社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第十五回 自己投資II――自分ちをつくる
自己投資、という言葉への異和感を語っていたのだった。異和感の根っこにあるのは、おそらく距離感だと思う。投資というのは客観的に判断して、バランスを考えて行うものだ。それに「自己」という接頭辞が付くのが、そもそも撞着している。自己は客観視できないものだし、する必要もない。自己に対してはバランスもへったくれもない。すなわち自分に対して投資をするとは変な話で、投資した瞬間、それは他者となる。自分ができることは勉強、結果としての成長だけだ。
矛盾を感じない、自身に近いものへの投資として、自宅の新築というのがある。それが投資なのかはもちろん、かなり微妙だ。あまり投資経験のない若い人などは勘違いしやすいが、投資で財を成した人たちが豪邸に住んでいるとはかぎらない。自宅は財力を誇る指標になりやすいから、それを必要とする社長さんなどは早くに豪邸を構えるけれど、投資家は一般に自宅には淡白だ。
その理由は、自宅は金を生まないからである。投資家にとってお金は種銭になり得るから魅力があるのであって、素晴らしい邸宅に住みたいという欲求は、投資への欲求に劣ると感じるだろう。不動産投資家ですら自宅は最後。いや不動産投資家だからこそ、豪邸なんて利回りゼロの物件よりも、その資金を元手に融資をひいて地方の築古アパートを四棟買って、という発想になりやすい。資産をガンガン増やしながら、古いマンションの一室に引きこもっているということもめずらしくはない。
その投資家の視野に入ってこない「自宅」に手を入れるということを、やってみた。自宅を手に入れる、ではなくて、自宅に手を入れる、だ。新築でなくリフォームに過ぎない。ただまあリノベというやつで、スケルトンにして全面新築同様にする。なぜリノベになったかというと、ずーっと手を入れずに我慢してきたからだ。やるからにはいっぺんに。あーしたい、こーもしたいと、10年もプランを温めてきた。
そうやってリノベーションしてみると、自宅に手を入れるのは、やっぱり一種の投資であるという実感がある。自宅を手に入れる(買う)となると微妙だが。なぜなら土地や物件を購入するとなると、やはり利回りの考え方が強く頭をもたげる。少なくとも何千万円を費やして月々の利回りゼロって、投資ではあり得ない、あってはならない無駄である。ご褒美と考えるしかなく、最後になるというのも当然だ。
我が家のリノベは長年計画してきて、予算もきっちりキュウキュウに煮詰めてある。実施が遅れたのは、別に事業用の工事を先に行っていたからで、それが黒字化して資金回収するまではやはり自宅に手をつける気になれなかった。ごくささやかな事業、ささやかなリノベでも実施する心理や順番は、大投資家と同じだったわけだ。そのささやかな事業用の工事で時間をかけて合い見積もりを取った結果、業者はネットで探すにかぎる、という結論に達した。人の紹介では、立派な業者は見つかっても、安い業者はなかなか見つからない。安い業者というのはもしかすると存在してなくて、比較・紹介サイトで競争させられているという意識が安い見積もりを出させているだけかもしれない。
比較・紹介サイトも難しいもので、リノベするにあたって一番名前の通ったサイトはそれこそ十何社も紹介してきたが、ひとつとして折り合いそうなところがなかった。結局、前の事業用工事で紹介を受けた、同じサイトで決まった。おそらくサイトによって掲載費や紹介マージンが異なり、それが見積もり価格に反映している。それ以上に、有名サイトで掲載費をかけても割高に受注すればよい、という発想の業者が集まるところは、まず最初から思想的にすれ違う。
腹が立つのは、こちらの予算を訊いておきながら、何週間もかけてその倍ぐらいの見積もりを出してくるところだ。無論こっちも無茶な金額を言っているわけだけれど、なんとかそれにすり合わせよう、かたちだけでも大台は揃えようという気持ちがない。そういうところは結局のところ、仕事は自分たちの都合に客をはめ込んでいくものだ、という意識なのだと思う。数字を見て接点がないなら、最初から現地見積もりに来ない、という業者の方がまだいい。少なくとも客の言葉を無視してはいない。
契約を結んだ地元業者は、最後に見積もりを持ってきたところだった。なぜ最後になったかというと、やってきた営業マンの対応に腹を立て、あそこには絶対に頼まない、と思っていたからだ。現地見積もりでメモを取るのに、そこにあった荒木さんの写真集を下敷きにしてわたしを慌てさせ、見積もりを持ってくる約束の期日を「私用で」キャンセルした。二度と来るな、と思ったわけだが、やはりそこの見積もりも見ておきたくなり、そしたら一番安かった。
頼みかけていた別の地元業者に比べて、すごく安かったわけではない。対応が気に入らないのに安いから頼むなんて、という考えは一般的には正しい。ただそこには、なんとしても客の希望価格の大台に数字を抑え込もうとする気迫があった。それができる理由は、ようするに外の職人を使わない。ほぼ身内だけでやっているという。「でなければ、価格的によそに太刀打ちできません」という。そうだろう。あのオラオラ系ホスト風コンサルの兄ちゃんに教わった通りだ。施工業者の規模と体制によって、およそ受けられない価格というものがあるのだ。
この、ちょっともたもたした建築士兼営業マンのたたずまいと会社の体制、規模感、見積もりの数字、それらが一体として腑に落ちて、決めてしまったのだった。建築士兼営業マンのTさんは実は有能な人で、建築士として集中していると周囲が見えなくなる瞬間があり、営業マンとしてどうよ、ということがあるのがわかった。でも営業マンなんかいない業者を望んでいたのは自分だった、と後から気がついたのだ。
Tさんとは長い付き合いになった。実際、それはそれは長くて、工事は3ヶ月を過ぎ、今もまだ厳密には終わってない。なんというか、いつもぎりぎりのところで最低限、終わらせる感じで進んでいく。わっと職人を投入して期限内に完了する、ということがないから仕方ないが。床張り職人だけは名人で、あっという間に、しかも上手に張り終えてしまったけれど、前後のスケジュールが空いてるから意味はない。このスピード感では苦情も出るだろう。特に事業用だとアウトだ。
ただ、その長い期間は、わたしにとっても必要だった。ウォーキングクローゼットはほしい、プラネタリウムが映るように照明はブラケット、窓は99%UVカット、と絶対のプランはあっても隅々に至るまで自分はどうしたいのか、どうするべきなのか、急いで判断を迫られるのは厳しい。腑に落ちるまで待つしかないが、ある時点からは住みながら、だんだんと発見してゆく。自分の望みと住まいの両方を、だ。
マンションの管理人はひどくうるさくて、夕方5時以降は1分たりとも作業を許さないし、出入りの職人の名前もスケジュールも覚えているぐらいだ。この管理人と喧嘩しながら、Tさんは管理人のいない土日に通って、細かい手直しをしてくれている。セキュリティ的にはありがたい管理人だが、Tさんのやり方がどうしても理解し難いらしく、「なぜスケジュールを守れないのか」と、こぼしていた。「ものをつくってるからですよ」と、わたしは答えた。
ものをつくることは、管理することとは違うし、お金を増やすこととも違う。けれど、ものがなければ管理するものもない。ものをつくればお金は一時的に減るが、つくられたものによる満足があれば、他所でお金を使うことがなくなる。住まいは自分自身ではなく、自分とは少し距離がある。距離があるから自分の望みをすっぽり包んで示すし、そこで完結して自分自身と自分の時間と資産を守る。自分ちに手を入れることは自分の時空を遡り、メンテナンスすることだ。スタンスは守りだが、大切な何かの流出を防御するという意味で、やはり投資、それこそ「自己投資」に最も近いものかもしれない。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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