三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
しばらく顔を出さないうちに稲垣さんの店はかなり雰囲気が変わっていた。昔は白を基調とした明るい内装だったが、今は黒一色に必要最低限の間接照明と小さな音のジャズ。八席あったテーブル席は半分に削られていた。これくらい贅沢に空間を使うと、客もかなりゆったりできるだろう。カウンターの椅子の数も、俺が働いていた頃と較べて二、三脚少ない。尋ねる前から「客層だよ」と稲垣さんは表の看板に灯りを点けながら答える。時間は六時三十五分。五分遅れの開店だ。
「気付けば若い客が減っててさ、それで変えていったんだ」
「結構贅沢にスペース使ってますね」
「その代わり、ほら」
手渡されたメニューに記された料理は当時のままだが、価格が二割ほど高くなっている。量は増やしてないからな、と稲垣さんがカウンター越しにビールを出してくれた。
「年輩の人ってあまり食わないからさ」
「ああ」
「お上品にちょこんと盛り付けた方が喜ぶんだよ」
カウンターの中で働く稲垣さんを見るのは久しぶりだ。自分が客の立場では初めてかもしれない。約七年間、俺はこの店で働いた。色々あった。あの時期は毎日が濃密だった。若かったから、ではない。モノを知らなかったからだ。井の中の蛙、お山の大将、鳥なき里の……何だっけ。当時はまだ世間の輪郭すら捉えていなかった。稲垣さんも俺と同じだったんだろうか。訊いてみようとした瞬間、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
「よう、後でひとり来るから三人ね」
「はい、ではお好きな席にどうぞ」
年の頃、五十代後半といった感じの男性二人。背広姿ということは会社帰りかもしれない。
「ビールでよろしいですか?」
「いや、今日はね……」
そう言ってメニューに目を通した後、「ごめん、やっぱりビールにするわ」と頭を掻いた。連れの男性も「ごめんね、マスター」と笑っている。きっと常連だろう。ちらりと確認したが見覚えのない顔だった。当然だ。もうこの店を辞めてから二年半。当時の常連の様子を尋ねたかったが我慢した。何というか、過去を懐かしがっているように見られたくなかった。我ながら下らない見栄だと思う。
約束の時間は七時。老人の家に行って食事を作る、という仕事の依頼主がもうすぐ来る。赤坂のクラブのママさんらしい。「店が終わってからさ、お客さんや雇っている女の子を連れてきてくれるんだよ」という稲垣さんに、どれくらいのペースかと尋ねると「多いと週二だな」と答えた。それは上客だ。
「やっぱりその仕事、受けた方がいいですかね」
「いや、お前次第だよ」
「はあ」
「別に、俺には何の利害もないからさ」
稲垣さんの言葉、というか声色を聞きながらふと思った。話だけでもと呼び出したのは、実はお得意様云々という事情ではなく、一日でも早く俺に仕事をさせたいからではないだろうか?
一杯目のビールを飲み終わった頃、その依頼主は現れた。細身のジーンズに黒のタートルネック。そこへ絡みつくように鮮やかな深紅のマフラー。赤坂のママ、というイメージとは少し違う。てっきり和装で初老の女性だと思っていた。ハスキーな声で「これ、ここに置いてて大丈夫よね?」と綺麗な深緑のジャケットを椅子に置く。
「すいません、待たせちゃいましたね」
年齢は四十代後半に見える。出されたビールを一気に半分ほど飲み、彼女は俺に名刺を渡した。株式会社キタザワプラン代表取締役・北澤貴美子。
「すいません、今、名刺がなくて」
「うん、事情はマスターから聞いてるわ。あ、こっちが店のね」
差し出されたもう一枚の名刺は、ピンク地に金文字の派手なデザインだった。店の名前は「フルール・フルール」。もしよかったら遊びにいらして、とよそゆきの声を出す彼女を「座って十万円でしたっけ?」と稲垣さんが茶化す。この調子だと、いきなり本題という雰囲気にはならないようだ。俺は肩の力を少し抜いた。
景気の話、天気の話、年を取ったという話。ウォーミングアップさながらに俺たちは喋った。そして三十分ほど経った頃、彼女はさらりと本題に入った。料理を作ってほしいという老人の人となりを少しずつ言葉にしていく。
「そうね、彼は毎日通うとかね、そういうお客さんじゃないのよ、多くて週一くらいかな」
座って十万円は大袈裟にしても、赤坂のクラブに通う老人というのはどんなタイプなんだろう。ストレートに尋ねてみる。
「おいくつくらいの方なんですか?」
「うーん、さすがに直接訊いたことはないけど七十はいってるかなあ、って感じかしら」
七十か。俺の両親より年上だ。相当ヒマなのか、スケベなのか、それとも両方か。きっかけを訊くと貴美子ママは「なんだったかしら」と考えながら再びビールを頼む。俺のジョッキにはまだ半分ほど残っていたが、稲垣さんが注ぎたてをドスンと置いた。まあ飲め、という表情。どうも、小さく頭を下げる。
「他のお客さんに連れられて来たのよ、最初はね。そしたら気にいってくれたみたいで、次からはひとりで来るようになったのよ」
「ひとり、ですか」
「うん、たまにはお友達とも来るけど、ほとんどひとりね」
頭に背の高い老紳士を思い浮かべてみる。頭にソフトハットを乗せて、貴美子ママのような真紅のマフラー、右手にはステッキを持たせた。そして煙草を吸わせてみる。左手で炎を覆うようにして火を点けるその仕草は、板前だった祖父のものだ。まだ小さかった頃、一緒に近所を散歩したり、バスで街へ出かける際、彼はパーティーに出席するような洒落た格好をしていた。あと覚えているのは香水の匂い。普段とのギャップをみんなはからかっていたけれど、俺はそんな祖父と手をつないで出かけるのがとても好きだった。
中でも気に入っていた場所は港。白い軽トラックの震動と、近づくにつれ耳や鼻を刺激する港の気配は今も鮮やかに思い出せる。大抵出かけるのは昼前。早朝の喧騒が少し落ち着いた市場や、漁船が連なって停泊する岸壁で、声を掛けたり掛けられたりする祖父は格好よかった。そして職業柄、いつもガサガサしていた大きな手は頼もしかった。確かにあの田舎くさい風景とソフトハットはちぐはぐだったかもしれないが、一緒に歩いていた時の晴れがましい気持ちは忘れられない。俺が高校生の頃、彼は癌で亡くなった。
「でね、別に毎日料理を作ってほしいってわけじゃないのよ」
いよいよ本題に入った。軽く背筋を伸ばす。
「ひとり暮らしでね、そりゃ今はスーパーやコンビニでそれなりに美味しい物は売ってるけど、やっぱりそれだとイヤなんだって」
その気持ちは分かる。俺もカップラーメンとスナック菓子はイヤだ。別に味の話ではない。
「でももう歳だからさ、毎日外出するわけにもいかないしね」
「じゃ、今は……」
「半分外食、半分スーパーって言ってたわ」
なんだかその老人が気の毒になってきた。もう頭の中では、祖父と同一化し始めている彼に、そんな寂しい思いをさせてはいけないような気さえする。
「だからたとえばさ、一日おきで家に行ってね、次の日の分まで作ってあげればベストなんじゃないかしら」
「ギャラはどれくらいなんですかね?」
稲垣さんが尋ねる。気を遣ってくれたのだろう。目で礼を言う。
「たしか一回一万って言ってたけど、細かくは分かんないわ」
一回一万円。それが本当なら悪くない話だ。月の半分を引き受けるとして、残りの日に他の仕事を入れれば、充分に生活は成り立つ。親から借りた五十万も少しずつなら返していける。
「食材買う金とかは別なんですよね?」
「そりゃそうなんじゃないの」
「で、作る日は朝からずっと行ってるんですかね?」
「いや、そこまで聞いてないけどさ」
そんな彼女と稲垣さんのやり取りを聞きながら、俺はその老人に会ってみてもいいなと思った。
「どうするよ?」
これ以上尋ねても情報は出てこないと踏んだのか、稲垣さんが俺に話を振る。
「そうですね……」
「ね、会うだけ会ってみない?」
「そう、ですよね……」
「ね、そうしましょうよ」
「はあ……」
「よし、決まりね。来週って予定どうなの?」
「大丈夫ですよ、どうせ無職なんですから」
稲垣さんが代わりに答えて「そっか」と彼女が笑う。俺もつられて笑った。口調とは裏腹に気持ちが傾いているという自覚はある。
「じゃ、とりあえず商談成立寸前ってことで乾杯ね」
三人で乾杯をした後、ふと稲垣さんが尋ねる。
「ところで、その人って今お仕事は……」
「多分してないんじゃないかな」
「じゃ、元々お金持ちってことなんですかね」
「いや、うーん……」
少し歯切れが悪くなった彼女に、俺も稲垣さんも視線を投げる。
「ま、あくまでも噂なんだけどね……」
「え? なんですか? なんかヤバい人ってことですか?」
「いや、うーん……、というか……」
彼女が俺を見る。別に平気ですよ、という感じで頷いてみせた。
「あのね、彼にはあだ名があるのよ」
「あだ名?」
「そう。一緒に来るお客さんがこっそり教えてくれたんだけどね」
俺も稲垣さんも黙って耳を傾けている。
「ドロマンジ、っていうの」
「?」
「泥だらけの『泥』に、お寺の記号の『卍』」彼女は宙に指を走らせた。「分かる? こういう形の」
「なんかプロレスの技みたいですね」
そんな稲垣さんの軽口に彼女は難しい表情を崩さない。
「で、この『卍』が彫ってあるらしいのよ」
「……刺青、ですか」
「うん。まあ、実際に見た人はいないらしいんだけどね」
「その年代の人の刺青はファッションじゃないよなあ……。ヤクザなんですかね?」
声を潜めた稲垣さんの顔を見ながら、ヤクザの料理番になる自分を想像してみる。それは悪いものではなかった。いや、むしろワクワクしていた。俺は京都に行けなくなったあの日からずっと「兆し」を求めている。そして、この話はおあつらえ向きだ。
「うん、ヤクザっていうかね」心なしか彼女のハスキーな声も小さくなっている。「昔、殺し屋だったらしいのよ」
俺と稲垣さんは思わず顔を見合わせ、貴美子ママは「だから噂よお」と大袈裟に顔をしかめてみせた。
(第06回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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