小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第 017 回) をアップしましたぁ。小原さん、『ネットはリンクで繋がって、始まりも終わりもない、無時間的な広がりそのもの』 と書いておられます。その通りですが、ネット社会になったからと言って人間の時間が変わるわけではありません。ぽやぽやしていると、すぐに半年一年が経ってしまう。小原さんの 『文学とセクシュアリティー』 はもう 17 回目で、ゆうに 300 枚を超えたんぢゃないかな。一気に書き下ろすのもいいですが、文学金魚に連載してコツコツ仕事を積み上げていくのもいいと思います。光陰矢のごとしですから、きちんと連載し続ければすぐに仕事がまとまります (笑)。
そんで今回は 『初音』 の巻です。小原さんの、事件が起こらない 『初音』 の読解は面白いですね。『 「初音」 の描き出すお正月の素晴らしさは、お道具などの具体的な 「物」、女性たちの具体的な 「魅力」 を列挙することで示されています。そして言うまでもなく、それらは名詞を中心とした 「言葉」 です』 と書いておられる。つまり 『初音』 は記号化された日本文化を楽しむための巻です。紫が生きた時代は 『古今集』 と 『新古今集』 の間の和歌全盛期です。記号によって文化を感受する精神基盤ができあがっていた。言葉によってまざまざと色や匂いを想起して、具体的なその手触りを感受する心性ができあがっていたわけです。
小原さんは 『日本の世界観を形成するもう一つの本質としての 「四季」 』 を挙げておられます。これも重要ですねぇ。ものすごく単純化すれば、物語は主人公の 〝時間〟 と 〝空間〟 から構成されます。時間を 〝季語〟 で表象させれば、あとは空間表現を行えばいい。短い文字数の和歌 (短歌) が物語の母胎になった要因がこのあたりにありそうです。でも現代短歌では季語は歌に含めなくていいルールになっている。季語をうるさく言うのは室町時代に成立した俳句の方です。後発の俳句の方が古代的心性を保持しているわけです。短歌は時代によって変化し続けているとも言えますし、物語や俳句にその本質を譲り渡したとも言えそうです。
■ 小原眞紀子 連載評論 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第 017 回) ■