20世紀の美術を代表する彫刻家の一人であるコンスタンティン・ブランクーシの生誕から、今年でちょうど140年になる。彼は1876年2月19日にルーマニアのゴルジュ県にあるホビツァという村で生まれた。ブランクーシの誕生日を前に、彼の作品が意味するものについて改めて考えてみたい。
農民の家に生まれたブランクーシは小さい頃から木彫りが得意だった。ルーマニア南部地方にあるクラヨヴァ市の工芸高等学校在学中から才能を認められ、ブカレスト美術大学に入学した。卒業後、1903年にフランスへ移住し、当時パリにあったルーマニア出身の知識人コミュニティによる支援を受けてパリの美大で彫刻の勉強を続けた。アントナン・メルシエやオーギュスト・ロダンのアトリエで一時期働いたが、1907年から自分のアトリエをモンパルナスの近くに開いた。
彫刻において鋳造が好まれ、広く使われはじめた頃でも、ブランクーシはあえて材料を彫る技術に専念した。彼の作風を代表する「眠れるミューズ」や「接吻」、「ポガニー嬢」シリーズ、ルーマニアの童話に登場する不思議な鳥をモチーフにした「マヤストラ」、それに「空間の鳥」や「魚」シリーズは早い段階から注目を集め、世界中の美術コレクションに加えられた。ブランクーシが石や木を彫って可視化しようとした存在のエッセンスは、物事の表面的な外見ではなく、そのモノを代表する「動作」だった。例えば、鳥の場合は飛翔または鳴き声、魚の場合は泳ぐことなどである。それまで彫刻では表現されて来なかった、生きとし生けるものの「天性」を彫刻によって表そうとした。
「無限柱」(トゥルグ・ジウ市、ルーマニア)
ルーマニア人にとって、トゥルグ・ジウ市の中心にある公園で見られる三部作「沈黙のテーブル」、「接吻の門」と「無限柱」は最も親しいブランクーシ作品である。この一連の作品は、第一世界大戦でジウ川周辺にある地域を守るために命を落とした兵士たちを記念するモニュメントとしてブランクーシに依頼された作品で、1938年に完成した。ブランクーシの代表的な作風を生かしながら、死と永遠の命の連続性という、ルーマニアの民族工芸でもよく見られるモチーフがこのアンサンブルの特徴である。ルーマニアの人々は、地上にしっかり根付いて空へと無限に伸びる「生命の樹」という伝説上の樹に対して、古来より特別な愛着を感じている。ブランクーシの「無限柱」は、この原型的なモチーフに沿って作られたのである。
日本ではブランクーシの作品は、ブリヂストン美術館や横浜美術館などの常設展示で見ることができる。ブリヂストン美術館のコレクションにブランクーシの作品が入っていることを知ったのは、二年ほど前に、たまたま美術館を訪れていた時だった。20世紀初め頃のヨーロッパの絵画作品に囲まれて、展示室の真ん中に白い石の彫刻があった。それは1907年から1910年の間に作られた「接吻」だった。
「接吻」(ブリヂストン美術館所蔵)
一つの石に彫られた二人の顔がピタッと合わせられて、まっすぐに見つめ合っている二人の目が、一つの目になっている作品である。その形の素朴さと、何気ないユーモアに思いがけない懐かしさのような気持を抱いた。写真でしか見たことのなかったブランクーシの「接吻」を初めて実際に見て、子供の頃家族と一緒にトゥルグ・ジウ市の公園で見た「接吻の門」を思い出した。
あの時は公園の真ん中に立つ凱旋門の形をしたそのモニュメントが、どうして「接吻の門」と呼ばれているか理解できなかった。親にタイトルの意味を聞いてみたが、親も分からなかったのか、または子供に説明するのが面倒くさかったかのかどちらかの理由で、結局は答えを知ることなくその場を離れた。しかし石彫の「接吻」を目の前にして、子供の時に見た「接吻の門」の謎がようやく解けた。「接吻」の特徴は死に対する生命の勝利を表すために、そのまま凱旋門の形に投影されたのである。
「接吻の門」(トゥルグ・ジウ市、ルーマニア)
ブランクーシの作品をブリヂストン美術館のコレクションに見つけた時、とても驚いたのだが、その理由はもちろん日本にブランクーシの作品があるということではなかった。彼の彫刻がモネ、セザンヌやクレーのような著名な画家の作品と一緒に展示されていたということでもない。ブランクーシは1903年から没年の1957年までずっとパリに住みながら活動しており、エズラ・パウンド、エリック・サティ、マルセル・デュシャンやジェイムス・ジョイスのような人々と交流があった。ブランクーシは、近代の美術と思想を作り上げてきた巨匠たちの一人なのである。
私が驚いたのは、モネやクレーなどの絵に囲まれて、展示室の中に「実家」を思い出させてくれる石があるということだった。ルーマニア工芸の素朴さと温かさのオーラを放つブランクーシの作品は、ルーマニア人の私にとって親しみやすく、懐かしい感じがした。ホームシックになったら、いつでもこの石を見に来て、この素朴さに元気をもらおうとさえ思った。
ただブランクーシの作品が連想させる「実家」は、個人を超えた人類全体に及ぶ次元をも有している。人々の心に自然な安らぎと喜びをもたらすブランクーシ作品は、地上に生まれてきた全ての人間の「実家」である原点のようなものを示唆しているのである。ブランクーシの作品が意味しているものを把握するためには、鑑賞者は人類の記憶、いや、生命体と非生命を含む全宇宙の記憶を自分の中でよみがえらせる必要があるだろう。
後で知ったのだが、ブランクーシと日本とのもう一つの繋がりは彫刻家のイサム・ノグチである。ブランクーシは生涯に、全部で15人の助手を自分のアトリエに受け入れた。その中の14人はブランクーシと同じルーマニア出身の人だった。ルーマニア人ではなかった唯一の人がイサム・ノグチだった。
ノグチは1926年にニューヨークで初めてブランクーシの展覧会を見て、そのヴィジョンに刺激を受けたと日記(“Isamu Noguchi, a sculptor’s world”)に書いている。翌年奨学金を得てパリに留学したノグチはブランクーシに紹介され、彼のアトリエで働き始めた。ブランクーシは英語が話せず、ノグチもフランス語が片言しかできなかったので、彼らのコミュニケーションは言葉ではなく、目や仕草、そして素材と動作で行われたそうだ。ノグチの日記によると、師匠としてのブランクーシは助手たちに何よりもまず集中力を求めたのだという。仕事に集中することや道具の使い方へのこだわりは、日本の木工職人の魂と通じるものがあるのではないかと思う。
「空間の鳥」(横浜美術館所蔵)
ブランクーシ作品が世界中で好まれているのは、原型や誰にも通じるようなシンボルで話しかけるこの作品たちが、人間について何かとても大切なことを表しているからだと思う。横浜美術館のコレクションにある「空間の鳥」という作品はその良い例である。「鳥」の真髄は「飛ぶこと」だという発想に基づいて作られたシリーズだが、人類が抱く飛翔への夢を形にした作品でもある。石を使って飛翔を表現しようと決めたブランクーシの意図もまた面白い。石という物資であり非生命でもあるものに命を吹き込もうとする試みである。
「空間の鳥」については有名なエピソードがある。この作品は1920年代にアメリカで初めて展示するために郵送されたのだが、輸入税関では美術品とみなされず、工具として税金を取られるところだった。モノの表面ではなく、その内面を表現する彫刻がどれほど新しい芸術だったのかを語るエピソードである。しかしこの取り間違えは故無きことではない。「空間の鳥」という作品を工具類と間違えずに、羽か鳥であり、飛翔を意味するものだと理解するのはそんなに簡単ではない。
そのためにはおそらく、私たち人間のDNAに保存されているであろう宇宙の記憶を辿るしかない。私たちはモノの正しい見方を教えてくれる生来の素質を持っているはずである。それは人類が鳥や石などと共有している何かにつながっている。そのような素質を取り戻すためには、ブランクーシのような人間なら誰しも読み取れるシンプルで本質的な形の作品を目印に、心の目で世界を純粋な姿勢で見つめ直し、努力を惜しまずモノの見方を磨き続けるしかないだろう。
ラモーナ ツァラヌ
*「無限柱」、「接吻の門」と「沈黙のテーブル」の写真はCentrul Brancusiのホームページでご覧いただけます。
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