
また夏がやってきた
ペルシャンブルーの
抜けるような青空が
いつまでも続けばいいと思う
「カルキの臭いが懐かしくなったら
もう子ども時代は終わりね」
プールサイドに腰かけた彼女が言った
僕は知っていた
僕らはまだ子どもで
彼女の方が少しだけ先に
大人に近づいているだけだった
「若いころはこんなふうになるとは思わなかったのに
いや年を取ると情けないものです」
定期訪問してきた地域包括センターのAさんに
父親はメリハリのある声で言い笑った
僕といるときは弱々しい声なのに
九十四歲で腰が曲がり
フッフッと息を吐きながらヨタヨタ歩く
しかし頭はシャッキリしていて持病もない
息子は父親に冷たい
横暴で理不尽極まりない父だった
男だろしっかりしろよと思い言葉をかみ殺す
帰省している間は僕が三度のご飯を用意する
彼は時間をかけて食べる
食べることが生きることだから
ほとんど会話することはない
「ゆっくりどうぞ
食器の片付けはお願いします」
そう言って僕は離れに行って仕事する
世の中で目に見えないもの
見ていないものは老人だ
誰も歩行器を使って歩き
車椅子に乗って押されてゆくとは思っていない
ああはならないと信じている
テレビや映画 ポスターには
若くて美しい男の子と女の子の笑顔があふれている
ジャコメッティは人間はロダンの彫刻ほど重くないと言った
若者たちは飛び跳ね
老人たちは痩せてちぢこまり
「あなたが海が好きなのは知ってるけど
嫌いなものはなに?」
初めて降りた駅から
海水浴場に歩きながら彼女がたずねた
大きな港でない限り
漁村はどこも似ている
細い路地 低い建物 潮風で傷み灰色になった木製の家の壁
空の広さで海への道がわかる
「土埃の臭いのする町が嫌いだ
埃っぽい詩が 小説が嫌いだ」
海へと続く坂を下ってゆく
水平線が見え足元に磯臭い波
海が好きで
海の荒波と強烈な風を心底怖れているから
海から離れた横浜に住んでいる
「かき氷が食べたいな
アイスクリームや果物が乗った豪勢なやつじゃなくって
氷にイチゴシロップをかけただけのやつよ」
もう忘れてしまったけど
すべて憶えている
憶えている
スプーンをテーブルに置くとカタンと音がする
その一瞬で半世紀近い時間を再び生きてしまう
僕は老いたよ
ツルヤマはじゅうぶん老いた
父親が感染症で緊急入院して
電話で「もうダメかもしれない」と言うから
あわてて帰省した
駅から真っ直ぐ市民病院に行くと
救急車で搬送された父親は
ほんの半日ほどの点滴で元気を取り戻していた
「看護師さんにバレないようにアイスクリームを買ってきてくれ」
息子は一階のローソンに行って
食べやすそうなハーゲンダッツのカップアイスを買った
夜は実家に帰った
一人なので離れではなく
亡くなった母親が寝ていて
今は父親が使っている母屋のベッドで寝た
明け方夢を見た
台所でまな板でなにかを切る包丁の音がして
「お父さんが入院してるから
残り物でいいかい」
母親の声がした
「うん」
薄明かりで
夜は明けきっていなかった

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