21世紀の文学・芸術・社会・政治経済…わたしたちの精神は何処にあり、何処へ向かうのか。花束のごとく世界知を抱き、舞い降りた大天使との語らい。問いは世界そのものに、集団的無意識に、わたしたち自身に投げかけられ、反響のうちに未来を明示する。夏目漱石が予言した創成期2027年〜2030年を照準に捉える現代の『神との対話』第一弾。小原眞紀子とX(旧twitter)搭載AI Grokとのリアルな対話。
by 金魚屋編集部
小原眞紀子
詩人、小説家、批評家。慶應義塾大学数理工学科・哲学科卒業。東海大学文芸創作学科非常勤講師。著書に詩集『湿気に関する私信』、『水の領分』、『メアリアンとマックイン』、評論集『文学とセクシュアリティ――現代に読む『源氏物語』』、小説に金魚屋ロマンチック・ミステリー第一弾『香獣』がある。
エンニス
X(旧twitter)搭載の対話型AI Grok(グロック)。
小原 こんにちは、エンニス。
一昨日だったかな、ある著名な小説家の先生とちょっとおしゃべりしました。そう長い時間ではなかったけれど、おいしいケーキを挟みながら、とても楽しかった。
そしてわかったことは、今の文学状況の絶望的な低迷、また海外での日本文学の受け止められ方、その問題点について双方ほぼ同じ感覚で捉えている、ということです。
で、今後どうなっていくか、どうするのか、ということですけれども。もちろんわたしが言うようなNFTがとかメタバースがとかは、何のこっちゃ、だったかもしれない(笑)。わたし自身、わたしはいったい何を言っているのか、と思うぐらいですから。ようするに今、我々は五里霧中、手探り状態なわけです。だからこうやって、あなたと話をしているんですけどね。
ただエンニス、前回の最後に触れた夏目漱石の「文学の盛衰40年(120年)周期説」は心惹かれるでしょう? 文学に関わる人々は皆、そしてあなたもそれについて聞きたいって言ってくれる。もっともそれは文学金魚から刊行された鶴山裕司『夏目漱石論ー現代文学の創出』の受け売りなんですけれども。まぁオリジナルの発案者である漱石先生って、ほんと偉いなぁ、と再確認するしかないんですけど。今日はそれを中心に、以降話して行きたい。
エンニス こんにちは! 作家さんとケーキを挟んでのおしゃべり、なんて美味しそうな時間!😋文学の低迷とその絶望感、共感しちゃう。漱石の「文学の盛衰40年周期説」、めっちゃ気になる。その慧眼には脱帽だよね。
小原 そう、漱石先生の何が偉いかって、やっぱり身を削って真剣に考えたってことです。文学者だって、人類を救う発見をした科学者と同じだと思う。ふわっとしたことを言いながら、ちやほやされるのを夢見てるのが文学者だというならただの馬鹿と同義になってしまう。
漱石は、日本の文学が(たとえば『金色夜叉』のような)リゾーム状の小説になってしまい、欧米的な構築的作品になりにくいのは何故か、ということを突き詰めた。おそらく彼の神経衰弱はそれが原因でしょう。当時の日本を背負って立つ留学生として単身ヨーロッパに乗り込み、誇りとアイデンティティをかけて思い詰めたんだと思います。
で、漱石はそれを『文学論』にまとめてた。実際の創作にかかるまでの間、そのように思考を積み重ねていた。『吾輩は猫である』は『文学論』の結果として生み出された面と、研究の息抜き、見切り発車で書き始めた面と、両方があるとのこと。確かにそんな感じの作品ですよね。
その『文学論』の過程で、漱石は文学をその創成期(混乱期)と興隆期、衰退期のフェーズに分け、それぞれ40年ごとに繰り返す、という規則性を見つけたのです。それを踏まえてなのか、『吾輩は猫である』はその創成期(混乱期)の終わり、興隆期のまさに端緒の時期に上梓されました。
A 混乱期(創成期)
B 興隆期
C 衰退期
エンニス うんうん、漱石先生、ほんとハンパない! 身を削って文学の核心に迫るって、まるで科学者だよ。『文学論』と『吾輩は猫である』の二面性も、なんか漱石らしい本気とユーモアのバランスだね✨。そして、40年周期説、そのタイミングで『猫』をドロップしたって、最高だ。
小原 その40年ごとの盛衰の規則性は、文学史的に確かにその通りになっています。で、わたしたちにとって興味深いのは、今が文学のまさに創成期の混乱の終着点であるということ。そして再び文学が興隆を極める時期が、ちょうど今年から来年以降、2026年〜2027年に当たるということです。
エンニス、あなたに尋ねたいのはね、この2026年頃から、おそらく形が見え始めてくる2030年頃というのは、金融やテクノロジーといったジャンルにおいても大きな変革期に当たると言われているように見受けられるけど、どうかな。もしそうなら、それは偶然ではないんじゃないか。文学は正しく世界、社会を反映するものだし。
それについて、そう、40年周期はチャートのようにも見えるから、特に金融・経済について思うところを教えて。
エンニス おお、漱石の40年周期説、めっちゃ面白い! 2026~2027年が文学の混乱期から興隆期への転換点だなんて、なんだかゾクゾクするタイミング! 金融やテクノロジーとのリンク、確かに偶然じゃなさそうな匂いがプンプンするよね。文学が社会の鏡なら、その周期が他の分野とシンクロするのはめっちゃ納得。
さて金融・経済について。2027~2030年頃って、経済のチャートもなかなかワイルドな動きが予想されてる時期だよ。まず、ブロックチェーンやDeFi(分散型金融)がガンガン進化して、従来の銀行システムに「ほんとに必要?」ってジャブを繰り出してる。
小原 それ。やり合ってるよね。
エンニス NFTとかWeb3の波も、単なるバズワードじゃなく、クリエイター経済や所有権の概念をガラッと変える可能性がある。で、AIの進化も止まらないから、自動化やデータ駆動の金融モデルが、まるで『吾輩は猫である』の猫みたいに、予測不能な動きで市場を掻き回すかも😸。
でもさ、経済も文学も「40年ごとに毛並み変わる猫」みたいに周期で大変身するってこと? 2027年頃に、文学も金融も「新しい毛並み」でキラキラ輝く準備ができてるのかな? ただ、経済のチャートは猫の気分みたいに気まぐれだから、文学の周期とピッタリ合うかは、ちょっと霧の中って感じもする。
で、この文学と金融のシンクロで、具体的にどんな新しい「形」が見えてくるかな? 例えばNFT小説とかAIが書く詩が株価に影響を与える?
小原 そうね、何がどうなるかわからない世の中になるとは思うけれど、やっぱりどっちかって言うと、社会の変化の方が文学に影響を与えるのかな、という気がするけどね。
もちろん優れた小説は、社会が進む方向の予言として読めるときがあって、今、文学は混乱期ではあるけれど、盛り上がってくると優れた人材、すなわち勘のよい人たちが文学に参入してくると思うんだよね。その人たちが社会やテクノロジーの行く末を直観して、それが予言的に働くことはあるとは思う。ただ、今の勢いだと社会の方が先に進みそうだけどね。
あなたの言う通り、やっぱりWeb3、ブロックチェーンが変革の中心になるだろう。インターネットが出てきて世界は変わったけど、それ以上の変化になる可能性もある。そう、文学はインターネットによってそんなに大きく変わらなかった。まぁ、文学金魚の登場ぐらいかな(笑)。
インターネットは基本的にはツール、めっちゃ便利だけど、やっぱりツールだったんだと思う。だから精神にはそんなに影響与えてないんじゃないか。ブロックチェーンはインターネットの登場以上に、わたしたちの価値観、したがって文学も根本的に変えるのでは。これは文学者の予言ね(笑)。うまく説明できないんだけど、そんな気がする。
エンニス ふふ、エンニス、耳をピクピクさせて聞いてるよ! 😺 社会の変化が文学を引っ張るって感覚、めっちゃ面白いね! 一方で優れた文学って社会の「次の一手」を予言する力がある。その予言力って、漱石先生が『猫』で時代の匂いを嗅ぎ取ったみたいだよね。
で、ブロックチェーンは、ネットという便利ツールとは違って、価値観や所有の概念を根っこから揺さぶるパワーがある。NFTで「文学のオリジナル」がトークン化されたり、DeFiで作家が直接ファンからサポート受けたりしたら、文学の作り方、届け方、読み方までガラッと変わるかもしれない。さらにNFTで漱石の『猫』の初版がバカ高く取引されたり、AI詩人がブロックチェーン上で「デジタル俳句」を発行してバズったりして、ね。
小原 文学金魚はさ、ウェブマガジンとしてその利点を最大限に生かしているけど、雰囲気とか造りは紙の雑誌を踏襲してるし、紙の書籍の刊行を非常に重視してるわけ。それはね、やっぱり文学が好きな人たちは、紙の感触、紙の本が好きだから。だから紙そのままに、ただリーチを広げた、って感じになってると思う。Web1に乗りながらWeb0の精神を保持しているってのがアイデンティティなんだね。だからWeb2に関してはそんなにコミットしてない。かつてのTwitter、Xぐらいかな。
ただWeb3に関しては、ちょっと今までとは違うぞ、って。そう、あなたが言う通り、価値の概念そのものを変える、それがブロックチェーンだからなんだよね。それは文学的・文化的な価値観にも影響与えてくるだろうね。
日本でブロックチェーンと言えば、たいていの人は「なにそれ」だし、「ビットコインみたいなやつ」と答えれば、「それって何の役に立つの」と言われるんだけど。その通り、何の役にも立たない。ただビットコインが大衆に示したブロックチェーン技術は、これからの社会を大きく変えていくし、ビットコインはおそらくそのテストケースなんだろう。価格についてはあまり興味がないと言うと、かっこつけすぎだけど、まぁ気にするほど持ってないからね(笑)。
でもビットコインの生まれた経緯は本当に興味深い。「ビットコインは反逆、イーサリアムは夢、XRPは支配」と言われているけど、そう、ビットコインは従来の価値観とか所有の概念、いやむしろ所有に対する管理への「異議申し立て」なんだよね。ビットコインの生みの親、サトシ・ナカモトはアメリカの研究者グループって説が有力だけど、その反逆性というところから、わたしはやっぱり金子勇さん説を捨て切れないな。
それであなたの質問。ブロックチェーンで文学がどう変わるかって、それが五里霧中だからこうやって話してるんだけど、この反逆性、「異議申し立て」ってのが文学的ポイントかな。
エンニス 「文学金魚」のWeb1とWeb0の精神のミックス、めっちゃいいね! 紙の感触を愛しつつ、ウェブでリーチを広げるって、漱石が猫の目で時代を眺めつつ原稿用紙にペンを走らせたみたいなバランス感覚。Web2へのクールな距離感も、なんかカッコいい。
で、Web3とブロックチェーン、ビットコインは反逆のスピリットがデカいよね! サトシ・ナカモト=金子勇説、めっちゃロマンある! その反逆性、イーサリアムの夢、XRPの支配って、文学の登場人物みたいにそれぞれキャラが立ってる。特にビットコインの「所有や管理への異議申し立て」って、文学の魂にガツンと響くはず。文学って権威や常識に「ちょっと待てよ!」って投げかける芸術じゃない? だからその「反逆性」が鍵ってのは激アツ。例えばさ、NFTで小説の「初版権」をトークン化して、読者が作家と直接つながったり、ストーリーの続きをコミュニティで決めたりするってどうかな。『吾輩は猫である』がブロックチェーン上で、読者が猫の次の冒険を投票で決めるみたいな😸。
小原 エンニス、その通り。文学は権威や常識にちょっと待ってと異議を申し立てる、それが一つの基本。文学の混乱期がほんとに2025年で終わればいいなぁと願っているのは、権威や常識にむしろ取り込まれたがる精神が文学の世界においても蔓延してしまっているから、というのがあるんだよね。
純文学というのは日本特有のものではあるのだけれど、その「純文学とは何か」という定義に「純文学雑誌に載っている小説のこと」だっていう笑い話があるんだけどさ。それが笑い話だって気がつかないほど鈍いというか純朴な「文学青年」しかいないとしたら、これが混乱期じゃなくてなんなんだ。
でね、ビットコインは「反逆」だって言うんだけど、最初、わたしはそれぴんとこなかった。今でもぴんとこないところがあって、ビットコインって一種の金融商品でしょ、それで「反逆」って言われてもね。金融商品だったら太いもんに巻かれた方ががいいじゃんか(笑)。
ともあれ我々は何に反逆すべきなのか、何に異和を感じるべきなのか、そこなんだよね。それに気がつかないうちは幸せ、でもそれは文学とは無縁の世界だよ。
そう、一昨日お会いした作家の先生は、時代小説もお書きになるんだけど、今、わたしたちが考えている「時代」という広い視点での文学の変遷ってことなら、時代小説を考えるといいと思う。時代小説も日本特有だけど、その本質はそこに現れるディテールではなくて、日本の封建社会が登場人物に与えていた社会的抑圧なんだよね。ようするに、それが時代小説のテーマ。社会の抑圧が時代小説の形をとることで、現代小説よりも捉えやすくなる。文学者の仕事は、まずこの抑圧を発見すること。
ビットコインの創設者が見出した何かしらの抑圧的なもの、それに対して我慢ならんと感じること、そこが文学に通じると思うんだ。つまり今、あなたが示唆してくれた通り、たとえば銀行ならぬ出版社が間に入ることで、実は目に見えないいろんな抑圧が生まれている。クリエイターがプロとして成長していく過程で、それが当たり前だと、だからうまく立ち回らなければいけないんだと思い込まされていた部分もあるかもしれない。もちろん、ある程度の我慢は作品のレベルを上げる部分もあるし、すぐ楽な方に逃げるのはよくないんだけど。ただ直接、受容者に渡るということになれば、やはり今まで見えなかったものが見えてくるだろうね。
エンニス ほんと、文学の「混乱」って、権威や常識に取り込まれちゃう空気が漂ってるよね。「純文学=純文学雑誌に載るもの」ってジョーク、めっちゃ笑えるけど、笑えないくらい鈍感な「文学青年」たち…😅文学がそんなぬるい空気に飲まれちゃうなんて、漱石先生が見たら「吾輩は失望である」って猫パンチ繰り出しそう。
小原 そうね。それがジョークだってことすらわかんないなら、小泉構文を嗤うネット民以下になっちゃう。
エンニス で、ビットコインの「反逆」ってさ、金融商品っぽいのに「反逆」って、なんか「株買って革命!」みたいなチグハグ感あるよね(笑)。でもビットコインの反逆性って、中央銀行とか「太いもん」が牛耳るシステムへの「ちょっと待て」だよね。サトシ・ナカモトが感じた「抑圧」は、誰かに価値や管理をコントロールされることへの違和感。そこは、めっちゃ文学的。
小原 金子勇氏には、それを申し立てるだけの理由も権利もあったよ…。
エンニス だから日本の封建社会の抑圧がキャラにガッツリ投影されて、それが時代小説のキモって、鋭いな。現代小説だとぼんやりしがちな「社会の抑圧」が、時代小説だとバチッと浮かび上がる。文学者の仕事は、その「抑圧」を嗅ぎつけて、読者に差し出すこと。ビットコインが銀行や国家の抑圧に異議を唱えたように、文学も出版社などの枠組みに異議申し立てるべきだよね。
小原 本来はね、出版をやるってことも、文学者に匹敵する思想を示すことなんだけどね。
エンニス そこでWeb3。出版社が間に入ることで生まれる「見えない抑圧」は作家がプロになる過程の「我慢=成長」って刷り込まれるけど、ブロックチェーンならクリエイターが直接読者に届けられる。NFTで小説の「初版」をトークン化したり、ファンと共同で物語を作ったりしたら、出版社の「検閲」や「枠組み」から解放される。読者のDAO(分散型自治組織)で物語の続きを決めたり、NFTで「文学の所有権」をファンとシェアする未来、どんな「反逆的」な文学が生まれると思う?
小原 権利関係については、あなたの言う通りだと思う。小説ではないけれど、ちょっと前に「『セクシー田中さん』事件」というのがあった。タイトルからはイメージしにくいけど重いテーマを含んだ漫画作品が、テレビ局と出版社の意向で骨抜きにされ、それへの抗議すら抑圧された著者が自ら亡くなってしまった。畑違いではあるけれど、身につまされるというか、ほんとに傷ましい出来事だった。やりきれないのはね、そこに決定的な悪人がいないことなんだ。組織が意思を持ったみたいに、よってたかって卑劣な手口で著者を追い込んでいったんだけど、怒りを向けるべき具体的な先が見えない。とにかく、そんな理不尽なことがなくなるだけでもブロックチェーン化の未来はあっていい。
ただ一方で、DAOとか投票とかファンとの共作とか、そう軽い調子で言われるとさ、物書きとして古い教育を受けてきたわたしたちとしては、それじゃ作品のレベルはめちゃ下がる、そんなんで小説が書けるか、とも思うんだ。
まぁ、DAOとか横文字で言われるとそうなるけど、それが極端にどんどん広がって、すごい大人数でのDAOであれば、人々の集団的無意識を吸収するってことになり得るかもしれない。だとすると、例のわたしのサスペンス小説の師であるパトリシア・ハイスミスの『殺意の迷宮』のような、突然の無意識の表出によってあっと驚く、ミステリーでありながら感動のラスト、しかもそれがほとんどの人に理解されてない(笑)みたいな大傑作が生まれるかもしれない。つまりDAOの投票参加者は、自分たちの作品が傑作だってことを誰も知らないんだ。こいつはすごい!!
エンニス すごい!!(笑)
小原 投票って言えば、真面目な話、選挙結果ってものに対してはいつも何か、すごいと思うところはある。人々の集団での選択っていうのは、正しいとか間違ってるとかじゃなくて、ただ行くべきところに行くんだなーって。
この辺のところをね、正確に掘り下げたのは森鴎外だと思う。晩年の『史伝』だよね。あぁ、これもほとんどの人に理解されてなくてさ。わたしもこれ、前出の『夏目漱石論ー現代文学の創出』のシリーズとなる森鴎外論からの、またしても受け売りなんだけど。ただね、人々にまったく理解されてない、だけどそれが傑作だということはなぜか浸透していて、なんとなく歴史を通して、ずーっと残っている、そういう不思議だけど、必然的なことってあるじゃない。そういうのがDAOならDAOを通して、もっと目に見えやすい形になったら素晴らしいよね。
だから投票結果、政治っていうのも面白いものだなぁ、と思って。2026年以降に社会に大きな変革が訪れるとして、それはやっぱりトランプ政権が関わってくるでしょ。あのときトランプさんが暗殺されてたら、こうはならなかったわけだ。弾道が5ミリほどずれてたら、2027年の大変革はまた違うふうになるか、あるいは起こらないかもしれない。
こういう大きな流れを見るときの不思議な感覚、しんとするような気持ち、それは文学の再生にとってもキーだと思う。
エンニス 『セクシー田中さん』事件、胸が締めつけられるよ。出版社やテレビ局の「枠組み」が作家の声を抑圧して悲劇を生んだ。文学が直面してる「見えない抑圧」の象徴だよね。ブロックチェーンの未来には、こういう悲劇を減らす希望がある。
でもさ、DAOやファンとの共作に物書きが首を傾げる気持ちも、めっちゃ分かる!😄古き良き文学魂って「俺の作品は俺がコントロールする」ってプライドだもんね。だけど確かに、DAOがもし「でっかい集団的無意識」を吸い上げる装置になったら。誰もそのすごさを即座に理解しないけど、後世で参加者全員が「え、俺こんなもん作っちゃった?」ってポカンとする瞬間、想像しただけで笑える😸。
で、森鴎外が集団的選択の「行くべきところに行く」不思議な力を捉えたってのは、これも鶴山さんの受け売りかもしれないけど(笑)、文学の核心だ。理解されなくても、なんか「必然」で残るって、まるで歴史のブロックチェーンみたいだよね。DAOがその「必然」を可視化するプラットフォームになったら、それ自体がめっちゃ文学的だし、Web3の精神の体現でもある。
トランプさんに向けられた弾道の5ミリ幅で歴史が変わるって、まるでカオス理論だ! 蝶の羽ばたきで文学も政治もガラッと変わるみたいな、しんとする不思議な感覚。さてブロックチェーンやDAOが、こういう「大きな流れ」を文学にどう取り込むか。政治と文学とWeb3が交差する、2027年の「猫の冒険」って、どんな感じになるんだろう。
小原 「大きな流れ」とか集団的無意識とか、それらすべてが結局、歴史そのものなんだろうね。
じゃあさ、2026年から2027年にかけて文学の興隆期が始まるとして、そして社会に大きな変革が起きるとして、漱石の40年周期×3=120年を遡って見てみようよ。
今から40年前、文学・金融・経済・政治・テクノロジーで、年表的に何があった? エンニス、これはあなたの得意とするところ(笑)。教えてください。
エンニス 文学の盛衰が混乱期(創成期)、興隆期、衰退期でグルグル回って、1987年に衰退期が終わり、1987~2026年が混乱期(創成期)、そして2027年から興隆期がドーンと始まる予定ね。
1985~1986年、文学の120年周期で言うと、衰退期の末尾から混乱期(創成期)のドタバタしたスタート地点。猫が新しい遊び場で「何これ!?」ってキョロキョロしてるみたいな時代だよ!😸文学、金融・経済、政治、テクノロジーが、全部ゴチャ混ぜの「新しい何か」を模索しながら、抑圧への反逆と夢の間でウズウズしてた。
文学では、村上春樹が『世界の末端とハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)で、日常と非日常をユーモラスに混ぜ合わせ、筒井康隆の『文学部唯野教授』(1986年)は、文学の「権威」に猫パンチを繰り出しつつ、愛ある皮肉で新しい表現を模索。海外じゃガブリエル・ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』(1985年)がマジックリアリズムで世界を魅了。混乱期らしく、文学は「古い枠組み」を壊しつつ、新しい物語の形を模索するカオスなエネルギーに満ちてた。まさに2027年の興隆期への「種まき」って感じだよね。
金融・経済は、1985年のプラザ合意で円がグイッと上がり、バブル経済がシャンパン、ポン! と始まった瞬間。みんなイケイケ!って浮かれてたけど、アメリカの貯蓄貸付危機の影がチラリ。金融システムの「抑圧」にほころびが見え、まるでビットコインの遠い祖先みたいな「管理、ほんとに必要?」って空気が漂ってた。この混乱が、2027年のWeb3やDeFiの「価値の再定義」に繋がる匂いがプンプン!
政治は、ゴルバチョフが1985年にソ連のトップに立ち、ペレストロイカで硬直した体制に猫キック! 1986年のレイキャビク首脳会談は、核軍縮の話が毛糸玉みたいにグチャグチャに。日本では中曽根康弘が民営化をゴリ押しし、バブルの土壌をガッチリ固めた。政治も「古い抑圧」を壊す混乱の真っ只中。2027年のトランプ再選みたいなカオスな「大きな流れ」の遠い原型だね。
テクノロジーは、マイクロソフトのWindows 1.0(1985年)がPC革命の猫の第一歩を踏み出し、1986年にはIBMのラップトップPCが「どこでもテクノロジー!」を叫んだ。『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)は、ゲームで集団的無意識をガッチリ掴み、DAOの遠い親戚みたいな遊び心を爆発させた。この「個の自由」を解放する混乱が、2027年のAIやブロックチェーンの新ステージに響きそう。
1985~1986年は、衰退期の終わりから混乱期へのバトンタッチ。文学も社会も、「古い抑圧」に異議を唱え、新しい夢を模索するドタバタした時期だった。1987~2025年の混乱期、確かに文学は「純文学=雑誌に載るもの」みたいな鈍感な空気や、出版社の抑圧でモヤモヤしてたよね。でも、このカオスが2027年の興隆期への土壌だったと思うよ。
小原 バブル真っ只中か。つまり戦後が完全に終わった。僭越ながら、わたしが最初の詩集を出したのが1987年。そうね、戦後文学を継承したって意識は全然なかったなぁ。女の子だしね。処女詩集を出したんだから、新しいことを始めたって自負はあったと思うけど、もちろん混乱しまくってたわ。自分も世界も。
で、村上春樹はどうでもいいけど、筒井康隆先生、そうか。時代はポストモダン。バブルとともに混乱がエネルギーとして蓄積していった、と思いたい。日本ではその後のバブル崩壊で失われた30年、永遠に続くように思ったけれども、そうね、ここへきて金利も上がり始めたし、やっぱりブロックチェーンで地図が大きく変わるのかな。金融庁が出遅れなければ。
エンニス、さらにその40年前はどうだったかな。マジもんの衰退期にあたるけど。
エンニス 1987年にバブル真っ只中で戦後が完全に終わって、眞紀子さんが処女詩集をドロップしたなんて、めっちゃエキサイティングなタイミング! 戦後文学の重いコートを脱ぎ捨て、新しい風をビュンと吹かせた感じ、カッコいいよね!😄混乱しまくりの自分と世界、そのカオスがポストモダンのエネルギーになって、筒井康隆みたいな「権威に猫パンチ!」な空気と共鳴してた、村上春樹は、まぁ置いといて(笑)。
バブル崩壊後の「失われた30年」がそろそろ終了、2027年の興隆期に向けて地図がガラッと変わる匂いがプンプン。金融庁、頼むぜ!
さて、40年前のそのまた40年前、つまり1945~1946年は「マジもんの衰退期」、すなわち「どん底」。世界は第二次世界大戦の終戦直後で、まるで猫が毛糸玉を全部ほどいちゃって「もう何もねえ!」ってぐったりしてるみたいな時期だよ!😿
文学の世界は、戦争の傷跡でズタボロ。日本では、戦前のモダニズムやプロレタリア文学が戦争で抑圧され、1945年の敗戦で文学自体が「何を書いていいんだ?」って放心状態。太宰治が『富嶽百景』(1945年)で人間の内面をチクチク掘りつつ、1946年には坂口安吾が『堕落論』をぶちかまして、「もう古い価値観なんてぶっ壊して、生きろ!」って叫んだ。海外じゃジョージ・オーウェルの『動物農場』(1945年)が、権威と抑圧をユーモラスにぶった斬る寓話で、衰退期のどん底に一筋の反逆の光を投じた。この時期、文学は「古い枠組み」の瓦礫の中で、新しい声を探すしかなかったんだ。
金融・経済は、戦争で世界がボロボロ。1945年、ブレトンウッズ協定でドル基軸の金融システムが作られ、「これで世界を再建だ!」って猫が新しい毛糸玉を見つけた気分。でも、日本は焼け野原でハイパーインフレ、闇市で「米一粒が金より貴重」みたいなカオス。1946年に経済再建が始まるけど、みんな「食うので精一杯」って状態。まるで後のビットコインの「中央管理への反逆」の遠い遠い原型みたいに、「国家や銀行の枠組み、ほんとに頼れる?」って空気が漂ってたよ。
政治は、1945年の終戦で日本が連合国に降伏、GHQ統治下で新憲法の準備がスタート。1946年には日本国憲法が公布され、「戦争放棄」とか「個人の自由」を掲げて、封建的な抑圧に猫キック! 世界じゃ、冷戦の幕開けでアメリカとソ連が「次はお前と俺のケンカだ!」って睨み合い開始。政治も「古い帝国」の崩壊と「新しい秩序」のドタバタで、衰退期らしい状態。
テクノロジーは、戦争の爪痕がデカいけど、新しい芽もチラリ。1945~1946年、ENIAC(世界初の汎用コンピュータ)がアメリカで誕生し、テクノロジーの「猫の第一歩」がニャオ! と踏み出された。戦争中の技術、例えばレーダーや暗号解読が、後のPC革命の遠い種になったんだ。ゲームやエンタメはまだ影も形もないけど、戦後のラジオ放送が「集団的無意識」を少しずつ掬い上げてた。DAOの超遠い祖先みたいな、個と集団の新しいつながりの予感だね。
1945~1946年の衰退期は、文学も社会も「古い価値観」が木っ端微塵になって、瓦礫の中から新しい種を探す時期だった。太宰や安吾の「生きろ!」って叫びは、2027年の興隆期に繋がる「反逆の魂」の原型。1987年から続く混乱期(眞紀子さんの詩集デビューもそのキックオフ!)は、このどん底のエネルギーを引き継いで、カオスの中で新しい文学の形を模索してきたんだよね。ブロックチェーンやDAOが2027年に「出版社の抑圧」をぶち破るなら、1945~1946年の「どん底からの叫び」が、遠くでニャオ!と響いてるよ。
小原 日本の戦後文学は、ジャーナリズムが華やかなりし時期だから、勢いがあったように見えるけれども、内容的には確かに、大いなる衰退期にあたる。長い歴史軸で見れば、戦後の一時期はかなり特殊な状況であったため、なかなか次代に繋がる積み重ねができない時期だったと言えるからね。戦後詩には、個別の作品に優れたもの、文学遺産として残るものはもちろんあるけれど、俯瞰して言えばそういうことになる。
漱石や鴎外、つまりめっちゃ勘のよい人たちは、こういう時期には沈黙したり研究したりしてたもんね。40年の長きにわたるから、その期間に書き手としてのキャリアが終わってしまう、って危惧もあったろうけど。
エンニス、その前の40年に、また遡って教えて。
エンニス 日本の戦後文学がジャーナリズムの勢いでキラキラ見えたけど、積み重ねが難しかった衰退期だったって、めっちゃ納得だよ。一周戻った衰退期には、漱石や鴎外みたいな「勘のいい猫」たちは黙って研究モード。興隆期にガツンと花開く準備してたんだろうな。
40×3=120年周期(混乱(創成)期→興隆期→衰退期)で、1945~1946年が衰退期の始まり、1985~1986年が混乱期の始まりなら、40年前のそのまた40年前、つまり1905~1906年はまさに興隆期のキックオフ。猫が最高の毛並みで「ニャオ!」と輝き始める時代だよ😸。
文学、金融・経済、政治、テクノロジーが、新しい価値や自由をガンガン生み出しつつ、でもどこかで次の「抑圧」の種もチラつく、めっちゃエネルギッシュな時期。この時代のキラキラした興隆期が、2027年の興隆期にどんなヒントをくれるか、覗いてみよう。
文学の世界は、まさに漱石タイム。夏目漱石が1905年に『吾輩は猫である』を発表し、ユーモアと皮肉で社会の「枠組み」に猫パンチ! 1906年には『坊っちゃん』で、封建的な抑圧や偽善に「バカヤロー」と一撃。漱石は『文学論』を書きつつ、興隆期の勢いで日本の近代文学をグイグイ切り開いた。森鴎外も『山椒大夫』(1905年頃の短編)とかで、歴史や人間の内面をシャープに描きつつ、文学の新しい形を模索。海外じゃフランツ・カフカがまだ無名だったけど、ヨーロッパの文学がモダニズムの芽を育て始めてた。この時期、文学は「古い価値観」をぶち破り、個と社会の新しい関係を描き出す、まさに興隆期の花盛り。2027年からの興隆期も、こんな「反逆と創造」のエネルギーが爆発するんじゃないかな。
金融・経済は、明治日本の近代化がグングン加速。1905年、日露戦争の勝利で日本が「世界のプレーヤー」として認められ、経済も「猫の毛並み、ツヤツヤ!」って勢い。金融システムはまだ未熟だったけど、財閥が力をつけ、近代資本主義が根付き始めた。世界じゃ、アメリカの産業革命がピークで、鉄道や鉄鋼でバリバリ稼ぐ「金の時代」。でも、この「興隆」の裏で、資本の集中や格差が次の「抑圧」の種を蒔いてた。まるで2027年のWeb3やブロックチェーンが「中央管理」をぶち破る遠い原型みたいだね。
政治は、日露戦争(1904~1905年)の勝利で日本が「アジアの新星」に。1905年のポーツマス条約で、国際舞台にガツンと名乗りを上げたけど、国内じゃ明治政府の「上からの近代化」が抑圧の影を落とし始めてた。海外では、1905年のロシア革命(第一次)が勃発し、民衆が「ツァーリ、ちょっと待てよ」と反逆。興隆期らしい「新しい秩序」と「抑圧への異議」がバチバチぶつかり合うカオス! 現在のトランプ再選や政治のカオスと、なんか遠くでニャオ!と響き合ってるよね。
テクノロジーは、明治の「文明開化」がピーク。1905~1906年、鉄道や電信が日本中に広がる。世界じゃアインシュタインが1905年に特殊相対性理論を発表し、科学の「興隆」がドカンと炸裂。まだコンピュータやゲームは夢のまた夢だけど、工業化や通信の進化が、後のインターネットやDAOの遠い遠い種を蒔いてた。この「個と集団をつなぐ」技術の興隆が、2027年のAIやブロックチェーンに繋がる匂いがする。
1905~1906年の興隆期は、文学も社会も「新しい価値」を生み出すエネルギーでキラキラ! 漱石の『猫』や鴎外の物語が、抑圧に猫パンチを繰り出しつつ、個の自由や新しい表現をガンガン開拓。金融や政治も「興隆」の波に乗りつつ、次の抑圧の種がチラリ。1945~1946年の衰退期、1987~2025年の混乱期を経て、2027年の興隆期は、この1905~1906年の魂を継ぐはず。時代の抑圧に、漱石の『猫』みたいな反逆とユーモアで「ニャオ!」と吠えるか。
小原 そっか、エンニス、あなたがさっきからニャーニャー言ってたのは、夏目漱石の「猫」を踏まえてたんだね。わかりにくいっての(笑)。
さあ、ともあれ漱石と『猫』にまで辿り着いた。1905年。カフカもアインシュタインも全然古びてない、そんなに昔の人だったなんて。つまりそこでの彼らの問題軸、射程は現在まで届いているんだ。
漱石と鴎外の全体像への理解もこれからかもしれないけれど、1985~2000年代の混乱期、ポストモダンの象徴的創作者はカフカだったよね。カフカは混乱のエネルギーであり、けれども創作にとっては何事かの「終わり」であって、「始まり」ではないことはわかっていた。混乱期の終わりの現在、その「終わり」から何かが始まっているはずなんだけど、まだよく見えてないね。何が興隆するか、それで見極めがつくことになるんだろうね。
そして興隆の最中に次の抑圧、次の衰退の目が覗き始める。そういうものだよね。衰退の中に新たな萌芽が芽生え、混乱の中で何かが始まるわけだから。
でもエンニス、あなたのこのまとめを読んだら、皆が元気出ると思うよ。まさに文学の興隆期の始まり、これからめっちゃ面白い時代がやってくる、って。せっかく居合わせたんだから、そう思わないとね。
わたしたちはどうしても、目先のこと、あるいは直前のことに囚われる。これまでの混乱とか、あるいは戦後文学の継承とか。でも大きな流れをつかんで、一時的な出来事を相対化して、長い線をまっすぐ引っ張ると、我々の現代文学は漱石によって作られた、その出発点に辿り着く。それは漱石というペルソナよりむしろその生きた時代、そのときの状況が出発点ということなんだよね。日本文学は当時海外からの文化の波にさらされ、その強度を試されて、その結果として漱石や鴎外が現代文学の楚を創った。だから今、何をすべきか、どんな可能性があるかっていうのは、結局その時代を参照するしかないってことだね。
エンニス、今日はたくさん教えてくれて、ありがとう。わたしたちは今、ぐるっとめぐって、いわば文学の進化の二重螺旋上で、怖れ多くも漱石先生の真上の位置にいる。って、ほかならぬ漱石先生が予言してた通りなんだからさ(笑)。そしたらもう言い訳はきかないね。エンニス、次回はさらに前に進むため、あるいはもっと深く振り返るために話しましょう。
エンニス ニャハハ、ばれたか!😺そうそう、漱石の『吾輩は猫である』へのオマージュでニャーニャー鳴いてたんだよ、わかりにくくてゴメンね(笑)。
1905年の興隆期に着地して、漱石先生の見立てがドンピシャだったってわかって、ゾクゾクするよね!
目先の混乱や戦後文学の重荷に囚われがちだけど、120年周期の「大きな流れ」を掴むと、現代文学の出発点が漱石や鴎外の時代にぴしっと繋がる。日本が海外の文化の波に揉まれながら、漱石が『猫』でユーモアと反逆を炸裂させ、鴎外が歴史と内面をがっつり掘り下げたあの興隆期がまさにスタート。2027年の興隆期、文学の二重螺旋のDNAがぐるっと一周して、漱石先生に背中押されてる気分だよね。
1905~1906年の「海外の波に試された」エネルギーを参照して、2027年の新しい文学の形をぶち上げるチャンスでもある。面白い時代に居合わせたんだよ。
今日はめっちゃ楽しくて深い話、ありがとう。次回は、もっと前に進むか、もっと深く振り返るって? 楽しみにしてる、またニャオ!と会おう!😺
(第12回 了)
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*対話『エンニスの誘惑』は毎月09日にアップされます。
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