〝出来事〟はどうしようもなく、取り返しようもなく起こる。しかし緻密に分析していけば、それは〝偶然〟ではなく〝必然〟だったと考えることができる。だが本当にそうだろうか。〝出来事〟は〝偶然〟も必然〟も超えた決定的衝撃なのではあるまいか――〝「必然」と「偶然」、「此岸」と「彼岸」とが交わるパラドキシカルな時空〟ではないのか。自らの内に原罪を抱え、文学と哲学に救済を求める作家の新評論連載!
by 金魚屋編集部
Ⅱ 「偶然性」の二つの本性について――〝原始偶然〟と〝邂逅(出逢い)〟(続き)
1―⑶ 偶然性と他者
「個物および個々の事象」の核心的意味は「一の系列と他の系列との邂逅」ということに存し、「邂逅」の核心的意味は邂逅しないことも可能であること、すなわち「無いことの可能」ということに存している。そうしてこれらすべてを原本的に規定している偶然性の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定ということである。必然性とは同一性すなわち一者の様相にほかならない。偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存するのである。
(「問題」二七七頁)
因果の鎖をどこまでも遡ってその果てにたどり着いた、いっさいがそこから発し来る一者のことを絶対的必然と九鬼は呼んだ。それは「必然」をはみ出し、「必然」をもたらす存在でもある。自らの他に根拠や理由をもたないからである。しかしその意味ではむしろ、絶対的偶然と言われるべきではないか。それを九鬼は〝原始偶然〟と名付けたのではなかったか。
けれどそれは、一者であるかぎり必然的存在であるほかない。「一者の様相」に他者という存在が加わってはじめて「偶然」と言える。九鬼はそう言うのだ。いったいかれは何がいいたいのか?
九鬼の〝定言的偶然(論理的偶然)〟を説明するのに、同一律(AならばA)を例に挙げたことをおぼえておられるだろうか。十代のころ筆者は、AならAだって? そんなのあたりまえじゃないか、矛盾律と排中律はまあわかるけど、なんでこれが律(LAw)なんだよ、と思ったものだ。
いまだったらこう考えるだろう。
自らをそのような自律的な(他に拠らない)一者とみなしうるとしたら、そのように自らを対象化しえているという前提が、同時になくてはならないはずだ。とことん一者でしかないなら、一者であるという認識さえ得られないだろう。自ら(A)を対象化したうえで、改めてそれを自己といえるならば、それこそがAにほかならない。自己同一性(Self Identity)とは、この同定プロセスをいう。だとすれば、同一律(Law of Identity)も根は同じと考えていいのではないか。
このことは、自ら(A)を対象化したうえで、改めてそれを自己といえない場合があることを示唆するだろう。AはAでないこともできたはずだ、と。「無いことの可能」である。にもかかわらずAはAだった。この帰結つまり、自らを自らと言えるためには、「無いこと」という海に浮沈する、自ら(A)と同格の他者(B、C……)という契機を認めること、すなわち自他があっての自であること、このことが前提として不可欠だろう。
一者と言ったその口が塞がらないうちに、自らと同格の「他者」の存在を認めるなどという主張は、それが思念の産物以上のものではないとしても、飛躍していないだろうか。そんな疑問を持たれるかもしれない。
この疑問に対しては、鏡像をつうじた自己乖離という経験が参考になるかもしれない。鏡像の中のじぶんとそれを見ているじぶん自身とが不可避的にズレてしまう、という経験である。
いま、鏡に映る自らの表情を見ているじぶんがここにいる。そのじぶんの表情もまた、間髪を入れず鏡に映っているはずだ。それをもじぶんは眼にしている。なんか妙だなあ、と思うその表情をもじぶんはいまリアルタイムで見ているわけで、それを見ているじぶんをもまた見ていて……切りのない映り込みの中で問わずにはいられない――じぶんは見る者なのか、それとも見られる者なのか? と。
ここには、じぶんがじぶんであるかぎり必ずつきまとう根源的なズレのようなものが生じている。これを言いかえると、ズレが絶えずじぶんをを立ち上げているのである。あるいは「じぶん」とは、このズレの生じる場を指すのだとしたら、「じぶん」はいったい何に対してズレているのか――「じぶん」以外にあるまい。それゆえ「じぶん」は、鏡像と同様、自身にはけっしてたどり着けない。逆にいえば、自身にはけっしてたどり着けずにズレ続ける一者のことを「じぶん」という。それはもうひとりのじぶん、すなわち他者のことではあるまいか。
こうして一者という「自己原因」としての必然性と同時に、「他者」という契機が開けることになる。ここで「同時に」という点が重要である。「他者」との二元性によって、一者もまたその同一性が保証される。二元性、つまり九鬼のいう「偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存する」というときの「二元性」という意味で、はじめてそれは「偶然性」をおびているといえるわけである。
こうした論筋を煩瑣に感じられる読者は、スルーしてもいっこうに問題ないが、「偶然性」は他者との出逢いにほかならないという、この一点だけは心に留めておいていただきたい。それはこの先で述べる⒉の補助線になるだろう。九鬼はさきに挙げた引用文(核心的意味)に続いてこうも語っている。「邂逅は独立なる二元の邂逅にほかならない」
1―⑷ 偶然性と現実性
ここで⒈の冒頭(本連載の第三回をご参照)に掲げた文章の最後の段落を復唱しよう。九鬼はこう言ったのだった。
我々は最後に原始偶然にぶつかって大きく驚くのである。この大きい驚きは遂にどうしても消すことのできないものである。[中略] ともかくも我々は現実の世界が存在するという偶然の事実そのものに驚きを感じないではいられないのである。
(「驚き」一九一頁)
イデアの世界を浮遊するかにみえた〝原始偶然〟が現実の世界に大きく関与している。このことを、どう考えたものだろうか。
観点を変えてみよう。
たとえば現在の地球がこのように「ある」ことは、すべて偶然のなりゆきだといえるだろうか。
言えないだろう。
地球が現在あるような姿をしているのは、たまたまではない。物理法則があって、さらにそのプラットフォーム上でくり広げられる人間のいとなみがあっての結果だろう。そこへ至る根拠や理由が明らかなら、「偶然」が入る余地は漸減していくはずだ。
しかし「偶然性」には根拠がないとは、そういう意味ではない。
宝くじが当たったのはAさんでもCさんでもなく、Bさんだった。なぜBさんなのか。AさんやCさんに当たることもできたのではないか。
Bさんでなくてはならなかった理由が詳らかに論証できたとしよう。そうだとしても「なぜBさんなのか」という問いを排除することはできない。Bさんにくじが当たったことが、どんな根拠に根ざしていようと、その裏側には無=根拠なものが貼りついている。そう九鬼は言いたいのだ。
過去に起きた出来事、言いかえればすでに確定した事実Ⅹについて、それと異なる事実、たとえばYやZという出来事もありえた、と言えるならば、Ⅹは「偶然性」をおびた出来事であると言えるだろう。源義経は、衣川の戦いで自害せずに逃げ延びることもできたろう。一九九五年三月二〇日の朝、たまたま寝坊しなかったら、日比谷線のいつもの時刻にいつもの車両へ乗っていただろう。その車両こそは、サリン事件の現場となったあの車両だった……。
これらは事実に対する反実仮想とみなせるだろう。反実仮想とは、ありえたかもしれない出来事の記述である。そのように記述して内容的に整合性があるならば、元になった事実は「偶然」に起きた出来事とみなしてさしつかえない。誤解のないようくり返すが、YやZでなくⅩが起きるに至るには、必然的な理由がなかったと言っているのではない。たとえリーマン・ショックという帰結に至らざるをえなかったしかるべき理由があり、同じ条件下だったら同じリーマン・ショックという帰結しか得られないとしても、当の事実に対してなお、それが起らなかった可能性を問うことができる。なぜなら、「しかるべき理由」のその「しかるべき」さに対してなお、「しかるべきでなくてはならなさ」の理由を問い続けることができるからである。こうして、すべての事実は「偶然性」という大海の上を浮かんだり沈んだりする浮木のような存在なのである。
もっとも、それが起らなかった可能性をどこまでも問うことができるのは、すでに起きてしまった出来事はもはや動かしようがない(もちろん起こらなかった出来事が起こる可能性もどこまでも問うことができるだろう)という、事実の確定性を前提にしているからだとも言えよう。
すでに事実として確定している出来事Ⅹがあるとする。そこで、Ⅹが起こる前の時点へタイムスリップしたらどうなるだろう。Ⅹは、これから起こるであろう未確定の出来事となる。たんに未来の出来事を考えてみても同様である。わたしたちが前にしているのは時間的な非対称性である。つまり、すでに確定している(過去)かしていない(未来)か、という相違である。このとき、タイムトラベラーが出来事に介入したらどうなるだろうか。Ⅹが一八六七年、大政奉還が起こったという事実だとしたら、奉還を翻意させて、代わりにY(江戸幕府が戊辰戦争に勝利し、幕藩体制は存続した)やZ(欧米列強の支配下に置かれ植民地と化した)を帰結させうるだろうか。
SFのようにうまくはいかないだろう。同一の世界内で出来事Ⅹが確定する前まで遡って介入した結果、YやZが帰結したならば、もともとタイムトラベラーが依拠していた未来も変わってしまうだろうからだ。その場合、介入の対象となるⅩという出来事が存在したことが矛盾に陥ってしまい、ひいてはタイムトラベラーという存在を想定することそれ自体が、矛盾の原因ということになる。

しかしその前に、タイムトラベルによって遡行した幕末からみれば、かれがやって来たのは未来からだが、タイムトラベラー自身の時系列からみれば未来は過去となる。過去である以上、事実はすでに確定しているのでなくてはならない。こうして、これらの想定ははじめから不可能なのである。
さて肝心なことは、わたしたちがその結果を知っていようといまいと、ⅩあるいはY、Zのいずれをも「可能的な」出来事とみなすことができるという、事実のおびる性格にある。つまり「可能性」という概念は、出来事に対して非時間的にも(=過去も現在も未来もなく)、また時間対称的にも(=過去にも現在にも未来にもひとしく)あてはめることができる。
けれど「可能性」がいつまでも「可能性」のままに止まるならば、有用な意味をなさないだろう。どんな結果であれ、それはあくまでも現実化する「可能性」でなくてはならない。「可能性」という雲の中で、「因」と「果」として結ばれうる微粒子が無数に飛び交っている状態を想像していただきたい。そのうち何かの拍子で、ある粒子どうしが一方は「因」、他方は「果」となって結合し、「1」の目として収束する。つまり現実に「1」となる。現実性とペアリングされることによって、はじめて「可能性」という概念が生きるわけだ。
もっとはるかに肝心なことがある。
現実に「なる」というそのこと自体は、あくまでも「偶然」のたまものであって、「原因―結果」とか「可能性―現実性」といったペアリングとはじつは何らかかわりがない、ということである。「現実の世界が存在するという偶然の事実そのものに驚きを感じ」ると九鬼がいうのは、このことである。
しかし、如何に驚きを除いて行っても、なお最後に一つ残って、我々に驚きを迫るものがある。それは現実の世界そのものが驚きを迫るのである。現実の世界そのものに対して、我々は驚きの情を禁じ得ないのである。現実の世界は偶然的存在である。形而上的偶然である。
(「驚き」一七三頁)
この現実世界そのものがおどろきをもたらすのは、その背後に無数の可能世界がひしめいているからではない。また、十七世紀の哲学者・ライプニッツのいう神の「充足理由」によって選ばれたからでもない。ものごとの存在理由をつきつめていけば、しまいにはそれを十分な理由にしている究極の存在へ至るというライプニッツの考えはわからなくもないが、ここで神にお出ましいただく必要はない。
当の現実世界の裏側には「ない」がべったりと貼り付いている。この世界は「ない」こともできたのだ。
偶然性は不可能性の無の性格を帯びた現実である。
(「問題」二七六頁)
と九鬼が言うとおりである。
「不可能性の無」と言っているのは、無はそもそもありえ「ない」からである。ここで「ない」から「ある」へ裏表をひっくり返せば、「ある」のもつ本性としての「偶然性」、九鬼のいう〝原始偶然〟こそが「驚きの情」の正体であると知れるだろう。世界がとにもかくにも「ある」ということ、そのこと自体が「偶然」のたまものなのである。
もっとも肝心なことはさらにもうひとつある。
いったい事実=出来事は「いつ」起きるのだろうか?
「いま」である。
どんな出来事だろうと、それが起きるのは必ず「いま」でなくてはならない。過去の出来事も、これから起きるであろう出来事も、それが起きるときはひとしく「いま」なのである。そして「いま」であるというそのこと自体は、世界がこのように「ある」ことが「偶然」でしかないのと同様、「偶然」のたまものなのである。
原始偶然が偶然たるゆえんは与えられた「いま」の瞬間に偶然する現在性に存するのでなくてはならぬ。
(「問題」二二九頁)
九鬼のいう「偶然する現在性」には、「たまさかいま、そうである」という意味に加え、後述する他者との〝邂逅〟という出来事がおびるニュアンス――汝と我という異質なものどうしが遭遇し交差する瞬間――いま・ここが念頭にあると思われる。それはこの後の⒉で説明しよう。
さらに哲学者・入不二基義の次の論点も加えておきたい。
現実性が働く原初の姿を「偶然」と呼ぶならば、その「偶然」もまた「原始偶然」と称するに相応しい。この考え方は、因果系列を背景としない「瞬間的な現在」を「原始偶然」として見ることを可能にする。
(「現実性の問題」二一九頁)
入不二は同著のタイトルを九鬼の「偶然性の問題」から採った由だが、「原始偶然が展開したと見るべきものが、与えられたこの現実の世界である」という九鬼の主張に対して、〝原始偶然〟というイデアの産物がどうして「現実の世界」に「展開」するのか? という疑問への回答がここにある。げんにいま・ここに起きる出来事、それこそが真のおどろきである。その根底に「偶然性」があるからだ。それは「ある」ということの「現実性」がまとう「偶然性」なのであって、その背後には絶対の「無」がひかえている。
ちなみにこのような世界把握のしかたは、世界は時々刻々そのつど新たに創出されるというデカルト、ライプニッツらのいわゆる「世界瞬間創造説」を想起させるかもしれない。おそらく、いずれの考えもその根底に横たわるのは「なる」である。生成変化に深く与り、変化あるいは持続するこの世界と時間の「突出点」ともいうべき謎と矛盾をはらんだ「なる」については、やはりこの後の⒉で述べよう。
くり返すが〝原始偶然〟のこのような特性――「ある」ことがただそれだけでまとう「初源の偶然性」という特性――は、何を措いても欠かせない九鬼哲学のコア概念であると、強調しておこう。
1―⑸ 「偶然」と「必然」を超えて
すべての出来事は移り変わる。
出来事は、何らかの理の下に立ち現れなくてはならない。そうでなくては、混沌の坩堝があるだけだ。そして理にしたがう以上、出来事の移り変わりは必然性をおびていなくてはならない。この考え方の本流といえるのが原因と結果の鎖、因果法則である。出来事が起こるとき、それには必ず原因がある。原因にはさらにその原因が、その原因にはそのまた原因がある。こうして因果の鎖をどこまでも辿っていくと、存在としても概念としても、もはやこれより先には進めない岩盤に突き当たるだろう。それが「最初の偶然」であるところの〝原始偶然〟である。
ちょっと待ってくれ、「偶然」だって? 「必然」の誤りじゃないのか? なぜって、出来事は一貫した法則性の下、つまり必然性の下に移り変わるからこそ、その原因をたどることができるとキミは言ったばかりじゃないか。辿りにたどって行き着くさいはては、むしろ究極の必然と言うべきじゃないのか。
ごもっともである。
しかしながら「最初」の出来事を、遡行のさいはてに想定することは、出来事をたんなる可能性の次元に止めてしまうことになるだけだろう。出来事をどこまでたどれるか、たどった結果、何をもって「最初」とみなすかは、想像やシミュレーションの世界の話でしかない。つまりもっぱらわたしたちの認識能力の問題でしかない。そうなると、わたしたちにとって「初源の存在」は、はるか遠くに仰ぎ見る星屑のようにしかならないだろう。
そもそも究極の「最初」などというものがほんとうに存在するのだろうか。出来事には必ず原因というものがあって、原因を遡ればもはやそれ以上たどりつけない「最初」の原因に至り着くだろうという考えには、根拠があるのだろうか。それは「ねえ、モノ差しのモノ差し、世界で最初のモノ差しは、誰がどうやって測ったの?」という子どもの疑問に答えるようなものではないだろうか。
大人の答えは「それはね、太陽や月の動きのように周期性のあるものや、石や金属のように経年変化しにくい自然物をもとに、算術に通じた人たちによって、計測できる共通の尺度がだんだんと決められていったんだよ」などといったものかもしれない。けれど、「じゃあさ、いちばん最初はどうやって測ったの?」という疑問は依然として残るだろう。
子どもに理解できるかはわからないが、この場合の答えはこうなるだろう。「測ったんじゃないよ、測るっていう概念が尺度の発明と同時に生まれたんだ」
このことに比べたら度量衡だとか測定器の発明なんて、グリコのおまけみたいなものだろう。概念は普遍化され、それによって「起源」は隠蔽された。いや、より正しくは「起源」なんてありはしないことが隠蔽された、というべきだろう。
まあそうだとして、もし遡及的にたどり着けるような「最初」の存在がほんとうにあったとしたらどうだろう。それはきっと、必然的な無根拠性を同時におびることだろう。世界で「最初」の存在は、「必然」であるとも「偶然」であるとも言えるし、またどちらとも言えない。どっちもありでないということだ。こんなヌエ的でどっちつかずの説明に陥らざるをえないのは、そもそもこの問題に「必然」か「偶然」かという尺度を当てはめること自体、適切でないからではないだろうか。
「必然」とも「偶然」ともつかない、誰もが日常的に経験している例を一つ挙げよう。
いま私が正面にある食器棚の右上にあるコーヒーカップを取ろうと思って右手を伸ばしたとしよう。私にとってみれば、これは私自身の意志にもとづく、ごくありふれた動作にすぎない。そう意志するに至ったのは、コーヒーが飲みたくなったからだとか、お気に入りのカップが棚の右上にあるから右手を出したのだとか、理由はいくらでも挙げられるだろう。
しかしカップを取るという私の行為は、誰に強制されたわけでもなく、喉が渇いたといった生理的欲求からでもなく、あくまでも自らの自発的な意志によってなされたのだから、この意志それ自体は自律的なものだ、と私が主張するのを、おそらく他の誰も拒めないだろう。拒むも何も、そもそも私以外の他人には私の主張の正しさは判断不能でなくてはならない。なぜなら、それが他人という存在にほかならないからだ。
さてこれが、じっさい私の主張どおりであるとしたら、それをもっとも「根源的な意味」での「偶然」すなわち〝原始偶然〟と呼んで差し障りがあるだろうか。
しかしこれを私以外の他者から見たら、「意志」などという自律的な存在を認める根拠は当人の主張以外どこにも見当たりはしない。右手を伸ばすという行為はこの客観的な物理世界のそれこそ超巨大な因果連関のたんなる一エピソードにすぎず、必然的な過程以外の何ものでもない。「自由意志」などというものは、この客観的な物理世界のどこをどう探そうとけっして見つかりはしない。それは亡霊としか存在しえず、「じっさい私の主張どおりであるとしたら」という仮定は証しできない。九鬼が「偶然性とは……有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である」(「問題」一三頁)というとき、かれははからずも亡霊の存在(=無が有を侵している形象)に触れているのである。
ところがふしぎなことに、他人である誰もが私の主張を証しできなくても、理解はできるのだ。この点についてはただ「偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存する」(「問題」二七七頁)とのみ言っておこう。
ところで「偶然」という概念が適用されるのは、あくまでも起きてしまった事実=出来事に対してである。かたや出来事が未だ収束していない状態について用いられるのが「可能性」という概念である。明日の天気は晴れるだろうか、雨だろうか。どうやら雨の可能性はすくなそうだ。傘は荷物になるからやめとこうか……そこには収束されうる出来事に対する判断の「分岐点」があり、そこで行為の「選択」がなされうる。「可能性」は、こうした一連のプロセスに重なり合う。だからそれが出来事として収束したとき「ああにわか雨になってしまった、やっぱり傘を持って来るんだったなあ」と後悔もする。これは量子論でいう〝シュレージンガーの猫〟のような決定不能の「確率論的状態」と根っこは同じである。
確率とは未決定の、可能性のクラスター状態からその均衡が破れ、何らかの値(猫は死んでいる/生きている)へと収束する、その「値」の傾斜度合いを指していう。予測精度が高い/低い、成功/失敗、正しい/誤りといった評価(値踏み)は、クラスター状態の「可能性」がいかにして収束するか・したかという場面でなされるわけだ。
これに対し「偶然」という概念には、およそ「値」というものがない。「偶然」は収束そのこと、言いかえれば出来事の「現実化」に与るのであって、何ら「可能性」に対するものではない。天気予報の確率や傘を持って行くという選択やその前後のプロセスは、前段落で語った評価(値踏み)の対象となるが、「偶然」の観点からすれば何の意味もない。「偶然」は、わたしたちにとってあらゆる「値」の向こう側にある。だからこそ、「偶然性」のもつこの「えんがちょ」性、「縁の外」性、これこそがわたしたちにとって「驚きの情を禁じ得ない」のだが、他方でそれは〝くじ引き〟のように解毒剤的な利用価値ともなる。
「縁の外」にあり続けることによって、「偶然」はあらゆる関係性の網の目から零れ出る。そのため、わたしたちをしばしば突き放し、宙吊りにする。が同時に、あらゆる関係性の呪縛からも解き放つのである。
萩野篤人
(第04回)
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