わたしは「おひとりさまカフェ」に通う孤独な日々を送りながら、自宅でリボーンドール(精巧な赤ちゃん人形)のレンタル事業を営んでいる。赤ちゃんを持てなかった過去、出張先で客死した恋人、人間の代わりに人形に語りかける日々、そして偽名で人形を持ち逃げした女性客・・・。人形に救いを求める人々との交流を通じ、主人公は人と人とのつながりへの渇望と孤独との折り合い方を静かに問い直していく。
金魚屋新人賞佳作作家・菅原美架のデビュー作!
by 金魚屋編集部
「ただいま」
玄関のドアを閉め、鍵とチェーンロックをかけてから、私は赤ちゃんたちにそう言ってみる。
「おかえり」
いつか、ずいぶん前だ、あの男がそう言って迎えてくれたことがあった。ほんの短い間だったけれど私にもそんな日々の生活があった。しかし彼はいっしょに暮らし始めてから半年も経たないうちに出張だといって家を空け、ある地方の小さな町で客死した。宿泊していた温泉旅館の階段から酔って転落したのだ。そこは私に行くと言っていた町とは全く別の土地だった。私が彼の死を知ったのはそれから一週間以上もあとのことだった。彼が勤務する会社が入っているビルの、別の階にあるオフィスに勤める友人が教えてくれたのだ。「あなたといっしょに暮らしていた人、死んだらしいわよ」と。しかもその時彼はひとりではなくてどこかの女といっしょだったのだという。「そうなんだ」と私は思った。その瞬間から、つい最近までいっしょに暮らし、食卓をともにし、眠り、笑いあった男がフォトフレームの中だけで笑う薄っぺらな写真になってしまった。それからしばらくの間、彼の笑い声や好きだったムスク系のコロンの匂い、私を抱く時の腕の力を思い出して、一日、一日をカレンダーを黒く塗りつぶすようにして過ごした。
翌日、私は朝早く起きて、ここから百四十キロほど離れた地方都市へ向かうために電車に乗った。お昼は目的地近くの噴水のある公園で済ませようとサンドイッチをこしらえた。氷水でパリッとさせたレタスとハムを挟んだ簡単なものだ。慣れない町に行ってひとりで外食するのは気おくれしたし、おひとりさまカフェの居心地のよさにすっかり慣れていたからわざわざどこか適当な店を探すつもりもなかった。
目的地に着いた時には約束の二時を少し過ぎていて、さっきまで晴れ渡っていた空に厚い雲が垂れ込めて翳りが出はじめた頃だった。そのサロンはこじんまりとした古いマンションの四階にあって、これまでに何度か来たことがあるのだが、本通りからいくつか特徴のない路地を縫うように入り、ちょっとした坂道や変形したT字路なんかを通っていくため、いつも少し迷って一度もストレートにたどり着いたことがなかった。そうだ、路地を抜けたところにあるこの建物には見覚えがあった。あずき色のザラザラとしたセメント塗りの外壁に一部薄い緑と水色の古いタイルが腰壁のように施されていて、木製の窓枠にはめられたガラスは幾層ものほこりが重なっている。昭和時代はたばこ屋を生業としていたのだろう。ちらりとのぞき込むと、陳列棚や引き出しの開いたままのレジスターが時が止まったように置かれていて、当時の幻影が行き場のないままそこに取り残されている。ここを過ぎるとその古いマンションに続くアーチのように佇むほんの数メートルのプラタナスのアプローチが姿を現した。それはこちら側とあちら側を隔てる境界線のように私を迎え入れる。さわさわとした葉音を聞きながらくぐりぬけようとするとそれはやがて囁き声のようにリズムを変えて、突如ひんやりとした冷気が流れ始める。そしてその向こうに見えるマンションのある風景はとたんに古い写真のように色あせて見えるのだった。
エレベーターのないマンションなので階段をゆっくりと上りながら四階を目指し、途中三階から四階を繋ぐ中間点にある踊り場で立ち止まって荷物の確認をした。それが間違いなく入っていることを確かめてから最後の階段を上り、シンプルでそっけないボタンひとつのチャイムを鳴らした。やがて室内で玉のれんをじゃらじゃらかき分ける音がしてスチールのプレスドアがバタン、ギィーという一階まで聞こえるのではないかと思うほど派手な音を鳴り響かせながら開かれた。
「先生、こんにちは。きょうはお忙しい中をお時間つくっていただきましてありがとうございます」
先生はいつものようにニコリともせず「はい、こんにちは」と言いながら私にくるりと踵を返して背中で室内に招き入れた。先生に続いて玉のれんをかきわけて中に入ると、無数の瞳が私を迎える。この狭い空間に存在するこの大人数の沈黙は重く息苦しく、私の胸を圧迫する。天井の低いリビングの中央には、眼球がなかったり、四肢がばらばらだったり、へその緒がついたままだったりの赤ちゃんたちが畳二枚分もあるかと思われる作業台の上に無造作に並べられていた。接着剤や塗料、シンナーの匂いが部屋中に充満している。今ちょうどペイント中だったらしい赤ちゃんは、頬のあたりに赤みを帯びたひっかき傷が描かれている。まだ塗料が乾いていないようで、今にも血液が噴出しそうな生々しい傷口がなめくじのようにうごめいている。壁一面に取り付けられた棚には、標本のように並べられたブルーや褐色の眼球が入ったガラスケース、ふんわりとやわらかそうな髪の毛、胸からお腹、性器までつながったプレートたちが命の断片のように整然と並んでいる。コルクボードにピン留めされた赤ちゃんの写真は、この世に存在する人間だろうか、それともリボーンベビーなのだろうか。見分けがつかない。先生はまるで私の存在を忘れてしまったかのように作業台に座って片目ルーペを手に取り、まさに右目にはめようとしたので、私は声をかけた。

「先生、このコなんですけれど」
私はボストンバックからアンジェリーナを取り出した。慎重に、傷つけないように、お尻をささえながら抱き上げる。
「小鼻の脇の汗のぷつぷつのいくつかが取れてきてしまって、周囲のコーティングも剥げてなんだか汗ではなくていぼみたいになってきたんです。治りますでしょうか」
七十歳近いと思われるリボーンドール作家の彼女は、私の手からまるで初孫と対面するかのような目をしてそっとアンジェリーナを受け取り、やがて不思議なリズムで揺らしながらうなずき、微笑み、そして私にはわからない言語で対話しているかのようにコンタクトをとりはじめた。
二年前、駅前のブックセンターで偶然手にした雑誌で初めて彼女の作品を目にして以来、この人間を超えた赤ちゃんたちに触ってみたい、匂いを嗅いでみたい、そしてできることなら自分のものにしたいと思ったのだった。しかし有名作家の作品ということもあり一体が高額でそう簡単に購入できるものではないため、考えたのがクラウドファンディングで資金を募ることだった。集めた資金をもとに数体購入し、同じ思いを持つ人たちを相手にレンタル事業を興すことはできないだろうかというアイディアだった。シンパシーを感じる人々は多くいて資金はあっという間に集まった。そして一体めは心に決めていたこの作家の作品アンジェリーナをオーダーで作成してもらったのだった。
このコは遊び疲れて眠りについた天使だ。唇は富士山のような形にめくれ上がり、小さなつやつや光った赤い舌が洞穴のような口腔内から見えている。小鼻の脇には朝露のような汗がぷつぷつと点在し、おでこの髪の生え際は生暖かい汗がにじみでている。
「先生、私もうひとり、アンジェリーナのようなクオリティの高いコが欲しいんです。多少お値段が張ってもかまいません。皮膚のつなぎめがなくて、髪の毛や爪や口の中や性器も、もっともっと本物に近づけてほしいんです。先生の技術なら、泣いたり笑ったり声を出したり、呼吸とともに胸を上下させたりすることも可能だとお聞きしました」
先生はアンジェリーナをベビーベッドにそっと置き、キッチンに行ってミルクをつくりはじめた。背中あたりまで伸ばした緩やかなソバージュヘアとくっきりとひかれた朱色のルージュは彼女のトレードマークで、いつもどんな時もこのスタイルが変わることはない。
「あなたね」、とだけ言って先生は粉ミルクが入ったマグカップを私に手渡し、作業台の前にあるスツールに腰掛けるように顎を上げて促した。
「あなたなにか勘違いしはじめたようね。アンジェリーナの顔を見たとたんすぐにわかりました。あなたにこのコを授けた時に言ったはずです。私は人形を作っているのではなくて魂をつくっているのですと」
「はい、それは」、よくわかっています、と言うすきを与えずに先生は言葉を重ねた。
「あなたは赤ちゃんたちを愛してはいないわね」
「そんなことはありません」
と私は強く否定した。そんなわけはない。本当にこのコたちといっしょに暮らしたいと望んだし、さらには私と同じ痛みを持った人たちともこの気持ちを共有する必要があると思った。そのためにできることがこのレンタル業だったのだ。
「いい?もう一度言います。私は魂をつくっているのです。あなたまさか、お弁当屋さんが「私たちは真心を売っているんです」とか保険会社が「信頼を売っているんです」とか宝くじ屋さんが「夢を売っているんです」とか、そういうことと同じようなもんだと思っていたわけじゃないわよね? 単なるもののたとえだと軽く考えていたわけじゃないでしょうね」
この様子では、きょうは修理はおろか新しいコのオーダーなど受けてもらえないだろうと私は思い始めた。
「この子たちはね、単なる漠然とした名前のない人形じゃないのよ。本当は生まれてくるはずだったのに、なんらかの事情で生まれることができなかった実在するコたちなんです。赤ちゃんの国からこちら側に来るためのパスポートが発行されたのに取り消されたり、押し戻されたり、否定されたりした子たちなのよ。そもそも本来なら、私はあなたのような純粋ではない動機でオーダーする人はお断りするはずなのにね。どうかしていたわ。あなたからの電話を受けたあの夜が満月だったせいかしら」
そう言ったとたんに彼女は「ん? なあに?」と急に優しく甘い声をのどから発し、ベビーベッドに駆け寄ってアンジェリーナを抱き上げた。アンジェリーナに呼ばれたらしい。そしてぷっくりと小さな唇に耳を寄せて「うん、うん、うんうんうん」と何度もうなずいて、そして「よし、わかったよ」と言ってから私に向かってこう言った。
「アンジェリーナはしばらく家に帰りたくないと言っています」
「あの。どっちみちアンジェリーナには、家を出る時に修理、というかいいえちょっとしたすり傷の手当てをしてもらう必要があるからしばらくおうちには帰れないよ、と言ってあるのですが」
「とにかく、きょうのところは帰ってください。またいずれご連絡します」
先生はそう言うとおんぶ紐でアンジェリーナを背中に括りつけ、私に背を向けて片目ルーペを手に取りリボーンドール制作の続きを始めた。
今朝家を出るときには右手にはサンドイッチを入れたクーラーバックを、左手にはアンジェリーナを入れたボストンバックを持っていた。しかし今両手は空になり、スマホとハンカチだけを入れた小さなポシェットを首から斜めにぶら下げている。向かった先はさっきサンドイッチを食べた公園のベンチだった。座って噴水を見ていたら一筋だけ涙がこぼれた。一瞬静まり返った噴水がまた勢いよく空に向かって吹き上げた。水しぶきが頬にかかり私の涙はかき消された。

夕方、おひとりさまカフェでドライカレーの夕食を済ませて家に戻ると、玄関ドアの前に大手通販サイトの白い段ボール箱が置かれていた。何か注文したのだったろうかと思いながら送り状を確認しようとかがんでみるとその箱のふたがもうすでに少しだけ開いていて人形の頭の部分が見えた。あの女がサエ子を返却してきたのだ。なぜ三週間以上も約束の期日を超過して、しかも謝罪もなく玄関先に放置するようなこんな方法で返却してきたのだろうか。私は腰をかがめて段ボールを持ち上げた。しかし、それはサエ子の重さや匂い、感触ではないということがすぐにわかった。そのコは段ボールの揺れに少し驚いたように黒目がちの瞳を見開らき、首をふり、小さな腕を付け根から動かして宙にある何かをつかもうとしはじめた。そして「へへ、へへへ、へへぇ」と唐突に声を発したものだから、私は驚く間もなく急いで鍵を差し込んでドアを開け、そのコを室内に入れた。
「来てくれたの? やっと来てくれたのね? 遅かったわ、遅すぎたわよ。ママ、ずっと待っていたのよ」
私はそのコを注意深く胸に抱きよせ、体温と匂い、そして心臓の鼓動を確かめた。やわらかい肉の中に内蔵された生命装置がドクン、ドクゥと規則正しくいのちを刻んでいる 生後三か月にも満たない新生児だ。窓辺のランプをつけたり消したりしてやると、黒い瞳は光を追って滑らかに移動する。私はもう一度玄関が間違いなく施錠されていることを確認し、カーテンをすべて隙間なく合わせて閉じ、外からうかがい知ることができないように注意をはらった。赤ちゃんは女の子だった。この体温と重さ、湿り気、排せつ物の色ととろみは、うちにいるどんなハイスペックのコたちもかなわない。ミルクを飲むときの神秘的なのどの音や動きは、あの高名なリボーンドール作家にだって作ることはできないだろう。この完璧な個体は私の足りなかったピースを埋めてくれるには十分だった。
それから私はインターネットで調べながら見よう見真似でキッチン用の洗い桶を使って個体を沐浴させた。驚かせないように少しずつぬるま湯をかけながらシリコンのつなぎ目やバリを探すように指をはわせたがどこにも分割線はない。
「あなたは絶対にレンタルしないからね」
いつもの就寝時間よりも二時間も過ぎた頃、私は唯一無二の生命装置を内蔵した完璧な個体を展示室に連れて行った、サクラ子やマリ子、ガブリエルたちが眠るベッドにそれを並べると、うちのコたちとは明らかに異質であることに私は少しいら立ちを覚える。サクラ子の冷たいほほと、そのコのレンジで温めた酢甘のようなほほ。ガブリエルの傷んだ化学繊維のような髪の毛と、なぜると滑るようにひんやりとして頭蓋骨までも手指に感じる肉から生えた髪の毛。私はさらにネットで調べ、それが致命的なエラーを起すことがないように取り扱いマニュアルを頭に叩き込み、ベッドに横たわって胸の上下を繰り返すコを日が昇るまでただじっとそこで見つめていた。
夜が明けても、そのコはまるで人形のようにしんと眠っていた。淡い月光のような顔色、黒く濡れた長いまつ毛、花びらのような唇。人形ではない動いて泣いて笑う本物の赤ちゃんだ。私は思わずあたりを見渡してしまう。朝のニュース番組やネットニュースでも、どこかで新生児がいなくなったという事件は報じられていなかった。ここにこのコを置いて行ったのは間違いなくあの女だろう。しかし彼女と連絡が取れない以上、私はこのコを連れて交番に行くとか、110番通報するとか、なんらかのアクションを起こすべきなのだろう。もう一度カーテンの隙間から外の様子をうかがいながらそう考えていた。でもまずはミルクを飲ませ、そして自分用のコーヒーを淹れてからだ。それからでもいいだろう。そう決めた時、玄関のチャイムが鳴った。誰だろう。ドアを開けようかどうしようかと迷いながら今ここに人間の赤ちゃんがいることの言い訳を考え始めた時、またあの時のようにその誰かが玄関ドアに手をかけて力任せに押したり引いたりし始めた。
「ちょっと! すいません。開けて! 開けてくださる?」
ドア越しに聞こえたのはあの女の声だった。
「赤ちゃんいるでしょう?赤ちゃんいるわよね?知ってるのよ、私。開けて、開けてちょうだい」
隣近所に聞こえそうな大声を張り上げながら、今度はドアをどんどんとたたき始めた。
そう、赤ちゃんはいる。いるのは当たり前だ。ここは「リボーンドールレンタルサロン」だもの。しかしそんな近隣への言い訳を考えている場合ではなかった。私は玄関に走りこんでドアを開け、彼女の腕をつかんでとりあえず中に入れた。
「お借りした赤ちゃんの返却期限が過ぎてしまってごめんなさいね」
女はふてぶてしくそう言った。
閉め切ったカーテンの隙間から朝の光が漏れはじめ、赤ちゃんはそれに反応したかのように小さく伸びをした。彼女はクーハンに近づいて本物の赤ちゃんを覗き込んで確認し、それからひとり掛けのソファにため息とともにどさっと腰掛けた。
「なんだかもう一日、もう一日と別れを惜しんでいるうちに日にちが過ぎていってしまって。サエ子ってなんだか愛嬌があるのよね〝ぶさかわ〟っていうの? すごく私になついてくるし、泣き声がかわいいのよね。ちょっとしたことでもうこの世の終わりみたいな絶望的なリアクションで泣き続けるんだもの。だからね、離れがたくなっちゃったのよ。でね、早く返さなきゃって思ってたんだけどいろいろあってね。そのうちよくよく考えたらあなた、もしかしたらサエ子みたいな偽物よりも本物の方がいいと思ってるんじゃないかと思いついて、で、そのコを置いておいたのよ」
「この赤ちゃん、どうしたの?」
「私のコよ。正確に言うと、私が産むはずだったコよ」
私はあきらめてスツールを引き寄せて腰かけた。
「本当よ、私が産むはずだったコよ、十五年前に。でもね、あなたのせいでそれができなくなった。せっかく赤ちゃんが私のところに来たいって言っていたのに、そのコの父親である私の夫をあなたが連れ去ったから」

彼女の甲高い声のトーンがワンオクターブ下がって、夫だという男の名前を告げた。私は一瞬息が詰まりそうになりながら、女の姿を改めてまじまじと見つめなおした。長い顔、両脇あたりまで伸びた赤茶けて傷んだ髪、ウエストは細いが骨格はしっかりとしていて、年齢には不釣り合いなフリルのついたピンク色のブラウスに、チュールのロングスカートをはいている。彼女の外観から得られる情報からはなんの好ましさも感じられなかったけれど、でも私と彼女にはいくつかの重大な共通点があるのだということだけははっきりとわかった。
「夫はある日突然いなくなって死んで帰ってきた。しかもややこやしいのよね。その時夫が亡くなった場所にいっしょにいたのはあなたではなくてまた別の第三の女だった」
彼女はドキュメンタリー番組にナレーションをつけているかのように、どこか他人ごとみたいにそう言った。少なくとも、私への感情は憎しみよりも、私たちの知らない第三の女から受けた傷を共有すべきだと考えているかのようにも思えた。それにしてもこの女と私が同じ男を愛したなんて、目の前の彼女を見る限りなんのシンパシーも感じることができなかった。
「彼が旅先で死んだこと、人づてで知ったのよ、私。その第三の女とあの人とはどういう関係だったの?」
彼女は抑揚を抑えた低い声で答えた。
「同じ会社の新入社員だって」
それから私たちのあいだに長い沈黙が流れた。そのいつ終わるともわからない静寂の中で、私は彼女と共有している痛みや、秘密や、もう取り戻すことのできない時間の流れを思った。私は立ち上がり、赤ちゃんの寝顔を覗き込みながら静かにカーテンを開けてたっぷりとした朝の光を取り込んだ。こうして見ていると眠っていて動かない赤ちゃんはリボーンドールと全くといっていいほど見分けがつかない。私は思わず抱き上げて首の後ろやどこかに刻まれているかもしれないシリアルナンバーの刻印を探した。それから赤ちゃんのためのミルクと、少し疲れた中年女ふたりの朝のコーヒーを淹れるためにキッチンに立った。ミルクが入った哺乳瓶と、赤と青のマグカップに淹れた熱いコーヒーをトレーにのせてリビングに戻ってきた時、彼女は泣いていた。声も出さず呼吸も乱さずに。コーヒーテーブルにカップを置くコトリという音が静寂の中に響いた時、彼女は口を開いた。
「月のきれいな夜にね、サエ子を抱いて公園に行ったのよ。駅裏の小さな教会に隣接しているあの公園よ。そこで赤ちゃんをこう胸に抱えてベンチに座っている若い女の子に出逢ったわ」
彼女は両腕で赤ちゃんを抱くような身振りをし、やがてそこに本当に赤ちゃんがいるかのように揺らしてしばらくの間言葉を飲み込んでいた。
「それでね、ひと目見て彼女は赤ちゃんを育てることができないんだなってわかったのよ。だから〝取り換えっこしようか〟って提案したの。そうしたら彼女、サエ子を受け取って赤ちゃんを差し出したわ。〝いらない〟って言う人からもらっただけよ。同意の上で交換しただけなのよ。むしろ助けてあげたのかもしれないじゃない。赤ちゃんは温かくて、重くて、ミルクとヨーグルトの匂いがした。若い母親がサエ子を抱いて立ち去っても、赤ちゃんは泣きもしなければなんにも言わなかったわよ。だからこれでよかったのよ。そしてこのコと一晩過ごしたら、こんな幸せがあるんだなって思った。私、赤ちゃんのぽやぽやの頭に鼻をうずめながらこの奇跡のようなひとときを大切に噛み締めたわ。そしてふたりで一晩眠ったら、翌朝あなたのことを思い出したの。あなたもきっと、私とどこか似ている気がしたから」
哺乳瓶のミルクがちょうど人肌くらいの温度になった時に赤ちゃんがふがふがし始めたので、抱き上げてひざに乗せ、ミルクを飲ませながら気になっていたことを質問した。
「最初から私のことを知っていてここへ来たの?」
「そうよ」と言って彼女は立ち上がり、部屋を出て勝手に展示室に行ってサクラ子を抱いて戻ってきた。
「あの男、あまりにも無防備だったのよ。あなたとのメールの履歴やふたりで写った写真なんかも削除しないで残していた。最初から隠す気もなかったのかもしれないけれどね。ある時、彼が一方的によくわからない身勝手な事情を言い残して私の前からいなくなり、そうかと思ったら今度は突然死んで帰ってきて、それからずいぶん時が経ってやっとひとりに慣れてきた頃、あなたがクラウドファンディングでリボーンドールのレンタル業を立ち上げたという新聞記事を見つけたわ。小さいけれど彼の携帯電話の中で見たあなたの顔写真が載っていたからすぐにわかった。でもね、だからといってどうするつもりもなかったんだけど、ついこのあいだ駅前の〝おひとりさまカフェ〟で偶然あなたを見かけたのよ。私から彼と私たちに授かるはずだった赤ちゃんを奪ったくせに、それなのにあなたは今きっとものすごくひとりなんだと思った。だからどんなひとりなのかを確かめてみたくなったのよ」
「言っておくけど〝奪った〟っていう言い方は適切じゃないわよ。私が彼の意志を無視して一方的にからめとったわけじゃない。大人の男女が話し合って決めたことよ。それに心変わりは裏切りじゃない。この世の中は本当に愛し合っている者どうしがいっしょになるべきなのよ。きっと彼だって、最初はあなたを愛していたんでしょうね、結婚までしたくらいなんだから。でも途中でこれは違うと思ったのよ、あなたの・・・なんだかそういういろんなところが嫌になってきたのよ。それとも私と出会って気持ちが私に移ってしまったんだわ。そういうことって本当はよくあることでしょう? そもそも永遠の愛を強要するなんて無理なことなのよ」
「そう。だったらその言葉をそっくりあなたにお返しするわ」
結局彼はその後、私と彼女の知らない女と特別な関係になっていた。もしかするとそれはただ気まぐれにふたりだけで小旅行に行ったというだけのことだったのかもしれないけれど本当のところは今ではもうわからない。
「だけど彼、戸籍上はあなたの夫よね」
「なんだかもう、それにどんな意味があったのかさえ今となってはわからないわね」
彼はどうしてこの女を好きになって結婚までしたのだろう。少なくとも私は彼女の外見や表情、言葉の選び方、しぐさ、ちょっとした時に垣間見える感情の動き、とにかくなににも好意は持てないし、別の出会い方をしたとしても決して友だちにはしないタイプだ。彼女はもうそれ以上何も言葉を発するつもりもなくなったのだろう。さきほどからずっと天使と戯れている。私はふたりのマグカップのコーヒーがすっかり冷めてしまったことに気が付いてキッチンに立ち、ミルで丁寧にコーヒー豆を挽き、もう一度二人分のマグカップにたっぷりと濃いめのコーヒーを注いだ。リビングに戻ってきた時、彼女はさっきと同じようにサクラ子を抱いてあやしながら人間の赤ちゃんとも戯れている。さっきからここであたりまえのように過ごしている彼女の遠慮のない姿を見ていると、まるでずっと以前からここに住み着いていたかのような錯覚を覚えて、ただ唯一言えるとすれば、私たちはいくらでも沈黙を共有できる間柄なのかもしれないなとその時思った。

まぶしいほど差し込んでいた朝の力強い日差しがいつのまにか急速に翳りはじめて、暗い雲に覆われた空から地鳴りのような雷が鳴り響き、やがてそれは地面を打つ大雨になった。
「私たち三人だけが外界から取り残されているみたいね」
そう彼女が言ったのは時計が十二時を回ったころだった。
「お腹すかない? スパゲッティなら作れるわよ、昔ながらのナポリタン」
「いいわね、いただくわ」
お昼時、今この同じ時間にどれくらいの人がパスタを茹で始めているだろう。どれくらいの男女がパートナーを取り換えようとしているだろう。そしてどれくらいの赤ちゃんがこの世に産まれ出ようとしているだろう。
私はキッチンに立って二・二mmの太めのパスタを茹で、ニンニクと顆粒コンソメとケチャップたっぷりの特性ナポリタンをこしらえた。考えてみたら二人分の食事をつくるなんて、彼と暮らしていたあの時以来のことだ。ふたりで暮らした一年あまり、私は彼をどんなふうに思って、どんな話しをしながら、どんな未来を思い描いていたのか、今ではもう全く思い出すことができなかった。ふたり分のスパゲッティナポリタンを二枚のプレートに盛り付け仕上げに乾燥パセリを降りかけてテーブルに運ぶと彼女は何も言わずに食べはじめた。私たちのあいだには、パスタをフォークに巻き付けるクチャッ、クチャッという粘り気のある音と、口に入れて咀嚼してはのどに流し込むぐにゅっという粘膜の軋み音だけが交互に二重奏のように響きわたった。彼女はスパゲッティを食べ終えると口の周りについた油まみれのケチャップをティッシュでぬぐい、冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干した。
「コーヒー淹れるわよ」
私は食べ終えた皿を持ってキッチンに行こうと立ち上がった。
「私、いつのまにかいろんなことを間違えて、いろんなことを見落として、間違った努力ばかりして今日まで来てしまったような気がするわ」空になったマグカップを握りしめるように抱えながら彼女は言った。「皆誰だって孤独に陥らないように注意深く日々を積み重ねているのに、私はいつどこで大事なものを失ってしまったのか、それさえもわからないのよ」
雪の降り積もった道に音もなく落としてしまった手袋のように、その気配にさえ気づかずに歩き続ける彼女を私は想像した。
「いろんな選択肢があったのにね。私だって同じだわ。でもね、これからも私は私として生きていく。だからあなたはあなたとして生きていきなさいよ。もうあと残りの人生はフィーリングと心意気よ」
キッチンに立ってふたり分のコーヒーを淹れて戻ってくると彼女は姿を消していた。今まで座っていたひとり掛けのソファの背もたれはへこんだままで、クッションは無造作に足元に投げ出されていた。あわててベビーベッドをのぞき込むと、赤ちゃんはさっきと同じように、リボーンドールと見分けがつかないほどおとなしくすやすやと眠っていた。
(第02回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『赤ちゃん貸します』は毎月15日にアップされます。
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


