏付けが「金」であった時代から「国家の信用」に変わって久しい。私たちは安倍政権を批判しようと、野党の体たらくに絶望しようと、はたまた天皇制について疑義を唱えようと、日本の造幣局が印刷した紙幣を単なる紙切れだとは思わない。つまりなんのかんの言いながら、日本という国家に最低限の信頼を寄せている。もっと正確に言うと、日本という国の国家権力を前提として生活している。
でもそれは世界的には当たり前のことではなくて、紙幣が増えると掛け値なく嬉しい、と思える国ばかりではないらしい。まあ、海外旅行で見慣れぬ紙幣を手にすると、それこそおもちゃみたいで価値の実感がわかないが、そういう感覚で日常を過ごす人たちもいる、ということだ。そんな国では、紙切れの紙幣より、現実に食べられる物、使える日用品の方が価値の実感を与えるわけだ。わたしたちも「モッタイナイ」という思想を持ってはいるが、それでも物品は廃棄したほうがかえってコストがかからない、という計算が成り立つ社会に暮らしている。
つまり価値観は抽象化され得る。それもわりかし平和で平等な、恵まれた社会においてそういう傾向がある。食うや食わずでは芸術や数学どころでなくなるのと同じで、明日のパンがあまりに貴重な社会では、紙幣を山のように積み上げてもなかなかそれを買えない。信頼の中心がパンからゴールド、国家権力というように抽象化の道筋をたどるには、その進化を支える豊かさと安定した社会が必要なのだ。
ビットコインがあやしい、反社会的なものだと捉えられてきた経緯には、いくつかの解釈がある。ビットコインの価値の裏づけとなるものは、ゴールドやプラチナなどの物質ではなく、国家権力への信頼でもない。不特定多数の認知または監視といったものだ。ある取引きが行われたときに、マイナーと呼ばれる者がそれを計算し、記録する。マイナーは不特定多数なので、不正が行われることはない。最初に計算に成功した者がビットコインで報酬を受け取る。この労力コストがいわばビットコインの価値の源泉である。
ビットコインが国家権力の裏付けを必要とせず、莫大な富を蓄えたり、送金したりする手段になり得る、ということはそのまま反社会的である、という位置付けになり得る。国家権力は国家権力にとって都合の悪いものを反社会と定義できる立場にあるからだ。逆に言えば、国家権力にとって都合のよいものになれば、反社会のイメージは一掃される。
しかしながら国家よりもっと露骨な動きをするのは、いわゆるハゲタカ、外国人機関投資家と呼ばれるものだ。彼らのすべての言説はポジショントーク、それも自分の動きと逆の主張をする。たとえば彼らのトップがビットコインを非難するとき、それは社会倫理的にビットコインがけしからんと思っているからではない。なぜそれがわかるかと言うと、彼らはいつだってそうだからだ。自分たちの仕込みが終わってないか、何かの時間稼ぎの必要があるとき、彼らは対象を非難したり、予想レートを下げて自分たちの仕入れの平均価格を下げようとする。
一般の善男善女はいつだって、気がついたときには遅れをとっている。あるいは持っていたものを奪いとられている。それは詐欺ではないのか。名前のある、巨大な資本を持つ者たちがすることは詐欺ではなく、ストラテジーと呼ばれる。一般の人々から富とチャンスをむしりとるためのストラテジーだ。詐欺師である彼らが何かを詐欺と呼ぶとき、それが富の源泉となる可能性がある、と思うべきだろう。本当に詐欺なら、彼らはそれを告発しない。自分たちの詐欺行為と似ていることに気づかせるだけだからだ。
ハゲタカなどでない、一般の人々が危惧したのは、ビットコインがチューリップバブルのようなものなのではないか、ということだ。ある時代のヨーロッパでチューリップが突然、注目され、その球根が異常な高値で取引された。ブームはほんの数ヶ月で過ぎ去り、後には魔法がとけたチューリップの球根を抱えた業者が呆然と…という史実である。
2017年の年末の仮想通貨の高騰と暴落から、このチューリップバブルを連想するのは、まったく理解できないわけではない。少なくとも悪意をもって人々を謀ろうとしている理屈と、決めつける必要はない。ただ、それはきわめて感覚的なもの、しかも不正確に感覚的なものだ。まず第一に、チューリップバブルを実際に体験した者はいない。体験すれば、その時間感覚がビットコインと違うことが誰にでもわかるだろう。「短い間に急騰し」の「短い間」がチューリップのように数ヶ月なのか、ビットコインのように数年なのかは、些細な相違ではない。
チューリップバブルは株でいう仕手戦のようなものだ。歴史に埋もれた仕手、すなわち仕掛けた者がいる可能性も高い。ビットコインについては、もはや仕手とはいえない規模に成長してきた。数年をかけて、ということがもたらした結果だ。仕手でないということは、それなりの出来高、流動性をもってチャートを描くということだ。チャートが描けるということは上げ下げがあるということ、すなわち上がったら下がるだけでなく、下がったものはいずれ上がるのである。
美しい移動平均線のチャートをともなう何かが登場した、ということは、ゴールドや原油、コーン、プラチナなどのような新たな商品先物が誕生したということだ。ゴールドもコーンも生み出したのは神だ。だから許せる、信用できる。ところがビットコインを生み出したのは、ナカモトサトシと呼ばれる人間だ。だから信用できない、一時的なものとしてしか許せない。そもそもそいつは何者なんだ?
仮想通貨の面白さは、びっくりするくらい儲かる可能性がある、儲かった人がいる、というところではない、と思う。従来の通貨のFXだって銀行間での動きなど雲の上、びっくりするぐらい儲かっていることを一般には知らされてないだけだ。桁の大きさなどめずらしくはない。仮想通貨ならではの光景は、何かが誕生し、急成長してゆくときの混乱を目の当たりにできることだ。神話時代を経て、今はまさに前史と、のちに呼ばれることになったら。わたしたちは古代の、歴史上の人物になり得るかもしれないのだ。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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