ファージョンの童話『ガラスの靴』は、今もわたしの本棚に並んでいる。講談社のアンデルセン児童文学大賞のシリーズで、赤い表紙にシンプルな線画イラスト入りだ。読んだのは小学校の低学年だったが、大げさに言えば「文学の可能性に気づかされた」ものである(笑)。といったところだけれど、六枚もの読書感想文を学校に提出し、その年齢としてはもちろん大評論であった(笑笑)。
いったい何をそんなに感動したかというと、内容ではない。話はつまり『シンデレラ』で新しい要素といって、ない。あの聞き古した、単純な『シンデレラ』が生き生きと、リアリティのある諧謔を交えつつ、等身大のお姉さん「エラ」となって立ち現れたことにひどく感心したのだ。まるで干したフルーツがぷっくり生の果物にもどったみたいだった。もっとも『ガラスの靴』は最初は戯曲だったから、今思えばそんなに不思議ではない。生きた俳優が演じる以上、登場人物は生き生きとならざるを得ない。ファージョンはそのキャリアを戯曲化によるリメイクで、大きく切り開いた童話作家である。
もうひとつ、子供心に大変しゃれていると思ったのがタイトルで、そう『シンデレラ』ではいけない。『ガラスの靴』なのである。『おしん』じみた灰かぶり姫=シンデレラは、当時としてもぴんとこなかった。魔法使いのおばあさんが与えてくれたゴージャスな衣装、その一部が『ガラスの靴』であり、やがて来たる豊かな生活の象徴でもある。12時を過ぎて魔法が解けても、王子の手に残された『ガラスの靴』だけはそのままなのだ。高度経済成長期の子供にも、ささるものがあるではないか。
21世紀に入ってとうに魔法が解けた昨今だが、新しい豊かさの兆しなのだろうか、『ガラスの靴』が再び出現した。リアリティの極み、本物の『ガラスの靴』として。
この夏、母を連れて北陸を旅した。目的は鮎の塩焼きをたくさん食べることと、ちょっと山奥に三人姉妹の女将のかわいい料理旅館があり、母の気に入りなので再訪することだ。母はまだ運転はする。といっても一人の遠出はとめられているので、フロントガラスの日差しを遮る手袋はすでに中がぼろぼろだった。母は手袋をむしり取ると、高速のごみ箱に捨てた。指輪に嵌められた2つのラピスラズリの一つがなくなっているのに気づいたのは、だいぶ後になってからだ。
以前から石が緩んでいたのだ、と言いながら、母は東京に帰ってからも石の外れた指輪をしていた。大きな指輪で、細かいダイヤが散りばめられた金の台を挟み、半分スカスカなくらいが軽い感じでいいのだ。誰も気づかないし、と。特に思い入れがあるわけではないが、気に入っていつもつけている。たしかに思い切って大振りなデザインは、あまり見ない。先ごろ亡くなった高校時代からの友人が、ご主人が米軍将校だったので、 基地やホテル・サンノーによくショッピングに連れていってくれた。そこで最初に買ってもらった指輪だという。買ってもらったとは、ドルで、という意味で、お金はもちろん自分で出したけど。
わたしは見かねて、アクセサリーの修繕店を探した。二子玉川の高島屋に二軒入っている。母を連れて指輪を見せに行き、ここに透明なガラスか何か入れてください、と頼むと二軒とも断られた。高い石の入っていた指輪を、さらに高い石を使ってリメイクする。そういう「修繕」しかしてないらしい。まあ、そうでなければ二子玉川高島屋SCなんぞに店舗を置けるわけはない。昼どきだったので、たん熊で母とランチを食べながら、わたしはネットで「ガラス修繕」を検索した。そう、素材から当たるべきなのだ。「指輪」じゃなくて。
地方に二軒、見つかった。一軒は若い人が大勢詰めた工房ふうで、見積もり依頼を送っても返信がない。忙しいのだろうか。もう一軒は京都にあり「ガラスの病院」という魅力的な名前のサービスがある。こちらも返信がない。急患ではないが、電話をしてみた。「ああ、横浜の、指輪の」と、ご主人は把握はしておられた。「ちょうど11月にですね、横浜に行くのです。そのときお持ちくだされば」。
それは洋光台の団地で、横浜かどうかは微妙だが、広い敷地で文化祭のようなイベントを催していた。はせがわガラスさんはその一画で、ガラスの靴の展示をされていた。フルオーダーでぴったりのガラスの靴の注文を受け付けているという。試着してみると、いずれもわたしにはぶかぶかだった。21.5センチなので、ZARA kidsで普段履きを見繕ったりする。でもそもそも子供の履くようなガラスの靴だったから、公女たちもエマの姉たちも、履くことができずに涙をのんだのではなかったか。と、そんなふうに自分のいいように考えることこそが、ものが欲しくなる第一歩であるが。
残念なことにガラスの靴は一般に、片方しか作られない。王子が手にしてシンデレラを探したエピソードを踏まえて、というより歩行を禁止するためだ。ガラスは撓らないから、履けても歩くことはできない。王子さんよ、彼女探す前に、まずそれ不思議に思わないかい?
ともあれガラスの靴は、テレビやイベントでのニーズのほか、プロポーズのアイテムとして大人気らしい。ガラスの靴を捧げてプロポーズすると、女の子は泣いちゃうんだって。うん、それは思いつかなかった。
物語のどこが琴線に触れるかは、生まれつきで動かしがたいものだ。わたしの『ガラスの靴』は、王子が片方を抱きしめてウロウロしていたところでも、エマがそれを履いて、2人の姉のアラミンタとアレスーザが悔しくてのたうちまわるところでもなくて、魔法使いのおばあさんがよりにもよってガラスの靴を出して履かせた、というそこである。歩けないはずのガラスの靴で、たしかに彼女は舞踏会に出た。やはり魔法だったのだ。王子の手に残された片方の靴だけはなぜか魔法が解けなかったが、かぼちゃの馬車なんか、スルガ銀行の株価もろともに溶けてしまったではないか。
ラピスラズリの指輪は年明けに直され、戻ってきた。母の望み通りに大げさにすることなく、片側が磨かれたクリスタルで光を通し、揃いのイヤリングの、これまた片方なくしたのとも合いそうだ。(ちなみに大振りのイヤリングを片方だけするときは、もう片方にごく小さなピアスふうのものをするのがいい。でないと、片方なくしたようにしか見えないからね。)
手ばかりかかって、お金にもならない修繕を引き受けてくださった。ご主人がインフルエンザで寝込まれて、やっと届いたそれは新聞紙でぐるぐる巻きになって、どこにあるのかすぐにはわからないぐらいだった。病み上がり、のようだが十分に美しい。
母が死んだら、これはわたしに遺されるだろうか。わたしの指にはぶかぶかだ。姫は足だけでなく、指も華奢なのだよ。そしたらそのときは、いったいどこへ直しに出せばいいのだろう。
小原眞紀子
■ 金魚屋の本 ■