スーパーヒーローズ、口にするだけで赤面し蕩けるような響き。死に最も近く最も遠い存在。純粋な力の源。好きでたまらない男たち女たち、わたしのヒーローズ。わたしはその世界に浸り溶け込みやがて排除される。叩きのめされ地に伏して絶望するまで彼らを追い求め、愛す・・・。第8回金魚屋新人賞受賞作家の衝撃のデビュー作。『モナリザとセックスする夢』から改題。
by 金魚屋編集部
大学の卒業が近づいてくるにつれ、将来という二文字はとてつもない重みを持ってのしかかって来るようになった。私はこの時期会う人皆に同じ質問をされた。
「君のプランは? 君のプランは? 君のプランは?」
人生のプランを立てろ、君の将来のプランを聞かせろ。
私はプランを一つも用意していなかった。そういった俯瞰的な視点で人生を捉えたことが一度もなかったのだ。例えば私はあれほどセックスに執着していながら、それのもたらす結果、妊娠・出産について一度も考えたことすらなかった。
私は長い間、人生を債権行使の場所と見做していたのだった。人生が私に借金を負っているという強い感覚があった。人生の方が支払いを渋る中、私はあらゆる手段を使って貸した分を利子付きで回収しようとしていた。セックスには多大な期待を寄せていたが、今のところこれからは多くの債権を回収出来ておらず、落胆している。
プラン。人生とは、少なくとも大人にとっては、プランに基づき、一つ一つ達成していくものだというのだ! 積み上げていくものだと言うのだ!
プランという言葉は、こうした私と世間の意識の違いを浮き彫りにした。幸いなことに私が殊更努力をしなくても、プランは体裁の良いように自ら整っていった。私の大学での成績は良好で卒業は確定していたし、既にインターン先の会社への就職が決まっていた。私は客観的には責任感ある社会人としての生活へ順調に滑り出しているかのように見えた。しかし、整っているのは表面だけで、私が本当に興味があるのは人生からの債権の回収だけだった。こうした人生への姿勢の根本的違いは、私が殊更に自分を主張しさえしなければ現実に問題を起こすことは滅多になかった。黙ってさえいれば、周囲はその人間が自分と同じ論理で動いていると想定するものである。
ふと自分の置かれた状況に気が付く。私はもう若くない。人生中に張り巡らされたプランに基づいて生きている人間たちが私の未来を握っている。
「準備が出来たら言ってね」
彼らは笑顔でそう言った。それは殆ど脅しに近かった。私はいつでも準備が出来ていると言いながら、決して聞こえないように呟いた。
「準備が出来る時はありません」・・・・・・
このプランを立てるという生き方を無視して生きているように見えるのは、私の知る限りではジョニーだけだった。無職である父親のゲイブもある意味ではプランに縛られずに生きているのだが、心の中ではプランある人生への復帰を切望しているので除外すべきだろう。
ジョニーは掴み所のない自由な子供だった。彼は何も気にしていないように見えた。誰を受け入れようが何を拒絶しようが、まるで気にしない。彼の目からは信念やそれに似たものが感じられなかった。
例えばまだ精神的に未熟だったアンドリューは私へのはち切れんばかりの興味があったし、ゲイブのように排他的な思想を持つ白人男性はある意味で非常に理解しやすい。しかしジョニーの場合は、外に向けている取っ掛かりというものが感じられなかった。
彼の唯一の思想らしきものは、自分がアメリカ人であるという誇りぐらいだった。彼は度々アメリカのことを口にした。アメリカではこうだ。アメリカ製のものが好きだ。かと言って熱心な愛国主義者かと言われればそれも違う。彼は緩やかに、自分の心地いいようにだけアメリカを身に纏っていた。彼はいかにも自由な子供だった。
ジョニーの愛国心は、少なくとも部分的には父親から来ているようだった。ゲイブは典型的な右翼で、彼のスペイン系移民への軽蔑は限りなく根が深かった。彼は不法移民たちの所為で自分のアメリカが汚されていくと繰り返し語った。ある水曜日ジョニーとゲイブと三人でピザ屋に向かう途中、ゲイブは軽蔑を隠そうともせずに言った。
「あそこで働いている奴らはどうせみんなメキシコ系だろうな。奴らがちゃんと手を洗っていることを願うよ」
ゲイブの差別的な物言いを聞いて、ジョニーが便乗するように意地悪く目を光らせる。
「ナニタノマレマスカ?」
彼はメキシコ訛りの英語を馬鹿にするように真似した。
「フミが食べたいのなら日本食にする? あの、テッパンヤキ? でもいいし」
ゲイブはたまたま目に入った日本料理の看板を読み上げる。
「テパンヤキ!」
ジョニーは響きが面白いのか繰り返してくすくすと笑った。その言い方はメキシコ訛りを真似した時と同じ、明らかな侮蔑を含んでいた。
「ジョニー、日本語を馬鹿にするような言い方をするのはやめなさい」
メキシコ人への差別は容認した割に急に大人ぶった口調でゲイブが諭す。おかしなことだが、ゲイブの中で日本人は白人と同じカテゴリーに属しているらしい(「一般的には黄色とかベージュとか言われてるらしいが、君たちの色は私たちと同じだと思う」と言っていたことがある)。一言に人種差別といっても、その形はさながら性格のように、人それぞれ異なっている。ゲイブとは逆にラテン系は白人として容認するがアジア人や黒人を差別するような層もいる。黒人と白人だけをアメリカ人として認め他の人種をまとめて差別する層もいる。もちろん、白人を差別する有色人種もいる。
ジョニーは返事こそしなかったが、素直に口を閉じ日本語を揶揄するのを止めた。観察していてすぐに気がついたことだが、ジョニーはどうやら父親を心から慕っているようだった。生意気な態度を取ることも多いが、基本的にゲイブの言うことには逆らわない。これは意外だった。私から見れば、大人びたジョニーと子供のように愚痴ばかりのゲイブではどちらが親だか分からないと思う時すらあった。ジョニーにとっては、それでもこのうだつの上がらない無職の男は尊敬すべき父親なのだった。滅多に子供らしさを見せない少年の、『親を慕う』といういかにも無邪気な態度は、彼の掴みどころのなさに更に拍車をかけていた。
ピザ屋についた時、ジョニーの携帯電話の待ち受けに漢字の『獄』という文字が目に入った。私はそれを覗き込みながら言った。
「それ、漢字だね」
「うん」
ジョニーは無表情で顔を上げる。
「意味は知ってるの?」
「知らないよ」
「じゃあなんでそれを待ち受けにしてるの?」
「・・・・・・さあ? かっこいいからかな?」
彼はかすかに笑うと、すぐに再び携帯を弄ることに集中し始めた。
やはり私の住処は決して高級な場所ではなかった。壁が薄く、リビングやゲイブの部屋の物音は筒抜けで、よく眠れないことも多かった。朝はゲイブと変わり者の隣人アルフレッドの激しい口論で目が覚める。
ところでアルフレッドといえば、奇妙な風貌の割にはかなり几帳面なところのある男だと分かった。私はその日、共同の洗濯機に自分の洗濯物を洗ったまま置き放しにしていた。後で慌てて取りに行くと、私の洗濯物は勝手に乾燥機にかけられ、下着まで全て畳まれ、横にちょこんと置かれていた。皺ひとつないその畳み方には、畳んだ主の性格が顕著に現れていた。ゲイブがこんなことをする筈がない。消去法であのアルフレッドがやったのだと気がついた時には流石に驚いた。
怠け者の脳は人に優しい人だの怒りっぽい人だの一枚のレッテルを貼って終いにしたがるが、人間とは薄っぺらな紙などではないのだと否応なしに実感させられる。アルフレッドは間違いなく変人だが、ただの変人ではない。個性を持った変人なのだ。
昼間から土のついたシャベルを片手に庭をせわしなく動き回っているアルフレッドに私は声をかけた。
「洗濯物、ありがとう。でも、わざわざ畳んでくれなくても良かったのに」
「別に畳んだのは君の為じゃない! 私が嫌なだけだ。洗濯物をそのまま放置して、シワシワになるなんてのはな!」
いつも通りの抑揚のバランスを欠いた喋り方で、叩きつけるようにそう返してきた。愛想は皆無だ。感謝の言葉すら素直に受け取れないこの頑固さと、あの美しい畳み方はやはりどうしても重ならなかった。しかし、確かにどちらもが「彼」なのだ。私は人間の奥深さを見せつけられたような気分だった。
私は家に帰りゲイブに洗濯物とアルフレッドのことを話した。
「アルフレッドって本当に変わっているよね。仕事もしていないみたいだし、素性も謎だし・・・・・・」
「悪い奴でないけど、変わってるのは間違いないな。多分アル中か、さもなければ何らかの精神病だろうね」
私は黙って頷いた。彼が何らかの問題を抱えているのは明らかだった。
「彼女でも出来れば、彼も変わるんだろうけどなあ・・・・・・」
ゲイブはぽつりと零した。あの偏屈なアルフレッドに彼女が出来るところなど想像すら出来ない。私は冗談かと思って笑おうとしたが、ゲイブの顔は思いがけず真剣だった。その顔を見て私もふと考え直す。アルフレッドに彼女が出来る訳がないなんて、どうして分かるのだろうか。
ここは自由の国アメリカだ。不可能が可能になる国だ。アルフレッドがとんでもなく美人の彼女と結婚する未来だってあるのかもしれない。このアメリカという土地の中では、そんな奇跡が起こる可能性だってゼロではない。私は本気でそう思えるようになっていた。なぜなら、私は真珠湾攻撃の日に生まれたのだった。日本にいる時はそんなことは知らなかったのだが、ゲイブに誕生日を教えた時に彼が教えてくれた。真珠湾攻撃の日に生まれた日本人の私がアメリカの独立記念日を祝う。そんな皮肉の効いた奇跡も、アメリカという土地で起こった小さな奇跡の一つだった。
アメリカの独立記念日。
次にジョニーが家に来たのはアメリカの独立記念日だった。その一週間ほど前から、町中で花火を上げる乾いた音が聞こえ、星条旗が町中そこかしこではためいていた。
その日私とゲイブとジョニーの三人は家のリビングで寛いでいた。ジョニーは三人でいる時は大抵、無口だった。ジョニーと私は表面上はいかにも上手くいっているような態度をとりながら、お互いに対してまだ明らかな苦手意識があった。それはおそらく彼と私が年の離れた(そして離れ『過ぎ』てもいない)異性同士であることに関係していただろう。
手持ち無沙汰なジョニーは細い体に似合わない大きな黒いギターを抱えて弾いていた。
「ジョニー、せっかくだからフミにギターの弾き方を教えてあげたらどうだ」
ゲイブが何気なく提案すると、ため息と笑いの丁度中間のような音がジョニーの口から漏れた。面倒臭そうな顔をしながらも、ジョニーは父親に逆らわない。
「ここと、ここと、ここを抑える。これがCコードだ」
ジョニーの手が私の指に触れた。私の手に重なるその手の滑らかさを認識した瞬間、喉からくぐもるような音が出た。
「どうしたの」
「いや・・・・・・」
愕然とした。私はこの手の柔らかさを知っていた。私の体に『かつて』ついていた手に私は触れていたのだ。私は老いはじめていた。ジョニーの幼い手と比べて、その事実を生々しく実感してしまった。
汗の匂いと子供の匂いが混じるジョニーの体臭がふっと香ってきて、私は負の感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。そういえばジョニーがもうすぐ歯の矯正を始めるのだとかゲイブが言っていたのを思い出す。きっとすぐに、彼の八重歯と所々整列を間違えた可愛いらしい歯は、よそよそしい、宣伝めいた完璧さに変わってしまうだろう。『僕はちゃんと中流階級以上出身の白人です』・・・・・・
それからしばらくして、ゲイブがこんな提案した。
「せっかくの独立記念日だし、今日はパーティーをしようか」
「いいねえ。じゃあ、フレッドをここに呼んでよ」
ジョニーの目が微かに輝く。
「フレッドって?」
ゲイブを見ると、すぐに説明してくれた。
「フレッドは私がタクシー運転手をしていた時の仲間だ。アフリカ出身なんだが、アメリカ人の嫁さんをもらって今はアメリカ人だ。ジョニーはよく懐いているんだ」
私たちは彼を待つ間、近くの1ドルショップに行って星条旗モチーフの玩具や飾り物を買い込み、パーティーの準備をした。約一時間後、派手な服装の一人の男性が家に到着した。ナイジェリアから来たというフレッドが私に簡単な自己紹介をしている間、ジョニーは暇そうにギターを鳴らしながら、こちらに近づいて来ようとしなかった。私とフレッドはゲイブを加えてしばらく三人で話していた。お互いの仕事の話にもなり子供であるジョニーには余計に入りづらい話題に違いなかった。
「二人はどうして知り合ったの?」
「仕事仲間だけど、ゲイブと俺は昔よくLAで遊んでだんだ。もう六年ぐらいの仲だよ」
「へえ、仲がいいんだね」
「仲がいいといえば、あそこにいるリトル・マンもそうだな。まだ小さいように見えるかもしれないけど、あいつは将来大物になるぜ」
フレッドはそう言ってジョニーを指差した。ギターの音が止まる。
「そうだ。コイツを持ってきたから、みんなでやろう」
フレッドは大きな鞄から煙草とフラスコのようなものを取り出した。一瞬それが何だか分からなかったが、匂いからマリファナだということがわかった。
「クサは好きか?」
「別に・・・・・・それほど好きってわけじゃない、かな」
当たり前のように聞かれたので咄嗟にそう答えた。一度もマリファナをやったことがないとは言えなかった。フレッドは柔和な笑みを浮かべる。
「でもヤクと違ってクサには害がない。そうだろ? ヤクは人を狂わせるが、クサはただ人をハッピーにするだけさ」
「これを使うやり方は一度もやったことがないわ」
言いながら私はそのフラスコを持って左右に揺すった。
「じゃあ、今日試してみたらいいさ」
「そんなの、やったことない人にやらせたらダメだよ」急にジョニーがきっぱりとした口調で口を挟んだ。「きついやつだから彼女を壊してしまうかもしれない」
無表情で言うジョニーに馬鹿にされたような気がして顔が熱くなった。私は負けじと無表情を作って言い返した。
「あらまあ、たった15才の子供にそんなことを心配されるなんてね」
私の言葉にジョニーは明らかに気分を害したようだった。憮然とした表情でこちらに近づいてくる。
「じゃあ、やってみたらいいさ。俺がやり方を教えてあげるから」
「あなたはやったことあるの?」
ジョニーは椅子に座った私を見下ろしながら、二、三度軽く頷いた。私は彼のその顔を見た時に、躊躇いなく今、これをやらなくてはならないと思った。これまでパーティーの時にいくら周囲の友人に勧められても、アルコール以上のものには手を出さなかった。しかし、私はこの時ジョニーの灰色の目を前に、今までの信条をあっさりと手放す決意をしていた。
「火をつけるから、そうしたら思い切りタバコの煙と同じ要領で吐き出す。ちょっと一回やってみて、まず練習で」
私は彼の言う通りにした。
「そう。今のは練習だ」
運動部のコーチか何かのように、きびきびとした口調で指示する。
「さあ、次、本番行くよ。準備いい?」
私はフラスコの先端を咥えながら、上目遣いでジョニーを見た。
「今。思い切り吸い込むんだ。Go」
ジョニーは火を点けた。息を止めた私に、「吐き出せ、煙みたいに」と言った。私は彼に従い、ふうと音を出して煙を吐き出す。
「そうだ。よく出来たね」
脳の中心がじんと痺れた。よく出来た、よく出来た。この英語が頭の中で二、三度回った。
「・・・・・・これだけ?」
「そう、これだけ。後は効いてくるのを待ったらいい」
ジョニーはふっと悪い笑みを浮かべた。私はその顔に見とれた。日焼けをした目の淵から頬にかけての赤みが彼に少女のような繊細な印象を持たせている。先ほどギターの弾き方を教えた時より、今の方がジョニーはずっと楽しそうだった。
(第13回 了)
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