小原眞紀子さんの 『文学とセクシュアリティー現代に読む源氏物語 (第013回) 「絵合」 あるいはジャンルの掟について』 をアップしましたぁ。『源氏物語』 の 〝物語批判〟 的要素を論じておられます。物語批判とは 『物語の中で物語が批判されるという構造』 であり、ポストモダニズム文学ではおなじみの概念です。もちろん紫がポストモダニズム思想を知っていたわけがないので、これは日本あるいは東洋文学に古代から存在していた概念 (思想) です。日本 (東洋) 文学は本来的にポストモダン的であった (西欧と比較すればという話ですが) と言ってもいいかと思います。
ヨーロッパ文学 (思想) は基本的にプラトンのイデア論の流れの上にあります。〝イデア=世界の絶対本質〟 から世界内要素が生成されるという考え方です。このイデア論がキリスト教 (セム一神教) 的心性と極めて相性がいいことは言うまでもありません。ただイデアは絶対本質でありながら、あるいは絶対本質であるがゆえに、その本体を措定 (規定・描写) できない。発想を逆転させて、イデアは存在しないと仮定 (イデア論も非イデア論も仮定的理論です) することからポストモダニズム思想が生まれてきたと言えます。つまり西洋はイデア論の源流を保持したまま、東洋的非イデア論をもその思想圏内に取り込もうとしているわけです。
以上の整理は非常に簡単ですが、大筋では間違っていないと思います。この整理を前提とすれば、現在文壇で実践されている前衛的ポストモダニズム小説が、いかに底の浅い作品に過ぎないかがわかるはずです。それはあいもかわらず、ヨーロッパ文学・思想を規範として仰ぎ見る文化的後進国の試みでしかありません。まず足元の地盤を確認した方がいい。そのためのテキストとして、小原さんの 『文学とセクシュアリティー』 はうってつけだと思います (笑)。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー現代に読む源氏物語 (第013回) 「絵合」あるいはジャンルの掟について』 ■