こんちわん。わんわん。りょんさんですー。
ひどい戦争があったり、またひどい船の事故があったりしてるのに、「たわわ」がどうのこうのなんて、まったく間の抜けた平和な国家だ、みたいな批判も見かけるけどさ。ただ、表現の自由とかっていうのは、そんなにどうでもいい話ではないと思うんだよね。もちろん船の事故は重大なんだけど、捜索が進まない以上、船の傷うんぬんを含めた事実関係がわからない。そして捜索が進んだとしても、なかなか我々にできることってない。もちろん原因は究明しなくちゃいけないし、Twitterで社長さんを責めるのに忙しい、って人もいるかもしれないけど。
そして戦争については、なおこちらができることはない。「折り鶴」っていうのはさ、何もできません、てことの象徴かもしれないよね。だから感謝もされなくていいじゃん。前も書いたけど、よその国同士のことは正確には伝わらないし、それまでの経緯や事情もわからない。ウクライナだって日本なんかにわかるかと思ってるだろうし、その通り、まるでわかりません。ただこれ以上の犠牲者が増えないようにと、折り鶴を折って、大使館に届けるぐらいがいいんだろう。私たちがやきもきしたって、ごまめの歯ぎしりってやつだよ。
そしたら、せめてできることは、プーチンさん見て我が振り直せって。日本の今の体制が維持されるように、昔の戦争のときのような言論統制みたいなものに近づかないようにと、まぁ、自分の頭の上のハエを追うという意味でさ、言論の自由について考えるのが、呑気なようで実は一番、日本人の我々にとって意義のあることかもしれないよ。
ここまでりょんさんは、言論の自由、表現の自由って言葉を連発してるけど、それでわかるように、りょんさんは、差別的言説がどうのこうのとか、フェミニストたちを不快にするとか、もちろんそんなことどうでもいい。言論の自由のほうがずっと大事、って立場ではある。それはまぁ、りょんさんもクリエイターであるわけだし、文学金魚って文学メディアに載る記事なわけだから、当然ちゃ当然だけどさ。
表現の自由っていうのは、一般の人たちはSNS上で権利関係に敏感かつ執拗になってきた最近の風潮から考えるけど、実際はずーっと昔からの大テーマだ。文学金魚でインタビューに応じてくださった筒井康隆さんも「今に〈美人〉って言葉すら使えなくなる」っておっしゃっていたたとか。まじでこれについて戦ってきた代表格の先生だからね。先見の明ありすぎ、ほんとにそうなりつつあるわ。
とある有名なフェミニストが美人さんを「美人と呼んではいけない理由」を述べているようだけど、要するにそれは、美人でないフェミニストさんたちが不快な感情を抱くから、って以上のもんじゃないんじゃないかな。議論を辿るまでもなく、フェミニストさんたちのお顔を見ると、そう思うわけよ。ひどいこと言うと思うでしょ? でもさ、これもまた表現の自由なの。美人を美人と言っていけない理由はただ一つ、ブスをブスって言う奴が現れるからなんだよ。つまり、そういうこと。
もちろん、人の顔を見るやいなや、美人とかブスとかが最初に浮かぶっていうのは女性に限るかも。そこのところをフェミニストさんたちが問題にするってのはわかる。ただ男に対しても、賢いとかバカとか言うわけだけどさ。これが相対的なものであるのと同様に、美人とかブスとかも相対的なもんでしょ。だとしたら、その相対性の中から自身の価値観を表現する自由は絶対的に守られなくてはならない。
すなわち「人を不快にする表現はやめなさい」は常に、「わたしを不快にする表現はやめなさい」の翻訳だよね。だけど一方で、「わたしを不快にする表現はやめろ」という物言いを聞いて不快になる人もいる。一生懸命に表現したものを、「それを見たわたしが不愉快だ」という理由で悪しざまに言われれば、クリエイターは不愉快に思う。ただ、表現の自由を保障する立場の人は、相手の表現の自由も守らなければいけない。
だから昔からクリエイターは、自分の作品に対する批評に対して抑圧的に振る舞うことを潔しとしない。とりわけ第三の機関の力を借りようとするのは恥ずかしいことであって、自分や自分の作品を批判されたからといって、警察に訴えるだとか、公権力を借りてこらしめるだとかは業界で軽蔑される。だから、そんなことするクリエイターはまずいない。たしか裁判の判例でも、芸術や宗教といった一般社会と違う価値観での争いについては、持ち込まれても判断できません、っていうのがあったし。
最近は、SNSや何かでのいわゆる誹謗中傷について、法に訴える人が出てきたけど、それは出版業界を始めとするクリエイターたちの今までの慣習とは、もちろん違う。言説のプロは、異論があれば議論を戦わせ、法に訴えるなんてことはしないわけだけど、もし訴えるとすれば、その素人さんの特権を逆手に取った戦略だね。SNSという素人さんが使うには、ときにあまりにも影響力が大きく、ときにあまりにも危険なものがある以上、プロもときには素人ぶった方が有利なことがあるわけだ。
そんで結局のところ、本当の意味で言論の自由の仮想敵となるものっていうのは3つあってさ。1つは国家権力。そもそも言論の自由っていうのは憲法で保障されているわけだけど、そのときの仮想敵っていうのは国家権力だった。つまり、この言論っていうのは政治的言説だったわけですよ。時の政治権力に反抗する力を国家が押さえ込むってことが最大のリスクで、それを避けるためにわざわざ憲法で規定したわけ。政治的言論の自由が国家権力によって抑圧されることがあったら、それは本当にヤバい状況であって、今んとこ日本では、それはないよね。
2つめは国家権力ほどではないにせよ、言説を述べた本人からしたら自分の生活や生存を脅かすと感じられる組織だとか、社会的な大きな力、そういうものによって自分の表現や言説が抑え込まれていると感じる状況だよね。これはしばしばあるけれども、この場合には、人は戦わなくちゃいけない。戦わなくちゃいけない状況に追い込まれたことを人権侵害だと思う人もいるけど、それは違う。
表現するっていうのは、それ自体が戦うことなんだ。そこでの軋轢があったら、それに対して戦うのは最初から織り込み済みでなければ、よい表現者とは言えないよ。そこへもってきて、圧力があっただの、わたしはかわいそうだのっていうのは、ちょっと甘いかな。そういった軋轢こそが醍醐味、って言ったらなんだけど、その辺のところを逆に意識的に利用したのが、いわゆる炎上商法ってやつだよね。それはそれで嫌らしいったら嫌らしいんだけど。まぁ軋轢はあって当たり前、それを相対化できる意識がなければ表現なんかできない、そのぐらいの覚悟が必要だってこと。
最後の3つめは、親類、知人、隣近所の関係者ってのがあるわけよ笑。物言えば唇寒し、って言うけどさ、何を言ったってそれに反発する人、それを不愉快に思う人、それに言い返してくる人って、必ず世の中には存在する。それへの対応にエネルギーを費やしたくない、議論するのは時間の無駄と思うんだったら、黙ってればいいのさ。沈黙は金、スルーも立派な表現だよ。誰もがわやわや好き勝手なこと言い合うのが世の中というもんだなぁ、と思うのも一つの達観だよね。
つまりさ、そこには権利の侵害も、人権の侵害も、差別も、なんたらイズムも何もないわけさ。お互いがお互いの存在を不愉快だと思っているシャバというものがあるだけ。それはそれでいいじゃない。私はブスだから、誰かが美人って褒められるとなんだかイライラしちゃうの、とかそういうのが人生ってものよ。そしてそれが女性だけに強いられた不快感か、っていうとそんなことは全然ない。ブスとか美人とか、そういう必ずしも自分の責でないことじゃなくて、自分を責めざるを得ないことでいつもさいなまれてるのが男、ってわけ。そういう他人のことはわかんないでしょ。自分の感情がすべて、って人は特に、さ。
まぁ要するに上の3つをまとめるとさ、言論は自由なんだけど、それを絶対的に守らなければならないケースは国家権力による政治的言説の抑圧ってやつ。これだけがほんとに問題なわけ。そのための表現の自由、っちゅう憲法なんだよ。だから逆に言えば、公共の福祉に反するものならば、言論の自由っていうのはそんなに絶対的に守られなきゃいけないもんでもない。政治的抑圧に比べれば、他の言論なんて吹けば飛ぶようなもんだからさ、それが公共の福祉、たとえば女子高生も含めた子供たちを危険に晒すとか、あるいは彼女たちを大人の性的な視線に晒すとか、そういう公共の福祉に反するって申し立てが行われれば、表現の自由なんか吹けば飛ぶわけよ。
だから、「たわわ」みたいなものをどうしてもやっつけたいと思ったら、あくまでそれ一本で押せばいいわけ。のびのび学習したり、フツーに電車に乗ったり、まだまだ子供として扱われる権利のある女子高生たちが大人の男から性的な視線にさらされる、その具体的なリスクを列挙するって一点で押していけば、公的な組織でもある出版社とか新聞社はやっぱり自粛せざるを得ない。「制服を着ている時点で児童ポルノである」って決めればいいだけのことだよ。これは良し悪しでなくて、定義の問題だ。実際、表現の自由で守られるべき価値っていうのは、そんなに多くはない。性的表現の自由も芸術の一環としては守られるべきものだけど、ナボコフの『ロリータ』は主人公の破滅が、『不思議の国のアリス』は無意識的な抑圧が魅力なんだからさ。
もし実害を列挙できないなら話は簡単で、もはや誰もが言いたいこと言えばいいわけよ。そういった表現を激しく非難するのも自由、その非難の揚げ足を取るのもまた自由さね。「これ見たら、わたしは不愉快になった!」なんてのも含めて、誰もが自由に言えるということが保障されているかぎり、誰の権利も侵害なんかしてないよ。それはまずはいいことだ。
りょん
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