学園祭のビューティーコンテストがフェミニスト女子学生たちによって占拠された。しかしアイドル女子学生3人によってビューティーコンテストがさらにジャックされてしまう。彼女たちは宣言した。「あらゆる制限を取り払って真の美を競い合う〝ビューチーコンテストオ!〟を開催します!」と。審判に指名されたのは地味で目立たない僕。真の美とは何か、それをジャッジすることなどできるのだろうか・・・。
恐ろしくて艶めかしく、ちょっとユーモラスな『幸福のゾンビ』(金魚屋刊)の作家による待望の新連載小説!
by 金魚屋編集部
九、審判(後編)
「ふーん」
「へえ」
「そうなんだ」
なんとなくしらけムードのなか、あんまり有名でもなんでもないパリスが呼び寄せられて、黄金の林檎をかけた最高の美女の審判が行われることになった、とまあそういう逸話なわけ。
「ふーん」
「へえ」
「そうなんだ」
長きにわたり、あちこちに脱線したムダの多い稗田の説明が終わった。会場からはあまり気のない納得の言葉があがった。
「そもそものオリジナルが、地味な奴だったんだね」
「神話のレベルでそれなんだから、やむをえないかあ」
「しっかし、ゼウスもまあ物好きっていうかねえ」
いずれにせよ、こうして会場の客たちは、ぼくが審判役となることをなんとなくではあるし、不承不承ではあるし、なんとなく判然としない思いを抱きながらではあるものの了解してくれたとまあこういう次第だった。
とはいえ、記憶の伝承者の子孫である稗田亜礼であるから、彼のトークはこんな挿話で終わったりはしなかった。
「はい、パリスの審判についての豆知識の仕込みが終わったところで、話をここにいる針巣君に戻りましょう。さっきは小学校時代の思い出について語ったわけですが、まだ続きがあるんです。どうかどなたさまも、お聞きくださいますよう。
さて、時間は飛んで高校時代のバレーボール大会でのことです。各クラスがそれぞれの試合に審判を出すことになっていました。僕達のクラスは決勝まで進み、そのときの線審がイチロー君だったのです。ぼくたちは心密かに思いました。
「これはチャンスだ。偶然とはいえ、同じクラスの仲間が審判に入っている。このラインの紛らわしいボールにはすべて、こちらに有利な審判がなされるだろう」
でも、それは大きな間違いでした。イチロー君はどこまでも公明正大、どちらに肩入れすることもないすがすがしいまでの線審ぶりを発揮しました。
そして訪れた最後の瞬間。相手のスパイクがラインぎりぎりに決まりました。角度によっては「アウト」の判定も十分あり得ます。そうなれば、ぼくたちのチームの勝利が約束されていたわけです。でも、イチロー君は「イン」の判定を下しました。

「なんだよ、針巣のやつ。あれはアウトだろうが」
文句をいう友達もいました。その友達の居た位置からは、明らかにアウトに見えたのでしょう。
「クラスを裏切るのかよ」
などという声も上がりました。
「残念だけど、ライン上だったよ。ごめんね」
イチローはそう答えました。淡々と、ごく当たり前のことのように。実際、物言いがついたものの、記録のために回されていた学校のビデオカメラと、他の父兄が取っていた私的な記録用ビデオの二つを検証した結果、やはりラインにボールが触れていたことが明らかになりました。
実はイチローのこの公正無私な態度は、この時だけのものだったのではありません。幼稚園時代から、なにかというとイチローは、みんなから審判役を頼まれることが多かったのです。
「ああ、そういえば」
とぼくはその瞬間思い出したのです。
「幼稚園の時に、アワちゃん、フクちゃん、クロちゃんにいっつも審判頼まれてたよなあって。
『ねえ、イチローくん、誰が一番走るの速いか見てて』
『三人のなかで一番背が高いのは誰?』
『誰が一番たくさんお花摘んだと思う?』
などなどことある毎に三人は競い合い、そしてその判定をイチローに依頼していたのでした。
『ねえ、アワちゃん。今日はぼくが見てあげるよ』
なんて、子供心にちょっと嫉妬したぼくが申し出たことがありました。
『だめよ』
アワちゃんだけじゃなく、フクちゃん、クロちゃんの三人がいっせいに声を上げました。
『これは決まってることなの。決めるのはいつもイチロー君って決まってるんだから』
『なんで?』
『なんでって? そんなのわかんない。わたしたち子供だもん。でもね、わかるのよ、決めるのはイチロー君の役目って』
『わかんないな』
『わかんないわよ、わたしたちにだって。でも、決めるのがイチロー君って決まってるの。決まってるものは決まってるの』
理屈に合わないというか、理屈になってませんよね。でも、そういう物言いにこそもっと大きな理屈の答えが隠れているというわけなのです。
そんなイチロー君が、幼稚園時代に審判を頼まれたものの、答えを保留してしまったのが、年長さんの時に出されたあの質問だったのです。
『ねえ、イチロー君。わたしたちビューチーコンテストオやってるの』
『ビューチーコンテストオ?』
『そうよ、ビューチーっていうのは、キレイっていう意味』
『そしてコンテストオはくらべっこよ』
『ふうん』
『だから、お願い』
『え、何を?』
『決めてよ』
『誰が一番ビューチーかしら?』
『わたしたちのなかで誰が一番キレイだと思う?』
『ええっ』
イチロー君は心底困った表情になりました。
『それは難しいなあ。だってさ、キレイってそもそも何なの?』
『わかんないけど、キレイはキレイよ』
『かわいいもキレイかな』
『すてきもキレイだよね』
三人が口々にいいつのります。
『そういう意味じゃあ、三人ともキレイだよ』
『そんなの当たり前じゃない』
『そうよ』
『それじゃダメなの。わたしたち一番を決めたいのよ』
イチロー君は正直に答えたのだと思うのですが、三人は納得しませんでした。
『むつかしいなあ。っていうかわかんないよ』
『わかんなくても、決めてよ』

三人に強引に迫られたイチロー君は困り顔。
『ちょっと待ってくれる?』
『明日まで?』
『ううん、もうちょっと』
『卒園まで?』
『ううん、もうちょっと』
『ええ、いったいどれくらいよ』
『十年、いや十五年かな』
『そんなにかかるの?』
『うん、かかるよ』
『どうして?』
『三人ともキレイだから決めれないんだよ。これからどんな風に育ってくか見てからじゃないとね』
『あらあ』
『ってことはあ』
『あたしたち、これから』
三人がいっせいに言いました。
『手をぬけないってことね』
『うん、そういうこと』
そのときは、うまいこと逃げたなってぼくは思ったものです。だって、女の子に対して、キレイさで上下をつけたら、絶対角が立つ。禍根が残る。恨みを買う。子供ながらにそのことに気づいたイチローは、もう二度と会わない可能性、あるいは三人全員が揃う可能性が低い十五年後に判定の日をずらすことで、やっかいな問から逃れようとしたわけです。というか、常に誠心誠意マジメな審判者であるイチロー君の性格を考えると、ほんとうにそれだけの年月が必要だと考えた可能性もありますね。
それからも、わたしは常にイチロー君の周囲におりました。まるでイチロー君の周りを回る惑星、あるいは月のように、いつもイチロー君について回ったわけです。中学でも、そしてさきほどお話ししたように高校でも、イチロー君は常にまわりから信頼され、いろいろな判定役をまかされてきました。私情をいっさい挟まない公明正大な審判者イチローのイメージは、わたしのなかで確固たるものとなっていきました。
わたしが大学に入ってミスコンサークルに入ったのにはもちろん理由がありました。こういう本来決められないものを決めるイベント、必ずや物議を醸す審判行事に関わることで、イチロー君のなかのなにかが動くのではないか、なにかが発動する契機が得られるのではないかという予感があったのです。いえ、ほんとのところはそんな風に理性的に考えたわけではありません。なんとなくです。なんとなく、このサークルだってピンときたんですよね。ここにいれば、なにかが起こる。自分にじゃなくて、針巣一郎君に訪れるべきものが訪れるって、そんな予感がしたんですよ。
もちろん一郎君は、
「ええっ、ぼくはイヤだな。そういうサークルに入りたいなんて全然思わないんだけど」
って逃げようとしたけど、
「いいよいいよ、裏方でいいから」
強引に誘って、いっしょに入部を果たしたわけです。とはいえ、一年目も去年も特になにも起こりませんでした。フェミニズム団体からの抗議は年々激しさを増しましたが、今年のように開催を阻止するまでには至りませんでした。あまりに何も起こらないので、わたしとしても自分の直感に多少の疑念を抱いたものでした。しかし、ぼくたちが成人式を迎えた今年、ついにそれは発動したのです。そう、みなさんもご覧になったはず、すべては針巣一郎君の存在のおかげなのです。彼が十五年前にした約束の履行を求めるかたちで、今日のこのページェントが実現したわけです。やはり、彼は持っていた。イチロー君という存在こそが今日この日をもたらしたわけです。
さあ、語っていただきましょう。
それでは、あの三美神、あるいはもっと大きな力から本日の審判役を委ねられた針巣一郎君、本日の判定をお願いします。いかがでしょうか? 本日参加された都合三十組の出場者のなかから、君の類い希なる公平性、いかなる賄賂をもいかなる誘惑をもいかなるしがらみをもはねのける、その絶大なる無私性において、選び出された本日の勝者は果たして誰なのでしょうかぁぁぁぁ?」
稗田亜礼の言動に煽られた会場の目がいっせいにぼくを見た。
ええっ、勘弁してよ。やめてよ。そんな。
ぼくはひたすら当惑した。逃げたかった。そんな大役を何でぼくが。どうしてぼくみたいななんでもない人間にそんな難題を押し付けようとするんだ。ぼくは逃げ腰及び腰屁っ放り腰だった。今すぐにもこの場を逃げ出したかった。エヴァンゲリオンの碇シンジ的な気分だった。
でも、ちょうどシンジ君がエヴァとシンクロする瞬間のような奇妙な符合感が突如としてぼくを捉えた。何か大きなうねりが、僕を包み込んだ。そんな気がした。錯覚かと思ったけど錯覚じゃなかった。
どういえばいいんでだろう。そうだな、ぼくのなかからなにかが立ち上がった。ぼくが立ち上がったわけじゃない。ぼくのなかになにかが立ち上がり、その力が現実にぼくを立ち上がらせた。

「みなさん。たったいまご紹介にあずかりました、針巣一郎です」
堂々と喋っていた。誰が? ぼくが? え、ほんとうにぼくが? それはぼくではないぼく、ぼくの知らないぼく、ぼくではないようなぼくだった。
「皆さんお気づきのごとく、本日のすべての出場者には神話的な力が作用しています。日本の、ギリシャの、北欧の、アフリカの、アジアの、オセアニアの、世界中のいたるところから、それぞれの地域の神話を体現した人々が現れ、そのカリスマ的な美を披露してくれました。そんななかで見るならば、わたしの存在の意味も相対化されざるをえませんよね。
おわかりでしょう? わたしは針巣一郎、つまりは、ギリシャ神話の三美神の争いにおいて、神々の王ゼウスより、審判役として招聘された一介の羊飼いであったハリスの力を受け継いでいるわけです。
ご存じのように、神話においてハリスは、三人の美神からそれぞれ賄賂を受け取り、最終的にアフロディテに軍配をあげる事によってトロイア戦争を引き起こした張本人ともなりました。そのことをハリスはどんなに後悔したことでしょう。
そして、現在の多文化、多神話の共存時代において、かつて代表的な神話として世界で楽しまれていたギリシャ神話の価値はとっくに相対化されています。ギリシャ神話という神話そのものが、ギリシャ固有のものではなく、当時の諸文化の衝突、干渉、包含、征服といった歴史的事象を背景としてアフリカからヨーロッパ、そしてオリエントにいたるさまざまな文化の混淆体としてできあがったぎくしゃくした寄せ集め、つまりはブリコラージュに過ぎないことが今日では明らかになっています。
つまりなにが言いたいのかといえば、果てしなく解体され、分解され、多様化し、それゆえに生命力に溢れたこの現代世界において、かつて過った判断を下した、地中海地方の一羊飼いの審判になど、なんの効力もないということです」
語るほどに、ぼくの内側から立ち現れてきたものが、ぼくに近づいてきた。そうだった、とぼくは気付き始めていた。ぼくはこれなんだ。これがぼくなんだ。ぼくはほんとうのぼくをずっと抑圧してきた。あるいは眠らせつづけてきたんだと了解し始めていた。そして、今日この時を待って、今日この時をもって、ぼくはもうひとつのぼく、これまでないものとしてきたぼく、あたかもないものであるかのように扱ってきたぼくとひとつになろうとしていた。本来の、もともとのぼくが、長い年月を経てふたたびここに蘇ろうとしていた。ただし、それはオリジナルのぼくではなかった。この現代を生きてきたぼくとの融合体、調和体としての新しいぼくなのだ。無意識裡に沈めていたぼくが、意識界の、いま、ここを生きているぼくといまひとつになろうとしていた。
「みなさん、どうか考えてみてください。ビューティーとは、美とは果たしてなんなのでしょう?
実はそれは森羅万象のもうひとつの名前にすぎないのではないでしょうか? 夕日の美しさ、満開の花の美しさ、満月の日の夜空の美しさ。凪の海の、羊が草食む丘の、少女が微笑む姿の、猫がうずくまる姿の、苔むした石が転がっている情景の、笑いこぼれる赤ん坊の、天高く登っていく歌声の、湯気を立てるできたての料理の、風になびく万国旗の、磨き上げられた鍋の、収穫されたばかりの果実の、あふれる涙の、挽き立てのコーヒーの、父の背中の、古びたドアノブの、コンクリートの隙間に咲いた雑草の花びらの、夜更けの路地裏の、夜明け前の路地裏の、朝焼けの路地裏の、どこかから聞こえてくるすすり泣きの、アジアの国で遭遇した物乞いをする子供の澄んだ目の、それと重なるように思い出される厩舎のなかの馬の目の、馬の毛の艶の、跳ねる水滴の軌跡の、砂浜に残された足跡の、丹精込めて作られた耳飾りの、大好きな映画の一シーンの、いまでも夢に見るあの懐かしい味の、今日こそ告白しようと待っている若者のはりつめた表情の、順位に関係なく最後まで走り抜いたランナーの荒い息の、自分を屠畜する作業員を見つめる従順な牛の、その額に電極を押し当てる作業員のきゅっと結ばれた唇の、皮を剥がれて吊された肉の塊の、死期を悟ってその場にうずくまる象の、あふれんばかりに空を覆う山上の星々の、そこからはらりと落ちる流れ星の、それを見つけてあわてて祈る人々の、病床で微笑むあの人の、その人を包む清潔なシーツや布団の、ベッド脇で明滅するモニターの、折りに触れて水を掛けて掃除する墓石の、墓石の脇にかってに花開いた曼珠沙華の、場違いな場所で響くコーランの詠唱の、つまづいて転ぶ人の体の動きの、水面に跳ねる魚の鰭の鋭さの、その魚を追う巨大魚の鱗のきらめきの、華麗なシュートの、鮮やかなダンクの、百五十キロを越える送球の、それを打ち返すバットのしなりの、その瞬間に湧くスタンドの熱狂の、倦むことなく時を刻みつづける時計の針の、その音に耳を澄ます夜更けの時間の、夜の内に壁に残された鮮やかな色彩のグラフィティの、大道芸人の命がけの跳躍の、恋人たちが初めて手をつなぐ瞬間のためらいの、冬の朝に呼吸とともにたちあがる白い霧の、踏みしめられた霜柱が立てる音の、あるいはそれを踏んだときの足裏の感触の、夏空にどんどん膨れあがる入道雲の、幾度も口ずさんでしまうあのメロディーの、あの歌詞の、その声の、その唇の動きの、それが呼び覚ます記憶の、たまたま開いたページに見つけた洒落たフレーズの、窓外に降る雨をじっと見つめている室内犬の、おろしたての靴を履いて歩き出す瞬間の、誰かに呼ばれて振り返る瞬間の、いらだちで殴りつづけてへこんでしまったロッカーの、そのために血が出てしまった指の関節の、その血を舐める舌先の、その目に浮かぶ涙の、その目がみつめる夜明けの太陽の、ゴミ箱を漁る烏の群れの、その烏の羽の艶やかさの、烏たちを追い立てる主婦の怒号の、その光景を静かに見つめる路上に座り込んだホームレスの、あらゆる人間的葛藤と無関係に明滅する信号の、信号に従って滑らかに流れる車の列の、その道路の中央に聳える銀杏並木の、銀杏のにおい立ちこめる秋の朝の、ビニール袋片手に銀杏を拾う人たちの、集団で帰巣する鳥の群れのざわめきの、書き損じてくしゃくしゃに丸められた紙の、そこに記された達筆な文字たちの、壊れかけて明滅を繰り返す蛍光灯の、街灯の下にうずくまる移民の家族の、ひび割れたスマートフォンのガラスの、砂場に築かれた巨大な城の、それを黙って蹴り崩す足の、ポケットに入れられた手の、流れ落ちる滝の、滝の音の、跳ねるしぶきの、岩に張り付く苔の緑の、水滴に濡れた蜘蛛の巣の、そこにぶら下がる干からびた蝶の死骸の、耳に注がれるやさしいささやきの、燃え上がる炎の、蟻の行列の、運ばれていく果実のかけらの、蟻まみれになった死にかけた蝉の、風に舞い散る桜の花びらの・・・」
どういうことだろう。ぼくの口からはとめどなく言葉が溢れつづけるのだった。これまで見てきた、いや、ぼくだけでなく、ぼくになる前のぼくが、あるいはぼく以外の誰かがみて心を動かされたもの、ぼくが、かつてのぼくが、どこかにいたぼくが、あるいはぼく以外の誰かが、ふと心動かされたもの、はっとなったもの、目や耳を奪われたものの記憶が、次から次へとあふれだしてくるのだった。
「花びらが舞い落ちた大地の、それが船になって流れる川面の、その川面ではしゃぐ子供の歓声の、それを見守る母親の微笑みの、あわてて逃げ去る赤い蟹の、寂しい夜に鳴る愛しい人からの電話の音の、寂しい夜に沈黙したままの電話の、悲しい夜に降りしきる雨の、台風で空に舞い上がる看板の、地面に捨てられた雑誌の破れたグラビアの、そのグラビア女優がみつめる電線の雀の、飛び立った雀を鷹が捉える瞬間の、職場の植え込みに見つけたヘビイチゴの鮮やかな赤色の、ヘビイチゴを摘んで食べた幼少期の記憶の、路上に散乱する割れたガラス片の、それを踏みつけた自転車の車輪が立てるパンク音の、全部録画したはずがクライマックスでテープが終わりふいに巻き戻し音が響き始める映画の、足並みが揃わないパレードの、それなのに楽器の音はみごとに調和した「錨を上げて」の勇ましさの、チアガールたちの明るい笑顔の、沿道の観客たちのざわめきの、ふいに始まるフラッシュモブによるダンスの、さっきまで隣にいたおばさんが踊り出した衝撃の、拾い上げた石に浮かび上がるありふれた模様の、模様のなかに顔に見える部分を見いだした喜びの、夏のプールから上がる嬌声の、浮き輪にまつわる思い出の、初めて舐めた海の塩辛さの、塩味以外の多くの含有物が含まれた海水の重厚さの、誰も使っていないバランスボールの、乗り捨てられたままの自転車の、サドルを盗まれた自転車の、掘り返されたアスファルトの下に現れる太い水道管の、そのまわりで久しぶりにほっと息をつく大地の吐息の、鋭く削られた鉛筆の、鉛筆の匂いが呼び覚ます小学校時代の思い出の、それに釣られて思い出すゴム消しの練り消しの香り付き消しゴムの匂いの、ノートの上に立ち現れる消しかすの群れの、アメリカの荒野を疾走するバイソンの群れの、虐殺されたバイソンの死骸の連なりの、モンティ・パイソンの秀逸なギャグの、それを見て笑い転げていたかつての恋人の、恋人が気にしていた唇の横のほくろの、同棲していた恋人がいなくなった後の部屋の空虚さの、なぜか残されてあったエプロンが思い出させるキッチンでの後ろ姿の、懐かしいその声の、バギーのなかで眠っている赤ん坊のはかない小ささの、その拳が握りしめているプラスチック製の玩具の、覗き込んで声をかける女子高生たちの歓声の、その脇を通り過ぎる三匹のチワワを連れた老夫婦の、老夫婦がちらりとバギーに向ける視線の寂しさの、プラグを差そうとしたコンセントからふいにほとばしる火花の、スイッチをひねるとボッと燃え上がるガスコンロの青白い炎の、濛々と煙を立ちこめさせながら飛び上がるロケットの発射場面の、ころんで血が出た膝小僧の、そこに消毒液を垂らされてあげる悲鳴の、大げさねえとしかる保健の先生の余裕の、いつも保健室で寝ていたクラスメイトの、そのクラスメイトが後に秘境をめぐる冒険家になったと聞いたときの驚きの、著書近影にあらわな自信への羨望の、南国のビーチで食べた大きな青い蟹の、その蟹のハサミの尋常ではない巨大さの、ニンニク味にソテーされたその身の噛み応えの、揺れる蝋燭の光の、蝋燭をもって水の中を歩く御手洗祭の、幼いころの娘を自転車の後ろに乗せて川沿いを走っていた日々の、川遊びをする娘を土手で見守っていた夏の日の午後の、娘に呼ばれて行った先に見えたオオサンショウウオのぬめった背中の、飼っていたドジョウの、魚たちは死んでもいつまでも生き延びたドジョウの、そのドジョウを川に返しに行った雨の日の川面の、「もう少し、いっしょにいたかったね」と微笑んで逝った妻の、誰もいなくなった家の扉を開けたときの静寂の、見知らぬ犬が近寄ってきてまとわりついてきたときの喜びの、飼うつもりはないのに、いつの間にかその犬が来るのを待っている自分に気づいた朝の、水底から引き上げられる自動車から溢れ出す水の奔流の、クレーンが立てる唸りの、つい引き込まれてしまうロボットペットの愛らしさの、計算尽くだとわかっていても癒される自分がいるという発見の、何度弾いても同じところで間違えてしまうピアノ曲の、誰にも聞かせられないとヘッドホンで練習している一人の時間の、会議のさなかにふっと意識する一体感の、対抗試合で盛り上がる歓声の、試合の後のビールがしみる瞬間の、夢のなかで誰かが自分を呼ぶ声の、それが誰だったか考えているうちに目が覚めてしまう朝の、そんな朝の布団の匂いの、その匂いを太陽の匂いだと思った瞬間の、眩しい朝の、ツンドラの朝の、密林の朝の、砂漠の朝の、都会の朝の、田園の朝の、ひとりぼっちの朝の、大勢で迎える朝の、テレビのなかの朝の、一日の始まりの、一日のすべての、一日の終わりの・・・」
それまでどれだけしゃべり続けていただろう。あの言葉の達人稗田亜礼ですら、驚嘆の眼でぼくをみつめていたくらいだった。あらゆる事象についてぼくは語った。語っても語っても足りなかった。まだまだ言葉は渦巻いていた。時間が止まっているような感覚があった。浮かんでくるあらゆる情景、あらゆる記憶、あらゆる印象、あらゆる感銘、あらゆる驚き、あらゆる感情に揺さぶられ、翻弄されながらぼくはしゃべりつづけた。ただただ事象を列挙しているだけなんだけど、そこには確かな感情がこもっていた。そのせいだろうか、ステージの周りにいまやキャンパスを埋め尽くすほどに広がっている観客たちも、声一つ立てずに聞いてくれていた。奇妙なことだけど、ぼくの言葉が大勢の人々を魅了し、引き込んでいたんだ。
けれども唐突に終わりは訪れた。
不意打ちのようにぼくの口からこんな言葉が飛び出したときに。
「・・・夜明けの病室の、ぼくを置き去りにして十四歳で先に逝った篠田あゆみの、その眠ったままのほほえみの、死に顔の」
ここでとうとう言葉が途切れた。ぼくの両目から涙があふれた。
あれが美だった。ぼくにとっての最終的な美だったと気づいた。けれどもそれはあくまでぼくにとっての美でしかない。あらゆる人に、その人だけの美があるように。美なんて相対的なものでしかない。そしていまこうして口にしたことで、ぼくは解放された。篠田あゆみの死を超えて、前に踏み出せる自分になった。そんな気がした。
ぼくは笑顔を取り戻して、皆に語り掛ける。
「どうでしょう? 美とはなんでしょう? もしあらゆるものが美たり得るのだとしたら、そして、すべての美が違う性質をもつものなのだとしたら? いったい誰が、どの視点で、どのような根拠で、それを比較することができるでしょう。それぞれの美は一回性の唯一絶対のもの、同じ美は二度とない。なぜなら、同じものでも見る人が違えば、いや同じ人でも一瞬後には見る感覚が変わっているとすれば、永続する美などというものはありえないのではないでしょうか? 今日ぼくたちは、奇跡を見ました。日常生活では決して見ることが出来ないような突出した美のページェントに遭遇しました。こんなことはもう二度と起こらないでしょう。けれども、それでいいのです。なぜなら、ふと振り返れば、ぼくたちの日常はいつも、美に溢れているから、奇跡に溢れているからです。

だから、ぼくは、もしぼくが審判員長として、あるいは唯一の審判者として、今日の勝者を決める立場にあるのだとしたら、こう言わせてください。たとえそれが、コンテストと冠されたこのイベントの価値を損なうものであるにせよ、神話的なパリスの衣裳を脱ぎ捨てたいまのぼくにはこういうことしかできないのですから」
ぼくは会場を見渡した。稗田と目があった。稗田はうなずいた。いいよ、言えよとその目が語っていた。うなずき返して、ぼくは会場と向き合った。
「美に勝者なし。多様なる喜びがあるのみ。不意打ちの驚きがあるのみ。多数性、複数性、可能性こそが美。まだ見ぬもの、これから来るもの、予期せぬものこそが美。美を競うことはかなわず、美は楽しみ、驚き、肯うことである。
すべてを肯うこと、それが美である。
とすれば、ここにご参集のすべての皆様、映像でこのページェントをご覧になっている皆様、皆様の肯う力、それこそが美なのです」
こうしてぼくの役目は終わった。満場の拍手のなか、軽く一礼してぼくは舞台を降りた。舞台を降りて観客のなかに混じり込んだ。こうなったらもう誰もぼくを見つけ出すことはできない。ぼくはいつでもワン・ノブ・ゼム。紛れ込む力、目立たない力、そして肯う力では誰にも負けないつもりだから。観衆の一人となってぼくも、いつまでも拍手を送り続けていた。
(第10回 最終回 了)
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*『ビューチーコンテストオ!』は毎月13日にアップされます。
■遠藤徹の本■
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