社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第二十二回 テクニカル分析II―有機質は死して
前回、若い女性への殺し文句は「運命の出会い」というやつだ、と書いたけれど、もちろんそれは若いコにかぎらないだろう。「運命の出会いだと思ってさ…」と、おしゃべりする無防備さはないにせよ、多かれ少なかれ「運命的」という感覚が決断を促すことは間違いない。何に対する決断かというと、ちょっとした買い物などではない。物質や金銭よりむしろ「時間」を費やす決断、というべきだろう。「運命」という言葉自体、「人生」という時間にかかわるものなのだから、当然ではあるが。
何に「運命」を感じるかは人それぞれだけれど、自分の「人生の時間」を規定する本質にかかわるもの、という構造は普遍的だ。なぜなら人は必ず「本質」を有している。「我思うゆえに我あり」とかね。最近のポストモダン哲学は「根底の不在」を認識させはしたけれど、その結果として、人が生きるにはアイデンティティが必要だと逆説的に証明したに過ぎない。「自身の本質」=アイデンティティを失えば、人は狂気に陥るだけである。それは哲学的には正しいのかもしれないが、まぁ、あたしゃイヤだね。
自分にとっての「本質」は、あれこれ考えてもわかるものではなくて、来し方を振り返り、実際に選んできたものを客観的に見て、この辺かなぁ、と見当がつくものだろう。すなわち自分では選べない、選ばれてしまったものが「運命」なのだから。その自我への決別の仕方は、それ自体すでにテクニカル分析的だ。
テクニカル分析とひと口に言ってもさまざまで、何を選ぶか迷う。迷うのは、そのすべてが「正しい」からだ。統計的に優位なものは、大数の法則により、やればやるほど利益が上がる。あくまでも理論上は、そのはずだ。何を選んでもいいが、資金力やその他の(理論的には些末に思える)要因によって、そのケースにおいては現実的に不可能、ということが多い。
それらの要因のひとつに、トレーダーのメンタルというものがある。含み損に耐えられないとか、決められた通りにするのが退屈で仕方ないとか。つまらないワガママだと思うかもしれないけれど、長い時間が過ぎるうちには、どうしたって地金が出る。いまいち性格が合わないかも、と思われる二人が五年か六年がんばって、結局は別れることになったとしても、今どき誰も責めるまい。ああ、やっぱりね、ということになる。そんなら六年前に言ってやれよ、と思ったりすると、「言いましたっ!」と返ってきたりする。
添い遂げるだけでなく、自分なりに研究し、深めたり広げたりする手法を見つけるのは、だから側から見るほど容易くはないし、またその努力は馬鹿々々しくもない。見つからないのは、そのトレーダーが単なるヘボでバカで利己的なせいなのか、それとも何か理由があるのか、それを見極めるだけでも、少なくとも本人にとって意義はある。前者であっても、そうか、自分は単なるバカでヘボな自己チューであったか、と感慨深いことだろうし、後者であればなお興味深い。そしてもちろん、トレードの結果は金に過ぎないから、前者でも後者でも大勢に影響はない。
そんなあれこれで我が身を振り返ると、自分がどうしようもなく引っかかるキーワード、というものをひとつ発見した。たぶんこいつがわたしの「運命」なので、手にとってためつすがめつ眺める。それは〝フラクタル〟という概念で、著名な、あるいはそれほど著名でなくとも、トレーダーの口からその言葉が漏れた瞬間、何はともあれその人についていこう、と思うのだった。しかも後が長い。かなり徹底してついていく。どうも、これまでそうだった。そうだった、そうだった。
フラクタルとは自己相似であり、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念だという。ある構造の部分が、その構造全体の相似形であるもの、たとえば星の形の箱の中に、ひと回り小さい星の形の箱が入っていて、その中にさらに小さい星のかたちの箱が…という入れ子状のイメージだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの黄金比がそうであるように、視線を螺旋状に、奥へ奥へと無限に誘う神秘性が知られている。
それ自体はポピュラーな概念なのだが、チャート分析における「フラクタル」の一言が、なぜわたしに感動を与えたのか。パナソニックの扇風機、ゆらぎ1/fにもさして関心なく、涼しければいいや、ぐらいに思っていたのだが。(なにやらフラクタルの風は、生命体にとって気持ちいいらしい。)
チャートは陽線と陰線と呼ばれる棒の並びでできあがっているが、一本の棒がチャートによって1時間の値動きを表したり、1日の値動きを表したりする。これらをそれぞれ時間足、日足、また週足とか月足とかいう。すなわちチャートは、ぱっと見ると、白と黒の(あるいは赤と青などの)棒が並んでいるものだが、それが日足チャートなのか、週足チャートなのかは、横軸の目盛りで確認する。
このチャート分析でフラクタルの概念が出てくる場面は決まっていて、チャートの週足、日足や時間足の動きがそれぞれ相似構造である、という話だ。つまり日足で見い出された規則性は他の足にも当てはまる。たとえば、上げ(下げ)はじめたトレンドはだいたい7日で終わり、という仮説を立てたとすると、それは週足にも月足にも、また時間足にも、4時間足にも当てはまることになる。月足でいえば7ヶ月だが、信用取引の決済が半年だったり、ヘッジファンドのお兄ちゃんたちの利確タイミングがボーナス時期だったりと、現実との微妙なすり合わせと相まって、フラクタルに収まることにもなろう。
この「どの足にも当てはまる」ことに、わたしはなぜかひどく動揺したのであるが、その意味するものは何だったのか。どの足にも当てはまるということは結局、足なんか問題じゃない、ということではないか。そもそも足とは何か。日足、週足と、それぞれ時間を区切る方便だ。24時間とか、7日とか、暦の都合でたまたま決まったような数字なのに、それでもフラクタルが堅持される。それはようするに、どんなふうに区切られようと本質的に一体である、ということに他ならないのではないか。
トレーダーにとって、すなわち人間にとって不可知に近いもの、いかんともしがたいものとは「時間」だろう。世界は時空で捉えられるが、空間より時間の方が圧倒的に人智を超える。もちろん学生の頃にはn次元空間に手こずり、位相空間論にぽーっとなりはしたものの、不可逆の「時間」、その果てこそが人類共通の謎であり、神の住みたまうところだ。フラクタル、それも黄金比や1/fの扇風機ではない、「時間」のフラクタル性は、認識可能な目盛りを無化する全体的な存在をわたしたちに突きつける。それは神の存在証明そのものではないか。
渚で鳴る巻貝
有機質は死して
俳人・安井浩司氏の代表作である。この句が頭から離れない。人の世の出来事を、腐りやすい有機質として廃し、なお残る〝生命の構造〟そのもの。わたしたち人間もまた、草や木、風や海鳴りと同じ原理に支配された自然物なのだから、その〝生命〟の本質はファンダメンタルズと呼ばれる浮世にはなく、無限の螺旋を描く〝構造〟そのものに息づいている。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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