髙樹のぶ子著『百年の預言』という小説をご存知の方もいらっしゃるかと思う。25年前の東欧における政治的革命を背景にした二人の男女の恋愛物語で、ルーマニアの作曲家チプリアン・ポルムベスクが作った曲『バラーダ』にまつわる謎が二人の関係を発展させるきっかけとなる。ウィーン、東京、金沢、ブカレスト、そしてスチャヴァ県のポルムベスク村が舞台となり、国境と時代を超越した物語になっているのだが、著者の言葉を借りると、この小説の「もっとも古い登場人物」は作曲家のポルムベスク自身である。
このポルムベスクは私の地元スチャヴァ市と縁の深い人である。今回は日本とルーマニアを不思議な縁でつなぐ、ポルムベスクの『バラーダ』という曲の話をしようと思う。
ポルムベスクは1853年にスチャヴァ県の小村で正教の司祭の息子として生れた。小さい頃から音楽の才能があると認められ、スチャヴァ、チェルナウツィ(現在ウクライナ)、そしてウィーンで音楽を学んだ。
スチャヴァ県はブコヴィナという地方の一部であるが、ポルムベスクが生きた時代のブコヴィナはオーストリア帝国(後のオーストリア=ハンガリー帝国)の領土だった。これはつまり、スチャヴァ、チェルナウツィとウィーンは同じ国の街で、その間は自由に移動できたが、南の方にあるモルダヴィア(後のルーマニアの一部)は異国だったわけである。ブコヴィナの正式な言語はドイツ語で、学校などではドイツ語が使われていたのだが、ポルムベスク家のようなルーマニア人の家庭ではルーマニア語が使われていた。
このような環境に育ったポルムベスクは、同時代の大勢の人たちと同様、ルーマニア人が住んでいる地域の独立を強く望むようになった。彼はチェルナウツィで過ごした学生時代にルーマニア民族運動家として活動した結果、逮捕投獄された経験もある。投獄中にかかった結核が原因となり、1883年に早世したが、作曲活動期間が短かったにも関わらず数多くの作品を残した。
スチャヴァ生まれの者なら、この人物の物語をよく聞く機会がある。街の中心にある公園にはポルムベスクの銅像が見えるし、チプリアン・ポルムベスク音楽学校、または同名の通りがある。彼が育った家は現在ポルムベスク記念館になっており、スチャヴァ市から30キロぐらい離れているポルムベスク村にある。
ポルムベスク村にある作曲家の銅像
そしてもちろん、私たちが一番馴染んでいるのは、彼の音楽である。『三色』という歌は1990年以前のルーマニアの国歌で、子どもの頃よく歌わされた覚えがある。音楽はポルムベスクの作曲のままだが、歌詞は完全に変えられてしまったことを知ったのは、大人になってからだ。元々の純粋で詩的な歌詞が、共産主義を讃美する政治的な歌詞になっていたことに気付いた時、鳥肌が立った。メロディーがきれいな歌なら、子どもは何を歌っているかは意識せずにただ歌うのだとその際に痛感した。
音楽の話に戻ると、ポルムベスクの作品の中で最も有名なのは『バラーダ』という曲で、日本では『故郷のバラード』というタイトルで知られている。バイオリンとピアノの伴奏曲として作られたこの作品は、ポルムベスクの故郷を懐かしむ思いと、恋人のベルタと結ばれない悲しみ、そして自分の寿命を削る病気に対する不安などが重ね合わせられている、メランコリーで哀愁に満ちたメロディーである。
子どもの頃、色々な場で、色々な演奏者による『バラーダ』を聴く機会があったのだが、忘れられないのは、日本人バイオリニスト天満敦子氏による生演奏だった。私が高校生だった頃の話だが、スチャヴァ市のポルムベスク文化会館で天満氏のコンサートがあった。公演の目玉は『バラーダ』の演奏だった。地元の人なら、誰でもポルムベスクの音楽を知っているのが当たり前だが、どうして遠い日本のバイオリニストがこの音楽を知っているのだろうと不思議に思った。ブコヴィナ地方を除いて、ルーマニア人の中でもポルムベスクのことを知らない人が多い。他により名高い作曲家がいるのだ。天満氏は『バラーダ』にこめられている想いを見事に表現できるという評判だったので、この公演を見逃してはいけないと思った。
プログラムに数曲があり、満席のホールにいた人たちの期待が高まった時に『バラーダ』がはじまった。聴き慣れた旋律なのに、いつもより深くて切ない響きがあって、人生で初めてその曲を聴いている気がした。途中で、奏者が立つ舞台の光景が見えなくなり、音楽だけが流れ続け、その音楽が描く世界に吸い込まれるような感覚を味わった。非常に感動したのは私だけではなく、ホールにいたみんなが同じ反応を示した。アンコールの時、もう一度『バラーダ』が聴けた。客席からの歓声がしばらく止まらなかったことを鮮やかに記憶している。その夜初めて、音楽にはすさまじい力があると実感した。感情でできた風景が音に記号化され、その形で異なる文化の背景を持つ人にも伝わるし、魔法のように、言葉以上(または以前)のものを語るのだと、帰り道で考えた。
あの公演から数年後、ポルムベスク家の子孫であるニーナ・チョンカ氏に出会い、『バラーダ』を作った人物の意外な側面を知ることができた。作曲家やその家族関連の資料や遺品を継承し、ポルムベスクについて数冊の本を執筆したチョンカ氏は、ポルムベスクの妹マリワラの孫娘である。ブカレスト在住でありながら、毎年スチャヴァで行われるポルムベスクの忌日をめぐる行事に参加するのである。2011年に、ポルムベスク家の家族写真、手紙や資料をたくさん掲載した、作曲家の生涯を語る本を出版された。
ニーナ・チョンカ著『Ciprian Porumbescu』の表紙
チョンカさんの話が描くポルムベスク像は、生き生きとしたディテールに彩られている。彼は幼い頃に、村の酒場の雰囲気を民族歌で盛り上げていたジプシーたちのバイオリンの音に惹かれた。その後一生懸命に音楽の勉強に励み、学生として宗教学や哲学を学びながら音楽活動を続け、結局教師や作曲家として活動をすることになったそうだ。兄弟や友達を大切にしていたポルムベスクは、普段は明るくて丁寧な性格だったが、お酒を飲むと意識を失うまで騒いだりしていたらしい。特に家族に向けた彼の手紙を読むと、恋に悩んだり、お金に困って危機一髪で親に助けられたり、将来の夢で無邪気に盛り上がったりしている。ポルムベスクのあまりにも青年らしい姿が垣間見え、身近な存在に感じてしまう。
『バラーダ』には、どこか単純で素朴な性質があり、それはポルムベスクの人間らしさを反映しているのではないかと思う。常に夢の中で憧れたブコヴィナ地方の独立、つまり「故郷」への想いや未来の希望を音で伝える『バラーダ』を、是非一度皆さんにも聴いていただきたい。
ラモーナ ツァラヌ
* 写真は著者撮影
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■