No.017_交差する物語_01

© Karina Botis

 

 

 この間はイースターの日だった。春の訪れとともにキリストの復活を祝うこの日は、キリスト教徒にとってはもっとも大事な祭日で、教会にめったに行かない人もイースターは守る。

 

 厳密にいえば、この日を守らないすべはない。国や宗派によって特色があるのだが、毎年この時期になると、社会全体がイースター気分になる。ルーマニアの場合、復活祭の準備は当日よりしばらく前から始まる。そもそもキリストが十字架にかけられて亡くなった理由は古今東西の人類の罪だと言われるので、信仰者は復活祭までの40日間を懺悔の気持ちで過ごすのだ。一般の人(つまり修道者ではない人)たちはその気持ちを「断食」の形で表わす。「断食」と言っても、全く食べないというわけではなく、食べ物を制限するだけだ。ご馳走とみなされる肉料理やミルク製品をできるだけ避けて、野菜料理を中心とした食生活にする。つまりみんな一時期的にベジタリアンになるわけだ。この時期はミルク製品やお肉の売り上げが急激に下がるので、食品店やスーパーなども心得て、主に「断食」用の製品を売っている。

 

 復活祭になると、みんなはご馳走を食べる。この日に欠かせない伝統的なお料理といえば、赤色に染めたゆで卵(イースターエッグ)とパスカという甘いチーズパンだ。キリストが流した血がそこにいた女性が持っていたカゴの中の卵の上に落ち、卵が真っ赤に染まったという伝説がある。復活祭に家族が集まってみんなで食事をする時は、まず赤色に染めたゆで卵を食べる。卵の殻が割れた形は、復活したキリストがお墓から歩いて出てきたことを連想させ、その卵を食べる人間の精神的な「復活」を象徴している。

 

 この日に欠かせないもう一つのものはイースターのウサギだ。子どもたちはウサギから新しい洋服などをもらう。プレゼントをくれるだけで、実際は誰も見たことがないこのウサギがどうしてイースターのシンボルになったのかは不明である。信仰とは全く無縁のキャラだけど、お祝いの気分を盛り上げる存在としてみんなに愛されている。

 

 イースターは結局、家族や友達に会って、一日を楽しく過ごすことで気分を新しくする機会なのである。季節は春だから、大自然が冬の眠りから甦るように人間も気分的に甦るのだ。生命の「復活」である春は、元々から自然界に見える生物周期に対応している宗教的な祭日と密接に関係している。家族や友達と一緒に元気でこの日を迎えたことに対して感謝の気持ちを覚えれば、それは信仰面でも十分に復活祭に相応しい気分になったと言える。

 

 国から離れて生活していると、なかなかお祝いの気分になれない。とは言っても、同じキリスト教徒の友達がいれば、イースターはみんなが集まるのにちょうどいい日だ。こんな時につくづく感じるのだが、宗教的な祝日はやはり団体で行うものだ。宗教は一つの団体のメンバーが共有する意識であり、祭日はその団体の生活のリズムを刻む特別な時間なのである。祭日を守ることで、一人の人間があるコミュニティの信仰的な理念に共感しているという意味になるし、その団体に所属していることを示すことになる。

 

 そういえば、ヨーロッパの古典言語における「教会」という言葉の意味は「集まり」である。同じ信念を抱く人が集まる所にこそは神様がいると思われているからである。どの宗教でも同じだが、「教会」の役割を果す場所はそのコミュニティの中心であり、その団体のシンボルでもある。

 

 教会がコミュニティにとってどれくらい大事なのかといえば、ルーマニアの歴史に面白い例がある。中世にオスマン帝国がヨーロッパを侵略しようとした時、ドナウ川の北にあった現ルーマニアの基になった国々の激しい抵抗にあった。他のヨーロッパの国々も軍事力でその抵抗に協力した。みんなヨーロッパのイスラム教化を恐れていたとされる。

 

 しかし、政治的にも軍事的にも抵抗できなくなった15世紀頃、全国が破滅されないように、国中の村がオスマン帝国に貢ぎ物を納め始めた。貢ぎ物を定期的に送っていた村はオスマン帝国の庇護を受けていた。つまり、キリスト教徒は自分たちの信仰を保つことができたのである。その印しとして、村の中心にある教会の塔の十字架にオスマン帝国のシンボルだった半月が付いた。貢ぎ物で平和を維持する制度は300年ぐらい続いたのだが、半月が付いている十字架の教会は幾つか現在まで残っている。

 

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スチャヴァ県にあるフラタウツィ教会(1744年)の十字架(Blog prin vizor 提供)

 

 様々な信仰を持つ人が同じ場所で共存することは今は普通になっている。お互いの信仰に対する最低限の配慮さえあれば、仕事上の関係も上手く行くし、友人関係も成り立つ。宗教上の理由で個人と個人の仲が悪くなることはあまりない。ビジネス上の理由で仲が悪くなった時、宗教的な背景が非難の口実に使われてしまうことはあるが、その場合、宗教が贖罪のヤギにされているのは明らかである。相互利益や調和を重んじて、冷静になって満足するまで話し合い、仲直りをするのが常識だ。

 

 全ての宗教には人間の命を大切にする理念がある。神様の存在は大自然や自然の一部として生きている人間に宿っていると思われているからである。宗教は元々大自然や命にまつわる謎を探検する道具として生れたのではないだろうか? 神話や逸話を通して、人間は宇宙のことを理解しようとしていた。一つの世界観を生み出すとともに、人間に自分が宇宙の一部分であるという意識を促すのも、宗教元来の役割だった。

 

 でも宇宙のことを少し理解できたような気がしてきた人間は、宗教が生み出した世界観はもう必要ないと思っているようだ。しかし、宗教は聖書や神話だけではないということを忘れているのではないか? 周りの人間とのつながりの中で、自分が生きていることに対して感謝の気持ちを覚えることなども本来、「神様」と呼ばれた無名の相手に捧げるものだったと思う。

 

 現在中東で起こっている戦争では宗教を言い訳にして、人はむやみに人を殺す。それがニュースとして報道されることで世界中の人々は恐怖に怯える。見かけは宗教的な戦争だが、あそこの「宗教」は聖なるものを一つも持たず、故障しているようだ。その故障した理念を抱いている人間は、まるでウィルスに感染したソフトで動かされる機械のように暴れて、自滅するまでその周囲を破壊しようとしているかのようだ。信仰がまたも政治的な手段のために利用されて、大勢の命が失われている。人間の存在そのものが大切にされることさえない所に、神様がいるわけがない。

ラモーナ ツァラヌ