社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第十八回 投資メンタル――雑感 I
前回の「今の若いコは」という物言いは、たしかに「最近の若いもんは」という昔からの言い回しと重なる。しかし必ずしも否定的ではなくて、むしろ今の若いコの価値観に迎合する感じもある。どうしてそうなるかといえば、高度情報化社会に移行しつつあるからだろう。新しい仕組みに対する適性は若いコの方があると思われるから、その感性におもねることで遅れてナイ感を醸し出そうとするのかもしれない。
それで叱られなくなった若いコたちを見ていて、最近気がついたのは、彼らの興味の対象が昔とは比べものにならないほど内面に向いている、ということだ。たとえば恋愛についても、昔はその成就は社会的成功の一種でもあったが、今はそれは自分の内面の問題、それも内面の一部に過ぎない感があると感じる。関心の中心は恋愛対象よりむしろ、そういう感情を持つ自分自身にある、というような。
そして若いコたちは意外なほど真摯に、自分のルールを作ろうとしているように見える。叱ってもらえないので自分で自分を律するものを求めている、と考えれば、なかなか捨てたものではない。まあそう思うこと自体、迎合的とも言えるが、迎合しながら計算するのがオトナというものだ。ちやほやしながら若いコの限界を正確に見切る。わたし自身、そういうオトナをたくさん見てきた。ズルいというより、立派だと感心してきた。叱られない、ということに危惧を抱く程度のセンスは、若いと言えども持つべきだろう。
若いコの内面化を反映してか、マーケティングの昨今のキーワードのひとつがスピリッチュアル。YouTubeの人気チャンネルとしてはメンタル。自分探し、というのは一昔前の言葉で、すなわちアイデンティティ探しであるから、それとはちょっと違う。アイデンティティは社会における立ち位置でもあるが、今の若いコはただ自分の状態をシンプルに知りたがっている。つまり良くも悪くも社会性を欠落させている。
若いコは世の鑑であるので笑、彼らにおもねる我々の今の気風もそんなだ、と言えるだろう。すなわち我々は昔ほど、社会的な認識を信じない。ひとつにはマスコミ報道を信じていない。何かが報じられれば、すぐにネットで裏をとる。Twitterに溢れる情報のいい加減さとマスコミ報道のいい加減さと質は違うが、いい勝負だと気づく。信じるべきものは取捨選択する自分自身にしかない。
投資というのは、その一昔前は「自分自身で」やるものではなかった。もちろんやるのも、リスクを負うのも自分なのだが、そこには必ずプロの媒介者がいた。そして判断は本当のところ自分自身というより、このプロの媒介者のものだった。少なくとも初心者のうちはそうで、長年の経験あるいは先代から仕込まれたものを持つ者だけが媒介者を媒介者としてあつかう権利を持っていた。
まだ大学を出て間もない頃、東横線沿いの住宅街に静かな喫茶店があって、そこのマスターが店のピンク電話で「○○5千株、△△1万株ね」などと注文を出していた。わたしは気にも留めなかったのだが、一緒にいた男の子が、あの人はきっとこの辺の地主だな、と言ったので覚えている。高級住宅街の地主→ヒマ→喫茶店のマスター→株の売買という構図がわたしの脳裏にきれいに焼き付いた。喫茶店も、電話で証券会社に注文を出す株取引も、最近はあまり見なくなったものである。よくもまあ、あんなまどろっこしいところで、そんなまどろっこしいことを、と思う。今ならスタバでタブレット出して、自分でチャート見てポン。すべてが早い。
媒介者=メディアの役割がどんどん縮小していっているのは、マスコミ=メディア=第四の権力と呼ばれたものが霧散しつつあるのと足並みを揃えている。特権的な情報の囲い込みがだんだんとできなくなり、それでもやはり残っている一部の特権階級の利権を守ることではなく、切り崩すことで「新しい特権」を形作ろうとする気配があるように思う。その「新しい特権」は社会的な上位者をめざす、今ふうに言えばマウントをとるようなものではなくて、自我と自身の人生を完全にコントロールできる力、といったものだ。
高度資本主義社会が作り上げたヒエラルキーのピラミッドは、たしかに音を立てて崩れ始めている。ただ、どんな動きにもタイムラグがあって、完全に壊れているところと、まだ形を残しているところがある。東京と大阪は陥落したが、名古屋から静岡に一部残っている、といった空間的な場所で色分けできるわけではない。残しているのは人の心だ。それも誰それと誰それは残している、というものでもなくて、たいていの人が崩れている部分と残している部分の両面を持っている。しかし年々、崩れていっている気がするが。
ヒエラルキーの価値観の痕跡を色濃く残していると、若いコたちからはバカにされる。けれどもそれを崩すエネルギーだけでは社会は回らない。回らなくなっても別に困らない社会に移行するのと、自身の中のヒエラルキーが壊れていくスピードとを睨み合わせ、両者は抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げている。若いコたちは社会的な視点を得ると逆にビックリして、オトナになった気分でいる。それを横目で見ながら、彼らが獲得する端からその社会性をなし崩しにしてやるという逆転のゲームも楽しかろう。
経済評論家の勝間和代さんは、意図的にテレビを観ない、マスコミに触れないと言う。なぜなら世の中の大勢はよくなっている、人々も社会も進歩し続けているのに、マスコミは悪いところを肥大化し、歪んだイメージを押し付けるからだ、と。わたしが日頃、お世話になっている不動産投資家でメガバンク出身のGさんもおそらくグローバルな視点から、いったいに世の中よくなってる、地球温暖化ってなんの冗談だ、と言われる。
マスコミが取り上げるひとつひとつの出来事がどれほど深刻なのか、悲惨なのかを検証するには膨大な時間がかかり、わたしたちの人生はそれだけで尽きてしまう。マスコミに作られたニュースをただ信じて振り回されていればよかった時代の方が、まだしも楽だった。わたしたちはその気になれば以前の10倍もの情報を集めることができるが、わたしたちに与えられた時間はこれまでと同じだ。そこでわたしたちは、あらゆる情報に触れる「自分自身」にフォーカスせざるを得なくなる。そして時代と社会、テクノロジーは、自分自身が媒介者なしに、そのときどきの中心的な情報に触れることを可能にしつつある。それが本当に中心的な情報なのかはわからない。が、少なくともそのとき、自分自身が中心的だと判断した、そこへアプローチする際の障害物は減りつつある。
すなわち世界は透明になりつつあるのだ。ヒエラルキーという名の障害が崩れているとは、そういうことだ。逆に言えば、もはや何が起きても、そのせいにはできない。インサイダー取引が驚くべき厳しさで取り締まられるようになり、株式投資なんてインサイダー情報を持ってる奴らのヤッチャ場だ、とは言えなくなった。市場の透明性とともに、どの市場がどんな理由で、どの程度透明なのかも、情報として隠されてはいない。
世界のあり様、その見え方にしたがって、わたしたちも形作られていく。すなわちわたしたち自身も透明になりつつあり、若いコたち、そしてヒエラルキーから解き放たれつつあるわたしたちも、その透明な自身を覗き込み、何かの核心を得ようとしている。いや本当は気がついている。核心もまた透明であり、それが自身の中にあると信じる根拠はない。ただ溢れる情報を取り込む装置にフォーカスするしか、すでに物理的に(時間的に、情報量的に)無理であることを。装置としての自身を透明化することでしか、この状況に物理的に(時間的に、情報量的に)対処できないことを。そしてこの物理的な(時間的な、情報量的な)必然性によって、そこから後戻りすることはないと約束されている。そう、わたしたちが透明化するにつれ、世の中はよくなっているのだ。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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