偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ よく言われてきたんだよ、業界では。SはMの「いじめて欲」に奉仕するんだからほんとはMに隷属していて、Mこそがご主人さまなんだ、S極とM極とは絶えず互いに転化してるんだ、ってことがね。SMが犯罪じゃなく同意のもとに成り立つ人間関係だっていうなら、S極はまっさらなS極ではありえないし、M極もすっぴんのM極ではありえない、なんてことはこりゃ常識だよね。SMクラブに行ってみてごらん。君らだけじゃ無理だろうからなんだったら今度勉強のために連れてってあげるよ。僕のプレイを見るといいよ。Mコースだったら2万円程度を払って女王様の責めのテクニックを買うわけだけど、客は客である以上、満足のゆくサービスを受ける権利があるわけだ。山田詠美の小説とかに描かれてるような、ペニスを何本も待針で刺し貫いてゆくなんて流血プレイも、注文とあれば女王様は吐き気をこらえて実行しなきゃならないんだな。いや、僕は痛いんじゃなくて臭いの専門だからハリ系は敬遠だけどね。とにかくS役が生活を賭けてM客に買われるんだからさ。さて、逆にもっと高い金を払ってM女をいたぶりにくる客はどうだろう。なんてことはない、欲求を制限されるんだな。いくら高額の投資をしようが、刺したり切ったり、従業員に傷害を負わせるほど無茶なプレイは一切お断りってことさ。おそらくノンフィクションのリアルSMは、そのへんのいじめやレイプやDVでしか成り立たないっていうか、つまらんことに落ち着いちゃうのさ。
でも逆に考えりゃだよ、S極とM極とが純粋に分離しているなんて真っ平らな関係よりか、両方がS極性、M極性を分かち持ってる関係の方が豊かでほんとにSM的だと言えるでしょ。前向きの快楽追求の文化であるかぎりは、当事者どうしの共感が何よりも大切なわけでさ。どのSMクラブでも、女王様として勤めるためにはまず始めの何ヶ月かはM女として働いて、苛められるお客の気持ちを理解できるよう調教されるのが決まりって聞いたことあるけど、ま、普通にイメージされてるSMプレイね、縄とか鞭とか蝋燭とか浣腸とかさ、しかしあんな小道具まめに使って、めんどくさいお芝居言葉使ったプレイって、そんなんでほんとに快楽に溺れてるやつらって何人くらい実在するのかね、とにかく標準仕様のSMプレイってのは、確かにまあS極とM極とが流動化しあっているわけだろうけど、まだまだ足りないというか、徹底ぶりが甘いって思わないかい。
だってほら、ああいうSMプレイの場合、緊縛にしても鞭打ちにしてもそういう行為そのものは、かりにいまここで突然始まった場合、やる側が攻撃的であって、やられる側がやられる側って分担がはっきりしてるでしょ。そこでS極とM極とが融合したり反転したりするとしてもだ、行為そのものの性質によるわけじゃなく、同意でSMやってるというお互いの気遣いに支えられているからだよね。そういうんじゃなくて、物理的な行為そのものが両方にとってモロSでもありMでもある、両極的である、攻撃でも防御でもある、能動的でもあり受動的でもあるってプレイはないものだろうか? あったらやってみたいよね。
SMクラブの中には、メニューに「格闘技コース」ッてのを用意してるところがあるけどね。それなんか近いかな。もしもお互いに思う存分顔を殴りあうなんてプレイをしたら、たしかに両方とも、SかつMなる衝動を同時に満足させることができるだろうね。しかしどうかな、そういった単純な責め合いみたいな場合、両方の役割は全く対称的でしょ。対称ってのはスリルに乏しいんだよ、バランスとれちゃって、日常の惰性を引っぺがす圧力に乏しいんだよ。たとえば男と女がふたりでプレイするときに、せっかく男と女って非対称性が始めッからあるわけだし、それを生かして豊かにするような、補いあう役割分担を保ったままでさ、しかも両方が同じくらいS極でもありM極でもあるという微妙なアンバランス状況を保てないものだろうかね。格闘プレイみたいに始めっから対称性が確保されちゃってるような、男女の非対称を無視してるようなんじゃなく、当事者どうしの非対称性を強力に打ち出しながらだ、しかも日常の非対称性を反転させたなんというかな、高次元の対称性を回復したような、ダイナミックな、男と女、SとM、ふたつの融合を達成するようなだね、そんなプレイはないものだろうか。
それがあるんだな。何だと思う? まずはイメージ的な究極に出口を求めてみようか。イメージ的な究極って意味は、真の究極かどうかはともかく、究極っぽいものっていうかさ。ある意味極限っぽい例としてはたとえばラストマーダーとかネクロフィリアなんかが思い浮かぶね。え、わかんない? ラストマーダーは快楽殺人。めった刺しにしてシコるみたいなやつ。ネクロフィリアは死姦。相手は死体がいいってやつ。墓掘り返したりするやつね。現代日本は火葬だから墓はちょっと無理で、死体安置所でやってるやつのビデオとか出回ってたけどね。うん、本物。まあ死体凌辱っていうか、死体損壊は大した罪にはならないんだけどね。3年以下の懲役だったかな、でも新鮮趣味で自分で殺してその直後専門……とかなるとラストマーダーといっしょでヤバイよね。とにかくそういう究極イメージは、どうも真の究極じゃないね、SM的に言うと。相互同時の能動性が不可能だし、法律や道徳との衝突パルスが性愛以外のアピールを強め過ぎちゃって、だったらアウシュビッツレベルまで突き抜けてみやがれって感じで、愛の言葉で語れなくなっちゃう。道徳にも法律にも触れない、誰でも生きながら心置きなく実行できる究極ッてのはないだろうか。うん、そりゃある。そう、あれですよ。あれしかない。SM性を理想的な形で拡大したプレイといったらあれなのだよ。しかもあれって一見して、フェチの王様っぽい性欲形態だしね。フェチ、正確にはフェティシズムこそ、わが日本発いまや国際文化たる〈ヘンタイ〉のド真ん中を占めてるんだよね、医学的に見ても。専門的なこと言うと「性対象異常」と「性目標異常」の両方にまたがるのがフェチであってね。すげー内容豊かなドヘンタイってわけで。まあ難しい話は後回しにして、フェチの中の究極であるあれこそがSM性というか、性と愛一般の素性をいちばん鋭く具体化していると。で、まさにこのプレイについて、僕独自のだね、現在進行形ながらほぼ完成と言ってよいSM哲学の骨組みを要約したのがさっき君らに答えてもらった穴埋め問題文ってわけでね。
ためしに何年か前から、いろんな人にこの問題の答えを書き込んでもらってきたんだけどね。そもそもここで何が話題になっているのかを知らされないと、誰もがみなほぼ零点というのが実情でねえ。メジャーなヘンタイなのに、そういうもんかなと。で、何プレイがここで論じられているのかをヒントとして与えた場合には、って回答1の答えだけ教えた場合には、全体でほぼ70点から80点の平均点が得られたのでしたよ。うん。この得点の高さ。そして不正解の問題についてもその正解を公表するとほとんどみんな「ああなるほど」って頷いてくれてね。そういうことからしても、僕の制作したSM哲学の真実らしさが検証されつつあると言ってよいと思うわけでね。
あ、君はヒント無しで80点以上とれてたから。すごい。えらい。期待。素質抜群。
これからの話、君レベルにはむしろ基本的すぎて退屈に感じられるかも。でもとにかく一応聞いといてくださいな。このイデオロギーは友だちにも広めてほしいからね。
で、ヘンタイ界のメジャーな中心を占めるこの分野、とひとことで言っても、1980年代に北見書房のビニ本『THE・ウンコ』シリーズが出て、そのあとビデオインターやシネマジックのスカトロAVが登場して、それ以来市場に溢れるわ溢れるわ、ジャンルの多様さ種類の豊富さ。ざっと挙げるだけでも、①浣腸によるSM強制排泄系、②物質の質感だけに焦点を絞った室内連続無言排便系、③「こんな可愛い娘が」の偶像破壊カタルシス効果を狙った、明朗なインタビュー交えての「私のウンコ見てください」系と「ベィビィ・フェイス」系、④シュールな映像実験を狙った的、路上や駅やコンビニでの公共空間排泄系、⑤ウンゲロぬりたくり泥遊び系、⑥トイレ盗撮系、⑦食糞系、等々ね。つまり排泄行為ってのは、暴力に物質感に闇に芸術に執着に、なんとも多方向のオブセッションなんだよねぇ。当然のようにSMを含みながらそれ例外のジャンルにも粘菌みたいに広がっているこのフェチ、改めてSMに焦点絞ったときに超深遠な効果を発揮するだろうことはもう自明の理ってわけでね。
ただしもちろんスカトロが相互SMの神髄を輝かせるのは、そして究極の名に値するのは、①のようなただの強制SMプレイのバリエーションとしてのスカトロじゃなくてだね。②③のようなそれぞれ物質、精神に偏ったバージョンでもなくてだね。ましてや④⑥のような一方向的なイメージプレイでもなくてだね。⑦の食糞系に限られるんだよね、なんといっても。こうして括弧1には「黄金」って言葉を入れてほしいわけ。他の28個の解答をこれから解説してゆくけれどね。その前に、では零点だった君。80点とれたお友達に負けないように、これから独力で残りの括弧を埋めてみてほしいんだな。制限時間30分だよ。
80点の君も、百点目指してもっぺん考えてみてね。
さあふたり、できたかな。
解説を続けるよ。
昔、KUKIって会社のビニ本『糞楽園』てのがあってね。ブスがふたり、全裸でお互いの糞を塗りあってるの。あの頃はスカトロモデルといったらブスと相場が決まっていたなあ。いまはいい時代になったよ。とにかくそういう『糞楽園』的⑤だね、いわゆる泥んこ遊び系統の発展形として、最近は三和出版や東京三世社の雑誌のスカトログラビアに、素人投稿者に扮した美形モデル女性が一人で自分のウンコを体に塗りつけたり頬張ったり、二人以上で互いのウンコを塗りつけ合ったり口移ししたりしている図が多いんだよね。この系統って、見かけは食糞行為が含まれているわけだけど、ある条件が満たされないと究極SMとしてのスカトロジーを名乗ることはできないんだな。その条件ってのは、やっぱ当事者が男と女ってことね。スカトロSMが既成のスタンダードへのアンチテーゼとなりうるためには、ああ、小難しい表現でごめんね、とにかく常識をぶち破るためには、常識の見かけを保存した状況で演じられなきゃならないってことでさ。いや、確かに女2人とか3人とか、同性愛もスタンダードへの異議申し立てではありそうだよね。でも最近は同性愛は人権問題と絡んできて、もはやヘンタイとは認められなくなっちゃったからねえ。昔は同性愛は、獣姦やロリコンやババア専や近親相姦と並ぶ「性対象の倒錯」の中に入ってたんだけどねえ。ヘンタイの代表格だったんだけどねえ。だんだん正常と認められるようになっちゃって、寂しいよね。ヘンタイのどこが悪いんだと。いや、昔はオーラルセックスもヘンタイとされたんだけどね。60年代の百科事典の「変態性欲」とか項目調べてごらん、フェラチオやクンニが病的な倒錯に入れられてるから。「性目標の倒錯」って方にね。みんな正常に昇格しちゃって、今じゃ「性目標の倒錯」のメジャーどころといえばSMと露出狂と覗きとアナルセックスくらいかな。今やアナルも正常か。とにかくそういった「性目標の倒錯」とは次元が違うのね、同性愛は。「性対象の倒錯」だから。
あ、ちなみに性対象の倒錯ってのは「何に欲情するか」の異常のこと。性目標の倒錯ってのは「どんな行為で興奮するか」の異常のこと。おとなの異性を性対象としてるけど、挿入以外のことに執着すると「性目標の異常」ってことだね。とにかく同性愛は紛れもなく異常だしヘンタイなのにさ。ストレートだけどヘンタイの僕が言うんだから間違いない。同性愛は正常だとか健全だとか、なんでも物わかりよくなって、ホント世の中わかりにくくなったよ。ヘンタイ差別だよ。いいじゃないか同性愛はヘンタイで。同性婚大いに認めていいけどあくまで変態婚として認めてやればいいじゃないか。ほとんどの変態はもともと合法なんだし。世界中が同性愛は正常だって言ってもヘンタイの本場・ニッポンだけはホモもレズも変態だと言い張っててほしかったよ。あれほどの変則愛が医学的変態から削除だものなあ。どうかしてるよ。とにかく大人の異性に欲情している多数派市民が簡単に往来できる「性目標の倒錯」とはレベルが違うことは確かでね、同性愛は。で、三和や三世社のグラビアに話戻すと、レズ設定でスカトロやられると、性対象倒錯と性目標倒錯が重なっちゃって、アンチテーゼすなわちマイナスが二乗されちゃって、かえってプラステーゼに戻っちゃうわけでさ。二丁目に「縄」ってゲイバーがあったけど、今でもあるかな、ホモSMバーでね。店内で客のオッサンたちが緊縛プレイとかやってんの。ああいうとこが普通のオカマバーよりも日常の風景っぽく感じられるのもこのためなんだな、マイナスかけるマイナスいこーるプラス。いろいろ重なると性の気配が薄らいじゃうというかな。アンチテーゼを際立たせるためには、基本のところでリアリティが守られてなきゃいけないんだな。
で、フェティシズムなんだけど。フェティシズムは「性対象倒錯」と「性目標倒錯」の両方の要素を備えてる中間的形態ってのが医学的定義みたいで。言い換えればヘンタイの中枢に位置してるってことだ。相手の心身そのものに性欲が向かわずに生命なき衣服だのハンカチだの靴だの執着する点で思いっきり性対象が倒錯してるでしょ。それと、嗅いだりかぶったり集めたりで完結するんで、セックスを目指さない点でこれ性目標がバッチリ倒錯してるでしょ。現代フェティシズムの代表格はいわゆるブルセラだったわけだけど、あれって半ばロリータコンプレクスっていう別の純然たる性対象倒錯が混じり合っちゃってて、いや、君ら女子高生がガキだって言いたいわけじゃないよ、でも心としてはブルセラマニアは妄想の中でロリってたのが多かったわけで。マイナス×マイナス=プラスの法則に従って異議申し立ての宛先が微妙にぶれてぼやけちゃって、逆に日常の市民社会に回収されちゃった例だろうな。フェチの本道は、だからなんというか、おとなの異性を対象にしたフェティシズムにあるってことだ。でその究極例が、相手の大便を食べて初めて満足を得られる、コプロラグニアって形態なわけだな。コプロラグニア。覚えといてね。
最近は女が男のウンコを食うビデオもいろいろ出回ってるけど、それは僕の趣味じゃないんで、そっちは無視させてもらうよ。問題が複雑になるしね。肛門から口へと直接送り込むいわゆる「ジカ食い」の伝統の長い、女トップ・男ボトムのテンプレートに限ってさしあたり考えてみようね。その穴埋め文が研究対象としてるのが、この女トップ・男ボトム状況なんでね。
ところであの問いが前提してる要素がいくつかあってね。こんな感じだ。
A:自然排便であること。つまり浣腸など不自然な手段を使わない。
B:トップの女性もボトムの男性も、普通のSMプレイのような縛られるなど身体を拘束されることが一切ない。
C:ウンコは肛門から口へと直接送りこまれること。
D:ウンコは確実に全部飲みくだされること。ちなみにほとんどの食糞ビデオはこの大事なステップをクリアしていない。含んで吐き出してるだけ。
E:当事者の男と女が互いに恋愛感情を抱いていること、もしくはこれから恋愛関係に入りそうだとの自覚があること。
この五つの条件がまことに重要なんだ。
AとBは、双方が完全に自由であることを要求している。身も心も自由意思全開状態を保つわけね。
CとDは、双方がSとMとを同時に徹底的に味わい尽くすための条項だね。トップの羞恥・無防備感と、ボトムの苦痛・便器化意識とが互いに釣り合うだけの深みを窮めなきゃってこと。
そしてEを合わせると、自分が相手の自由な判断と評価に晒される覚悟を決めていることがはっきりする。互いに相手の評価を尊重しており、懸念しているってことだな。
ふつう食糞プレイというと、女王様の黄金を戴くとかってイメージがつよいのかなあ。「残さず全部お食べなさい、残したらお仕置よ」みたいな。そういうイメージに安易に流されて、ボトムが一方的なM極であるかのような印象を抱くとしたら大間違い。黄金プレイは俗流SM小説の描くような単純SMの極限じゃないんだよ。人の顔にまたがって脱糞するって行為は、トップにとっても、自我の一時停止を要する的な一種の苦行じゃないかってこと。もし彼女が正常な文化意識を持つ女性であるならばね。その証拠に、ほとんどのSMクラブに「人間便器コース」が設けられているけど、他のプレイに比べて料金が五割ほど高いばかりか、このコースを担当できる女王様ってのが限定されているんだ。大半の在籍女王様がこのプレイを嫌っているらしいんだな。この事実は何を物語るか。お腹の調子に自信ある人が限られるってこともあるかもしれないけど、基本、顔面脱糞って行為の心理的難しさを物語ってるね。無防備に粘膜を露出することに加えて、自己の臭いや健康状態を人にナマで知られることが「羞恥」という甘美な苦痛を掻き立てるんだ。自分の腸の中の臭いを晒すんだから。その屈辱ぶりは、強制排泄がM役に強要される定番の行為だってことからも明らかでしょ。ましてや縛られてもいない自由な人間相手だと、食べさせる方は自意識の不安に襲われることになるからね。「まずい!」って吐き出されてしまうかもしれないし。味を貶されたらこれ、顔やスタイルを嘲られるよりも屈辱でしょう。臓腑からの屈辱だね。怖れだね。現に、大切な男性との大一番に際して、準備万端、悪食を避け野菜類でおなかを整えプレイに臨んだにもかかわらず、いったん大喜びで飲み込んだかにみえた相手の一転激しい嘔吐を目のあたりにして、ショックをうけて一週間泣いた女性を僕は知ってるよ。プレイが無事快楽的に終了するかどうかは、トップ嬢の消化器のコンディションと、ボトム君の勇気に掛かっているわけだな。トップがボトムにもまして不安をもってプレイの顛末を心配しなきゃならないと。つまりトップがM極の磁場に置かれるってことだ。
ボトムの方からしても心構えの両極性は劣らないやね。ウンコを食うってのはジョークっぽいぶん、ほんとにやるなら苦行だからね、基本。知り合いの演劇人の話だけど、ビデオで見るウンコがどれも艶々と輝かしくきれいなのでスカトロAVの食い役に志願したんだって。そしたら至近距離で初めて接した実物は、予想を超えた強烈な色と組織と臭いと味と粘着だったんだって。打ちのめされて吐き出しちゃって、敗北感からしばらく鬱で入院しちゃったよそいつ。まあ人間の本能に反してたわけだな。知能の高い動物だと、たとえばニホンザルなんかだと、大好物の木の実を見つけても、仲間の糞に触れていると拾うのを諦めるんだってさ。それをジカ食いだからさ。しかも設定からして暗黙強要だからね。しかも条件Eからして恋愛感情がらみだよ。食えずに吐き出したりしようものなら彼女の自意識を冒涜することになるんだからね。AV男の敗北感どころじゃない、恋人として男の方も必死にならざるをえないだろ。
こうやって強要される場面のM極性はわかりやすいとして、もう一方のS極性ね。そう、相手の内臓の一部にも等しい「肉の塊っぽいもの」を頬張って飲みくだすんだからさ。考えてみなさいよ、究極のサディズムというか、カニバリズムだよ、人肉食いだよ、人食いの象徴的実行に他ならないでしょうよ。しかも相手の肉の味・臭いをその気になれば生きた相手の前で大声で品評会やってみせることだってできるんだからね、並のカニバリズムよりか、精神性の深いSプレイだと言えるだろうさ。
こんなふうに、互いに羞恥と苦痛が大きけりゃ大きいほどSM性が増すのだとすればだよ、トップ女性の生み出す大便は、できるかぎり不健康で汚い下痢か便秘便であるのが望ましいことになりそうだね。健康なバナナ便がすんなり排出されるとなると、出す方の羞恥も軽いだろうし短時間ですんでしまうし。食べる方の苦痛もさほどではないだろうし。これが腸内悪玉菌によってめいっぱい腐敗した下痢であるとかさ、消化不良の斑点混りの真っ黒いウサギ便だったりしたらさ、こりゃあもう、女の美容面の欠陥がまざまざと知られちゃうわけだしさ、その羞恥に加えて噴出具合も不規則にビチッ、ビチビチッとかさ、コロッ、ポロッポツッとかさ、長時間持続することとなっちゃってトップ嬢の苦痛は倍増するだろうしさ。ボトム君の視覚と味覚と嗅覚を襲うグロテスクさの増幅ぶりは言うまでもないしさ。ただ、しかし。確かにその通りなんだけどね。単なる表層のSM性を追求するならそれでいいんだけどね。きったない不健康ウンコほど望ましいんだけどね。でも、表層のSM性だけじゃなく男女の性愛のアンチテーゼって方向からSMを捉えるならばだ、必ずしも不健康悪質ウンコが望ましいわけじゃないんだな。むしろ健康バナナ便の方が総合的にみてまさっているとも言えるんだな。どうしてかって? バナナ便を想像してみてよ、そう、ウンコがペニスの代理になってるでしょう。単純に外形的に考えるだけでいいよ、ペニスでしょう、ウンコって。女の後ろの穴から伸びてくる茶色いペニスが、男の上の穴に挿入されていくんでしょう。男の体内に取り込まれるわけでしょう。普通に男が女に入れる図の真逆でしょう。ほうら、ここにノーマルセックスのいかんともしがたい挿入射精原理に対する反転図が、ね。華麗な反転図が、ね。成立してるってわけなんだよ。
(第26回 了)
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