目次
1. このページについて
2. 作家を目指す人のために
2.1 文壇の仕組みについて
2.2 詩壇の仕組みについて(準備中)
2.3 俳壇の仕組みについて(準備中)
2.4 歌壇の仕組みについて(準備中)
3. 創作とはどういうものか
3.1 創作者について
3.2 ジャンル論
3.3 テクニック論
4. 創作者の敵について
5. これからの文学像・文学者像
5.1 二十一世紀の文学
5.2 二十一世紀の文学者・創作者
1. このページについて
文学金魚では「文学新人賞のすべて」について読者に知らせるページを開設します。単なる情報集ではなく、文学新人賞とは何か、どのように運営され、授与され、受賞者はどのようにして作家となってゆくのかを具体的かつ詳細に解説するものです。
このページは、文学金魚編集人である石川良策による編集後記の内容を網羅します。文学金魚の編集後記は、新人賞についてのみならず、デビューすべき新人について、また彼らが受け入れられるべき文壇の仕組みなど、(小説家にかぎらず)作家を目指す誰もが知っておくべきことが語り尽くされており、文学金魚創刊以来、高いアクセスと注目を集めています。
その理由は、新人作家にとって大変重要なことであるにもかかわらず、今までどこにも書かれていなかったから、少なくとも表向きには語られてこなかったからです。ただ、それを知らずに作家を、新人賞を目指すことは、大きなリスクと労力コスト、エネルギーと意欲のロスをもたらすでしょう。新人賞を受賞して初めて知らされる数々の実態のなかには、それをあからさまにすることが既存の文壇・新人賞のシステムにとって不都合なことも含まれます。しかし文学の世界は結局のところ率直で、真実に近づくことを目的とするものです。それが本当のことならば、さらに隠すような無駄な抵抗をする文学者も編集者も、存在するはずはありません。
このページはまず構造とアウトラインだけが示されます。読者の要望に応じつつ、これまでの、またこれからのコンテンツから次々に抽出され、まとめられて、やがて読者に対して “文壇” とそこに誕生すべき “新人”の、また “新人賞” のあるべき姿をくっきりと浮かび上がらせるでしょう。そのとき読者は、この21世紀の新しい文学の姿、そして金魚屋新人賞が目指すものをも感知すると信じています。
金魚屋プレス日本版代表 齋藤都
金魚屋プレス日本版発行人 大畑ゆかり
2. 作家を目指す人のために
2.1 文壇の仕組みについて
石川は職業柄、毎月文芸誌に掲載された主だった小説をかなり読んでいます。純文学系文芸誌に掲載された作品のうち、単行本化されるのはせいぜい半分くらい(それ以下かな)ですから、その現場はかなり生々しいです。はっきり言って、こりゃアマチュアだなと思う作品も堂々と掲載されています。じゃあなぜ有名文芸誌に掲載されるのか。過去に新人賞を受賞したか、過去にある程度の部数を売り上げたからです。これが一番わかりやすい小説界のコードです。乱暴な言い方をすれば小説界は徹底した〝実績主義〟です。
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これも乱暴な言い方ですが、小説は〝売れれば勝ちの世界〟です。もう少し現実の話をすると、小説界は文学出版三大大手である文藝春秋社の芥川賞・直木賞、講談社の野間文芸賞・野間文芸新人賞、新潮社の三島由紀夫賞・山本周五郎賞で新人・中堅作家の囲い込みを行っています。自社刊行作品が優先されるのは当然ですが、大人の事情を鑑みても、かなり頑張って平等・公平であろうとし続けている権威ある賞です。ただ本が売れればこの制度をスキップできます。売れればいいと言っているように聞こえるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。小説はある程度本が売れなければ何も始まらない、始められないと言っているのです(爆)。文学金魚もこの鉄則をある程度踏襲せざるを得ません。
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そのために何をすればいいのか。これは版元だけでなく、作家も真剣に考えなければならない。文学金魚は純文学系メディアですから、純粋に本を売りたいビジネス指向の作家さんとはあまり相性が良くないだろうと思います。ただバリバリの私小説系純文学作家がウエルカムかと言うと、そうでもありません。(今後もマジックが通用するかどうかはわかりませんが)私小説系純文学作品をベストセラーにできるのは文藝春秋社文學界だけです。それが現実だと考えた方がいい。私小説で作家デビューしたいのなら、文學界新人賞が一番の近道です。
ただ文學界も変わろうと努力なさっていますが、私小説は制度疲労を起こしています。その他の小説ジャンルも同様です。ツカミはOKだけど、読み終わると型にはまっていると感じる作品が増えています。本が売れないから安全パイに傾いている気配がある。小説に関する情報を簡単に入手しやすくなった分、作品技術は確かに上がっているのです。しかし作家の注意が小説だけに注がれ、狭く息苦しい作品になってしまうことが多い。(文学金魚が総合文学を掲げ、ベンチャーとして外側から文学業界に風穴を開けようとしている理由もそこにあります。)
音楽やお笑いなどの芸能の世界と比べて、文学の世界は非常にチャンスが少ない。理由は露骨な言い方になりますが、金が儲からないからでしょうね。新しい才能を発見して大儲けできる可能性が低いので、誰も本気で才能を発掘しようとしない。新人はリスクなので、むしろ既存の中堅・大物作家の取り合いになりがちです。ラノベや大衆文学から純文学、自由詩等々のマイナージャンルになるにつれてチャンスは少なくなります。
2.2 詩壇の仕組みについて(準備中)
2.3 俳壇の仕組みについて(準備中)
2.4 歌壇の仕組みについて(準備中)
3. 創作とはどういうものか
3.1 創作者について
以前、〝書き続けている限りあなたは作家です〟と書きましたが、それは本当のことです。書けば書くほど小説文学への理解が深まり、作品の質が向上するのが理想であるのは言うまでもありません。
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文学金魚、別に見目麗しい新人作家を探しているわけではないですが、作家さんには基本、使えるものは全部使うようにとお願いしています。そうしなければ、これからの文学界、生き残れないと思います。もちろん最後は作家の文筆力が勝負です。だけど特殊な経歴とか美男美女だとかで読者に記憶してもらえるならそれはそれでよし。もったいぶった文学者先生が一番アカン。語学力でも趣味でも使えるものは全部使った方がよろし、であります。
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前衛小説でなぜ臭みが生じるのかといえば、それは日本文学の特徴を理解した上で、その文脈をあえて外そうとしている面があるからです。物語の設定や書き方が前衛的に写ったとしても、読み進んでゆくと意外と簡単に底が割れることが多い。文学ジャーナリズムでは底が割れたとしても『まあ果敢な挑戦だよね』という感じで一定の評価を与えることも多いわけですが、多くの作家が『これじゃぁ保たないよね』と思って静観しているのも確かです。実際、ほとんどの前衛作家は作家が思っているほど前衛的試みをしていない。
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人文学の世界では優秀さは常に相対的なものです。今優秀でも将来もそうだという保証はありません。漠然とであれ作家は常に10年先のことを考えていなければなりません。なぜ10年か。人間は10年くらいのスパンでしか将来を見通せないからです。70歳で現役バリバリの第一線で活躍している作家にお話を聞いても、たいてい『あと10年欲しい』とおっしゃいます(爆)。作家の活動はその積み重ねです。
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今の文学の世界は厳しいです。恐らく将来的にも厳しいでしょうね。今後、戦後の80年代くらいまでのように文学界全体が堅調で、そこそこ本が売れる時代は来ないと思います。売れる作家と売れない作家にはっきり分かれる。今のところ小説界の賞はそれなりに機能しています。優れた作品に賞が授与されるのは当然のことです。でも長い目で見ると、本当に優れた作品だったかどうかはけっこう危うい。しかし賞には賞の授与で作品が話題になって作家が活動しやすくなり、出版社が収益を上げることができるという現世的側面があります。小説界で賞が機能しているというのは、少なくとも賞の現世機能がまだ有効だということです。だけど詩の世界ではとっくの昔に賞の現世的機能が失われている。詩の世界で起こることは必ずと言っていいほど小説界で起きます。現に詩の世界では一般的な自費出版が、特に小説純文学の世界では一般化しつつあります。小説界の賞の現世機能もじょじょに失効してゆくことを覚悟しなければならないと思います。
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読者を得ることが作家にとっての唯一の生き延びる道です。世間的に有名な賞をもらっても〝We can be Heroes, just for one day.〟では意味がない。書いて発表して本にして最低限の対価を得て次の本を出し続けるのが、作家にとってミニマルでも一番いいあり方です。そのために作家にとって大切な節を折る必要はありません。自分の表現したい核を守りながら読者を意識して売れる工夫を付加してゆけばいいのです。文学は厳しい時代に入りましたが、文学金魚からデビューした作家さんたちには、できれば〝売れる作家〟のカテゴリーに属していていただきたいと思います。
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作家が一番力を持っている時期は、〝どうしても書きたいことがある時期〟です。そういう時期は一般的な文章テクニックを下まわっていても秀作が生まれますし、思いがけない高いテクニックを自然に生み出したりもします。
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もちろん長く書き続けるには最初の衝動だけでは不十分です。ただ〝書きたいことがある〟という表現の核は必要不可欠です。もしそれが低いレベルでは有名になりたいとか、高いレベルでも秘密の内面を書きたいとかなら、それが達成された時点で作家の活動は実質的に終わります。
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だから〝書きたいこと〟は抽象レベルの高さを持っていなければならない。それはなぜ文字で書くのかという根源的な問いかけも含みます。表現欲求が個的レベルから公的レベルに昇華されているわけで、それを把握できれば自己とは関わりのない世界や社会を題材にして、自己の世界を表現できるようになります
版元が今の読書界でどういった本が受け入れられるのかを考えるのは当たり前です。ある程度までは論理的に分析します。ただ最終判断は勘です。それ以外に表現しようがない。昔から出版には博打の面があると言いますが、確かにそういう所はあります。
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ただそれは作品に〝華〟があり〝ウリ〟があると確信できれば、うんと話しが早くなります。もちろん20代30代の若い作家にそういった客観的自己判断を求めるのはちょいと酷です。ただ40代を超えたら必須です。才能と一口に言いますがその質は様々です。若い作家は無意識的才能でいいですが、40代以降はまず作家が自己の才能に確信を持っていなければなかなか難しくなるのは確かでしょうね。
3.2 ジャンル論
作家なら書きたい主題があるのは当たり前です。純文学系作家ならなおさらそうでしょう。しかしそれをいわゆる〝純文学作品〟として表現する必要はありません。サスペンスでも歴史小説でもホラーでもラノベでも可能です。現状の文学界でこれをやると、本はあるジャンルの棚に分類され、サスペンス作家、時代小説作家etcと呼ばれることになります。また作家はサスペンスで売れたら次々サスペンスを書くことを求められる。だけど本末転倒になるならそれはやらない方がいい。
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小説業界のスタートラインである〝売れること〟を素直に受けとめれば、作品に大衆小説的要素は不可欠です。ただ本質的に〝純文学〟に相当する作家主題は、作品に大衆小説要素を盛り込んでも消えることはない。得意不得意はあるでしょうが、小説ジャンルの中で、マルチジャンルを試みるのはその有効な方法です。たとえばホラー作家でラノベ作家で純文学作家というとイロモノにみられがちですが、プレゼン方法によってその印象はかなり異なります。そこが出版元の編集方針ということになると思います。
3.3 テクニック論
読者が作品を単純化してしまうのも事実です。『あの小説はね、A君がBさんに恋して○○して、けっきょく結ばれる話なんだよね』といった具合です。この単純化は仕方がない。誰だってそうやって小説を読んでいるのです。ただ読者に『単純に言うとそうなんだけど、もちろんそれだけじゃなく、いろいろあってね』と言わせれば、その作品はある程度は成功していると思います。
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小説の場合、読者が単純化して作品を読むことを逆手に取って作品を書いてゆく工夫も必要です。深遠で複雑な物語を書こうと意気込んで取りかかることも時には必要ですが、もんのすごく単純な物語を前提に、作品を複雑にしてゆく手もあります。もしかすると後者の方が実はテクニカルには難しいかもしれない。小説は奥が深いのであります。
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基本的にまず二元論で考えた方がいいと思っています。文筆でいうと内容と形式論ですね。もちろん両者は相関関係にあります。ただ小説という、基本的には物語を中核に据えた表現の場合、過剰に形式にこだわるのはあまり良くないと思います。
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乱暴なことを言えば、小説の場合は書きたい内容があれば自ずから形式はついてくる。まず何を書きたいのか、何を文字として表現したいのかを把握しなければ、いくら形式を工夫しても無駄です。深刻そうな顔をしていても、大半の純文学作品が失格の理由もここにあります。本当に形式が重要になるのは、表現したい内容が複雑な場合だけだと言ってもいい。形式を工夫しなければ、伝達したい内容が上手く伝わらない場合などです。あ、石川が言っている形式とは小説全体のストラクチャーであって、テニオハの文体ではありませんよぉ。
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ただ創作者にとって、一番の長所は一番の短所でもあります。ほとんどの場合、短所を強く意識することで伸びてゆくことが多いのです。
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物語要素がない自由詩では形式がとても重要になる。自由詩は内容・形式が文字通り完全に自由な表現様式ですが、作家が世界をどう捉えるのかが形式になります。だから優れた詩人たちの作品形式は、個々に異なる。詩人ごとに世界認識方法が異なり、それが形式として表現されているからです。自由詩が意味内容だけからは読み解けない(十分に鑑賞できない)理由もそこにあります。ジャンルによって表現の仕方は異なるのであります。
4. 創作者の敵について(準備中)
5. これからの文学像・文学者像
5.1 二十一世紀の文学
石川は老体にムチ打って文学金魚の編集人をやっているわけですが、その理由はやっぱ、戦後文学はもちろん、大正時代頃から続いている近現代的文学システムを、まぢで少しだけ、だけどかなり決定的に変えることができる時期に差し掛かっているという予感を持っているからです。恐らく2020年代には新たな文学の動きがはっきりすると思います。この兆候は2010年代後半から露わになるだろうなぁ。もしかすると後から振り返ると、2016年あたりが一つの区切りになるやもしれまへん。
5.2 二十一世紀の文学者・創作者
現状の、ちょっと閉塞気味の文学界に新風を巻き起こせそうな作家ならどんな作品でもWelcomeです。ただ新人作家はいつまでも新人なわけではありません。新しさは常に相対的なものです。新人らしいフレッシュさを活用できるのは、単行本で3冊目くらいまででしょうね。そこからはまた新たな展開を切り開いていかなければなりません。
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もちろん新人作家さんたちに、冷や水を浴びせかけているわけではありません。新人賞等々は大喜びしていいですが、一段落したら〝次〟です。単行本をまとめるのは大変ですし、本を出し続けるのも大変です。売れなければ、つまり読者が支持してくれなければ、どんな有名賞をもらっても次第に消え去ってゆくのは当たり前のことです。必ずうんうん唸って考える時期が来るわけですから、作家はできるだけ先を見据えて考えて書いてゆかなければなりません。
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また文学金魚新人賞は比較的若い作家に授与されていますが、年長作家を排除しているわけではありません。ただ年長ならそれなりの力が要求される。40代作家なら〝新しさ〟に対して〝確信犯〟でなくてはならない。50代を超えたら、さらにそこに〝絶対的能力〟が必要とされます。年を重ねてから一から勉強しますぢゃダメです。50代以上の作家は、デビューした途端に30年作家のキャリアを感じさせるような能力がなければダメだということです。年齢相応に要求される能力があるのは、実社会でも文学の世界でも同じです。
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文学金魚は新たな才能を持つ創作者の登場を心待ちにしていますが、それは二つのタイプに分かれるやもしれません。一つは手垢のついていない新人。文壇的手垢は確実に存在します。中途半端にそれに染まると、新人でも途端につまらない作品を書くようになる。青山さんや原さんは、ある意味純粋無菌室で独力で育った作家でしょうね。だからこれから様々なウイルスがうようよしている文学の世界で、どう身を処していくのかが今後の重要な課題になるやもしれません。
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もう一つのタイプはいわゆる〝すれっからし〟の新人作家です。なかなかいないでしょうが、文壇や詩壇のことを知り尽くした上で、あえて新しいことをする、できる力がある作家たちです。ただ文学の世界は、長い時代的スパンで見ても曲がり角にさしかかっています。再デビューだってあり得るわけで、何かを〝見切る〟ことができる作家は、年齢を問わず新しい時代の新しい作家になり得ると思います。
この厳しい状況を、どうクリアして世の中に打って出るのかも新人作家の実力の内です。どのジャンルでもプロを目指してハードルを越えられるのはせいぜい10パーセント。10年後の生存率はさらに下がる。気を抜いている余裕はないのであります。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■