第1回「土地と力」シンポジウム「天と地のコレスポンダンス」
主催・多摩美術大学・芸術人類学研究所
多摩美術大学・芸術人類学研究所に、ケルト芸術・文化およびユーロ―=アジア装飾文化交流史研究の第一人者である鶴岡真弓所長が就任され、第1回「土地と力」シンポジウムが、お台場の日本科学未来館で開催された。
第1回「土地と力」シンポジウムのパネラーは、国立天文台副台長で総合研究大学院大学教授の渡部潤一氏、心理占星術研究家で翻訳家、京都文教大学客員教授の鏡リュウジ氏と、鶴岡真弓教授で、科学と芸術人類学との接点を探ろうとするものだ。天文学・占星術・文様芸術を出会わせるという。が、正直、最初に案内を頂いたときには、やや面食らった。
国立天文台といえば、文字通り最先端の宇宙論を研究しているに違いなく、最近で言えばヒッグス粒子の発見、暗黒物質の存在といった138億年前の宇宙の創成期を視野に入れているはずだ。対して、芸術人類学がいかに根源的に遡って、太古の人類の思想を捉えるとしても、数万年前であるだろうからオーダーが違う。そこへもってきて女性だったら誰でもなじみ深い、占星術研究家の鏡リュウジ氏。
もともと工学部出で宇宙開発事業団に就職したいなどと考えていて、かつ女性であり、そしてなぜか最新詩集に鶴岡先生の御著書から多く引用しているという私には、どの一つのフェーズを取っても興味深いが、三つ並べてどうなるものか、不可知のものに接する不安と期待があった。
結論から言えば、当然のことながら三人の専門家のそれぞれの講演がトリプルに絡み合う後半のセッションを聴き、案ずべきことなどは何もなかった。鶴岡真弓氏の象徴の図像学と文様学はそもそも人類が為した営為のすべて、いまだ思想のかたちをとるに至らない思考のすべてを射程とするスケールを持っている。科学のオーダーがさらに大きいとしても、宇宙の創成を想像するのも人間の思想であり、そうせずにいられないのも人間の営為である。三者のトークは響き合い、呼応し合い、それはこのシンポジウムのテーマが ” コレスポンダンス(照応) ” であると、納得させるものであった。
科学史というフェーズは、人の営為として、科学の展開すべてを明らかにするものだ。渡部潤一氏の言葉のように、地動説から天動説、さらに太陽中心の宇宙観から、太陽系と銀河系を相対化する宇宙観へという変遷が、あたかもエゴ = 自己中心性を相対化する、子供から大人への成長のようであるなら、今日の宇宙論はそれを創造した「神」の認識に近づこうとする、まさしく「人」の営為である。
そして地に暮らし、生と死を繰り返してきた人々が志向してきた ” 永遠 ” とは、もちろん空の果てにあった。地に栄えた人類は、ずっと「天」を見上げていたのだ。そこで見出され、理論化され続けてきた規則性に、自分たちの地上での暮らしが照応しているはずだという思想が、いわゆる占星術であろう。
天と地のコレスポンダンス (照応)を生み出す、文字通りの ” 接点 ” を鶴岡所長のいう「芸術 (レオナルドの生み出した文様) を媒介に探るトークは、このシンポジウムにおける最も斬新な切り口であり、最大の成果であったと感じられる。洋の東西の接点であるアラビアの(いまだアラビア語ができる科学史家が少ないために十分に検証されていないという)天文学における重要性は、たとえば鏡氏が述べたように「アルデバラン」といったアラビア語の接頭辞「アル」に、痕跡として残されている。当時のアラビアの天文学は、あの宇宙観を劇的に変えたコペルニクスにも影響を与えていたという。
ダヴィンチなどもそうだが、かつて科学者は、私たちが考える専門化された「理系の学者」とは様相も、方法論も違えていた。数字に強いアラビアは今日の科学の礎とともに、宗教的な見地から、「文様」として天体・宇宙そのものを人間が身につける護符をも生み出した。当時の天体観測装置アストロラーベの、アラベスク「文様」と「天文」が重なり合った美しさには言葉を失う。それは直観的に、「神」の存在と意思を確信させるものだ。
天文の「文」であるマクロコスモスを、地界の「文」であるミクロコスモスに取り入れようとするさまざまな ” 接点 ” については、鶴岡真弓氏の著書『阿修羅のジュエリー』(イースト・プレス,2011年) でも示された、メソポタミアを起源とする護符としての装身具や、このシンポジウムで図像が示されたローズ・トップ・ケーキ(クリームの薔薇が載っている)に心惹かれる。それらささやかな営為は(天文)考古学で取り上げられる(たとえば夏至の)日の出の方向に向けられた建造物と同様、またエメラルド・タブレットとも同様に、(鏡氏)「上なるものは下なるもののごとく 下なるものは上なるもののごとく」照応する上下方向の ” 接点 ” そのものだ。
そして水平方向の ” 接点 ” 、境目は発祥と展開のポイントであり、鶴岡氏の講義でお馴染みの「カルマン渦」が現れる。内側に巻き込む運動と外側に展開する運動、求心力と遠心力が同時に出現する、生と死を反転させる象徴である。
その双方的巻き込みの様態はそのまま、ユング心理学的に連想されるところの、心の内側と外側のコレスポンダンスであり、曼荼羅としての世界像、宇宙モデルをかたち作ってゆく。
しかし、ここで最後に、鏡リュウジ氏がいみじくも注意を促したように、ある「出来上がった」世界像に救いを求めるという心理は、「ヤバく」て「ダサい」。鏡リュウジ氏は立場上、そういった陥穽にはビビッドであり、井筒俊彦も深く語り合ったというジェイムズ・ヒルマンの『魂のコード』の訳者でもある。世界像を生成しようとすることは、まさしく精神にとって「よきもの」である。が、その世界像を固定化してしまう精神、固定化された世界像に縋ろうとする精神はまったく別物であり、しかし日常的には紙一重である。
似非科学と呼ばれることを、またオカルトの匂いを漂わせることを、いたずらに警戒するのは不毛だ。すべては人の営為である。ただその差異とは、鶴岡先生がいつも(口を酸っぱくして)言われるところの「成ったもの」ではなく、「成りつつあるもの」= becomingを見つめることが肝要であり 、その(「文」・あや)なす「生」= livingこそが 「再生」= reviving であるということとの、まさにコレスポンダンスに相違ないのである。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■