三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
「すいませーん、北澤でーす」
いつものハスキー・ヴォイスからは想像もつかないよそゆきの声だったが返事はない。聞こえなかったのかしら? と首をかしげ、もう一度呼びかけるが、何の反応もかえってこない。
「聞こえてないみたいですね」
「うーん……。じゃ、いいわ、とりあえず入っちゃいましょうよ」
「え? いいんですか?」
「大丈夫、大丈夫。約束はしてるんだから」
開けっ放しになっている木製の門をくぐると、不親切な配置の飛び石が玄関まで導いてくれる。貴美子ママは何歩か進み、少し大きい飛び石の上から、また何度か呼びかけた。枯れた雰囲気に似合わないよそゆきの声が響く。俺は垣根の隙間を見つけ、四つ目の石の上から向こう側に広がる広い庭を覗き見ていた。
一見殺風景だが草は丁寧に刈られている。その奥には素人目にも立派な縁側があった。開きかけの雨戸から察するに、どうやら留守ではないらしい。強く風が吹きつける度に、剥き出しの地面の上を砂埃が移動する。その眺めは、俺の頭の中にある元殺し屋のイメージを裏切らないものだった。
「すいませーん、北澤でーす」
依然、返事はない。おかしいわね、と言いながら彼女は玄関に近づいていく。俺もその後に続いた。明らかに後から取り換えたと思われる木目柄のドアの前で、また貴美子ママがよそゆきの声を出すと、垣根の向こうからガラス戸がガタガタと開く音が聞こえた。
「おお、なんだ、ママさんか。ちょっと待っててくれ。玄関を開けるから」
どこか不機嫌そうな低い声。多分泥卍の声だ。まだ姿も見えていないのに緊張が一気に高まる。待っている間、玄関が開くまで俺も彼女も喋らなかった。不意にガチャガチャと音がして木目柄のドアがゆっくりと開く。そこに立っていたのは、黒いセーターにジーンズを履いた痩身の老人。はじめまして、と頭を下げた俺への眼差しは鋭かった。俯きながら思わず息を呑む。ゆっくりと顔を上げた後、もう一度「はじめまして」と口にした。
よく見ると眼差しだけが鋭いわけではない。表情そのものが鋭く、そして険しい。禿げ上がっているのか短く刈り込んでいるのか、面長なその顔だちと黒目がちな瞳、そして綺麗な鼻筋と薄い唇はどことなく猛禽類、鷲や鷹を想い起こさせる。

いざ顔を突き合わせると、祖父に似ているか似ていないかは分からなくなってしまったが、その穏やかな、けれどすぐ裏で怒気が渦巻いているような語り口はどこか懐かしかった。
「どうも、今日はこんな田舎まで」
「いえ」
「私はヤスゴウチ。ヤスゴウチ・マンジです。どうぞよろしく」
そうか名前がマンジなのか、という納得が表情に出ないよう口元を引き締めてから名前を告げて再び頭を下げた。筋張った手が伸びてきて、俺の手を握る。その力強さに応えるよう握り返すと彼は初めて微笑んだ。
条件はシンプルだった。基本的には月・水・金、もしくは火・木・土、の週三日・隔日で来てほしいということ。当日は昼前に来て、その日の昼食と夕食、そして次の日の分の食事を用意してほしいということ。日給一万円、材料費は別途支給。
一万円で大丈夫ですか? と尋ねられ、俺は「もちろんです」と頭を下げた。全く問題ない。逆に「食べられないものなどは?」と尋ねると、彼は苦笑しながら「心配御無用」とだけ答えた。やり取りは滞りなく進み、何となく仕事を引き受けるという流れになっている。お茶を取り換えに泥卍が席を立った隙を見て、貴美子ママに訊いてみた。
「俺のことは、どう話したんですか?」
「腕に間違いはない、ってそれだけよ」
言い過ぎだ。俺は小声で「勘弁してくださいよ」と訴えたが、万年床の上でスナック菓子を食べていた身に、そのプレッシャーは心地のいいものだった。よし、やるだけやってみよう。決心はついた。だからこそ、朝から何も食べていないという泥卍に、俺は率先して昼飯を作らせてほしいと志願した。貴美子ママは「美味しくなかったら、この話、流れるわね」と笑っている。
台所は綺麗に片付いていた。卍自身が几帳面な性格なのか、さもなければ俺の前に料理を任されていた人物がいるに違いない。流し台の正面に立つ。磨りガラスの窓から入ってくる滲んだ光のおかげで、電気を点けなくてもそれなりに明るい。脇にある勝手口が懐かしく思わずドアを開けてみる。滑らかに動いたということは、普段から使っているのだろうか。実家の勝手口にはよく酒屋の御用聞きが来ていて、小さかった俺は姿が見える度に怯えていたことを思い出す。
とりあえず余っていた野菜を使い切ることにした。調味料は必要最低限の物しかなかったが、調理器具は色々と揃えてある。特に包丁は、出刃、菜切り、柳刃、筋引き、と数種類あり、それらが並んだ様子は、彼の前職の噂を連想させた。たしかにあの険しい表情は、その経歴を納得させるだけのものがあった。彼の姿、そして動きを浮かべようとして思い留まる。今は料理に集中しよう。大事な初陣、彼と、そして貴美子ママをがっかりさせてはいけない。
とはいえ完璧には誘惑を振り切れず、用具の点検とは別の好奇心から、俺は包丁を一本ずつ確認していった。どれも丁寧に手入れがされている。やはりこの台所には前任者がいたのだろうか。そう考えながらチェックしているうち、ふと目に入った物がある。それは大きなおろし金の下にあった。隠されているように見えないこともない。しばらく眺めてから取り出してみた。幾重にも包まれた新聞紙から、木製の柄が突き出ている。間違いない。これも包丁だ。
なぜ一本だけ別にしてあるんだろう?
薄暗い予想が頭に挿し込んでくる。すぐに新聞紙を剥がせなかったのはそのせいだ。多分、くるまれた刃には乾いた血が付着している。ガビガビのどす黒い血。俺は向こうの部屋の物音に神経を集中させつつ、ゆっくりと新聞紙を剥がしにかかった。

剥がしながら、このことは胸に秘めておこうと決め、どうやって今回の話を断ろうかと考えた。しかし、意外にも新聞紙は簡単に剥がれた。包まれていたのは、やや大きめの牛刀。乾いた血がこびりついているだろうと、手に入れていた力が空回る。全身を露わにした牛刀には、僅かな汚れすら見受けられなかった。台所の灯りを点け、刃に顔を近づけてみる。光に照らされた刃の表面を見て、ようやくこの一本だけ隔離されていた理由が分かった。
刃の表面には油が塗られた形跡が残っていて、くるんでいた新聞紙には、もっと分かりやすく油が付着している。何のことはない。あまり使わない包丁の保管法だ。俺は思わず苦笑した。考え過ぎにも程がある。いい歳をして情けない。牛刀を元の位置に直してから、水道水で口の中を潤した。さあ、仕切り直しだ。
念の為、濃い味と薄い味のどちらが好みか尋ねようかと思ったが、やはり止めた。きっと彼が一万円を払って求めているものは、そういうことではない。予想外、そして予想以上を望んでいるからこその日給一万円だ。冷蔵庫に入っていた豆腐を使いたかったので、それだけ尋ねてみる。
「すみません。豆腐、使っても大丈夫ですか」
「任すよ、君の管轄だろう」
どうやら俺の予想は間違っていなかったようだ。ありがとうございます、と頭を下げ台所へ戻ろうとすると、ビールを持ってきてくれと言いつけられた。もう何年も仕えている人間に命じるような、その口調の自然さが心地いい。こんな風に言いつける人のために料理を作るのは贅沢だ。しかも、それを仕事にできるなんて。
腹の底から静かに湧き上がるものがある。長らく忘れていた感触だった。とりあえず冷蔵庫にある物で二、三皿、簡単なおつまみを用意してビールと共に持っていく。チーズやハムは、過剰なほど丁寧に盛り付けてみた。自分ではやらないことを提供するのがサービスだ。そう教えてくれたのは稲垣さんで、俺はその言葉をずっと守り続けているし、その言葉に守られ続けてもいる。どうやら今回も守られたみたいだ。泥卍は皿の上で派手に広がる盛り付けを見て、納得したように軽く頷いた。
あとは沖縄のチャンプルー料理をイメージした豆腐入りの野菜炒めと、冷凍庫に入っていたイカをメインにして魚介類の冷製パスタを作った。感想を訊くのは野暮かなと迷っていると、貴美子ママが「どう? 美味しい?」と単刀直入に斬りこんでくれた。
「ちゃんとした調味料がないから大変だったと思うよ」
泥卍はそう呟いたあと、俺に「ね?」と語りかけた。力強い視線にあたふたしてしまう。「あ、はい」と答えるのと、貴美子ママが「じゃあ合格?」と尋ねるのは同じタイミングだった。一瞬の澄んだ沈黙。彼は「合格」とは言わなかった。その代わり、口元を拭いながら「早速明日から来てもらえるかな?」と箸を置き、貴美子ママは「やったじゃない」と大袈裟に拍手をした。俺は返す言葉が見つからず、その場で深く頭を下げた。
アルコールが入っているからか、または客人がいるからなのか、泥卍はゆっくりと時間をかけながら食事をした。時折、煙草を吸ったり、貴美子ママの問いかけに答えたりしながら、一時間半を過ぎた頃にようやく食べ終えた。
俺はその間、明日の買い物に備えて足りない調味料や冷蔵庫・冷凍庫に入っている食材をメモに書きつけ、台所で今日の夕食と明日の朝食に取り掛かった。たまに貴美子ママの笑い声がここまで聞こえてくる。声がよく通る理由は家屋の構造ではなく、彼女の声質にあるようだ。それが証拠に家主・泥卍の声はちっとも聞こえない。
外観と同じくこの家の中も古びている。年季の入った木造の廊下や襖、砂壁がとても綺麗だ。そして掃除が行き届いている。広さを考えると泥卍の手際とは思えない。綺麗に刈られていた庭の草にしてもそう。定期的に業者を呼んでいるのだろうか。

ふと彼が赤坂のクラブに週一ペースで通っている、という話を思い出して可笑しくなった。彼も若い女の子相手にデレデレ笑ったり、広い襟ぐりから覗く鎖骨や胸元に視線を走らせる夜があるはずだ。あの猛禽めいた表情からはなかなか想像しづらいそんな情景も、今後ここで料理を作り続けうち、容易に思い浮かべられるようになるのかもしれない。俺は自分が一歩踏み出したという事実を客観的に捉えた。このままいけば、あの日品川駅で味わった喪失感は味わわずに済みそうだ。もう俺は踏み出している。二度と途中で引き返したりするもんか。
台所の窓を開ける。十一月の冷気が顔にあたり、思わず身体が震えた。
「はい、これね」
貴美子ママが、食べ終わった皿を運んできてくれた。
「あ、大丈夫です、やりますから」
「いいの、いいの」
酒に強い彼女のことだからビールのせいではないだろうが、陽気さが全身から滲み出ていた。まだビールあるよね、と冷蔵庫を開ける後ろ姿を見ながら、明日の買い物リストに「ゴム手袋」と書き加えた。これからの時期、洗い物をするのに素手では厳しい。もちろん、この古い家の水道は温水など出ない。
(第08回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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