ちょっと面白い体験をした。正直、極めて不愉快でもあったが、「へぇーっ。今の俳壇って、こういうとこかぁ」と実感した気もする。
今年の1月11日に雑誌「コールサック」の依頼で『安井浩司読本』のインタビューを受けた。インタビュイー(取材を受ける側)は酒卷英一郎さんと僕で、インタビュアーは関悦史さん、コールサック社の編集者・鈴木光影さんが同席した。
で、その3時間ものインタビューの間、関さんは最初から最後までずーっと僕を無視し続けた。僕に質問することもなく、たまに僕が何か言ってもうんともすんとも反応しない。そもそも挨拶にもちゃんと応じなかったし、世間話もせず、口を利くのもイヤという素振りだった。酒卷さんとだけ話し続けていた。
席を立ってもよかったけれど、インタビューは安井文学の顕彰のためだから我慢した。安井さんについては僕にしか語れないこともあるし、だからこそ招ばれたはずだが、最後まで状況は変わらなかった。あまりに退屈で眠りこけそうになった。夢うつつで聞くともなく聞いていると、酒卷さんと二人で俳壇内の話をしていた。
俳句系雑誌だし、酒卷さん中心のインタビューでいい。しかし意図的な完全無視となると、異様な光景だった。曲がりなりにもゲストで招ばれて、嫌がらせを受けるなんて聞いたこともない。そもそも関さんとは初対面で、彼の仕事を特に批判したこともないし、そこまでされる謂れが思い当たらなかった。
そこで今回のインタビューの「記事」から降りることにした。最初から僕がいないことにしたいようだし、3時間も座っていて安井文学について何も語れないアホだと読者に誤解されるのは心外だからだ。それにまず相手側がどういうつもりだったのか知りたかった。
1月23日22時24分に関さんと鈴木さんに「ゲラ組版が行われると大変なので先に申しあげておきますが、先日の『安井浩司読本』インタビューですが、僕の発言は一切拾わず関さんの酒卷さんへの単独インタビューにしてください。じゅうぶんな量があるはずです。僕が持参した安井さん関連の資料は自由にお使いになってけっこうです」とメールした。
翌1月24日午前11時24分に鈴木さんから「先日は遠路お越しくださり、お話を聞かせていただき誠にありがとうございました。インタビュー構成の件、鶴山様のご意向承知いたしました。関さんとご相談させていただきます。6月刊行の文芸誌「コールサック」掲載予定です。今後ともよろしくお願いいたします」というメールが着いた。関さんからは1月25日午前3時13分に「私も鶴山さんの発言を使わない件、承知しました」というメールが来た。
僕はテキスト・クリティックなので、これらのメールの文言には引っかかった。僕自身、何度もインタビューの仕事をしているが、インタビュアーの仕事は確かにインタビュイーの「お話を聞かせていただく」ことだ。インタビューをする側だけでなく、受ける側も準備をはじめ、時間と労力をかけている。取材後に「降りる」などと言われたなら、まず「なぜ、どうして?」と問うのは当然だろう。
しかし関さんのメールは「降りる? どうぞ」というものだった。身に覚えがあるからこそ、こういうメールになる。これであの言動が意図的なものだったとわかったが、さらにテキスト分析すると、「私も鶴山さんの発言を使わない件、承知しました」の「私も」の〈も〉はどこにかかるのか?
文脈から、この〈も〉は編集者の「鶴山様のご意向承知いたしました」に乗っかったか、「僕の発言は一切拾わず関さんの酒卷さんへの単独インタビューにしてください」に乗っかったかどちらかだ。〈編集者、もしくは鶴山の言い出したことだからね〉という意味だろう。
しかし関さんはホストで、つまり鶴山をいないことにしようとした張本人だ。それならそれで、その意図が完全達成されたのだから、「私も」ではなく「私が」か「私は」と書くべきだ。堂々と対立できる人であれば、僕は軽蔑はしない。
そんなレベルの人だとわかったからもういいのだけれど、本当のことを言えば、僕は関さんと話すのをちょっと楽しみにしていた。なぜなら安井三部作と併せて僕の『正岡子規論』を読んだ感想をくれた俳人も複数いたからだ。若手との対話の可能性を感じていたし、金魚屋でもジャンルを横断した詩歌・文学のメタバースコミュニティを計画しているという。そんな話もできればよかった。
僕の方はそういう感じだったけれど、それにしても関さんの方はいったい何がしたかったのだろう?
まず関さんは『安井読本』をちゃんと読んできていなかった。安井文学に興味があってインタビューしにきたのではなかったのか? 関さんが俳壇的な力関係にしか興味がないなら、その口実に安井文学を利用しないでもらいたい。そもそも安井さんが『孤高の巨星』と呼ばれるのは、そういう俳壇の嫌な面を唾棄していたからだ。そのことは他でもない、俳人の方々が一番よく知っていると思う。俳壇のインタビューには文学的目的などなく、インタビュアーの俳壇内での実績作りのためにあるのではないかという印象を受けた。
僕は俳人ではないし、だから俳壇内のこういう陰湿な小競り合いとは無縁だ。安井さんが心を許してくれたのは、それもあったと思う。しかしながら関さんにとって、俳壇内のパワーバランスに関係なさそうな人間に対しては「どうぞ降りてくれ、目立つな。知るか」ということだろう。そしてインタビューで『安井読本』を宣伝してやるんだから、自分の方が立場が強い、と思い込んでいるのだろうか。けれどそんなロジックは一般社会では通用しない。
一般社会といえば、金魚屋の石川編集長にこの話をしたら、「最初から無視するつもりなら、なんで来させたんでしょうね。準備に時間も労力コストもかかることがわかってるんだから、鶴山さんへの偽計業務妨害罪ですね」と言っていた。一般社会では、そういうことになるらしい。
もちろん僕がこうして書いていることは、すべて嘘偽りない事実だけれど、関さんにしてみれば「隠されているはずと期待していたことを暴露されて、名誉毀損だ」と思うかもしれない。しかし、もし惜しむ名があると言うなら、まずは公の建前に恥じない態度をとってほしい。本来、文学や出版界には一般社会以上のリテラシー、裁判所も踏むをおそれる固有の倫理観がある。ジャーナリズムとして公器を担うふりをしたいなら、なおのことだ。関さんもコールサックも、このまま何もなかったことにして、「酒卷さんだけの単独インタビュー」と化した理由を誌上で隠し、偽った編集をするのだろうか。それを見たら酒卷さんも驚くだろうが、インタビューの趣旨は、それでも安井浩司のための、となるのだろうか。
僕は俳句文学を愛しているし、俳人一般に対する尊敬もある。俳壇という緩やかな組織もまた俳句文学のオフィシャルな揺籃として、一般社会で通用する良識を備えるべきだと思う。少なくとも今の歌壇程度には健全であってほしい。その地道な意識改革が日本文化の基底としての俳句の世界の高揚をもたらすと信じている。
(2023/01/31)
■ 安井浩司の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■