安井浩司新句集『天獄書』表1、4 装幀 鶴山裕司(価格未定)
来月から『安井浩司研究』の連載を本格的に始めます。地味な〝研究〟を開始する前に経緯を簡単に説明しておきます。
すべては安井さんの新句集『天獄書』の出版計画から始まった。令和二年(二〇二〇年)の年末に、安井さんから俳人の酒卷英一郎さんの元に『天獄書』の原稿が届いた。酒巻さんから僕の方に連絡があり、安井さんが新句集を金魚屋から出版したいという意向だとうかがった。昨今の出版不況等々で書店などへの流通は極めて厳しいが、金魚屋で出版すること自体はそんなに難しくない。「可能です」というお返事をすると、しばらくして酒巻さん経由で原稿が送られてきた。見ると「装幀 鶴山裕司/監修 酒卷英一郎」と書いてある。安井さんからは装幀をやれという話はまったくなかったので驚いたが、句集出版を酒巻さんと僕に委ねるにあたっての安井さんのご配慮だったと思う。
ただ新句集の出版計画と同時に『安井浩司読本』の話が再燃した。これはだいぶ前から安井さんと酒巻さんの間であった出版計画で、安井さんは『増補安井浩司全句集』『安井浩司評林全集』を出版しておられる。安井文学に関する基本書籍(資料)は出揃っているわけだ。しかしその受容と理解はぜんぜん進んでいない。
安井俳句をお読みになった方には説明不要だろうが、なにせあの作風である。「こりゃいったいなんだ?」ということで前衛俳句や難解俳句と呼ばれ、キャリアも長く著名俳人の一人だが賞といった形での俳壇評価と無縁なのはもちろん、安井俳句が何を表現しようとしているのかその糸口すらつかめないような有様である。〝孤高の俳人〟とカッコ良さげに呼ばれたりもするが、ほとんど理解の手がかりのない俳句を大量に詠み続け衰えを見せない安井俳句は、俳句界では目障りな目の上のたんこぶといった気配すらなきにしもあらずである。あれはわかんないからほっとけ、という感じですな。前衛俳句といっても意味やイメージからある程度は読み解けるものだ。しかし安井俳句にはそれすらない。
これではいかんということで、新句集の上梓に合わせて安井文学の理解を促す『安井浩司読本』の計画もスタートした。どうせなら新句集と『読本』の同時出版がいいだろうということで、ひとまず新句集の出版はペンディングになった。
ただ『読本』を作るといっても僕にとって俳壇は完全アウェーである。俳句は好きで興味はあるが具体的な俳壇や俳人たちの機微はぜんぜんわからない。そこで酒巻さんが俳人の大井恒行さん、九堂夜想さんに声をかけてくださった。酒巻さんと大井さん、九堂さんと僕の四人が編集委員になって『読本』を作ることになったのだった。酒巻さんと大井さんが今までに書かれた安井浩司論を集めてコピーを送ってくださり、書き下ろし原稿の依頼をしてくださった。九堂さんは『読本』に収録するすべて書き下ろしの「一句鑑賞」を、若手俳人中心に著者選択から執筆依頼まで担当してくださった。僕の仕事はコピー原稿のワープロ打ちを含む原稿の取りまとめだった。
また平成二十四年(二〇一二年)に墨書展を開き公式図録兼書籍『安井浩司「俳句と書」展』を作った際に、僕は安井さんから彼が過去に主宰・参加した同人誌などをお借りした。酒巻さんから唐門会(金子弘保さん中心の安井さんの私設応援団)所蔵の資料一式もお借りして調べた。その時の調査で安井さんには大量の未発表原稿があることがわかっていた。どうせならそれも『読本』に収録しましょうということになった。
酒巻さんは『安井浩司評林全集』から洩れた未発表評論を丹念に集めてくださり、それは安井さんによって「春雷共鳴抄」と名づけられ『読本』に収録することになった。僕は未発表句集『集成 天蓋森林』と安井さんが二十代に書いた自由詩をまとめた。
『集成 天蓋森林』全七一四句はその一部が第八句集『乾坤』、第九句集『汎人』、第十句集『汝と我』収録されたが約七〇パーセントが未発表句である。また「俳句評論」に集った俳人たちの多くが同時代の現代詩や現代短歌、前衛小説や暗黒舞踏などから強い刺激を受けている。安井さんもその一人だが彼の自由詩理解はとても優れている。詩集にはまとめなかったが、安井さんの自由詩の質は実際に詩集を刊行した加藤郁乎さんや岡井隆さんよりも上だ。的確な自由詩理解が安井俳句の糧になったのは間違いない。それを『読本』に入れた。
ところが令和三年(二〇二一年)七月に安井さんが誤嚥性肺炎で入院なさったという報が飛び込んできた。驚いたが困った事態でもあった。『読本』の初稿がまとまったら安井さんに見ていただいて内容について承諾をいただかなければならない。また『読本』巻頭に写真アルバムを掲載するために資料をお借りする必要があった。打合せを兼ねて酒巻さんと秋田に行く機会をうかがっていたのだが安井さんの状態はどうも思わしくない。加えてコロナ禍である。今も終熄していないが去年はさらに大騒ぎで、入院患者と県外からの来訪者の接触は原則禁じられていると安井家からご連絡があった。
そうこうしているうちに冬になってしまった。去年から今年始めにかけてはけっこうな豪雪で、安井家から今秋田に行っても雪で安井さんの家には入れないかもしれないというご連絡があった。「しかたがない、雪解けまで待ちましょう、その頃には安井さんの状態も安定しているでしょうから」と酒巻さんと話したのだが、今年(令和四年[二〇二二年])の一月十四日に安井さんはお亡くなりになってしまった。八十五歲とご高齢ではあったが、今の医療ならご回復なさるのではないかと思っていた。ご存命の內に新句集と『読本』をお届けできなかったのは慚愧の至りである。
安井浩司新句集『天獄書』表2、3
家族葬で葬儀には参列できなかったが、安井さんは生前に「死んだら蔵書や原稿の整理は酒巻さんに任せる」と酒巻さんにおっしゃっていた。そこでご遺族の許可を得て、安井さんのお墓参りを兼ねて蔵書と原稿整理に秋田におうかがいすることになった。完全に雪がなくなった今年の五月七日から九日まで酒巻さんといっしょに秋田に出かけた。
物書きは皆そうだが、全集にまとめても生涯出した著作は多くても両手を拡げたくらいで収まる。が、その何十倍、何百倍もの本などの資料を抱えているのが常である。安井さんの蔵書の量も膨大だった。また大量の原稿類もあった。
車で行ったので一日目は午後着で、ご焼香して安井さんのご遺族にご挨拶してから安井さんの書斎を見て、何が重要そうな資料なのか当たりをつけるだけで終わった。二日目に蔵書と原稿類の整理を行った。内容を精査する時間はなくとりあえず重要そうな資料をダンボール箱に詰める作業だった。三日目に秋田市から能代市に安井さんのお墓参りに行き、酒巻さんといっしょに安井さんの妹さん(長女)で今も安井さんの実家にお住まいになっている由喜子さんをお訪ねしてお話をうかがった。秋田市に戻り、夕方まで蔵書と原稿類の追加整理を行った。また僕は父親の具合が悪くて富山に帰省していて行けなかったが、六月十七日から十九日に酒巻さん、九堂さん、表健太郎さん、丑丸敬史さん、田沼泰彦さんが二度目の蔵書と原稿類整理のために秋田を再訪なさった。一度の訪問では整理しきれないくらいの蔵書と原稿類だったのである。
この二回の秋田訪問でまた『読本』の出版が延びることになった。どうしてもこれは『読本』に収録した方がいいという資料が見つかったのだ。その最たるものが安井さん自筆の年譜である。安井さんは『安井浩司選句集』と『安井浩司「俳句と書」展』に年譜を発表しておられるがとても簡素な内容だ。歯科医を職業にされていたが出身大学すら記載していない。ところが未発表原稿から三種類の自筆年譜が見つかった。
その內の一つはとても詳細なもので、ワープロで起こすと四百字詰め原稿用紙一〇〇枚を越えた。なぜ発表せずに、あるいは発表の意図なくこんなに長く詳細な自筆年譜を作っておられたのかは謎である。しかし生まれた年から晩年までの年譜である。出来事の羅列ではなく、冒頭に一年ごとの総括が書かれている。今まで明かされることのなかった安井さんの精神の軌跡が綴られた年譜なのでこれを『読本』に収録することにした。懸案だったアルバムもご遺族からお借りして『読本』冒頭の写真アルバムを作ることができた。
蔵書と原稿整理で明らかになったのは安井さんが恐るべき整理整頓魔だったことである。原稿類や創作メモは年代順にキチンと並べられていた。また葉書や手紙などの来信も一年ごとに封筒などに入れられて整理されていた。アルバムも年代別に完璧に整理されていたのである。これほど厳格に自分の原稿類を整理している作家はまずいないだろう。
またザッと目を通しただけだが安井さんには膨大な未発表原稿がある。もちろん完成品はない。俳句に関して言えば、句集に収録した句の数倍の句稿が句集ごとに何冊もの冊子にまとめられていた。俳人は誰もが詠んだ句の中から句集に収録する作品を選ぶが、安井さんほど大量の句を詠んでセレクトした俳人はいないだろう。もっと興味深いのは創作メモ類で、これを発表していれば安井俳句の理解が進んだだろうにと思う創作ノートがかなりある。宮沢賢治は大量の未発表原稿を抱えていたが安井さんも似ている。もしかして東北人特有のなにかの働きがあるのかなと思った。
冒頭の話に戻るが、この未発表原稿を『読本』とは別に「安井浩司研究」として順次整理・発表してゆくことにしたわけである。淡々とやるつもりだが量が膨大なので終わるまでに数年はかかるだろう。もちろん未発表原稿整理・発表には意味があると思って始めるわけだが、それはまあ人様が決めることである。森鷗外は『渋江抽斎』の中で「学問は要不要を云々していてはできない」という意味のことを書いている。僕は学者ではないが要不要は別にして安井さんの遺稿を整理・発表してゆくことにします。できれば主だったものを安井浩司未発表原稿として本にまとめられるといいなと思っている。
で、正直なところ、『読本』は非常に困難な取りまとめ作業になった。安井さんがお元気な內に編集が始まり途中でお亡くなりになってしまったからである。酒巻さんが開いてくださった酒巻さん、大井さん、九堂さん、それに僕が集まった最初の編集会議で、僕は「『読本』の編集方針は作家がご存命の時とお亡くなりになった時では自ずと違います。今回はご存命の內の『読本』刊行なので、既存原稿をとりまとめてパッと出してしまいましょう」という意味のことを言った。実際に編集し始めるとそうパッパッとコトは進まなかったわけだが、まさか安井さんがお亡くなりになるとは思っていなかった。安井さんのご逝去によって編集方針の修正を余儀なくされてしまった。
その点は『読本』執筆者の皆さんも同じで、安井さんがご存命の時とお亡くなりになった時では原稿の書き方が微妙に違って来るだろう。どうにもならないこととはいえ、何卒ご容赦願いたい。また膨大な安井浩司論が集まったが『読本』に収録しなかった原稿もかなりある。一つには俳人中心に原稿を収録しようという方針があった。また安井さんとのお付き合いの濃淡や、原稿の長さなどでセレクトを行ったという経緯もある。必ずしも原稿優劣で収録原稿を選んだわけではないのでそこもご理解いただきたい。
小林秀雄は「亡くなった文学者の輪郭ははっきりしている」と書いたがそれは安井さんも同じである。安井文学は静止した形で固まったわけで、生きておられる時よりもその長所、あるいは問題点がより見えやすくなったはずである。編集統括人としては『読本』がこれから安井文学を読み、安井文学を論じて様々な糧にしようとする人たちのための基礎資料になることを願っている。
安井浩司第一句集『青年経』昭和三十八年(一九六三年) 砂の会発行
安井さんのご回復を待っている間に資料がどんどん集まってきたので『読本』は五〇〇ページを越える大冊になってしまった。平綴じでこの厚さの本を出すのは技術的に不可能なので二分冊で刊行することになった。『安井浩司読本Ⅰ―安井浩司による安井浩司』と『安井浩司読本Ⅱ―諸子百家による安井浩司論』である。Ⅰには安井さんの未発表原稿やインタビュー、自筆年譜などを収録した。Ⅱは諸家による安井浩司論である。
新句集『天獄書』の装幀だが、安井さんのご指名なので僕が行った。装幀家ではないので面映ゆいことである。ただぜんぜん真に受けていなかったが、安井さんは『天獄書』が最後の句集になるだろうと電話でおっしゃった。「じゃあ原点に戻って第一句集の『青年経』みたいな装幀にしましょうか」と冗談交じりに言ったら「それもいいね」とおっしゃった。そんな経緯もあり装幀は『青年経』を踏まえた。『青年経』に装幀者の名前は記されていないが初期の安井さんの親友で俳友でもあった柴田三木男さんが手がけたものである。
句集『青年経』の表紙は数多い安井さんの句集の中でも印象に残る。緑と赤の配色のせいだ。この二色を組み合わせるのは案外難しい。アフリカンが好む配色だが日本人には受けが悪い。本は星の数ほど出版されているが日本では緑・赤だけの装幀はほとんどないと思う。どことなくアンバランスで落ち着かないのだ。しかしそれが、どうしたって特異と言わざるを得ない安井俳句にとても合っている。安井さんをよく知る人が手かげた優れた装幀である。『天獄書』装幀は柴田さんデザインへの僕なりのオマージュでありそのモダニズム的解釈である。
裏表紙には美男子だった頃の安井さんの写真を置くことにした。僕らは学校の教科書などで子規、漱石、鷗外らの写真を見て彼らのイメージを頭の中に持っている。年齢によって当然微妙に顔は違うわけだが一番その作家らしい写真である。四十代頃の安井さんのお顔には強い意志と高い知性がはっきり表れている。この写真が安井さんのパブリックイメージになればいいなと思う。安井さんはスタイリッシュというかちょっとええカッコしいのところがあったので、美男子の写真がパブリックイメージになるなら文句はおっしゃらないだろう。
なお写真の背景に墨書が書かれた襖が見えるがこれは芭蕉『奥の細道』の一文である。僕が秋田をお訪ねした時にはもうなかったので「あれはどうしたんですか?」とお聞きしたら「飽きたので捨てました」というもったいないお話であった。酒巻さんは四十代くらいの荒っぽい安井さんの書が一番いいとおっしゃっている。晩年の幕末文人のような贅肉を削ぎ落とした書は『安井浩司「俳句と書」展』に収録したので『読本』の余白には四十代くらいの安井さんの書を掲載した。
鶴山裕司
(2022 / 08 / 23 15枚)
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