東京復活大聖堂(ニコライ堂)
年末年始はキリスト教ではいくつかの大事な祭日が連続する。まずはクリスマス(キリストの誕生を祝う日)があり、25日から27日の三日間教会では礼拝が行われている。次に1月1日は聖バシレイオスの日で、特に正教会では大事にされている祭日である。お正月はキリスト教会では正式に祝日ではないが、大晦日の夜は礼拝を行う教会が多く、お祈りをしながら新年を迎えるキリスト教徒も少なくない。
その後は1月6日のイエスの洗礼を祝う日で、これも大事に守られている祭日である。キリスト教徒はこの日に教会で聖水を求め、礼拝の後聖水を一口飲むと、新しく始まった年に健康でいられると思われている。また12月25日から1月6日の期間中は町の教会で奉仕する神父たちが教徒の家を訪れ、聖水を撒くことでみんなの家を清める。
東欧の正教会では古儀式派も存在しており、ルーマニアでも少数だが、古儀式派の教会がある。17世紀にロシア正教から分離したこの派は、信仰や儀式の内容から見れば主流と大きく異なることはないが、一般的に使われているグレゴリオ暦を用いず、奉神礼を行う際はユリウス暦を使用している。そのため、古儀式派の教徒はクリスマスを1月7日に祝い、イエスの洗礼を1月19日に祝うのである。これはつまり古儀式派の友人がいる場合、クリスマスを二回祝うことができるという贅沢に恵まれているわけである。
大事な祝祭日が続く期間だったということもあって、教会に行きたい気持ちになり、クリスマスの後の日曜日に東京復活大聖堂の礼拝に行った。クリスマスの晴れ晴れしい雰囲気がまだ漂うニコライ堂は人でいっぱいで、温かかった。毎週日曜日の礼拝で互いに会う人たちの連帯感が空気に染み渡っていて、めったに行かない私にも伝わってくる。昔通っていた地元の教会を思い出した。教会はコミュニティを象徴し、礼拝に参加するのはそのコミュニティに所属することを意味していると、はじめて意識した頃の思い出が一瞬よみがえった。
その雰囲気だけではなく、ここで日本語と英語で聴ける福音の言葉、そして聖堂の内壁を飾る聖人たちのイコンが生み出す空間は懐かしい感じがした。イコンの前で足を止めてそこに描かれている聖人に心の中でご挨拶するのだが、聖人たちの眼差しは、長い間ご無沙汰している私を咎めず、それどころか、子供の頃見ていたイコンの聖人たちと同じような温かい表情をしていた。この懐かしい気持ちの波は、正直に言えば、予想外だった。
日曜日の礼拝に参加しに行ったのは本当に久しぶりだった。この日のことを電話で話した時、母は大いに喜んだ。あまり長く続く教会離れの生活をいつも心配してくれる。キリスト教徒にとっては教会で行われている行事をきちんと守ること、そして教会で奉仕する神父の話しを聞きに行くことは大事とされるのである。
日本に住んでいるから定期的に教会に行けないと言ったら、これはただの言い訳になる。御茶ノ水駅の近くにニコライ堂があって、実に通いやすい。私の教会離れの理由は別にある。ルーマニア人の日常生活においては教会という施設はあまりにも大きい存在になりがちだからこそ、ある時から教会に対してちょっとした反抗期にいるのだ。
「反抗期」という言葉はぴったりだと思う。元々は素直に受け入れていた存在に対して一時期的に逆らうことを示しているこの言葉は、決して縁を切るという意味ではない。幼児の頃まで遡る長い付き合いで、よほど親しく感じる存在でなければ、「反抗」ということはあり得ない。
本当は、たくさんのルーマニア人と同様、信仰関連のことを大切にしている。歴史の中でも現在でも、宗教と国家が深い関係にある場合が多く、宗教は人のアイデンティティーの一部である。ルーマニア国民の場合もそうだと思う。何世紀にわたって周りの大国による侵略に対抗するたびに、国を守るというのは、神様のお助けにより国を守るということであり、信仰と愛国心はほぼ同意語だった。人々は政治的に不安定な時も、貧しさによって苦しんだ時期も、キリスト教の教えに大事な心の支えを見つけた。
戦後から25年前まで続いた共産主義の時代には宗教的な行いは禁止されており、キリスト教に基づいた哲学論によって人々の自由な思想を促そうとした作家や哲学者たちは牢獄に入れられた。しかし人は代々受け継がれた信仰を捨てず、田舎の方では祝祭日を守って教会に通い、秘密で洗礼式、結婚式や葬式などのような儀式を教会で行っていた。このような抑制の歴史もあって、1989年の政治的革命は、ルーマニアの人にとって大切な宗教行事の自由の獲得にもなった。
しかしその自由が当たり前になった時から、人が教会を頼りにしすぎる傾向が見られる。自分で行動し自分の頭で考えるよりも、何でも神様にお任せにする姿勢には問題があると思う。特に道徳意識が数百年前と同じように教会や宗教的教育によって育まれていることに対しては、違和感がある。
一般教育を受けた人間は善悪を自分で分別できると信じたい。キリスト教の教えが果たす役割を理解した上で、その教えを自分のものとして、自分で判断できるようになればいいと思う。現代ルーマニアの教会は、人が自分と神様という存在との関係を自由に考えることを肯定的に思わない傾向があり、または他の宗教に対して閉鎖的な態度を示している。それに対する抵抗感が原因で、私のように教会離れになる人が少なくない。
キリスト教の思想の中で特に気に入っている考えがあって、それは人間が神様の子供だという論である。神様の子といえばイエス・キリストが思い浮かぶのだが、人類史上で彼一人が本当の意味での人間であり、他の人類は「人間未満」だという考え方である。キリストの時代以後に生まれた人は、自分を高める日々の努力によって本物の「人間」に近い状態に至ることができるという説でもある。
これは子供の状態から大人に成長していく過程にとても似ていると思う。人は大人になってはじめて自分の親と一対一で対等に話しができる。親は一生懸命大人になろうとする子供の成長を楽しみにしているはずである。そして自分の子供が大人になったと気付けば誰もが喜ぶだろう。しかし子供が独立したとしても、親たる者はたまに頼りにされるのを喜ぶはずである。何かを自分で解決しようとあらゆる手段を試してから、結局親に相談することもあるわけで、相談される側も嬉しく思うだろう。また別に頼み事がなくても、たまに顔を見せて一緒にご飯を食べるくらいでも、親は喜ぶ。
この間久しぶりに教会に行って、少しだけ実家に帰ったような気分になった。特に用事がなくても行ってもいい場所、気を遣う必要がない場所、何も恐れずに少し休める場所のように感じた。どんなに意地を張っても、自分を咎めず迎えてくれる親のような存在があそこにいる気もした。今日は家に体を休めに来たが、明日はまた自分の道を進んで行くだろうと、わざわざ説明しなくても分かってくれる存在だ。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■