鳥居を通り抜けて道路に沿って登山をはじめてから間もなく、雨が降り出した。山登りには妨げにならない穏やかな霧雨だった。リュックの中から折りたたみ傘を出して傘をさしながら歩き続けた。スマフォの地図アプリがくれた情報によると、山のてっぺんまでは4キロくらいの距離だった。ちょうど昼を過ぎていた時間だったので、午後2時頃にたどり着くはずだった。上から見える風景も楽しみだったが、優しく迎えてくれた山の静寂な雰囲気に包まれること自体が目標達成の味わいがあった。大自然の中にいるのが本当に久しぶりで、まるで長らく会っていない恩人とやっと再会できた時に感じる嬉しさと感謝のような気持でいっぱいだった。
心の中でひそかに雨が雪に変わるのを望んでいた。そうなれば「松浦潟 海山かけて降る雪の 波も曇るや潮煙…」と能〈松浦〉で佐用姫が謡った景色が見られるだろう。しかしその一方、理性は雨が雪に変わるほどの低温ではないことを喜んでいた。それほど急な山道ではないが、道路の濡れたアスファルトは滑りやすくなっていた。アスファルトを避けて道端を歩こうと思っても、今度は足踏みの下で小石が崩れたりしていたから、とにかくゆっくりとしか進めなかった。
どうしてわざわざ鏡山に登ろうとしたかというと、頂上にある鏡山神社の方が、ふもとの鏡神社よりも佐用姫とのゆかりが深いのではないかという疑いが一つ目の理由である。世阿弥の能に出てくる「鏡の宮」はどこにあるか指定されていないが、空想のものだとしても、鏡神社と結びつける根拠は今一つなかったので、別の神社の可能性を視野に入れないといけないと思った。山の上にある鏡山神社がその第一候補だった。
もう一つの理由は、夫の狭手彦を乗せた唐船に向かって、佐用姫が必死に領巾を振った場所から海の風景を見たかったからだ。そうすればあの場に立って、彼女がどんな想いで領巾を振り続けたか分かってくるのだろうか?
「海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫」という『万葉集』の歌から言うと、佐用姫は遠ざかる唐船を止めようとしたようだ。能〈松浦〉もその歌の内容を踏襲している。しかし主人公は取り残された恨みと悲しみで最後に入水してしまう。この結末はどこか不釣り合いで、不自然としか思えない。「松浦」というタイトル自体が「待つ」ことを暗示しているのに、なぜ主人公は海に身を投げてしまうのだろうか。この矛盾はどこから発生しているのか?
また任那へ出陣する前に、狭手彦は彼女に形見として鏡を与えた。それは霊力を持つ不思議な鏡だった。離別は悲しくても、佐用姫は大切な形見を受け取った上で、どうして自殺してしまったのだろうか?全く筋が通らない。愛する人が義務を果たすために出航するなら、普通は武運と無事の帰還を祈って見送るしかない。そんなことを考えていると、佐用姫はこの山の上から白い領巾を振り続けて、遠ざかる彼にどのような気持ちを伝えたかったのか気になってしかたなくなる。いわば「行かないで!」と「行っていらっしゃい!」の違いだが、ここはけっこう大事なところである。
しばらくは歴史と伝説と夢想が混交するような考え事に耽りながら、足元だけを見て進んでいった。両側に並木のある道が突然明るくなったことに気づき、目を上げた。ずいぶん下の方でふもとの町や虹の松原、そして水平線が白い無に溶けた海の光景が見えていた。完全に曇っていたので、空の重さは地上のものを圧倒していた。まるで真昼の光が空から追い出されて海底へ避難していたかのようだった。沖の島や浜辺の松原だけは濃い斑点となって、この水墨画のような風景に安定感を与えていた。
登山中は何回も足を止めて唐津湾の海を見ていたが、ある段階から景色を見て写真を撮ることが、ただ足を休める言い訳になっていたことに気づいた。軽いペースで登り始めた山道は1時間も経つと少しきつくなっていた。下山はきっと登山の半分の時間もかからないだろうし、それほど体力を使わないから大丈夫、と独り言をして進んでいった。どんどんたまる疲れはもうごまかせないと考えはじめた時、目の前に大きな鳥居が見えた。山の上の高原にたどり着いたしるしだと分かって、思わず足取りを速めた。
木陰の道を通り抜けて開いた所に出ると、右側に展望台へ行く小道があった。左側は鏡山神社の境内である。どちらを先に見ようかと少し迷った後、鏡山神社へ向かった。鳥居の前に着いた瞬間に気づいたのだが、雨が上がって空が晴れていた。思いがけない吉兆にありがたさを感じながら、参道を歩み出した。
道の両側に咲いていた水仙が目に入った。思わずハッとした。この花を別の場所で見れば、きれいだということ以外は特に何も思わないだろう。しかし鏡山神社に植えられていることには意味があるに違いない。水仙は水鏡に映る自分の顔に惚れた美少年ナルキッソスの名前から、ナルシスと呼ばれる花である。それが鏡と深い縁のある鏡山神社の境内に生えていることに感動した。午前中に訪れた虹の松原が頭に浮かんだ。あの名所の名前も、駄じゃれのような言葉遊びを隠しているのではないだろうか。ただの思い込みにすぎないかもしれないが、鏡山の辺りでは何もかもが意味を持っているようで、その意味に気付く度に嬉しかった。
人影もない境内は、薄い雲の間を貫く太陽の光を浴びて眩しかった。お参りをしに本殿の前に立つと、中の御神体の鏡が目に入った。思わず視線を下げてしまった。神様に対して失礼を犯すのを恐れながら、ちゃんと見るためにもう一度視線を上げた。薄暗い本殿の中に鎮座する神鏡は、海の上に果てしなく広がる空を反射して輝いていた。その光の穏やかさと揺るぎのない鋭さに、恐れ入る気持ちになった。雲の間から柔らかな日差しを送っていた太陽に目を向けてみたら、全く同じような形をしていた。二つの鏡…
二つの鏡、ともう一度呟いてみたら、〈松浦〉のテキストが思い浮かんだ。その物語にも二つの鏡があるのではないだろうか?「月も真澄の水鏡、月も真澄の水鏡、影を映すや松浦川…」という歌の部分が呪文のように頭の中で繰り返されるようになり、めまいがしてきた。佐用姫がもらった形見の鏡と鏡の宮の神鏡を、別々のものとして考えた方がいいというヒントがその歌にあった。それはつまり、月とその反映のような関係にある二つの物語が〈松浦〉という能の中で交差しているという…
自分でもわけが分からないような思考の流れをいったん落ち着かせようとした。家に帰って資料を見ながら〈松浦〉の内容を確認しようと決めて、もう一度本殿の前で会釈して境内を出た。鏡山神社の後ろの方には、「佐用姫神社」という小さな社がある。2012年に創立された真新しい神社で、私が探していた「鏡の宮」ではないが、ここには恋人たちの守神として佐用姫の霊神が祭られている。創立起源の説明を読むと、この場所から佐用姫が領巾を振って狭手彦の船を見送ったのだという。小さな社の前でお祈りをして振り向くと、唐津湾と虹の松原が直接目に入った。なるほどと思った。ここから佐用姫はずっと海を見ながら狭手彦が帰ってくるのを待っているという発想が、この神社の構造を裏付けているのだった。
この地方の人々の記憶に残っている佐用姫像はやはり、離別を惜しみながら、ただただ彼を見送った清らかな女性のイメージである。室町時代に流行った恨みによる入水の結末は、より明るい解釈に場を譲っていた。〈松浦〉という能がある時から演じられなくなった理由も、演目の内容と新時代の人々の意識の間に生じたずれによるものだったと思われる。
鏡山にもう少し長くいられたら、まだまだ色々な面白い発見があっただろう。しかし時間が遅くなり周りが暗くなりはじめていた。佐用姫の霊神に改めてお礼を言って、神社を後にした。記念に何か持って帰ろうと思い、駐車場の近くにあるお土産屋に立ち寄った。棚の上にきれいに並べてあった唐津の名物お菓子「松原おこし」を見た時、朝から何も食べていないことに気づいた。ちょっと遅めの昼ご飯を食べにお店に入った。突然現れた一人の外国人客に、お店のご夫婦は少し驚いたようだったが、どうして鏡山に来たかについて話し出したら会話が温かくなった。今までの人生で一番おいしい野菜丼を食べながら、自分の出身国のこと、お能のこと、そして鏡山や佐用姫の話しをした。
お二人はとても親切で話しやすい方で、これはチャンスだと思って、思い切って鏡山について知りたかったことを何でも聞いてみた。佐用姫の物語で話しがますます盛り上がった。お店の奥さんに展望台の所にある佐用姫の石像まで連れて行ってもらって、色々な話しを聞いた。鏡山に住む人々にとって、佐用姫がいかに生き生きとしている存在かということが分かって何より嬉しかった。彼女の領巾振りについて昨日の出来事のように話している彼らにとっては、佐用姫は一瞬もこの山を離れず、ずっとあそこにいる。虹の松原の向こうに広がる海をずっと眺めながら、彼女はあそこにいる。
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〈松浦〉という能の研究は唐津への旅の後も何ヶ月かにわたった。資料から得た情報と現地への旅中に気づいたことを合わせて、佐用姫の伝説は常に変遷し続けたことが分かった。彼女が形見の鏡を抱いて入水したという物語も、それをそのまま踏襲している能の内容も、佐用姫にまつわる伝説の一つの段階にすぎない。
ちなみに、ずっと気になっていたこの入水の結末は、ちょっと特殊な経由で発生したらしい。平安時代末期に『和歌童蒙抄』という注釈書が編まれた時、『肥前国風土記』にある「鏡の渡り」という地名起源伝説が参照された。しかし「鏡、緒絶えて川に沈みき」が「鏡をえていだきて川に沈みぬ」と誤った形で書写されてしまい、佐用姫が与えられた鏡を川に落としてしまった伝説が、彼女自身が鏡を抱いて川に身を投げてしまったという風に解釈されてしまった。その誤解が次から次へと他の注釈書に受け継がれ、佐用姫の入水伝説が広まったのである。それが〈松浦〉という能の中でさらに脚色されたわけだが、室町後期あたりからは佐用姫が石となって、永遠に狭手彦の帰りを待っているという伝説の方がより強く意識されるようになった。
詳細に調べてゆくと、人々が抱く佐用姫のイメージは時代とともに形を変え続けていったことがわかる。もしかすると今この瞬間にも、新しい要素が加えられているかもしれない。佐用姫の物語は、忘却の海に沈む前にまだまだ続くだろう。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■