r_essay_03_cover_01%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%94%e3%83%bc

 

 

 プロ野球の引退試合に反対する識者やファンは少なくない。ペナントレースの終盤、すなわち公式戦として開催されることがほとんどだからだ。

 一般的に引退試合は去り行く選手に餞別を贈る意味合いで開催されるため、少なからず真剣勝負の緊張感が薄れてしまう。たとえば、本来なら一軍レベルの実力ではなくなったロートル選手が「引退試合だから」という理由で特別にスタメン起用されたり、対戦相手の投手や打者がロートル選手に勝手に配慮して手心を加えたプレーをしたり、要するに引退試合からはそういう方八百長みたいな茶番が生まれる危険性がある。だから公式戦でやるべきではない、という理屈だ。

 これに対して引退試合に賛成する人は、各チームの順位が決定したあとの、いわゆる消化試合なら良い、という主張をしばしば繰り返す。しかし、プロ野球というのは個人の通算記録も重視されるスポーツであるため、反対派はたとえ消化試合であっても通算記録に傷がつくことを嫌がる。方八百長によって生まれたホームラン一本でも、それは投打ともに公式記録として残ってしまうからだ。

 だから反対派は、シーズンオフの各種イベントやオープン戦などといった非公式戦の中で引退試合を行うべきだという。かつての江夏豊や江川卓などがこのパターンだった。あれだけの記録と記憶を残した名投手であっても、公式戦や通算記録の権威を汚すことなく、ひっそりユニフォームを脱いだのだ。

 

 さて、遅くなったが、ここからは私の意見です。

 実は私、幼いころからプロ野球(阪神)ファンなんです。これを知っているあなたは、おそらく普段からプロ野球メディアに目を通しているのでしょう。

 まず大前提として、私はそもそも引退試合の類が苦手なのである。

 いや、正確には引退試合そのものではない。試合後のセレモニーで選手がスピーチをしたり、花束をもらったりする、あのシーンが苦手なのだ。

 理由は実にシンプルだ。

 みんな、よく泣くからである。清原も長渕の隣で泣くからである。

 ご承知の通り、一般的に引退セレモニーでは当該選手はもちろん、その家族やチームメイト、球場にいるファンの多くまでもが涙を流すことになっている。主催者もそれをわかっているからこそ、あえて感動の涙を誘うような演出を仕掛けることになっている。私は昔から、あの一連を正視できないのだ。

 これはドラマや映画などのフィクション作品でもそうなのだが、悲劇の場面であれ感動の場面であれ、私は他人が泣いているところを見ると、なんだか妙に心がバタバタして、思わず目を逸らしてしまう。冠婚葬祭でも誰かの涙が目に入ってきたら、もうその場から逃げ出したくなってしまう。涙というのは、言わば剥き出しになった感情の塊みたいなところがあるからして、私は他人の全裸を見てしまったような、つまり見てはいけないものを見てしまったような、そんな戸惑いと居心地の悪さを覚えて、気持ちが落ち着かない。根が小心者なのだ。

r_essay_03_01

 以前、裁判の傍聴を趣味にしている方々を取材したことがあったが、彼らは他人の涙を見ても動じないと言っていた。むしろ、悲嘆の場を覗き見ることがお好きらしい。なんとまあ、強いハートの持ち主だこと。私とは正反対だ。

 話を戻します。

 このように、私は引退試合と相性が悪いわけだが、だからといって引退試合すべてに反対するつもりはない。全反対はさすがに狭量でしょう。彼らの理屈は確かに正論だが、たとえば偉大な功績を残した一部の超大物選手だけに限定するなら、最後の出場試合をイベント化するくらい(たとえ公式戦の中の茶番であっても)、私の中ではいわゆる「清濁併せ呑む」の範囲内だ。正論とはあくまで理論上の正義であって、それが必ずしも世の道理にかなうとは限らない。

 ただし、そういう超大物のレベルに達していない(と客観的に判断できる)選手が引退試合をやるとなったら、途端に文句を言いたくなる。

 なにしろ、近年は引退試合が激増しているのだ。かつてのように超大物だけの特権事項ではなくなり、一軍でそれなりに長く活躍した選手であれば、たいてい開催されるようになった。実際、今季も横浜DeNAの三浦大輔を筆頭に、千葉ロッテのサブロー、北海道日本ハムの武田勝、阪神の福原忍、広島の倉義和と廣瀬純、オリックスの小松聖など、多くの選手に引退試合が用意された。

 正直、誰彼かまわずやりすぎでしょう。私は阪神ファンなので、先述した福原には思い入れがあり、好きな投手の一人だったが、それでも彼クラスの実績で引退試合の特権(公式戦を汚す特権)を与えられ、いかにも感動を誘うようなセレモニーを開催されても、私はまったく泣けなかった。セレモニーでは福原自身が涙を流すシーンも見られたが、先述した通り、私は目を背けてしまった。

 ぶっちゃけ、今年は三浦大輔だけでしょう。引退試合をやっていいのは。

 清濁併せ呑めるのは、併せ呑むだけの価値があると判断したときだけだ。それ以外の場合は、引退試合の安売りとしか思えない。安売りとしか思えないからこそ、私の中の感動スイッチはオフになるわけだ。

 

 しかし、である。

 現実はこういう引退試合のバーゲンセールでも、多くのプロ野球ファンが球場に足を運び、選手との別れの演出に大粒の涙を流している。大衆が素直すぎるのか、私がひねくれているだけなのか、とにかく私が泣けないどころか、興醒めすらしてしまうイベントが、興行的な意味では成功しているのだ。

 かくして、引退試合賛成派は「ニーズと合致しているから良い」「ビジネス的にも成功しているから良い」といった理論でも武装できるようになった。近年の日本人の傾向のひとつとされる「感動好き」に狙いを定め、それを最大限活用した露骨な引退マーケティング(これも一種の感動ポルノか?)でも、それで結果を出しているのだから問題ない、というわけだ。

 こう言われると、私がいくら声高に叫んだところで、それもまた狭量な頑固親父のぼやきになるのかもしれない。しかし、私は生理的な好き嫌いで「けしからん!」と目を吊り上げているわけではない。昨今の引退試合の激増によって、はっきりした有害をもたらされているから問題視しているのだ。

 その有害とはプロ野球選手の去り際における「別種の感動と涙」が奪われてしまったことだ。わざわざ別種と書いたからには、もちろん引退セレモニーによって生み出される感動ではない。そういう華やかなスポットライトを浴びることなく、ただ静かに去っていくだけの選手に漂う哀愁や寂寥の感動である。

 たとえば先述した千葉ロッテのサブローや北海道日本ハムの武田、阪神の福原あたりは超大物選手とは言えないまでも、長年チームに貢献してきた主力選手だった。だが、そんな彼らですら引退試合に恵まれず、ひっそりユニフォームを脱いだとしら、そこにこそプロ野球の厳しさが垣間見えて、私は身震いするような切なさと色気を感じることだろう。うん、想像しただけで泣けそうだ。

 実際、かつての球界にはそういう去り際も多く、私は何度か泣いたことを覚えている。近年では元阪神の赤星憲広の引退が感慨深い。試合中のダイビングキャッチの衝撃で、もともと悩まされていた首の故障を著しく悪化させた赤星は、グラウンドから担架で運び出され、その後のドクターストップにより、わずか九年間の現役生活を終えた。赤星には引退試合もセレモニーも用意されなかった。その負傷したダイビングキャッチが彼の現役最後のプレーであり、担架で運ばれていった痛々しい様子が、公式戦で見た彼の最後のユニフォーム姿だった。

 私、めちゃくちゃ泣きました。

 赤星が涙を流していなかったからこそ、赤星が苦痛に顔を歪めていただけだったからこそ、胸の奥底から悲しみが込み上げてきて目頭が熱くなった。

 涙というのは、きっと片思いでいいのだ。

 近年の引退試合ビジネスの横行は作為的でわかりやすい涙を多くのファンにもたらしたかわりに、私のようなファン(少数派なのか?)からは自然発生的な涙を奪ってしまった。古い言葉だが、ダンディズムの消失である。

 私にとって、この喪失感は思いのほか大きい。感動ポルノの代償だ。

山田隆道

 


c‘縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。


 

 

 

 

 

■ 山田隆道さんの本 ■

虎がにじんだ夕暮れ 神童チェリー (メディアワークス文庫)

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■