わたしは「おひとりさまカフェ」に通う孤独な日々を送りながら、自宅でリボーンドール(精巧な赤ちゃん人形)のレンタル事業を営んでいる。赤ちゃんを持てなかった過去、出張先で客死した恋人、人間の代わりに人形に語りかける日々、そして偽名で人形を持ち逃げした女性客・・・。人形に救いを求める人々との交流を通じ、主人公は人と人とのつながりへの渇望と孤独との折り合い方を静かに問い直していく。
金魚屋新人賞佳作作家・菅原美架のデビュー作!
by 金魚屋編集部
どれくらいの時間が流れたのだろう。いつの間にか日が翳りはじめて、私は途方に暮れていた。
「大きくならないで、大きくならないで」
私はおむつでパンパンになった生きた赤ちゃんのお尻を同じリズムで叩きながらそう呟いていた。私がいなければ空腹を満たすこともできなければ歩くことさえできない。やがて笑うことも泣くこともできなくなる無力な存在だ。これは私が所有するリボーンベビーたちとは少しだけ違うところだった。
「大きくならないで、大きくならないで、いつまでもママの赤ちゃんでいてね」
それは私が小さいころから母に言われ続けてきた言葉だった。
忘れたつもりでいたのに、今ここでこうして同じ夕日の中でそのことを思いだしてしまったことに私は驚いていた。
子どもの頃、夕暮れが近づくと私はいつもお腹が痛くなった。母とふたり、西日がまぶしい狭いアパートでこの先どんな未来が待ち構えているのだろうかと思うと漠然とした不安にさいなまれたからだ。
それでも私は少しずつ大きくなってしまった。
「臭いのよ、あなたの下着。どうしてパンツにこんなものが付くの」
母は洗濯機の前でわざわざ下着をひっくり返して私に見せつけたり、頬にできたニキビを軽蔑するかのようなまなざしを向けた。
「あなたはね、そこはかとなく陰気なのよ。見る人が見たらそれはすぐにわかるの。だからね、そういうところにつけこまれて、それなりの人しか寄ってこなくなるわ」
母は、私が大きくなってきたことを責めているのではなくて、私の大きくなり方がよくなかったから、そこに失望しているのかもしれないと考えたりもした。
「赤ちゃんの頃はね、あなたはすごくかわいらしかったの。本当にお人形みたいだったのよ。実際、あなたを連れて歩いたら通りがかりの人によくお人形と間違えられたわ。こう、のぞきこむのよね。そしてあなたがあくびをしたり伸びをしたりなんかしたら皆びっくりしたものよ」
母はある日、私の洋服にアイロンをかけるのを突然やめた。
「小さいころにはね、どんな小さなものにもアイロンをかけていたのよ。スタイやソックス、ポーチの細いひもにもね。でももうやめたわよ。悲しいけれど、あなたにはそんな価値がなくなったから」
それ以来母はおびただしいほどの人形を買い集めて窓辺やベッド、キッチンやソファの上に置いて対話を始めた、そしてある日お腹に赤ちゃんができたからと言って私を施設に預けていなくなってしまった。
女の子なら、誰でも母親の呪いがかかっている。いい呪いも悪い呪いも。母は私には理解できない苦しみの中にいたのだろう、そしてこの赤ちゃんをサエ子と交換して姿を消したという若い女も。
私はずっとひとりでいて、この先もたぶんずっとひとりだろう。寂しいことなんてなにもない、ただひとりなだけだ。声を発したくなったら赤ちゃんたちに話しかければいいし、外食をしたければおひとりさまカフェでハンバーグステーキを注文すればいい。それとも、このコといっしょにどこか遠くに逃げようか、もし本当にそうしたらどうなるだろう。なにもかもなかったことにしてこのコとふたりでやり直すことができるだろうか、この赤ちゃんは神様からのプレゼントなのではないだろうか。そんな風に考えながらも私はやはり身支度を整えていた。赤ちゃんはどんなふうにして外に連れ出したらいいだろう。まさかここに来た時と同じ段ボール箱に入れて持っていくわけにもいかないし、でもうちにはこんなに赤ちゃんがいるのに抱っこ紐もスリングもない。このクーハンはリボーンドール用だから、持ち手の強度が心配だ。そうだ、ちょっとサイズが合わなくてかわいそうだけれど籐の取っ手付きバスケットがあった。これで我慢してもらおうと考えて、ひよこのイラストがついたタオルケットをなるべくふんわりと折りたたんで敷き詰めた。
「赤ちゃん、寂しいけれどお別れよ,せっかく逢えたのにね。大きくなるのよ。さぁ、行きましょうか」
先ほどから目をさましてご機嫌の赤ちゃんを抱きかかえてバスケットに入れようとした時、ドアの向こうでものものしい気配がした。
ドンドン、ドンドンドン。
またあの女だわ、そう思ったけれどこれまでとは様子が違った。
「この部屋です! この女です! 私の赤ちゃんを盗んだドロボーです。私の人生を台無しにしたこの女を逮捕してください!」
女の他にも複数人の気配がした。それからチャイムが鳴り、ドア越しに男性の低くて控えめな声が最寄りの警察署管轄の交番名を告げた。
私は玄関マットの上で深いため息をついた。けれど赤ちゃんは笑っていた。その様子を見て私も心の底から笑みがこぼれ「大きくなるのよ」、そういってからこの世のものとは思えない尊くて美しい天使を抱き上げて私に似た誰かに対峙するためにドアに向かった。
扉を開けると警察官が二人と、野球帽に黒いビニール製のジャンパーを着た男、そして市の職員が着用するような薄いグリーンの作業着を着た男が狭い玄関前に肩をすり合わせるようにして立っていた。女はその少し後方にいて、喧嘩がこじれた末に強い味方を大勢連れて戻ってきた意地悪な同級生みたいな顔をして立っている。するとすぐに作業着姿の男が縦型に開く手帳を取り出して見せて刑事であることを告げたので、私は赤ちゃんを抱いたままとり合えず玄関の中へと招き入れた。集合住宅の前の広場では、子どもたちが走り周り、楽しくてしかたがないとうようなはしゃぎ声が響きわたっている。

「奥さん、ちょっと聞いたものですからね、あなたの仕事道具の人形の中に、本来ならいるはずのない本物の赤んぼうが紛れ込んでいるらしいってね。ここにいるリボーンドールっていうんですか? これらの人形は本物と見分けがつかないほど精巧につくられているそうだから、見間違いということもあるしね。だって見間違うほどリアルな人形というのがコンセプトなんですもんね。まあちょっとよろしければ念のため見せてもらってもいいですか?」
作業着の男は警察手帳を胸ポケットに収めながらそう言った。この男の作業着といい、もうひとりの男のビニジャンといい、黙っていたらとても刑事には見えない。これもある意味変装なのだろうか。いかにも刑事らしいいでたちをしていたら、たとえばくたびれたスーツにトレンチコートとか、履き古した革靴にサングラスとかだったら警戒されて仕事にならないのだろう。私は生まれて初めて見せられた警察手帳の真偽を確かめるすべもなく、そもそもあんなに一瞬だとそれが少年雑誌の付録のスパイ手帳だったとしても気が付くはずもないのだから、とりあえず室内に招き入れた。
「ほぅ、なるほど本物と見分けがつかないほど精巧ですねぇ」
今度はビニジャンの男が、私が抱いている本物の赤ちゃんをのぞきこんでそう言った。
「いいですか?あちらの部屋を見せてもらって。いや、すごいですなぁ」
「ええ、もちろんです、どうぞ」
私は腕の中の赤ちゃんと男たちを交互に見ながらそう答えた。
「刑事さん、この女は人間の赤ちゃんを奪い取って人形の中に隠そうとしたり、他人の夫を奪い取って最初から自分のものだったかのように装ったり、とにかく嘘つきでドロボーで変質者なんですよ」
女は声のかぎりに叫びながら私が抱いている赤ちゃんを奪い取ろうとした。
「やめてよ、今、眠っているんだから。そんな風に乱暴にしないで」
私はせめてこの赤ちゃんのひとときの平和を守ろうと片手で女を押しのけた。その間不意の訪問客四人は、展示室に置いてあるベビーたちに触れたり、抱き上げたり、感嘆の声を上げたりして、ほんの数分滞在してから、玄関の上がり口で事態を見守る私たちのところに戻ってきた。
「いや、ごめんなさいね、おじゃまして。しかし見ようによっては恐ろしいものですな。あの部屋にいたら寝息さえ聞こえてきそうですよ。目を閉じた赤ちゃんが夜中に突然その目を見開いても不思議はないくらいだし、確かにここに本物の赤ちゃんが紛れ込んでいると見間違えたり思い込んだりする人がいても納得です」
ビニジャンの男がそう言って帰り支度のためにみょうに真新しい運動靴を履き始めた。
「大変失礼しました、貴重なものを見せてもらいました。あれは何でできているんですか?」
作業着の男がそう質問したあと、私が抱いている赤ちゃんをのぞきこんであやすように笑いかながら指でほっぺたをツンツンした。
「ほとんどはオールシリコンです。一部ボディだけが布のコもいますけれど。最近ではUSBで充電するだけで、何種類もの泣き声をあげたり、首や手足を動かしたり、呼吸するように胸を上下させたり、おしゃぶりをするように音を立てて口を動かしたりできるような技術も発達しています」
作業着はほぅというように目を丸くした。
「となると、そのうちAIの搭載で話し相手になったり、高齢者の見守りをしたりするのも時間の問題ですね。お忙しいところすみません、おじゃましました」
彼らは狭い玄関口で丁寧に一礼した。
私はもう一度自分の腕に抱いた赤ちゃんを確認して、それから四人の男たちを見、そして最後に女の顔を見た。
「ちょっと待って! 刑事さん、何言ってるの! よく見てごらんなさいよ、このコ、このコよ!」
彼女がそう叫んだ時には、男たちはもうすでに挨拶を済ませてドアを閉め、靴音も遠ざかってしまったあとだった。
「あなた、うまくすり替えたわね。これ、サエ子じゃないの。いつ帰ってきたの、サエ子」
私がずっと抱いていた赤ちゃんをソファの上におろすと、女はそれをのぞき込んでそう言った。私は女の真意を測りかねて、しばらくの間、女と個体をただ黙って交互に観察した。さっきまで本物の心臓を動かしていた個体は、まるでただの肉の塊のようにごろんとそこにあって、ソファに浅いくぼみを作っている。四肢の関節は固まり、肌の色も均一でまるで死蝋のようではないか。肉の中心部にあったはずの生命と感情を司るOSも消滅してしまったように見えた。
「でもね、このコ、本物の赤ちゃんのはずよ」
私は女にもそれを同意させたくて、半ば叫び声のようにそう言った。
「なに言ってるの? あなた目も腐ったの?」
私はおそるおそる自分の指先を見つめた。昨夜から確かに感じていたあの微熱を帯びた「酢甘」は記憶のバグだったのだろうか。
「ねぇ、ちょっと出かけない?」
勝手にキッチンに入り込んで、バター付きトーストとゆで卵の夕食を作ってテーブルに運んできた彼女は私にこう言った。
「疲れているのよ、あなた。目も腐って心も腐って、もうどこらじゅう腐り始めているんだわ」
しかし見たとたんにトーストの焼き加減に不満を感じた私はそんなつまらない提案には答えなかった。

「このトースト、焼いたというよりはほんのりあったかくしたってだけよね。全く焦げめがついていなくて、しろーいままじゃない。あなたのトーストを焼くという行為はちょっとあったかくするっていうことなのね」
「あのね、前から気になっていたところがあるのよ、知っているかしら?」
彼女は私の質問を無視してそう言った。
「〝クロスローズ未来研究所〟っていうの」
「クロス?」
「ローズ」
「みらい?」
「研究所」
「クロスローズ未来研究所」
私は少しの間その場所について考えてみた。何かしら未知のものを研究している大手企業の商品研究開発施設のような近代的な白い建物を想像した。
「この間SNSで見てね、どういうことなのかしらって思って。いっしょに行ってみない?」
「なにするところ?」
「なにって。まぁなかなかひとことで説明するのは難しいのだけれど。つまり誰にでも過去があって未来があるじゃない? あの過去があったからこの未来になった、あんな過去にしてしまったからこんな未来になってしまったというか。だから結局そのような過去がなければ違う未来になっていたわけじゃない?」
そう言って彼女はトーストを口に運ぶ手を止めて考えるふうにした。私はぬるいトーストをかじって次の言葉を待った。
「どんな人でも過去にいくつもの分岐点があったはずで、それをその都度自分の意思で決定して二本か三本か五本かある道のどれかを選んで進んできたわけじゃない? それは意識して決断した道もあれば、ここが大事な分岐点だということさえ気付かずにただまっすぐに進んでしまったとか」
「それはわかったけれど、それでその未来研究所というのは何をするところなの?」
「クロスローズ未来研究所」
彼女はそう言いなおした。
「私、過去を振り返ると後悔することばかりなのよ。どうしてあの時こっちの道を選ばなかったのか、どうしてあんな男を選んでしまったのか、どうしてあんなものをいいと思ってなんならそこを目指してしまったんだろうとか」
「あんな男って彼のこと?」
私たちは急に思い出したかのようにコーヒーテーブルの上に立て掛けた彼の写真に視線を移した。ペン立てや仔豚の陶器製の置物やDMはがきの束や夏用手袋やクッキーの空缶やらがごちゃごちゃに置いてある狭苦しい空間で半分埋もれるように顔をのぞかせ無責任な笑顔を振りまいている。
「で? それはわかったけれど、そんな過去と未来について、そこで何かをしてくれるというの?」
「つまりもう戻れない、取り返しのつかないことに後悔? の念を抱いているひとたちの心に寄り添って? くれるというか、それを手放す?手助けをしてくれるというか、それらをプラス思考? に代えて自分の中に落とし込む? そういうサポート?をしてくれるっていうか」
やはりますますこの女は好きになれないと思った。
「私、〝寄り添う〟とか〝プラス思考〟とか〝落とし込む〟とか、そういう言葉大嫌いなの。流行り言葉なのかなんなのか知らないけれど、このワードを使っておけば合ってると思ってたいして意味も考えずに発しているでしょう? それにやたらめったら語尾を上げるのやめてくれない? 不愉快になるから」
女はソファの右側に寝ているサエ子のような塊をさすったり、テーブルの上のマグカップを持ち上げてティッシュで周辺を拭いてみたり、カーテンの隙間からすっかり暗くなった空を見上げたりして謎行動を繰り返している。
「どうする? あなたが行かないなら私ひとりで行くわよ」
「この赤ちゃん、どうするの? 一人で置いておけないでしょう」
「何を言っているの、大丈夫よ、サエ子なんだから」
「クロスローズ未来研究所」は、「おひとりさまカフェ」がある駅裏のプラタナス通りの、本通りから一本横道に入った狭い小路にあった。古い木造造りの建物で、ドアの横に格子で囲まれた小さくて分厚いガラスがはめられたのぞき窓のようなものがあるが、ほこりにまみれていて中をうかがい知ることはできない。わずかに、室内に灯されたオレンジ色の光が見えるだけだ。外壁の高い位置に設置されたアイアンで吊るされた木の看板には、確かに「クロスローズ未来研究所」と記されている。木彫りの文字は雨風にさらされて剥げ落ち、あらかじめここを知っている人でなければその店名を正確には読み取ることはできないだろう。彼女がマホガニー色の重たい木の扉を体重をかけながらゆっくりと手前に引くと同時にカウベルが乾いた音を鳴らして私たちを迎え入れた。

店内はとコーヒーの香りに混ざって複雑な匂いがたち込めていた。バニラビーンズが香る焼き菓子のような、さまざまなハーブをブレンドした精油のような、雨の日のほこりのような、放課後の音楽室ような、不思議な匂いだ。フロアはほの暗く、まだ目が慣れていない私たちは少しの間入口付近に立ち止まって店内を見まわし、進むべき方向を見極めなければならなかった。やがて天井から吊るされたオレンジ色のペンライトがわずかに鈍く点滅したので、やっとのことで室内の奥にあるカウンターを見つけることができた。カウンターの中には、少しくたびれたワイシャツにえんじ色のベストを着用し、黒っぽい蝶ネクタイをつけた七十代くらいの男性がいてこちらを見ている。彼は中途半端な笑みを浮かべていた。それは感情に由来するものではなく、顔の筋肉が固定されてしまったかのような不自然な笑みだった。まるで、年月をかけて自分のいろいろな感情や存在までをも消し去ろうと努力してきた末に残った唯一の自己表現のように。彼にはもうきっとこの一種類の表情しか残っていないのだ、やせたチェシャ猫のように。女はためらいもなくカウンターに備えられた不安定なスツールに腰かけたので、私も従った。
「何か召し上がりますか? お好きなものをいくつでも選んでください」と男性が言った。
メニューはたくさんあった。
「あの日のソーダ水・・・
過ぎ去った日々が小さな気泡ひとつひとつに閉じ込められた刺激の強いソーダ水。あなたの涙の色をしています」
「再会のミルクティー・・・
絶妙な配分で出逢った茶葉とミルクはドロドロに乳化し、二度と分離することはありません。甘く舌に絡みつき、決して冷めないミルクティーです」
「昼と夜を隔てる帳のコーヒー・・・
忘れましょう、もうすべて忘れましょう。あなたには関係のないことです。口に運ぶごとに苦みが薄れて記憶もあいまいになっていきます。」
ページをめくるとデザートやフードメニューもあった。
「でたらめなミルフィーユ・・・
サクサクとしたパイ生地の層は、あなたがこれまで重ねてきた嘘でできています。自分を守る嘘,人を傷つけるためだけの嘘、そして優しい嘘。どんな味がするのかはご自身が一番よくわかっているはずです。舌の上で無秩序に崩れ、上あごに張り付いて離れない不快な層をお楽しみください。あなたがこれまでついてきた嘘と同じ後味です」
「スパゲッティ・クロスローズ・・・
あなたがこれまで遭遇した分岐点が複雑に絡み合ったスパゲッティです。どこが出発点でどこが分岐点なのか判別がつかないかもしれません。よく噛まないと口の中でも絡み合って喉を圧迫する恐れがあります。黒コショーのように見えるつぶつぶは後悔というスパイスです」
メニュー表は次のページにもまだ続いていたが、ふと顔を上げると店内の壁にもまるで「冷やしラーメンはじめました」的なイレギュラーの品書きが貼ってあった。
「一発逆転のパンケーキベリーソース添え・・・
選ばなかった道、言えなかった言葉、反故にした約束。そんな後悔をなかったことにしてくれるかもしれません。パンケーキの中にそら豆が入っていたら大当たり、しかしきのこがはいっていたら大はずれで状況はかえって悪くなるでしょう。ベリーのソースはあなたがこれまでに流した血、チャービルは過去と未来を予見するハーブです」
私たち二人はただ黙ってじっとメニュー表を見ていた。どれを選ぶべきなのか混乱していたし、どのメニューにもいっさい価格が表示されていなかった。しかも、この場所で行われる本来のサービスは飲食ではないはずだった。わずかに漂っていたコーヒーの香りは消え去り、生物的な温かみを拒絶する無機質な臭いが侵食しはじめていた。それはカウンターテーブルの上に設置されたいくつかのビーカーや、壁全体に天井の高さまで取り付けられたまるで漢方薬局のような無数の小引き出しがイメージさせるのだろうか。
私は左隣りに座って固まっている女の脚をそっと蹴った。
すると彼女はそれに応えるように恐る恐るマスターのような男性に質問した。
「あの、これすべてお値段が書いてありませんけれど」
「お食事やお飲み物はすべて無料です。お好きなものをご注文ください。国から補助金がでているんですよ、安心してお召し上がりください」
〝国から補助金?〟というように私たちはちらりと目を合わせた。私は少し迷ってから「夜明け前のウインナーコーヒー」を注文した。これには、どんなに夜の闇が深くても必ず夜明けは訪れます。生クリームのような厚い雲を払いのけると美しい朝の光を見ることができるでしょう、と記載がある。
「では私は〝遠い記憶のラベンダーティー〟をお願いします。これをいただくと、本当に揺らいだ心が落ち着いて忘れかけていた大切な思いが蘇るのでしょうか?」
と彼女が言うとマスターはビーカーの中のキラキラした液体をかき混ぜながら、
「そう思えばそうなります。できないと思えばできないし、できると思えばできるのです、なにごとも」と少し強い口調で言った。
私たち二人はただうなずくことしかできず、ビーカーの中でらせん状に旋回するキラキラ入りの液体を、吸い込まれないように気を付けながらじっと見つめていた。
私たちが飲み物をオーダーすると、マスターはそれをボールペンでメモ用紙に書き記し、カウンターの裏のほうに持って行くとすぐに戻ってきた。きっと厨房で調理する人が誰かいるのだろう。それからしばらくの間マスターは何も話しをしようとしなかったので、私たちは少し控えめに周囲を見回したり、メニュー表を見返したりして時間をやりすごした。古い柱時計が時を刻む音と、液体をかき混ぜるマドラーがビーカーの内側に当たる音だけがコツコツ、カチカチと呼応するように鳴り響く。やがて私たちの心はそれぞれが沈みたい場所を見つけて沈み込み、しばらくの間その場に“居る”という行為に身を任せた。それからどれくらい時間が過ぎただろう。突然背後から電子音のような音が聞こえてきたかと思うと、ファミリーレストランなどで見かけるロボットが注文した飲み物を運んできて私たちのそばでピタリと止まった。

「どうぞ」
マスターが低くよく通る声でそう言った。
私はソフトクリームのように高く盛られた生クリームを崩さないようにテーブルに滑らせるように慎重にカップを引き寄せた。
「熱いですからやけどしないように召し上がれ。どんなに夜の闇を愛しても、望まぬ夜明けは必ず訪れます。帳のような厚い生クリームのその下には、逃げ場のない黒く淀んだ底なし沼が無慈悲に待ち構えています」
私は一瞬重心を失った。もともと不安定だったスツールは座面と一本足の接続が浅いうえに、きっと両者を固定するためのねじが緩んでいるか紛失してしまっているのだ。
「あの、メニューに記されている説明とはだいぶ違うようですが。私の方が読み間違えたのかしら」
私は飲み物に口をつける前にマスターに尋ねた。すると彼は、メニュー表をちらっとめくり、それからポケットのメモ帳を取り出して視線を落としてから、まったく何ごともなかったように私たちに背中を向けて乾いた布ふきんでグラスを磨き始めた。
私はあきらめて生クリームを崩さないようにてっぺんからスプーンを差し込んでゆっくりと口に入れた。生クリームは上等で、今まで食べた中で一番美味しいと思った有名店のシュークリームに使われている生クリームと同じ味がした。ひんやりとしてコクがあり、後味がすっきりしている。私はクリームが熱いコーヒーの中に溶けだしてしまわないように、たっぷりとすくいながら休まずに口に入れた。カップの中ほどに現れたコーヒーはほどよい苦みがあって香り高く、不思議と淹れたてのように熱く深い味わいがした。
「遠い記憶のラベンダーティー」を大事そうに飲む彼女は、その名の通りただ静かに自分だけの大切な記憶をたぐりよせ、目を閉じて歌うように唇を動かし何かの波動に合わせて体を揺らせていた。
先ほどから布ふきんをグラスに押し当てていたマスターは、いつの間にか私たちの記憶に入り込んでともに巡っているかのようにガラス玉のような眼球を不規則に漂わせながら、時々ビーカーの中の液体をかき混ぜたり、その中になにか得体のしれない光ったパウダーを加えたりして時間を共有した。
「だいたいのことはわかりましたよ」
そう言ってマスターははじめて少しだけ人間っぽく微笑んだ。
「ではここに、あなたの涙のかけらと傷ついた心のピースを入れてください」
手渡されたのはガラス製の小瓶だった。高さ三センチくらいのぷっくりしたハート型で、気を付けて扱わないと握った手の力で壊してしまいそうなほど薄く繊細なものだ。しかも驚いたことにこれを持っているとドライアイスを触ってしまった時のように痛いほど冷たい。私はテーブルに置くこともできず、受け取ったままマスターの次の指示を待った。
「涙はこうして目の近くに当てて第三番目の涙を落とすのです。傷ついた心のピースはふぅ~っとため息をつくようにして唇をすぼめてね。そうです、そうです」
マスターの指示にやたら素直に反応してその都度ジェスチャーで答える女を見てマスターは二度深くうなずいた。
「そうするとこれらが瓶の中で混ざり合って結晶化しますから、それを私が調合した液体の中で混ぜ合わせて固体化するのです。さぁ」
マスターは片手を広げてどうぞというように私たちにそうするように促した。
「あの、なかなかそう簡単には涙が出なさそうなんですが」
私はどう考えてもこの場で故意に涙を絞り出すことなんてできないと思ってそう尋ねると、マスターはあっさりと「いいんですよ、そんな気持ちをこめて目の下に当てていただくだけで」と言った。
「三番目の涙というのはどういう理由からですか? 一番目じゃダメなんですか?」
「ダメってことはないのだけれども、ほら、尿検査でもそうでしょう?最初の出はじめの尿よりも中間尿を採取することを推奨しているでしょう。涙も同じです。一番目の涙は瞼の粘膜の汚れや分泌物、細菌が混入している恐れがあるのでそれを避けてより純度の高い涙を検出したいのです」。
すると彼女はさっそくなんの前触れもなくぽたぽたと涙を落とし、三番目の涙を器用に小瓶に落とした。彼女のその唐突な変わり身の早さを目の当たりにして、そういう女なんだ、と私は思った。それから物思いにふけるようにしてからふぅ~っと吐息を吐いたのを見て、私もこぼれる涙をイメージして目の際に小瓶の口をあて、それから思いを込めながらゆっくりと吐息を吐いた。
「では、あなたからいきましょうか」
マスターは彼女の小瓶を受け取って、キラキラした破片が無数に踊る透明な液体が入ったビーカーの中に振りかけるように落とし入れた。するとその液体はみるみるブルーハワイシロップのような青色に変わり、そしてすぐにとろみを帯びながらまた透明になり、やがてマドラーを差し入れてゆっくりかき混ぜると最終的にいくつかのガラス破片のような形状になって固形化した。どれもがランダムな形で、割れて散らばった窓ガラスのようにも見えた。
「次はあなたですね」
私はマスターに小瓶を渡した。するとそれが手から離れた瞬間、さきほどの氷河期のような掌の温度が急激に上昇して少し痛みを伴うような熱感が広がった。私のエア涙と傷ついた心のピースは、マスターが少し考えてから背後にある無数の小引き出しから何種類かのパウダーを取り出し、さらには手元に整列しているモナンシロップのような小瓶からチェリー色の瓶を選んで軽量スプーンできっかりと一杯分計って透明な液体が入ったビーカーに振り入れた。私の涙たちは彼女とは違って最初はオレンジ色になり、それからすぐにシャリシャリになっていくつかのの雪の結晶のような形状に凝固した。

「ずいぶん個人差があるものなのですね」
私は少しばかりドキドキしながら聞いてみた。
「そうですね。ひとりひとりさまざまです。どなたかと全く同じ形状になることはありえません。この雪の結晶のような形は私は初めて見ましたね。多分あなたの場合は粒子が細かいのでしょう」
「粒子・・・」
と私はつぶやいた。
「粒子が細かいってどういうことですか?」
そう質問するとマスターは胸ポケットから小さな赤い手帳を取り出して何度かパラパラめくってみたりしたがすぐにあきらめて「いやぁ、私もまだ日が浅いものでちょっと詳しいことはわからんのです」
彼は、わからないのは自分の責任ではなく当たり前のことなのだというような顔をして、私たちの目の前にそれぞれ少し厚みのあるガラス製のコースターを敷いてから彼女には割れた窓ガラスのようなものが入ったビーカーを、私には雪の結晶入りのビーカーを、出来上がったばかりの釜めしを置くかのようにミトンをつけた大きな手でコトリと置いた。
「さぁ、しかしこれがまぎれもなくあなたたちそれぞれの涙や傷ついた心、言えなかった言葉、言ってしまった言葉、選ばなかった道、さまざまな後悔を凝縮して固体化させたいわゆる蒸留残渣なのです」
「じょうりゅうざんさ・・・」
私たちは聞いたことのない言葉を確認するかのように声をそろえて繰り返した
「そうです。これはすべてあなたたちが〝してきたこと〟です」
〝してきたこと〟というフレーズを、マスターは少し責めるようなニュアンスを込めて私たちに言った。
「昭和の歌謡曲の歌詞であったわよね。あの髪の長い、歌唱力のあるアイドルが歌っていたわ。えーと、タイトルは思い出せないけれど〝してきたことに~、後ろめたさはないの~〟っていう歌詞が入っていた」
そう、確かにあったと私も思ったけれど、その歌手と歌のタイトルが思い出せない。それなのに私たちは声をそろえて、そして正確なメロディでそのフレーズを歌った。
「してきたことに~後ろめたさはないの~」
そして私たちは再び黙った。後ろめたさがあるからそれをどうにか別の形にして浄化してもらおうと思ってここに来たのだった。
「ねぇ、でもマスターさん。すべてのことに意味があったのよね?」
女はまるできょうの一連のテーマを勝手にまとめるかのようにマスターに同意を求めた。
「意味? いえいえ、そんなたいそうなものはありませんよ。過去も現在も未来も、ただ繋がっているというだけの時空の連続体ですよ。場所も、時間も、してきたことも、単なるインデックスにしかすぎません」
マスターはそう言って、チェシャ猫のように固定した笑い顔を、より固定するためなのか一度リセットして口角をあげなおした。
「さて、ここからが仕上げです。この蒸溜残渣を、ま、平たく言えばカスですね、カス。このカスを細かく粒子化してお好きなアイテムに加工して差し上げます。宝石にしてネックレスにするか、油で揚げてドーナッツにするか、このどちらかをお選びいただけます。宝石といっても、元がカスなのですからただのイミテーションですよ。どこかに持って行っても値段のつくものではありません」
「ネックレスにしていただけるんですか?」
女の顔が少し輝いた。
「ええ、お好きな色でお好きなデザインにしてさし上げます。すぐにお持ち帰りいただけますよ。五分ほどでできあがります」
「ドーナッツは?」
今度は私が聞いた。
「はい、見ためはどこにでもあるリングドーナッツです。さっきの配膳ロボットが揚げてくれます」
私たちは少なからず驚いて背後で待機している先ほどの配膳ロボットのほうを振り返った。するとロボットはそれに反応したのか、ウィーンとこちらにやってきて右手を上げ「お待たせしました。こちらがあなたが「してしまったこと」のフライでございます」とかわいい声で言いながら少しほこりのかぶったドーナッツの食品サンプルを載せたトレーを私たちの方に回転させた。
「食べたらなくなるんですよね?」
「そうですね。食べてしまうときれいさっぱりなくなります。ただ、このドーナッツというアイテムを選ぶと、ご自身が後悔されている過去の事柄に関連する特定の記憶が失われるという特典がもれなくついています。それはなになのか、私にはわかりませんけれども」
私たちは過去を手繰り寄せながら失われてしまうかもしれない記憶について考えてみた。
「しかしネックレスを選ぶとむしろ記憶が鮮明に蘇ってきます。
つけたら最後、一生首から離れないとかそんな恐ろしい呪いは入っていませんからご安心くださいね。ま、他人の目から見れば、あなたの過去などは首にぶら下がっているネックレスに過ぎないのですよ。あなたにとっては、内臓をこねくり回して作ったような、唯一無二のものだとしてもね。さすがにガラクタとまではいいませんが。
あ、こうして、折に触れてネックレスをちょっと触って体温で温めるといいそうですよ」
マスターはちょっと女性っぽい仕草で、鎖骨あたりに指を這わせた。二人とも、体温で温めるとどのようにいいのかなんてもうどうでもよかった。
「それじゃあネックレスを」
私たちは声をそろえた。
「あの、赤い石にして繋げてもらえますか?」
彼女が言った。
「私はマルチカラーでお願いしてもいいですか?」
「かしこまりました」
マスターはまた小さなメモ用紙にボールペンを走らせてそれをカウンターの裏のほうに持って行くとすぐに戻ってきた。そして少し申し訳なさそうに「ごめんなさいね、あの、先ほど言い忘れましたが、飲食代は無料なのですが、アイテム制作には実費だけいただいています。ネックレスは三千円になります。ちなみにドーナッツでしたら五百円です」
そう言ってまたカウンターの奥に戻ると、奥からうっすらとテレビのバラエティ番組かなにかの笑い声が聞こえて、それに重なるようにマスターの笑い声も聞こえてきた。あのチェシャ猫のような顔のままでネックレスを作っているのだろうか。それとも先ほどのガラス壺に落とす三番目の涙のたとえのもとになった尿検査が記載されている健康診断の結果表でも、眉間にしわを寄せながら眺めているのだろうか。
私たちの背後でまた先ほどと同じくウィーンカタカタとロボットの電子音が聞こえてきた。備え付けのトレーには、わりとフツーな感じのネックレスが二本こじんまりと置かれていた。
「わぁ、すてきだわ!」
彼女はすぐに赤いネックレスを取り上げた。赤色が濃くてちょっと子どもっぽい。お祭りの出店で売っていそうな首輪で彼女にぴったりだ。
私は三千円を支払い、マルチカラーのネックレスを首に巻いた。
「領収書は出ませんがご了解ください。お気を付けて。またお待ちしています」
マスターの声を背中に聞きながら私たちは店を出た。
鏡を見るまでもなかった。鎖骨に触れるプラスチックの感触は驚くほど軽く、さっきまで胸にのしかかっていた「重い粒子」が、ただ物理的に移動しただけだということがわかった。
「あー、そっちにすればよかったかも。マルチカラーのほうがオシャレだし、どんな洋服にも合うし。失敗したかな。ね、取り換えっこしない?」
彼女が自分の赤い首輪をはずそうとしながら私の方ににじり寄ってきた。
「いやよ、ごめんだわ、そんなの」
私は彼女のこれまでの人生を背負わされそうな気がしてすかさず断った。「あなたのだっていいじゃない。お祭りの金魚みたいでかわいわよ」
カフェを出ると、景色の一面が雨粒に彩られていて、まぶしいほどに降り注ぐ月光になにもかもがきらきらと輝いていた。
「うわぁ、雨が降っていたのね、全然気が付かなかった」
「ほんとね、あたたかい雨だわ」
二人とも、もう「あの日のソーダ水」や「三番目の涙」のことなんて、一言も口にしなかった
「じゃあね」
地下鉄の入り口で、彼女は手を振って雑踏に紛れていった。
私はひとり、アパートへの道を歩き出した。
玄関のドアを開けると、あの酢甘の匂いが鼻を突いた。ソファの上には、出かけた時と同じ姿勢で動かない塊が横たわっている。
私は首からマルチカラーのネックレスを外し、それをあのコの小さな冷たい首筋にそっと乗せてみた。
「似合うじゃない、サエ子」
サエ子は何も答えてくれなかった。私は深く息を吸い込んで、ただ三千円ぶんの静寂が部屋を満たしていくのを待った。彼女の首元でマルチカラーの石がまるで静脈のように鈍く光り始めた。
(第03回 最終回 了)
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