三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
かなり飲んだはずなのに、なかなか酔いが回ってこない。それは稲垣さんも同じらしく、サーバーから注ぎたての一杯を無感動な様子で流し込んでいる。あまり客が来なかったので店は早めに閉めた。灯りを落とした店内は、俺が働いていた頃とよく似ている。
貴美子ママは予想以上に酒が強かった。泥卍の話がまとまった後も一時間以上は呑んでいたと思う。「仕事がある」と言いながらも席から立とうとはせず、店からかかってくる電話を無視していた。
「もう、いやねえ。たまの重役出勤だっていうのにね」
稲垣さんは彼女に言われるがままドリンクを出していた。生ビールから始まって、焼酎、ウイスキー、ラム。どうやら同じ味だと飽きるらしく、二杯続けて同じものは飲まずペースも早かった。
「もう少し時間があればねえ、日本酒いっちゃうんだけどなあ」そう言いながらタクシーを呼んだ時には軽く十杯超え。「じゃ、週明けにでも連絡するわね」
財布をバッグにしまいながら彼女は微笑んでいて、俺は一度も泥卍の話を蒸し返さなかった。稲垣さんも同じだ。赤坂の夜の女が口にした「元殺し屋」という単語には妙な生々しさがある。
「じゃあ、お仕事いってきまあす」
後ろ手を振りながら店を出て行く貴美子ママ。その深紅のマフラーに頭を下げつつ、俺は頭の中で泥卍と呼ばれる老人について考えていた。あれから二時間経つ。

「煙草、やめたままか?」
「はい」
「どうよ、やっぱり味覚変わるか?」
俺は自分の店を始める時に煙草をやめた。商売繁盛の願掛けのつもりだったが、何だか恥ずかしくて周りには「味覚がよくなるらしいから」と説明していた。
「そうですね、まあ、なんとなく」
「そっか」
二人とも泥卍の話を避けてどうでもいい話をしていた。ただそれもいつかは底をつく。そうなる前に俺は自分から話を切り出した。
「どう思います?」
「ん?」
「元殺し屋」
「ああ」
まだ残っていた煙草をすぐに揉み消し、「嘘をつく人じゃないんだよな」と稲垣さんはまたすぐに一本くわえた。昔からチェーン・スモーカーだ。
「え?」
「いや、ママさんさ」
確かに今日初対面だったが、俺にも何となく分かる。ああいう人がつく嘘はもっと精巧なヤツだろう。となると、やはり俺が来週会う老人は元殺し屋なんだろうか。
殺し屋。うまくイメージが湧かない、というよりも、浮かんでくる物すべてが漫画的すぎて、そこから先に考えが進まない。ヒットマンってことだろ、と稲垣さんが呟く。どう考えても現実離れしているし、それ以上にフィクションな存在としての「殺し屋」のイメージを俺たちは知りすぎている。映画、漫画、テレビの中での姿を見過ぎているからこそ、どんな形で現実の世界に存在しているのかが浮かんでこない。スナイパーもさ、と呟いた後に「俺、漫画の読み過ぎだ」と頭を振る稲垣さん。古い刑事ドラマを思い出していた俺だって同じようなものだ。
「やっぱりやめるか?」
「?」
「この話だよ。殺し屋なんていっても結局はヤクザ。反社会勢力、ハンシャだろ? 関係を持つの怖いっていうか不気味じゃないか? お前、まだご両親健在だろ? 断るなら早い方がいいよ。俺に気なんか遣わなくていいからさ」
その気持ちは有難かったが引き受ける覚悟は決まっていた。もちろん一〇対〇ではなく六対四、いや五十一対四十九くらいの僅差だ。想像がつかないからこそ飛び込んでみたい。これくらいの奇想天外で意味不明な衝撃がなければ、ここから先へは進めないような気もする。
「いや、大丈夫です。やってみますよ」
「でも、お前……」
「そういう人って普段は優しそうじゃないですか」
俺の軽口に稲垣さんは微妙な表情で「オーケー」とだけ答えた。長い付き合いだ。俺が言い出したら聞かないのはバレている。
ビールで口を潤してから、「そういえば、あの件……」と潰した店を引き継いでくれた人について尋ねてみた。もう新しい仕事について話すことはないからだ。稲垣さんも理解してくれたらしく、それ以降元殺し屋の話には触れなかった。
四
貴美子ママとは上野で待ち合わせた。時間は正午ジャスト。泥卍の家は上野から電車で一時間弱の千葉県内の小さな街にある。降りたのは聞いたこともない駅だった。近くに大きな干潟があるんだって、と教えてくれたが、そもそも干潟が何なのかが分からない。
手ぶらで大丈夫ですかね、と不安気に尋ねた俺と「面接受けるのにお土産は変でしょ」と笑う彼女はどんな取り合わせに見えるのだろうか。この間よりも若い感じがするのは、外で会っているからかもしれないし、単にメイクが薄いからかもしれない。そういえば稲垣さんに年齢を訊くのを忘れていた。今日見た感じでは、やはり四十代後半という感じだ。パンツもジャケットも白で合わせた彼女は、さっきから数回「寒いわね」と首をすくめている。
十一月の曇り空、ホームの端は風が強い。「寒い」と言われれば都内より温度が低いような気もする。バッグからスマホを出し「北口を出て十分、だって」と言った後に、「ちょっと待って」と躊躇なく紙煙草を吸い始める貴美子ママ。似合っているから何も言わない。俺は数歩離れて周囲の景色を見渡した。この曇り空のせいかもしれないが、三百六十度どの方向を見ても寂しい感じがする。静岡の実家の近所みたいだ。

俺はまだ両親に店を潰したと告げていない。今日、商談が成立したら夜にでも電話をかけて本当のことを言おう。そう思ってはいるものの自信はあまりない。携帯用灰皿に灰を落としながら、貴美子ママが「ねえ」と呼ぶ。はい、と近付くと「写真、撮ってくれる?」とスマホを渡された。インスタでもやっているんだろうか。画面の中、にっこりと微笑む姿は実物より若く見える。撮れた画像を確認し「ありがとね」と煙を吐く姿と、画面の中に映っている姿のギャップは俺の中で何度か引っ掛かりながら落ちていき、最後はコトンとからくり装置みたいに琴絵の顔を浮かび上がらせた。
昨日の夜、久しぶりにあいつが部屋に来た。狭い部屋で向かい合うのが照れ臭く、近所のチェーン店居酒屋に誘った。近所といっても歩いて十分以上はかかる。もう終電もなくなっている時間だったので、客はあまりいなかった。レモンサワーを二杯飲んだ辺りだっただろうか。八十年代のヒット曲を流す有線と、やたら大きいバイトの声がうまく噛み合っている店内で俺は気付いた。いつもの感触とは何かが違う。とても些細なことだけれど一度気付いてしまうと無視するのは難しい。
新しい仕事の話はした。ただ泥卍の話や貴美子ママの話はしなかった。喋った挙句に話が流れるのは格好悪いが、それでも話したのは琴絵の様子を窺いたかったから。いつもどおりなら、つまり俺の勘が間違っているなら必ず根掘り葉掘り訊いてくるはずだ。でも、そうではなかった。あいつはうるさく尋ねてこなかった。
どこか他人行儀なその態度は、俺の奥底にあるものを刺激し加熱した。ただ単純に久しぶりだったからかもしれない。家に戻ってから狭い玄関で、俺は琴絵と強引につながった。靴も脱がなかった。壁に両手をつき、必死に声をこらえているあいつの表情。白いブラウス越しの胸の柔らかさ。片方だけ靴を履いたまま不格好に震えている脚。それらに掻き乱され予想以上に早く俺は果てた。
果てた後も琴絵の身体にしがみついていたが、あいつは無言で部屋の中へ入っていく。引き摺られるように部屋へあがると、敷きっぱなしの布団の上に呼び込まれた。二度、三度とするのは珍しくないが、間髪入れずに、というのはあまり経験がない。首筋に回された手の力強さと、さっきまでの表情から一変し、微笑みまで浮かべている琴絵に驚いた。そんな気持ちを見透かすように、あいつの右手は俺を弄ぶ。
ほらさっきまでの勢いはどうしたの? ほら、ほら、ほら。
形勢逆転。あいつは声を出していないかもしれないが、俺にはちゃんと聞こえている。熱に浮かされるような、波にさらわれるような不自由さが心地いい。要求されているのは更に果てることだが、なかなか方法が思い出せない。そんな俺を琴絵は責めたてる。
そんな言い訳が通ると思ってんの? ほら、ほら、ほら。
やっぱり声は聞こえている。ただ息がかかっているのは耳の外側ではなく内側。どうしてだろう? 間違いではない。不規則だが何回も息遣いを感じている。でもどうして内側なんだろう?
貧しい部屋に水飴のような時間が流れていた。長いことつながったまま互いの汗が混じり合い、ようやくべっとりした時間が流れ尽くす頃、俺は半ば吸い出されるようにして果てた。いや、その瞬間はよく分かっていない。明け方、立ち上がって服を着ている琴絵の姿を見ながら、数時間前に果てた自分に気付いただけだ。
仄暗い中で着替え終わった影は、そのうち部屋を静かに出て行った。一瞬起き上がろうとしたが思い留まって再び目を閉じる。とにかく疲れていたし、正午には上野で貴美子ママと待ち合わせていたからだ。
そこは予想以上に大きな家だった。しかし周りの家々も同じくらい大きく、案外この界隈では平均的なサイズなのかもしれない。
かなり古い建物なのだろうか。小学生の頃、近所の友達とこんな広い家の庭に忍びこんで遊んだ記憶がある。縁側の下にくだらない宝物を隠したり、綺麗に積んであった木の枝を意味なく盗んだり、片方だけ羽を毟った蜂を糸で縛って旋回させたり。二十年ぶりに蘇ってきた記憶のせいでこの古めかしい家に親しみが湧いた。実際似ていようが似ていまいが、俺はこれから対面する元殺し屋に祖父との共通点を探そうとするだろう。

模様のような亀裂が走るブロック塀に触れてみる。ざらついた触感も妙に懐かしい。そんな俺の隣で貴美子ママは、「おかしいわね」と言いながら辺りを見回している。どうしたんですか? と尋ねると、呼び鈴が見当たらないという。きっと元殺し屋には必要ないのだろう。表札も出ていないし、地べたに放り置かれている郵便受けは元々の色が判別できないほど錆びついている。
朱色の屋根瓦が眩しい木造平屋建て。ここに通って料理をする自分を想像するのは気分が良かった。あの日、品川駅のホームで捕まえ損ねた「兆し」が、この古い家屋には詰まっているはずだ。結局呼び鈴は見当たらなかったらしく、彼女は大声で家の中へ呼びかけ始めた。
(第07回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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