こんちわぁーー。26日は例の記者会見一色だったねぇ。まずは眞子さん、ご結婚おめでとうございます。それは言わなくちゃいけない。結婚は終わりではなくて、スタートだから。そして当事者同士、幸せになろうと思ってスタートを切ったことは確かで、それは皆が了解しなくてはならないから、どうでもいい形式的挨拶じゃない。林真理子さんだったかな、「一生に一度の晴れの日に嫌味を言った人のことは絶対忘れない」とか書いてたなぁ。ほんとにそうだよね、そういう人いるもんね。それこそ妬み嫉み以外のものじゃないけど、この日だけは、っていうのがあるよ。
そして眞子さんは、結婚についていろいろな意見がある事は承知している、とのこと。意見を持つのは自由だから。おめでとうございます、とは別に。そして、すべての意見は相対化されるわけなんだけど、疑問点っていうのは集約されるんじゃないかな。端的な事実確認って意味の疑問点だったら、それは共通の疑問って言えると思うし、誹謗中傷ではないね。意見は主観が入っているから、誹謗中傷と感じるもまた一つの主観で、仕方のないことではあるけど。
で、そういういくつかの端的な事実確認に答えない自由もまたある。本人たちにすれば、ただ自分たちが結婚するってだけのことで、なんであらゆる疑問に答える義務があるのかって思うよね、そりゃ。答えなくたって別にいいわけですよ。答えなかった、っていう事実にまたいろいろ意見が出るかもしれないけど。もし、答えても答えてもキリがない、と感じているなら、それもしょうがないね。
若い二人が結婚するってことで、なんでこんな騒ぎになるかというと、要するにそれが社会的な組織を巻き込んでるから、って以上のもんじゃないよね。りょんさんが不思議に思ったのは、宮内庁ってところの考え方だな。でもそのことで、皇室って本当はどういうもんなのか、ってちょっとわかった気がする。
よく言われるのが、美智子様や雅子様のバッシングのときには宮内庁は冷たかったのに、どうして眞子様を庇うんだろう、という疑問。それをつらつら考えて、そういえば雅子様が皇后になられた途端、晴れ晴れとした顔をされて、なんだか病気もどっか行っちゃったみたいだ。そういうのを思うと、もしかして宮内庁っていうのは、ずっと美智子様や雅子様のことを「他所から来た嫁」として扱ってたんじゃないかって。それに比べると、眞子様は生まれたときからの皇族なわけだから、お守りするのが仕事である、という。そうすると宮内庁が務めとして守っているのは、要するに皇族の『血筋』ってことだね。そりゃそうだよね、そーゆーことか、と膝を叩いた。
そういうのは、その組織における価値観の中心とか思想とか、そこの成り立ちに関わることだから、いいとか悪いとか言っても意味ないわけよ。雅子様を軽んじているっていうより、それは皇太子妃というお勤めを果たしている、いわば自分たち公務員と同じような人、と思ってるってことかもしんない。で、皇后になると、さすがにもう帝と相並ぶわけだから文句なし、自分たちが仕えるべきお方、ってことになるんじゃないのか。そうなると天皇皇后以外の皇族の皆さんは、我々が思ってる以上に「お仕事として」その役目を果たされている意識が強いんじゃないか。
そうすると、眞子様が30歳までに結婚したいっておっしゃってたのはですね、我々の周りのガールズの結婚願望と同一視することができないわけですよ。まぁ定年退職みたいな? 感じ。宮邸を出られるときの、今生の別れみたいな雰囲気を見ていると、なおそう思える。宮内庁にしたら、もともと自分たちがお仕えする立場の人が完全に出ていかれるまでの間、丁寧にお守りするという当たり前のことなんじゃないのかね。そしたら、あの28ページとかの大量の文章について、それが眞子様原案の内容だってことなら、宮内庁長官が褒めたりするのもわかるよね。
で、眞子さんは、よく『心』っていう言葉を使われる。その『心』って言葉の使い方が、なんとなくしっくりこないというか。「心を守るために」、とか言われたけど、普通は『心』っていうのは、「純粋な心」とか「邪な心」とか、どんな『心』かを示す形容詞が付いて初めて価値が生まれるもので、『心』自体は無色透明というか、必ずしも無条件に守るべきものじゃないんだけど。でも眞子さんの言う『心』はなんか、それ自体が超越的な価値を持った存在みたい。
『心』は「芯」だから、構造的に中心にあるもの、ってことは確かだね。中心にあること、それ自体が価値、っていうと天皇制そのものなんだけど。もちろん眞子様が、ここで天皇制にこだわる理由はまったくないから、つまりは価値観の中心ってことだろう。それを非常に強く信じる、という位置付けでないと、ああいう『心』の言葉の使い方にはならないと思うんですよね。その強調のされ方というのは、要するに神とか信仰とか、それに近い強度を示す言葉として使われているのではないか。
で、どうして『心』って言葉にしなきゃいけないかっていうと、やっぱり皇室というのが結局、本質的に祭司だってことに帰結する。天皇は象徴っていうけど、この象徴って、ふわっとしてよくわかんないよね。象徴的な神的儀式、あるいはオフィシャルには日本国を象徴する国事行為を執り行う立場、ということで、やはり天皇制と宗教性と言うのは相当な親和性がある。だからむしろ何らかの宗教的な価値を匂わせる言葉遣いっていうのは、難しいんじゃないか。
昔、皇室の中でキリスト教を広めてる者がいるという噂が流れて、聖心女子大学を卒業された美智子様に違いないということになり、昭和天皇がひどくお叱りになったという話が伝わっている。もちろん濡れ衣だったんだけど、そもそもお嬢様っていうのはたいていミッション系の学校出てるんで、そういうところからお嫁にもらっておいてさぁ、何が気に入らないのかよって思うけどね。まあ、そういうお嬢さんがたとえばどっかの神社とかにお嫁に行った場合の、それのでっかいやつって感じか。やっぱ日本で一番古くてでかい祭司なんだな。伊勢神宮とか阿蘇神社とか、そういうところの東京本社兼営業所として政治の儀式の仕事まで請け負って、しかも憲法にも立ち位置が定められている。一家親族総出の大変さの代償として、暮らしや警護が税金を使って賄われるのは当然だよね。
皇族は国民を敵視したり、あるいは名指しでなくとも誰かを非難するのはタブーだった。皇籍離脱してからとはいえ、今回は眞子さんの口からかなり攻撃的に被害を訴える言葉があって、なかなか珍しかった。この流れっていうのは実は、今の天皇陛下が「雅子の人格を否定するような動きがある」と述べられて話題になった頃からかもしれない。自分の配偶者が責められるのを見過ごすってのは、やっぱそれも帝王教育に反するよね。
で、今回お二人が揃って攻撃してたのは、小室さんのお母さんの元婚約者より、マスコミなのかな。特定の国民を敵とみなすより、マスコミは組織だから攻撃しやすいところはあるよね。まぁ確かにマスコミっていうのは、非難されても仕方がないこともしばしばあるわけだしさ。
ただ宮内庁にもその『心』というか、独特の価値観があるのと同様に、マスコミにもそれはある。りょんさんがちょっとヒミツを漏らしちゃうと、小室圭さんについては、マスコミは確かにすごーく早い時期から何か嗅ぎつけたみたいな、まぁ直感というか、錯覚というか、そういう感触を持っていたと思う。すごーく早い時期って、婚約が発表されて、小室さんが「海の王子」だったって報道がなされた、ほんとに最初のときだね。国民の間ではお祝いムード一色だった頃だよ。りょんさんは、マスコミにもお友達がたくさんいるけどさ、とにかく「詐欺師」の匂いには過敏なんだな。
つまり言ってみれば、最初からサイテーの色眼鏡だったかもしれない。そこから出てきたいろんなことも、小室夫妻にしてみれば、マスコミが自分たちの「直感」を正当化するための「事実に反すること」、あるいは申し開きする必要のない些細なこと、ということかもしれない。だけど、それでも突っ込んでいくのがマスコミの『心』でさ。100のうち99がハタ迷惑な勘繰りに過ぎなくても、だよ。あの「疑惑の銃弾」みたいな記憶がある限り、ね。やめりゃいいのに、としか思えないことにも突撃して、ときに玉砕する。その『心』を失ったら生きていけんのよ。小室さんとの結婚に突っ走った眞子さんの『心』と同じで、さ。
りょん
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