社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第十九回 グローバリズムI―コロナ・ヴィールス
コロナ禍の真っ最中である。日付の代わりにそう記しておかねば、と思うのは、たぶん今は記憶と記録に残るべきときだという自覚があるからだ。くわえて本日は春の雪。何十年か前にも、こんな3月の末に大雪があって電車が止まったっけ。外出自粛の週末に、雪が降っても影響は少なかったかもしれないが、この寒さのぶり返しはまるで病気のぶり返しのようで心細い。
ほんとうにこの何週間かで世界の様子が一変してしまった、という嘆きをあちこちで目にする。たしかに、たとえば前回のこの連載を書いていた1ヶ月前、こんなふうになると誰が予想したろう。東京オリンピック延期? まるでSF映画だ。それもあまり出来のよくない類いの。
もちろん、これは雪景色で様子が変わっただけかもしれない。人通りの絶えた繁華街の眺めがどれほど異様でも、雪が溶けるまでのこと、というような。そしてそれはたぶん、そうなのだ。明けない夜はない、という文学的な表現をしてもしなくても。感染症の流行は止むときにはぱたりと止む、と母(85歳・現役医師)が言っていた。
ここまで書いたとき、志村けんさんの訃報が目に入った。人工心肺を装着しておられるから、大丈夫だろうと思っていた。(国内で人工心肺=エクモ使用の新型肺炎死亡例は初めてではないか。)感染源は不明とのことだし、推測で風評のもととなってはいけないけれど、外国人も多い都心部で、坪数の小さな飲食店がクラスターを形成している可能性については、もう報道もされている。夜間営業中心の、とわざわざ加えられているのは、定食屋というよりアルコール中心の、という意味だろう。滞在時間が長くなることと、アルコール特有の発散する呼気で危険が増すのかもしれない。
ただ、そんなことはある程度は最初から想像のつくことで、それでも危険を承知で行かねばならない立場というものもあるだろう。たとえば志村さんは独身で、飲食店がいわば長年の台所であり食堂だったろうから、繁華街にとって苦難のこのときこそ足繁く通わねば、と思われたろうし、業界の顔としての責任もあったろう。義理がたい人、男気のある人から先に倒れるのは戦時下の常である。
世界的にはコロナ禍は戦時と言えるが、もしひとつだけ良いことがあるとしたら、この敵は人類共通の敵である、ということだ。犠牲は傷ましいけれど、人と人が争って亡くなったわけではない。憎むべきものが他人でなく、他国でないということは、憎しみが連鎖することがない、世界が一丸となって前進するという稀有な光景が見られる可能性がある。
さて、これを投資も含めた世界観として見ると、どうなるか。今の世の中はグローバリゼーションの成れの果て、と言われる。グローバリゼーションとは世界をひとつの共同体として捉え得るように推し進める、という感じだろうか。グローバリゼーションとは名ばかりで、結局はアメリカナイズされていってるに過ぎない、ともよく聞く。ほんとうにアメリカナイズかどうかわからないが、ただ合理的で便利で、衛生的な生活をおくれる平板な世界が広がりつつあることは確かだ。
国家や民族がその独自性を意識し、固有の価値観と世界観を維持することが、その対極にある。世界は多様であるべきである、あるいは多様であってほしいということであれば、そうでないと困る。少なくとも寂しい。しかしそれは誰にとって困るのか。寂しく感じることは誰しもあったとしても、自身の生活がより合理的で便利、かつ衛生的になることを犠牲にしてまで、その平板さを問題にする者がいるだろうか。
誰だって、便利で清潔な空間で暮らす方が快適なのだ。それに鼻白むのは、便利で清潔な国からやってきて、3日ほど違う世界を楽しみたいと思っている旅行者だけだろう。彼らの期待する世界を観光用に維持することは、一種のビジネスになっている。そのビジネスで得た金銭で、やはり便利さと清潔さを手に入れ、快適に過ごしたい。それが人類共通の望みなのだから、世界の平板化もやむを得まい。
そしてもっとはっきり世界を平板化、もしくは統一化してしまうものは、合理性である。それは何にとっての合理性か、どうなることが合理的なのかは現代において明白だ。より収益性が高いこと、それがすなわち合理的なのだ。このロジック、価値観が世界くまなく行き渡ってしまったことがグローバリズムであり、今それが完成しつつある。
グローバリズムを一番手っ取り早く実感するのは、だから投資の世界だろう。いまや個人のパソコンひとつに世界中の通貨ペア、発展途上国も含めた世界中の株式指数を等し並に売買することができる。それぞれのお国柄を背負った仲介者に間に立ってもらうことはない。世界と直接対峙できるという感覚、同時にどの国のチャートの値動きも本質的には変わらないことをも見てとる次第になる。
もっともどの国のチャートも本質的に同じなのは、メインのプレーヤーが同じだから当然だとも言える。もちろん、人口構成がピラミッド型の若い国だと成長が見込まれるから右肩上がりだとか、ダウはいつだって業績のいい会社30社に入れ替えてるんだから右肩上がりだとか、VIX(恐怖)指数は暴落から安定へ常に右肩下がりだとか特徴はあるけれど、経済における合理性の追求は基本、同じかたちをしている。
ではそのメインプレーヤーはどんな姿かたちをしているのだろう。ひとつ目の怖ろしい巨人であるかのごとくイメージしているのが我々シロートであるが、どうもそうでもないらしい。そもそもどこがメインなのかも多少は意見の分かれるところで、銀行間FXの当事者と会って話したとき、なんといっても中心はロンドンだ、と言っていた。日本はなかなか仲間に入れてもらえないらしい。一方、最近人気のYouTuberでウォール街出身の高橋ダンさんは、やっぱりNYだと言い切っていた。
これはたぶん銀行という組織における世界的ヒエラルキー構造の中心はロンドンだが、とにかく膨大な資金が集まっている市場はNYだ、ということだろう。それで、そこにいる一人ひとりは、もちろん一人ひとりなのだ。銀行間FXのトレーダーは瞬発力などいらないので結構なお爺さんだったりするし、NYのヘッジファンドにいるのは(高橋ダンさんみたいな)気のいいお兄ちゃんたちだから、恋人の機嫌をとるのにクリスマス前に利確してプレゼントを買う。そんなこんなの集積で、世界の相場は動くのであった。
相場が動いて儲かって、買うプレゼントはそれぞれだろう。太古からそうだったように、莫大な冨が集まればその国特有の文化が生まれ、維持される。グローバリゼーションの成れの果ての現在は、ここからまた多様性が生み出される出発点かもしれない。相場全体はゼロサムゲームだが、循環的世界観とあいまって世界全体を俯瞰つつ、なおかつ新しい〝豊かさ〟が出現するかもしれないのだ。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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