第1回 文学金魚大学校セミナー ② 仙田学&西紀貫之
仙田学:1975年1月27日 京都府生まれ。学習院大学大学院フランス文学科博士課程単位取得退学。2002年に処女作「中国の拷問」で第19回早稲田文学新人賞を受賞。著書に『ツルツルちゃん』(NMG文庫、オークラ出版、2013年)、『盗まれた遺書』(河出書房新社、2014年)がある。文学金魚で「ツルツルちゃん2」を連載中。
西紀貫之:サークルAGJスタジオ主宰で、ライトノベル作家でライター。ライトノベル『苛憐魔姫たちの狂詩曲~棘姫ととげ抜き小僧~』(オークラ出版 NMG文庫)、『娼婦たちの騎士』(Kindle版)、『女子雪月花』(Kindle版)など著書多数。古流実戦剣術会の末席。
二〇一六年六月十八日に、東京目黒の日仏芸術文化協会で行われた第1回文学金魚大学校セミナーのレジュメをお届けします。第二段は仙田学さんと西紀貫之さんの対談です。純文学とライトノベル小説(キャラクター小説)のジャンルの越境についてお話していただきました。ほとんど接点のない二つのジャンルですが、小説全体の売上ではラノベが大きな割合を占め、それについて考えてみるのは重要です。なお当日は仙田さんに女装姿で登場していただきました。
文学金魚編集部
仙田 まずは自己紹介ですね。仙田学と申します。「早稲田文学」という文芸誌で、二〇〇二年に小説『中国の拷問』で新人賞をいただきました。それがきっかけになって小説を書き続けています。もう十四年くらい書いていることになります。ライトノベルも一冊だけ出していて、『ツルツルちゃん』というタイトルで、オークラ出版のNMG文庫から出版されています。この作品の続編に当たる『ツルツルちゃん2』を、文学金魚で連載させていただいています。「早稲田文学」新人賞受賞作『中国の拷問』を含む『盗まれた遺書』という単行本も河出書房新社から出しています。今日は「ジャンルの越境」というテーマで、ラノベ作家の西紀貫之さんとお話させていただきます。よろしくお願いします。
西紀 文学金魚の集まりに、ライトノベルとかキャラクター小説のジャンルの人間が来ていいのかなとは思いましたが、「ジャンルの越境」というテーマということで、お引き受けしてお話させていただきます。ライトノベル作家でライターの西紀貫之です。仙田さんと同じく、オークラ出版のNMG文庫から『苛憐魔姫たちの狂詩曲~棘姫ととげ抜き小僧~』という本を出しております。よろしければ西紀貫之の名前で検索して、買っていただければと思います。Kindl版もございます(笑)。
さて、「ジャンルの越境」というテーマが立てられていますが、純文学ってなあに、ライトノベルって、キャラクター小説ってなあにというところからお話しないと、みなさんわからないと思います。まず純文学ですね。仙田さん、純文学って、どういったものなのでしょうか。
仙田 『新明解国語辞典』によると、「純文学」とは「売れることを目的としない文学」らしいです(笑)
西 売れることを目的としない・・・。つまり本の〝売り〟が隠れているということでしょうかね。
仙田 そうも言えるかもしれません。
西紀 その定義で言えば、ラノベやキャラクター小説は純文学とは逆に、売りをはっきりさせた小説ということになります。売りをはっきりさせるということを念頭に置いて考えていかないと、ラノベとは、キャラクター小説とは何かがわからいんじゃないかと思います。わたしはラノベの本質はキャラクター小説だと言った方がわかりやすいと思いますが、キャラクター小説は、よくマンガみたいな小説だと言われます。でも基本文字だけですから、マンガとは明らかに違います。じゃあキャラクター小説はどうやって作るんだろう。それをわかっていらっしゃる方は少ないんじゃないでしょうか。
今回はわたしと仙田さんの対話の中で、キャラクター小説とはこういうものだよ、純文学とはこういうものだよというお互いが「こうだ」と思っている枠組みを認識して、その上でジャンルを越境するためには、どういうところをすり合わせていかなければならないのかを考えてみたいと思います。仙田さんが純文学作品をお書きになるときの、ご自分の立ち位置についてお話しいただけますか。
仙田学著『ツルツルちゃん』
平成十五年(二〇〇三年)
オークラ出版(NMG文庫)刊
仙田 じつは西紀さんとは今日が初対面なんです。対談をするにあたって電話でちょっと打合せさせていただいたんですが、もう十年以上もラノベを書いてこられた経験から、ラノベとは何なのかをご自身の言葉で定義づけておられる。とても簡潔で明快な定義です。純文学とは何か、ラノベとは何かを学問的に分析していくよりは、そのほうが面白いと思いますので、わたしも自分の経験から、自分の言葉で純文学についてお話したいと思います。
わたしにとっての純文学は、それを読むことによって、読者の考え方や価値観や認識や生き方が変わってしまうような作品です。一冊の本に出会うことによって、何か自分が変わってしまうような経験をさせてくれるということですね。もちろんどういう作品がそんなことを起こしてくれるのかは、人によって違います。でも読む人によって、同じひとつの作品が全く違ったもののように受け取られることもある、というのが純文学の面白いところだと思います。そういう意味で、純文学はレゴブロックのようなものですね。作家の仕事はブロックを作って提供するところまで。そのブロックを使って何を作って遊ぶのかは完全に読者に委ねられているわけです。
西紀貫之著『苛憐魔姫たちの狂詩曲~棘姫ととげ抜き小僧~』
平成二十六年(二〇一四年)
オークラ出版(NMG文庫)刊
西紀 今日お集まりのみなさんの中にも、ラノベを書いたことがある方がいらっしゃると思います。ラノベを書く、つまり出版社で本の企画を通す際に最も重要視されるのは、キャラクター設定なんです。キャラクターがどんな反応をして読者を楽しませるのか、その段取りがストーリーになります。ですからまずキャラクターを作ります。
たとえば巫女さんを登場させます。編集さんから「なんでこのキャラ巫女なの?」って聞かれた時に、その女性が巫女さんになった経緯を話してもしょうがない。そういう話をすると、「ラノベわかってないね、キャラクター小説わかってないね」と言われてしまう。なんと答えなければならないかというと、巫女さんにすると、こんなことができるので、読者のこんな反応を引き出せますよと言わなければなりません。こんなふうに説明できなければラノベではないんです。
おっぱいが大きい女の子が出てきたら、それによって読者を楽しませる描写がなければラノベではないということですね(笑)。ですからまだラノベを読んだことのない方、これから読もうと思っている方がいらしたら、作品でのキャラクターの作り方に注目して読んでいただければと思います。僕らラノベ作家、キャラクター小説作家は、このキャラクターの作り方に、百パーセント、というのは大袈裟かな、百パーセント弱、力を傾注しています(笑)。
キャラクター小説では、ストーリーはあくまで登場するキャラクターに、面白い反応をさせるための段取りに過ぎません。もちろんストーリーは必要ですが、キャラクター中心にストーリーーがある。キャラクターを強調するのか、ストーリーを強調するのか、その二つのスライダーを調節することで、文芸寄り、ラノベ寄りだなというアクセントを付けるんですね。ですからラノベを書く場合は、一人のキャラクターを設定し、それによってどんな楽しみを読者に与えられるのかを掘り下げてお考えになると、多分、企画は通りやすくなるかと思います。
あ、言い忘れましたが、わたしは元々エロゲー畑の出身なんです。エッチな十八禁ゲームですね。やったことのある方はいらっしゃいますか? あ、いらっしゃいますね。よかった、ありがとうございます(笑)。エロゲーには何人もヒロインが登場しますが、彼女たちはプレイヤーにどんな楽しみを与えるのか考え抜かれて造形されたキャラクターたちです。ですから「なんだ、エロゲーか」と思わずに、そういうキャラクターの作り方に注目していただくと面白い発見もいっぱいあると思います。
話を戻しますと、市場のライトノベルの売りの真ん中は、ちょっと極端な言い回しになりますが、中高生の暴力衝動、つまり「俺、強いぞ衝動」と、ハーレム衝動、「あなたモテますよ衝動」――性的衝動と言ってもいいかな、を思い切りくすぐってあげるためのキャラクター小説です。僕は(いまの)ラノベってなんだと聞かれたときは、そう答えてます。少なくとも現在の本流はそうなので、ラノベをお書きになるときは、そういった特徴を踏まえた方がいいと思います。
仙田 西紀さんはお話されるのがうまいですね。わたしは月に二回だけなんですが、専門学校で小説の書き方を教えています。十八歳、十九歳の学生たちのほとんどはラノベ作家志望で、純文学を書きたいという学生はごく少数です。純文学を読んでいる生徒も少ないですね。ですから苦労してラノベについて勉強して教えているんですが、西紀さんに代わってもらった方がいいかもしれない(笑)
西紀 学校では生徒たちが出してきたキャラクターを読んで、これで本当に元気になるの?って指導すればいいんじゃないでしょうか(笑)。話は変わりますが、チェーホフというロシアの劇作家がいます。〝チェーホフの銃〟というのがありまして、劇中に銃が登場したら、その銃は撃たれなければならない。キャラクター小説というのはまさにそれです。あるキャラを出したからには、それを有効に使わなければなりません。
仙田 ラノベの場合は企画力がすごく重視されますね。作品を書き始める前に、まず編集者に、こんな小説を書きたいんですという企画を持ちこまなければならない。それが売れるかどうかを、編集者にジャッジされ、ゴーサインがでてから書き始めるわけです。だから書く前の段階にものすごく労力が必要です。純文学の場合は、書く前にラノベのように労力をかけることはほぼないです。プロットを出せと言われることもない。ですから最後まで書いて完成原稿を編集者に渡します。ただ書きあげてからがたいへんです。何度も何度も書き直しをすることになったり、書き直した挙句に没になることもあります。そしたらまた違う編集者に見てもらったり。とにかく書き始めた後のほうにほとんどの労力が注がれます。
仙田学著『盗まれた遺書』
平成二十六年(二〇一四年)
河出書房新社刊
西紀 さっき純文学では〝売り〟が隠れているという意味のことを言いました。簡単に言うと隠す部分がすごく大きいということですね。テーマにしてもなんにしても、その解釈を読者に全部ゆだねてしまうようなところがある。そういうところは、純文学って武術の秘伝書みたいですね(笑)。その意味を解釈できる人が読んでこそ、作者の言いたいことが理解できる。ですがラノベは隠さないんです。こういうのがあるよーと、全部見せてしまう。この点から言うと、ラノベ、エンタメ小説は売りを見せるもの、純文学は売りを隠すものと整理できるんじゃないでしょうか。ラノベと純文学という質の違う小説をすり合わせるポイントは、そのあたりにあるような気がします。
仙田 確かに純文学とラノベでは、〝売り〟に対する考え方が違うと思います。ラノベの場合の売りは、お金がもうかるかどうかです。純文学は必ずしも商業的に成功することのみを目指しているわけではありません。そもそも文学的な価値を計る客観的な物差しなんてないですしね。とはいえ純文学もどこかで面白くある必要があります。面白くないと読んでもらえないですから。芸術性と商業性を併せ持っている必要があるということですね。そういう意味では詩なんかよりも、だいぶ商業寄りのジャンルだと思います。
たとえばラテンアメリカの作家に、フリオ・コルタサルという人がいます。彼の代表作の『石蹴り遊び』は百数十篇の断片から構成されています。読者は当然頭から読んでゆくわけですが、最後まで読むと、この順番でもう一回読み返してくださいと、章番号が書いてあるんです。それに従って読むと、またぜんぜん違うストーリーが浮かび上がってくる。いま話しているだけで面白くなってきました。また読み返そうかな(笑)『石蹴り遊び』には、そういったはっきりとした売り、面白さがあります。純文学とはいえ、どの作品にもそういった面白い要素は必要だと思います。
西紀貫之著『娼婦たちの騎士』(Kindle版)
平成二十五年(二〇一三年)
西紀 ひと言で言える面白さが必要だということですね。話がまた変わりますが、文学金魚さんで、今回のセミナーのためにリード小説を募集しておられましたね。お集まりのみなさんの中で、リード小説に応募された方はいらっしゃいますか? ああ、けっこうおられるんですね。わたしも読ませていただいたんですが、どうも序盤の展開を百数十文字で表そうとしておられる方が多い。それよりも、「こんなヤツらがこんなことするよ」でわたしはいいと思うんです。それが恐らくツカミになる。ラノベ的な考え方をすると、そういう解釈になっちゃいます。百数十文字も使って、序盤の展開だけプレゼンするのではもったいない。
仙田 リード小説は必ずしもラノベではなくて、純文学や一般文芸を含むのかもしれませんが、それでも面白さや売りは必要だと思います。そういう意味で、純文学がラノベから学べる点はたくさんあります。読者に先を読み進ませる面白さは必要です。もちろん純文学小説に萌えキャラを出すということではなくて、それは登場人物のキャラクターの掘り下げということになるかもしれません。ただそれをストレートに純文学作品に取り込むのは難しい。西紀さん、逆にラノベに純文学的要素を取りこんでいくのはもっと難しい気がするんですが。
西紀 売りを出す出さないになりますから、売る目的で書くラノベではやはり困難でしょうね。
物語には、読まずともわかってしまうような面白さというものがあります。それから読み進める面白さ、読み終わってしまってからの面白さもある。ラノベではすごく長ったらしいタイトルを小説に付けることがありますが、それは〝中身を読まずとも伝わる面白さ〟を読者に伝えたいからです。まずタイトルで読者をつかんでしまう。表紙などに使われているイラストもそうです。誇張された萌え絵は、こんなキャラが出てくるなら、当然、あんなシーンがあるよねと読者に期待させ、了解してもらうためです(笑)。
これらはツカミですが、純文学にせよラノベにせよ、その後は〝読み進める面白さ〟が最も大切になります。この読み進める面白さが、純文学とラノベをすり合わせることができるポイントになるんじゃないかと思います。
たとえばあるキャラクターが、物語の世界を離れて魅力的でいられるのかどうか。それはキャラクターの掘り下げをどこまでしたらいいのかという問題です。物語の流れでテーマが語られていれば、キャラクターの掘り下げはあんまりしなくてもいいのか、と言い換えてもいいです。物語でテーマを語りたいときはキャラクターは希薄になるかもしれませんし、キャラクターを目立たせると物語が付属的なものになってしまうかもしれない。そのあたりの匙加減が難しい。
わたしはラノベ作家でキャラクター小説を書いていますから、純文学とラノベとのジャンルの越境を考えるとき、この売りとなるキャラクターの掘り下げをどこまで行うのかをポイントとして考えてしまいます。こんなキャラの登場人物が、こんなことをするから読み進める面白さがあるんだというポイントを、読者の評価に耐えうるまで、どのあたりまで掘り下げるかということです。
仙田 純文学でもキャラクターは掘り下げられているんですよ。そこにスポットがあてられることがあまりないだけで。ドストエフスキーの描くラスコーリニコフも、志賀直哉の描く時任謙作も、強烈なキャラクターの持ち主です。『罪と罰』でも『暗夜行路』でも、彼らがある出来事に直面して、どんなふうに驚くのか、どう行動するのかが読み進める力になってはいます。ただ、そこが作品の核にはなっているわけではないってことなんでしょうね。出来事に対するキャラクターの反応がラノベの核だとしたら、純文学の場合、それは先を読み進めながらどこかで人生が変わってしまうような強烈な体験――しばしばそれは、読み進めるのが困難になるほどの辛い体験、大きな負担のかかる体験であったりもします。考えや価値観が変わる瞬間は痛みをもたらしますから――をしてもらうための足掛かりかもしれません。そんな違いを意識したうえでなら、純文学にラノベのキャラクター掘り下げかたを取り入れていけるかもしれません。
西紀 ラノベってシリーズ物になることが多いですよね。あれは簡単に言うと、読者の反応が薄いなと思った時に、キャラクターにこういう反応をさせちゃえという感じで、事件を起こしてゆくわけです。さっきも言いましたが、ラノベのストーリーはキャラクターに面白い反応をさせるための段取りですから、キャラクターがしっかり出来上がってしまえば、それを続けるのは本当に楽なんです。
たとえば三題噺というものがありますよね。お客さんに三つお題を出してもらって、それを一つのオチ噺に仕立てる落語のお遊びです。ラノベでもそれができます。たとえば「卒業式」、「野球」、「旅行」というお題が出されたとします。これで三蔵法師が旅に出て、野球が盛んな村に着きました、そこで妖怪が卒業という術を使うというラノベが書けます。そこに経典があると思って三蔵法師は旅に出たわけです。ラノベはリアリズムではないですから、どんな三題でも物語を作ることができる。破天荒な単語が出てきたら、それは妖怪の術にしてしまえばいい。それはどういう術なんですかと聞かれたら、さも前から考えていたように、こうですよと答えるわけです(笑)。それをやるためには、キャラがしっかりしている前提が必要ですけどね。こういったこと、つまりキャラの重要性は、どこのラノベの編集部に行っても口酸っぱく言われます。
ラノベを書こうと思い、実際に書いてみたことのある方もたくさんいらっしゃると思いますが、ラノベとは何かがわからないまま、漠然とした枠組みだけを意識していたのでは、やっぱりちゃんとしたラノベ――市場に受け入れられ、売れるラノベは書けないと思います。ラノベっぽい何かを書いてしまって、ラノベになりきれなかった作品ってすごく多いです。そういう方は、一回キャラクターの掘り下げを徹底してやってみると、素晴らしい作品が書けるようになるんじゃないかと思います。
仙田 西紀さん、ラノベの世界から来たスカウトマンみたいになってますよ(笑)。
西紀 だってやっぱり、みなさんにラノベを書いて欲しいですから。少しでも参考になるといいんですが。
仙田 わたしはかなり参考になりました。この続きは懇親会でお話しましょう。ありがとうございました。
(2016/06/18)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 西紀貫之さんの本 ■
■ 仙田学さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■