〝出来事〟はどうしようもなく、取り返しようもなく起こる。しかし緻密に分析していけば、それは〝偶然〟ではなく〝必然〟だったと考えることができる。だが本当にそうだろうか。〝出来事〟は〝偶然〟も必然〟も超えた決定的衝撃なのではあるまいか――〝「必然」と「偶然」、「此岸」と「彼岸」とが交わるパラドキシカルな時空〟ではないのか。自らの内に原罪を抱え、文学と哲学に救済を求める作家の新評論連載!
by 金魚屋編集部
Ⅰ 九鬼の偶然論
さっそく九鬼の偶然論へ分け入ろう。
まずはその全体像を粗描する。巷間知られるように、九鬼は「偶然」の本質を「必然」という概念の否定あるいは裏返しとして三つのカテゴリーに分け、それぞれ(イ)定言的偶然(論理的偶然)、(ロ)仮説的偶然(経験的偶然)、(ハ)離接的偶然(形而上的偶然)と呼んだ。
順を追ってみていこう。
なお「必然と偶然」という事態と「必然と偶然」という概念とは、げんみつには区別しがたい。また、あえて区別する必要もないと思われる。「必然」も「偶然」もそれを事態とみるにはその概念が確立していなくてはならないし、それを概念として理解するには、具体的な現実の事態に則してみなくてはならない。このように互いを補うような事態=概念について本稿では、とくに断らない限りいずれをも指すものとする。
(イ)定言的偶然
〝定言的偶然(論理的偶然)〟とは、「AならばA」という「同一律」をはみ出すようなものごとをいう。具体的には、ある概念にかかわりをもちながら、その本質を構成しないものごとを指す。たとえば三角形という概念にとって、①同一直線上にない三点と、②それらを結ぶ三つの線分 からなる図形であることは、その本質を構成する。このとき三角形であることと①②とは、「必然」の関係にあると言える。けれど③内角の和が二直角であることは、ユークリッド幾何学の立場では必然であっても、非ユークリッド幾何学からみれば、三角形であることの本質を必ずしも構成しない。したがってそれは三角形の属性のひとつではあっても、「必然」ではなく「偶然」、つまりたまたま三角形の性質のひとつに挙げられるにすぎない、ということになる。
ところで以上のような結論がみちびけたのは、「必然」と「偶然」とは互いに排他的な対概念として一般的にみなされているからである。「必然」でなければ「偶然」であり、「偶然」でなければ「必然」である。
わざわざこんな注釈を加えるのは、この関係は固定しているとは限らないからである。四つ葉のクローバーは、三つ葉のクローバーを同一律の基準とすれば、およそ一万分の一の確率で発生する変異体である。これはつまり自然のおりなす「偶然」の所産である。だが四つ葉となる理由をつきつめていけば、そこにはきっと遺伝子や細胞の変異をうながす土壌・気象などの環境条件といった科学的根拠が認められることだろう。こうして「偶然」とされた同じそのものが「必然」へ転じることになる。かたや「必然」から「偶然」へ転じる場合、さっきの非ユークリッド幾何学のような逆のケースもありうるわけだ。ここに「AならばA」という同一律を基準とした「~でなくてはならぬ」という「定言的」な「必然」の論理世界から、「AならばB」という理由律にもっぱら準じるわたしたちの経験世界・生活世界へと移り行く契機がある。理由律「AならばB」とは、手っ取り早く言えば「風が吹けば桶屋が儲かる」世界のことである。
(ロ)仮説的偶然
〝仮説的偶然(経験的偶然)〟とは、この「風が吹けば桶屋が儲かる」(AならばB)という理由律、これを因果性ともいいかえられるが、それによって「必然的に」成り立つ世界がまず前提されていることを押さえておかなくてはならない。それをはみ出すようなものごとは、偶然の所産である。(イ)の〝定言的偶然(論理的偶然)〟の基準である同一律に対し、理由律はもっぱらわたしたちの経験則に基づいて、伝承をベースにして形作られてきた。そこへ仮説と検証のくり返しという手法によって、その質と精度を飛躍的に高めたのが西洋近代科学だったのは、周知の事実である。同一律の世界を経験に先立つという意味でアプリオリ、理由律の世界を経験則という意味でアポステリオリという対比でとらえてもいい。ひとことで言ってしまえば、わたしたちにとって納得のいく整合的理由さえあれば、AとBとの間には必然的な関係があるとみなされ、そうでなければその関係は「偶然」あるいは「無関係」とみなしうることになる。
すると問題は、その整合性の基準はなにかにある。九鬼の主著に数えるのがふさわしい「偶然性の問題」では、音韻や姓名判断の例が挙げられている。前者は字面も意味も由来も異なる語が音韻上、たまたま一致をみる場合(「一」と「市」、「選考会」と「先公かい」など)、他方は姓名や生まれ、由来は何のかかわりもない者どうしが、たまたま共通の含意をもつ場合(姓名判断における画数とそれが示唆する運勢や性格、相性など)である。いずれも互いに無縁だった縦糸たちが、音や画数という横糸で「偶然」に結ばれ、それまでになかった布地が織り上がる。この場合の横糸が整合的理由であり、互いに無縁だった縦糸どうしがそれによって結ばれる。こうした「偶然」のおりなす出逢いのことを九鬼は〝邂逅〟と呼んだ。
いま挙げたのは、基準が比較的わかりやすいケースである。次のケースはどうだろう。サイコロを振る。たまたま「1」の目が出た。サイコロを振って「1」の目が出る確率は六分の一だ。そこで「1」が二回、三回と連続して出たら、そのたびに確率は累乗で低くなっていくだろう。ならば、それに反比例するように「偶然性」の度合いは高くなる。そう考えていいだろうか。
それを「偶然」と考えていいかは、疑問だろう。仮にプロセスの起点を「サイコロを振る行為」としてみよう。決定論的立場からみれば、「1」の目が出るのは当の行為の時点ですでに決まっていた。と言って語弊があるなら、賽を投げる時の角度や強弱、どの面を上にするか、手を放すタイミングといった、解析していけばいずれ特定されうる明確な原因があり、だからこそ「1」という結果もある。それゆえこれは確率の問題ではなく、因果必然の問題である。それが確率の問題にみえてしまうのは、わたしたちの無知に因るにすぎない。
かくして「偶然」とは、わたしたちの知が不完全ゆえにもたらされる暫定的かつ過渡的な認識の産物にほかならない――九鬼はスピノザを引きつつ、そのような見解を披瀝する。ただしこれは九鬼自身の見解ではない。いわゆる「固い決定論」の立場からみた考え方を例示しているだけである。ちなみに今日の量子論もこの考え方を排除しないだろう。ここで俎上に上っているのは、量子論にいう〝確率論的状態〟とその収束、あるいは量子論を真っ向から否定したアインシュタインに代表される決定論との対立レベルなどではなく、それ以前のレベルの問題だからだ。つまり、日常的な因果性の思考の域を出ないのである。
では、そうなると「偶然」とはわたしたちの知の不完全性をしか、意味しないのだろうか。
ある日、Aさんが駅のホームを歩いていると、一枚の紙切れがどこからか風に吹かれて宙を舞い、かれの顔にペタリと貼り付いた。手に取って見ると、それは一枚の宝くじ券だった。電車が入ってくる直前、何気なく横を見ると、もう十年来会っていなかった旧友のBさんがいるではないか。くじに興味がなく、捨てようと思っていたAさんは、思わずBさんにそれを手渡したが、じつはBさんは借金に追われ、身投げしようと電車を待っていたところだった。Bさんはホームの売店で新聞を買うと、捲ってみておどろいた。その紙切れが三億円の当たりくじだったのだ。欣喜雀躍したBさんはAさんに感謝し、仲良く山分けした。
めったに起きないことが身近で現実に起きたという意味で、その出来事、あるいは出来事の稀有なことを「たまたま」「偶然」と形容するのは吝かではあるまい。
問題はそれを「偶然」と呼んだ理由である。
これもサイコロと同様、決定論的な立場を推し進めるなら、かれら二人が幸運を手にするまでのいっさいのプロセスは、あくまでも物理的因果性の下になくてはならず、したがってそこには「偶然」の入り込む余地などないことになる。
そうではない。
「偶然」とは、わたしたちの無知に起因する、かりそめの概念などではないのだ。このケースで含意されているのは、次のことである。Aさんと、もともと関心のなかった宝くじとの風を媒介にした遭遇、AさんとBさんの十年越しの出会い、そして、ことをつなぐハブの役割を果たした「駅のホーム」というトポス(場所)等々……これらそれぞれに独立した、もとより互いに無縁または限りなく希薄な関係の複数の因果系列が交わって、僥倖としか言いようのない出来事が二人の身に生じた。「偶然」とはそのことをいう。
いや、その僥倖もまたさらに大きな因果の鎖につながれていて、じつは準備された出逢いであって、ことの次第はあらかじめ決まっていたのだと反論することはできる。しかし問題の本質はそんなことにはない。どんな出来事だって、出来事ならばそれはいつ、どこだってそのようにして起こっているはずではないか。その意味では出来事とはみなフラットで平等なものでなくてはならないだろう。肝心な点は、当の出来事がとうていありえない僥倖としてわたしたちに訴えかけ、驚異の念をもたらすそのこと自体にある。つまり出来事がわたしたちにもたらす経験の意味にこそある。因果的必然とも「偶然」とも言って片付けられないほど尋常でない性質をおびた出来事のあらわれかた、ありかたそのものに心打たれる経験が誰しもあるだろう。その底に「偶然」があるのだ。
「とうていありえない」と言ったが、それは現実に起きた事実である。わたしたちによる恣意的な意味付けをはるかに超えて目の前に突き付けられる、それが現実というものではあるまいか。客観的な科学の裏付けがあろうとなかろうと、主観の色付けが入っていようと、現実は現実であり、それらも現実のひとつでしかない。その意味や根拠を問いようがないほどの過剰に巻き込まれ、翻弄される現実の経験を大昔から人びとは「恩寵」「奇遇」「奇瑞」「奇跡」「神意」「瑞兆」「天啓」などと呼び、よろこびおそれてきた。一九五二年、心理学者のC・G・ユングがこれを、意味ある偶然の一致という意味で「シンクロニシティ(synchronicity、共時性)」と名付け研究テーマにして以来、学際的な研究者や好事家たちの関心を呼ぶようになったのは周知のとおりである。
ユングにすくなくとも二〇年以上先行して、九鬼はこの現象に注目していた。独立した因果系列を連綿とたどってきた異なる出来事どうしが、それぞれの文脈や次元を飛び越えて遭遇し、わたしたちにすくなからぬ影響の痕を残して去っていく――〝邂逅〟という、この世界の生成変化に深く与ると思われるダイナミズムをかれは見出し、そこに「偶然」の真面目があると考えた。それは「ある」と「ない」、「必然」と「偶然」、「此岸」と「彼岸」とが交わるパラドキシカルな時空である。しかもそれは、わたしたちの日常の中でいつ、誰にでも起こっているのだ。とどのつまり〝邂逅〟とは、わたしたちと出来事とのありとあらゆるかかわりの、その底のまた底に横たわる偶然性のことである。
このように「偶然」は、わたしたちが思うほどかりそめなものではなく、とうに完成された概念としてわたしたちを捉え、動かし続けてきた。九鬼は、おそらくそう言いたかったのである。
(ハ)離接的偶然
サイコロの話に戻る。
任意の賽を振って「1」の目が出るに至った因果の鎖の仔細が詳らかにされたとしよう。それでもなお、「サイコロを振って、出る目には六通りの可能性がある。」と主張することには何ら整合的矛盾はない。なぜならこの主張は、必ず特定の目が出るようなサイコロの振り方(イカサマのやり方)を指南しているわけではなく、たんにサイコロの特性を語っているにすぎず、その特性に基づいた可能性の話をしているだけだからだ。
可能性という観点からすれば、サイコロを振って「1」の目が出ることも、それ以外の「2」から「6」までのいずれの目が出ることもひとしく可能である。というより、拍子抜けするかもしれないが、サイコロとはもともとそういうものなのである。正六面体と自然数の性質にしたがって、出ることが期待される目(たとえば「1」)を、出る可能性のある目の描かれた面の総数(「6」)で割ったのがこの場合にいう確率である。確率とひと口に言っても、サイコロを振れば振るほどマクロ的にはそれに漸近するような蓋然的な値(この場合なら六分の一)をいうのであって、実在しない仮想値でしかない。この意味では九鬼のいう〝定言的偶然(論理的偶然)〟と〝仮説的偶然(経験的偶然)〟、それぞれの特徴を利用してわたしたちが作り出した遊戯、それがサイコロの本質なのである。

六分の一の確率を覆すような、それを会得すれば誰もが出したい数を出せる画期的なサイコロの振り方が確立されたとしよう。その場合でも「1」が出る振り方は数えきれないほどあるだろう。そして、その中でどの振り方を採用するか、丁と半を決定づける分岐点には、依然として「偶然」が与っていると考えることができる。
いや分岐点などというものはもともと存在せず、存在するかにみえるプロセスもまた、あらかじめ決まっていたと考えることはでき、こうして六通りの目が出るパターンはそれぞれの目ごとに系統図を描いて横へ横へと広がりながら、縦にどこまでも遡りうる。しかし、
窮境的な立場においては、他の必然性をもった因果的系列をもとり得たと考えられる点、裏返せば、いま現実として与えられた因果系列が必ずしも絶対性をもっていないと思惟しうる点、すなわち可能性と現実との間に齟齬が存すると考える点に、偶然性が存するのである。
(「問題」二一六頁)
これが〝離接的偶然(形而上的偶然)〟である。
なぜ「離接」というのか。九鬼の説明ではわかりにくいと思うから、もうひとつ例を挙げよう。
リンゴの実が木から落ちる。これは、万有引力の法則があてはまるすべての物体を集合Sと考えた場合、その元(要素)とみなしうる。つまり、リンゴは当該法則にしたがって必然的に落ちたのである。けれど、そのとき落ちたのはリンゴの実でなくてもよかった。柿の実でもミカンの実でもよかった。落ちたのはたまたまリンゴの実だったにすぎない。万有引力の法則は、地球上へ落下する物体の種類までは問わない。万有引力という全体にとってはたまたまでしかないリンゴの実も、植物の実という全体にとってはその一部分として必然的な存在とみなされる。
このように、全体に対して部分が離れる場合(偶然)もあれば、接する場合(必然)もある。これが九鬼のいう「離接」の意味である。一般に、どのような対象でもそれを一部分(これを離接肢という)とする全体を思い描くことができる。リンゴの実を離接肢とするのは果物であり、果物を離接肢とするのは植物の実、植物の実なら生物、生物なら有機体というように。こうして、すべての対象を包み込む全体がただひとつだけ存在する。それが神である(九鬼はこれを「形而上的絶対者」と呼んでいる)。
神とはなにかという問いは哲学の問いとしてはたいへん興趣にとむが、話がどこまでも脱線して戻って来れなくなるからいまは措こう。外れてはいけない本筋は、「窮境的な立場」から任意の因果系列の鎖をどこまでも遡行していくならば、いつかはこれ以上遡れない最古の原因に突き当たるだろうということである。それが九鬼の唱えたもっとも中核的な概念といえる〝原始偶然〟である。このとき遡行がじっさいに可能か、どこまで可能かは問題ではない。それは思惟の可能性としての形而上学的遡行であり、その果てなのである。
「可能性と現実との間に齟齬が存する」と九鬼の語る点については、重要な指摘なのでもうすこし補足しておかなくてはならない。
三億円の宝くじはじっさいはBさんに当たったのだが、可能性という観点からは、BさんでなくAさんやそこに居合わせた他のどの人の手にわたっても良かったのである。およそどのような現実に対しても、そうでないあらゆる可能性を考えることができる。逆にどのような可能性もそれが現実化することを保証しない。ちなみにこれは確率の話ではない。明日は雨になるという天気予報の確率が九九・九%だとしよう。ほとんどのひとは予報にしたがって傘を用意するだろう。しかし屁理屈をこねるようだが、明日雨が降るであろうこととじっさいに雨が降ること、言いかえれば任意の出来事が現実化する可能性とそれが現実化することとは、まったく異なる事態である。前者は確率がそれに貢献するが、後者にとって確率は何の意味もなさない。意味をなすのはげんに雨が降っているか降っていないかということであって、雨が降る確率が〇・一%だろうと九九・九%だろうとどうでもいい話である。そこに「齟齬が存する」のであり、「現実」のこの絶対性、意味の届きえなさ、そこに「偶然」が真の素顔を見せるのである。
Pという出来事はQでもありえただろう。Rでもありえたに違いない。わたしたちはものごとをそのように考え、これから起きるであろうことに身構える。一方で、起きてしまったことは動かない。雨予報を無視して傘を持って行かせなかった夫が、ずぶ濡れになって肺炎を起こし帰らぬ人になってしまった。この事実はいつまでも反芻され、あのとき傘を持って行かせればよかった、すぐ医者に診せればよかったという後悔の念とともに、ときにはトラウマとなってそこから逃れられなくなることだってある。
あらゆる可能性がショーウィンドウの中の商品のように並んでいたのに、なぜ現実はSただひとつであるのか。Sを選んだ私はほんとうに自由意志によって選んだのか。ほんとうにSでなくてはならなかったのか。運命の悪戯か微笑みか。こうしたたぐいの問いに正答はない。それに意味を付けることはできないのだ。これを裏返せば、どんな意味を付加することもできる、ということでもある。「現実化」は意味の「かなた」にあるのだ。それゆえ問いはいつまでも終止符を打つことができない。
ここに深く与っているのが「偶然性」なのである。
「偶然性」は、このように「必然性」や「可能性」に対する「現実性」といった、哲学でいう様相概念とのかかわりでとらえ返される。しかしそれとともに、それらの概念の道具立てでは手が及ばないような形而上学的な岩盤によって逆に撥ね返される。それが〝原始偶然〟であり「現実性」なのである。げんにかくかくしかじかであること。じっさいはかくかくしかじかであったこと。この場合の「現実性」は、たんなる様相概念のひとつでありながら、それを大きくはみ出している。
日頃わたしたちは意識すらしていないけれども、固かったり柔らかかったりと、硬軟さまざまなグラデーションをおびる決定論的世界や、こうもありうる・ありえたという可能性の世界とともに、さらにそれを越える視点から二重写しのように俯瞰してものごとを見ている。それが「偶然性」という視点である。これはレトリックのように思われるかもしれないが、必然的にかかわってくる「偶然性」もあれば、偶然にかかわってくる「必然性」もある。両者が交わる汽水域をさらに観察していくならば、いずれ「必然」と「偶然」という区別自体、機能停止するような生きものの生態が見えてくることだろう。だが先は急ぐまい。
以上イロハが、九鬼の言う「偶然性」の三つのカテゴリーである。
萩野篤人
(第02回)
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