スーパーヒーローズ、口にするだけで赤面し蕩けるような響き。死に最も近く最も遠い存在。純粋な力の源。好きでたまらない男たち女たち、わたしのヒーローズ。わたしはその世界に浸り溶け込みやがて排除される。叩きのめされ地に伏して絶望するまで彼らを追い求め、愛す・・・。第8回金魚屋新人賞受賞作家の衝撃のデビュー作。『モナリザとセックスする夢』から改題。
by 金魚屋編集部
それから竹本とイベット、私のぎこちない友人関係が始まった。
私はこの唐突な同行者が私と竹本の小さな『輪』に長く留まっていられるとは思っていなかったが、予想に反して人工的な友情は続いていった。それには竹本が一役買っていた。竹本の飾らず人懐っこい、彼女に言わせれば「韓国的」な性質が、イベットとの友情でも大いに発揮された。竹本は英語スピーチ大会の後に私に近づいてきたのと同様に、イベットに好奇心のままにアメリカのことを聞き、よく笑い、初めは硬直気味だったイベットの表情を解した。
対照的に私とイベットとの関係はいつまでもぎこちないままだった。私はイベットと一緒にいると無口になった。私はいつも一歩引いた所から、近くで息をするイベットの肌、髪の色、言葉の発音を観察していた。
ある日の嫌いな数学の授業中、私は暇つぶしの為に竹本に手紙を書くことにした。他の女子がするように、私たちはいつも手紙を交換しあっていた。
竹本は色とりどりのペンを使って凝った手紙を寄越した為、私も自然と同じような手紙を返すようになっていた。内容はいつも取り止めのないことばかりだった。次の体育の時間がだるい、この間聞いた音楽が良かった、教師の襟が曲がっている。
ペン先をメモ帳につけようとした瞬間、ふと思い立ってこう書いてみた。
「イベットへ」
心拍数が上がった。イベットに手紙を書く。イベットがこれを目にする。そうだ、もしイベットに手紙を書くなら、日本語で書く必要すらない。私はもう一枚メモ帳を用意して書き直す。
「Dear Yvette,」
濃いピンクのペン先はすぐに固まった。書くことが何も思い浮かばなかった。私はイベットについて何も知らない。彼女がどんなものに興味があるのか。どんなことを書いたら喜ぶのか。
私はイベットの日焼けした顔を思い浮かべた。
何も書けなかった。彼女についてなら、いくらでも知っていることがあるのに。イベットの横顔や所々金色に光る茶色の髪がどれほど美しいか。彼女の無感情なしかめ面をどれだけ愛しているか。どれほど長い間その一つ一つを見つめてきたか。
結局、手紙は完成しなかった。イベットの名前だけ書いた余白だらけの紙は、授業終了のチャイムが鳴った後、すぐにくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨ててしまった。
お泊り会。秘密を打ち明けあって友情を深める、典型的な友情の確かめ合いのイベント。
イベットが孤立を避けるための上辺の関係なのだから、私達にはそんなものは必要ないはずだった。しかし、シニカルな見方をする私とは対照的に、竹本はとにかくそういった水面下の計算というものに無頓着だった。
「今度三人でお泊まり会しよう!」
竹本がそう言いだした時、私とイベットは乗り気ではなかった。二人は曖昧な苦笑で提案を水流しにしようとしたが、竹本の行動力が上回った。その場で全員の予定を確認し、母親に連絡してすぐに日程を決めてしまったのだ。
お泊まり会の当日、日本語が下手くそな竹本の母親の歓迎を受け、夕食をご馳走になってから広いとは言えない竹本の部屋に三人でぞろぞろと入った。全体的にピンクで統一された女子らしい部屋だった。
大きな机が元々狭い部屋をさらに窮屈にしていた。寝転がると、お互いの肌がもうすぐで触れてしまいそうな距離になる。この日イベットは短いパンツをはいて日に焼けた足を剥きだしにしており、私はそれに自分の体が触れないように大層気を遣った。
両親は離婚しているのだ、という竹本の話から入って、他愛もない会話が数珠のように繋がっていった。
私はこの日イベットが笑うのを幾度も見た。その度に何故笑うのだろうと不思議に思った。竹本の言う下らない冗談に笑う。笑わなくていいのに。口を大きく横に開けて、眉を下げる。笑わなくていいのに。
私はイベットのあらゆる表情を崇拝しながら、彼女の笑顔だけはあまり好きになれないのだった。
「ねえ、イベット、岡野くんとは実際どうなの?」竹本は臆せずに聞いた。「アメリカには別の彼氏がいるんでしょう?」
「ああ、そのことね。ウィルに……私の彼氏、ウィルっていうんだけど」
イベットは少し黙った後、彼女がどれだけアメリカ人彼氏の『ウィル』に幻滅しているかを話し始めた。
「ウィルの誕生日にプレゼントを贈ったの。綺麗なカード付きで包装も頑張って、誕生日に間に合うように速達で送った。でも、何も返事をしてくれなかったんだよ。超がっかりした」
『ウィル』と呼ぶ所だけ、日本語の中に馴染まない英語の発音だった。私はそれに無性に苛立った。少しは日本語のように聞こえる努力を出来ないのだろうか? 私は幼稚園の時、必死に英語の訛りが出ないように矯正した自分自身を思い出していた。
「……だから、私はウィルを気に掛けるよりも、日本での日々を楽しみたいって思ったの」
それが竹本の質問に対する答えだった。しかしこれではまるで答えになっていない。二股をかけるけれど私は悪くないというただの言い訳だ。
イベットは『ウィル』の写真を見せた。笑顔のイベットの横に並んでいたのは歯軋りをしたくなる程ハンサムな青年だった。私は溜息をつきたくなった。こんな恋人が手に入れられるならば――誕生日プレゼントがどうだとか御託を並べるのはやめて――その幸せを噛みしめればいい。何という贅沢な、甘ったれた女だろう。女とはこういう生き物だろうか。私も女になったらこんな風になるのだろうか。
他愛無い会話の後、どういう経緯だったか、竹本は口を滑らせて私の岡野への恋心をイベットに教えてしまった。
「えっ、フミって、岡野のことが好きだったの?」
イベットはそう言って私を見た。すぐに竹本は目線でごめん、と私に謝って来た。勝手に話した竹本にはもちろん腹が立ったが、その時はどうでもよかった。私を見たイベットの目が、私を完全に打ちのめしてしまっていた。
薄笑いを浮かべた口元と対照的に、イベットの目はどこまでも澄んでいた。私はイベットの目の中に、真っ直ぐに向けられた侮蔑を見た。驚きという名の侮蔑を見た。彼女の目にはある確信があった。
この目だった。この目。この、栗色の、目。どこまでも大きい、傲慢な目。
「好きというか……」
やっと絞り出した声はしわがれていた。
「勝手にかっこいいと、思ってただけだから……」
これ以外に何と言えただろう。
岡野の話題は時計の秒針の音とぎこちない沈黙を以て終了した。気まずさを埋めるように、イベットは竹本のピンクのクッションを抱きしめて「これ気持ちいい」など言ってみたりした。
私は美しいイベットの横顔を見つめながら思った。
イベットはかつてなく遠かった。
ひょっとして、私の姿が見えないのだろうか? これほど近くにいるのに、私のことが見えないのだろうか。この女の目には? 教室の隅で、女のなりぞこないとして生きる私の呼吸が一度でも聞こえなかったのだろうか?
イベットはベッドに体を投げ出しながら、気だるげに言った。
「ああ、肩がこったぁ。誰かマッサージしてよ」
「フミは怪力だからきっと上手いよ。こないだ腕相撲したら瞬殺されたし」
竹本が冗談めかして言う。
「へえ、そうなの? じゃあフミ、お願い」
イベットは横たえたばかりの体を勢いよく起こし、パジャマを肌蹴て肩を露出させた。動悸が速くなる。「仕方ないな」と言いながら体をイベットの後ろにつけた。日に焼けたうなじが目に入り、Cの字を描いたまつ毛が背中側から良く見える。それが目に入った瞬間、体が張り詰め、血液が勢いよく全身に巡りだすのを感じた。
私の太くて短い指が、イベットのなめらかな肩を這った。ぐっと力を入れると指が簡単に沈んでいく。日焼をしているからだろうか、皮膚が薄いような感触だ。その感触を確かめるために彼女の肩を幾度か撫でてみたかった。
私は自分の色とイベットの色が重なる部分、その色の境目を見た時、悲しい驚きが私を打った。イベットの肌は健康を体現する黄金だった。私の肌はくすんだ色だった。途端に投げ遣りな気持ちが全身を覆っていく。私は肌をこれ以上密着させたくなかった。
この肌に触れてはならない、この肌を汚してしまうから。……
「ああ、気持ちいい」
イベットはそう言いながら髪を軽く振り首を右に傾けた。
「上手だねえ」
イベットは無垢な声で言った。掌を通して感じる彼女の体温に、逃げ出したい気持ちになった。イベットは感触を堪能するように首をもう一度左に傾けた。その仕草が艶めかしい。
イベットは、彼女の為に力を使う私の顔を一度も見なかった。終わった後にありがとうと言った時も私を見なかった。
私は無意識に口の中にあった口内炎を噛みしめていた。喉の奥に溶けた炎を流し込まれたように呼吸器官が燃えていた。コーラやスプライトの空容器が転がる女子同士の泊り会が進んでいく。飲み干したコーラからは血の味がした。
「ねえ、どうして日本人は笑う時に口を抑えるの」イベットが悪気のない、それ故に余計に質が悪い質問をした。「日本人てみんなそうだよね」
私はどきりとした。私は鏡を覗き込むようになってから自分の笑顔にコンプレックスがあった。目は糸のように細くなり、口元は醜く歪む。歯並びも悪かった。何かのコマーシャルのような完璧な歯を見せられるイベットと私は違うのだった。
「わかるう。韓国人はああやって笑ったりしないもん。違和感あるよねー」
竹本が賛同する。
「でも日本人で一番分からないのは意味もなく笑うところかなー」
呼吸すら見えそうな程の近くから見るイベットの顔は、見ているだけで神聖な気持ちが後から後から湧いてきた。その度に、浮かれた自分を冷たい水に引きずりおろし、彼女を憎もうとした。
「なんにも面白くもないのにヘラヘラ笑うところ。『どうして笑ってるの?』って聞くと、またヘラヘラ笑いが返ってくる。意味分かんないよ」
イベットの言葉がナイフのように胸に突き刺さる。日本人であることだけが、日本で唯一イベットに「勝って」いることなのに、イベットの一言で自信はいとも簡単に揺らいだ。
ひどく侮辱された気分だった。この女になど分かりはしない。面白いわけではない。笑顔は恐怖を隠す為だ。見た目よりも繊細な理由があるのだ。イベットには何も分かりはしない。この女は、どこまでも鈍感なアメリカ人なのだから。
一夜が明け、私はイベットと共に帰路についていた。一緒に改札を通り、一緒に電車に乗り、他愛もない話をする。竹本とは毎日のようにやっていることでも、隣にいるのがイベットだと思うだけで全ての動きがぎくしゃくするような気がした。
「アメリカでは、どこにいたんだっけ?」
「テネシーだよ」
「へえ……カントリー音楽とか有名だよね」
イベットはさして興味もなさそうに言うと窓の外からの風景に目を向けた。
「最近、映画とか見た?」
「全然。何か見たいやつとかある?」
私はアメリカの最新アクション映画を挙げた。
「私としては、ああいう暴力的なやつは苦手。どっちかっていうと『犬と僕が出会った場所』とかが好きだから。ほのぼのできるようなやつ」
私は舌打ちをしたくなった。その映画はいかにもお涙頂戴といった感動系の映画で、私の映画の好みとは正反対だった。
『私もそれ見たいと思ってたんだよね。面白そうだよね』
その程度の社交辞令さえも言えなかった。相槌を打つのが精一杯だった。
『英語で話す?』
急にイベットが英語でそう提案した。
「え……」
『喋れるんでしょ』
私はまごついた。
『うん…でも、最近全然喋ってないから忘れてきちゃってる』
『それはわかる。私もアメリカ帰ったら日本語忘れそう』
息苦しかった。口がうまく回らず次の言葉を紡げない。イベットと英語で話している。ずっとそうしてみたかったというのに。イベットはアメリカでの思い出話をいくつか聞かせた後こう言った。
『一昨日、親友のブライアンからメッセージか来たんだ。もうそれで完全にホームシック。カリフォルニアに帰りたくなった。友達が恋しくてたまらない』
ブライアン。男の名前だった。
『ブライアンって、男だよね』
『……そうだけど?』
だから何、と言いたげにイベットは片眉を上げて訝しげな顔をする。
『男の親友』。その違和感に、その違和感を感じている私に、イベットは気が付かない。あるいは気が付いていたとしても、きっとどうだっていいのだ。
イベットは私に『ブライアン』の写真を見せた。他の沢山の男女に混じって、笑顔が爽やかな黒髪の好青年がイベットの隣に写っている。思わず正直な感想が口から漏れた。
『……かっこいい人だね。私だったら、彼が同じクラスにいたらきっと好きになっちゃうと思う』
『へえー、そうなんだ……私はブライアンは男としては見られないけど』
イベットはあの薄笑いで言った。
耳慣れない英語で話し続ける私たちに電車中から視線が突き刺さる。
しかし、私は自分が特別ではないのだと知っていた。英語を話せるのは特別ではなくなってしまった。イベットが現れたからだ。
そして私はイベットにとって特別ではない。彼女が私と話すのはただ孤立したくないからだ。
「あのさ、でも、二つ母国があるって大変じゃない?」
私は日本語で聞いた。
「どうして?」
「ほら、過去の戦争のこととかあるじゃん? 竹本なんか、韓国のハーフでしょう。だからいつも戦争の話になると必死になっちゃってさ……」
私達はしばらくアイデンティティやナショナリズムについて話した。話が世界大戦に及ぶと、イベットは彼女のアメリカ人の祖父が日本兵と戦ったのだと話した。興味深く聞いていると、イベットは不意に何気ない口調で言った。
『それから、あれは日本人を助ける為に落としたんだからね』
『え? 何が?』
『原爆だよ』
これが決定打だった。
私はイベットの美しい顔を見た。イベットはこの瞬間、世界に新たな現実を作り上げた。
彼女はそれ以上どんな説明をも付け加えようとはしなかった。私を説得する必要などなく、彼女にはその現実だけで必要充分なのだと伝わってきた。
私は何も言わなかった。
この時、イベットの前で、私は一度も存在していなかったことが明らかになった。
家に帰ってから、私はふらふらとベッドの上に倒れこんだ。重たいものが胸につかえていた。気分を落ち着けようと深呼吸をしようと数回試みるが、そうする力すら体の中に残っていないように思えた。
マッサージをした時のイベットの肌の感覚がまだ掌に残っている。二つの肌の色が重なり合い、しかし決して交わることはなかった。黒く細い糸のような境界線。指に沿った境界線。
弱い心は皮膚に守られないむき出しの臓器のようで、イベットのあの日焼けした指に触れただけで致命傷になった。
ふと、自分が耐えられないほど傷ついているように思った。その考えは私を動揺させた。日本人であろうという努力も、鏡を見つめる日々も、全ては一つのシンプルな事実に集約されるのだとしたら、どうしよう――私はただ、傷ついているのだとしたら。
私は声にならない唸り声を上げた。私は枕元の七つ頭のドラゴンを手繰り寄せ、思い切り拳で殴った。
先程まで私の横にいたイベットを想像の中で引きずり出した。マジックで美しい顔に汚い言葉を書いてやった。もう見えなくなる程彼女の顔を黒く塗りつぶしてやった。考えうる罵倒を全てぶつけた。彼女の髪から、体型から、そばかすから、彼女にまつわる全てを罵倒した。
余分な肉のない、鋭角な、針を思わせる顎を掴んでこちらを向かせてやりたいと思った。そして私の為に口を開かせてやりたい。あの女が、私の為に何か物を言う所を見たいと思った。
私に話してほしかった。そして話してくれないなら、余計にそうさせたくてたまらなかった。口が開かないなら、手を突っ込んでやりたくなる。私の指が噛み千切られ血まみれになろうとも、私は彼女が口を開くところを見たいと思った。私の為に口を開くところを見たいと思った。
いつか。いつか、と胸に下りてきた天啓のような言葉を絞るように握りしめた。
いつか、あの女より美しくなってやる。
そうすることで、私は彼女の最も深い、最も近い所に触れるのだ。岡野が触れたより深い所に。美しくなる以上に、イベットに深く触れる方法を思いつかなかった。
私はイベットを見ていた。彼女がどこにいようが、何をしていようが、イベットを見ていた。私はイベットを見ていた、イベットの仕草を真似していた。イベットの喋り方を真似していた。そのうちそれが、使い物にならなくなったとしても、もはや踏み潰して粉々にしてやろうと思っていても、私はイベットになりたくて仕方ないのだった。
そして私が美しくなる時、あの女の顔は溶けてなくなるのだ。
いつか数学の授業で『完璧な円』という概念を教師が説明していた。彼が実際には存在しえない完璧な円という概念を、数式は紙上で実現できるのだと。私にとって、完璧な円とはイベットだった。その周りにたくさんの歪な円もどきがあった。その中で、一等に歪なのが私だった。
彼女は笑い、私は笑わなかった。あの狭い教室の中で青春の残酷な光が私たちの顔を照らしていた。私はその日当たりの悪い一端に立っていた。
いつか、イベットが独占していた極上の天国を味わう。
そう誓った時、涙が頬を伝った。殴り続けたぬいぐるみはふてぶてしく醜い顔で、いつもと変わらぬ悪役らしい笑みを浮かべていた。
竹本とイベットがお泊り会以降仲を深めていた。私は反対に段々と二人から距離を取るようになった。
「なんか最近フミ私のこと避けてない?」
竹本は何度も私の態度の変化に疑問をぶつけてきたが、私はそれに取り合おうとしなかった。初めはしつこかった竹本も時が経つにつれて段々と私を放っておくようになった。
私は孤立した。イベットのように否が応にも視線を集める人間の場合、万一人気者でいることが許されない時には嘲笑や攻撃の対象になるリスクを負うことになる。その点、私にその心配はなかった。私は単なる透明人間であり、誰にも注意を払われない存在になった。
こちらの方がずっと楽だった。無理にイベットの傍にいる努力は自尊心を切り刻み私を疲弊させた。
「ねえ、竹本さんと仲がいいよね」
ある日、クラスメイトの男子が緊張気味に私に話し掛けてきた。
「彼女って、どういうタイプが好きなのか知ってる?」
イベットの輝きは体から落ちる粉にでもなって、傍にいる竹本にも振りかかっているのだろうか?……私が最初に思ったのはそんなことだった。
「どうしてそんなこと聞くの? もしかしてイベットのことが好きなの?」
「はあ? どうしてイベット?」
私は訝しむように聞くと、彼は私よりさらに怪訝そうな顔をした。
「俺は竹本さんのことが聞きたいんだけど」
私はその瞬間、複雑な気持ちになった。確かに、竹本はイベットと一緒にいる影響もあるのか最近垢抜けてきていた。
長い沈黙の後、一つの質問が口から出た。
「……竹本の、どういうところが好きになったの?」
男子と話すことが久しぶりで、私の声は知らず震えていた。
「うーん。どこって言われてもわかんないけど、いつも笑顔で可愛いと思ったんだ」
この率直な答えは竹本の性格を思い出させた。確かに、彼と竹本なら上手くのいくかもしれない。
竹本も壁を超える……彼が望む通りに仲人を努めれば、竹本はこの「男」に、望まれて会話を始めることが出来る。
竹本が私の知らない場所へ行こうとしている。竹本がイベットと同じ、「女」になっていく。
置いて行かれているという感覚は私の心の裡に狂気を育てた。比例して、自慰は麻薬的な悦びを持つようになった。
私は無性に乾いていた。セックスという魔的な響きに、この燃え盛る劣等感を溶かしてほしかった。セックスは悪魔のような私を丸ごと受け入れた後、解放してくれるだろう。内臓全てを内側から締め付けるようなこの嫉妬を慈悲深い救世主のごとく、掬い上げて熱い炎の内に焼き尽くしてくれるに違いない。
自分の裡の狂気から解放されるには、一度それをはっきり直視する必要がある。目的が神聖である為に、手段は正当化された。私は狂ったように自慰をした。夢の男の子の顔はまだ見えなかった。
四連休中のある日、竹本が久しぶりにメールを送ってきた。
『フミ、私は今韓国です。日本に帰ったらフミに告白することがあります』
『何?』
私はすぐに返信した。
『次に会った時にすぐわかる。フミに言ったら怒られそうだから、今は秘密にしておくね』
意味深な言い回しに嫌な予感がした。
次に会った時、竹本の容姿は一見して変わっていた。竹本の瞼には太い紫色の線が横一文字に食い込んでいた。
「えへへ、整形しちゃった。前からずっと考えていたんだけど、ついにやっちゃったよ」
私は呆れて声も出せなかった。
「……どうしてそんなことしたの。まだ中学生でしょう?」
「韓国では普通のことなんだよ。友達もみんなやってる」
「出た、『韓国では普通』! ここが日本なのが分からないわけ?」
この時、私は必要以上に激昂していたかもしれない。腫れが引けば、糸のように細かった竹本の目は綺麗な二重瞼になってしまう。
「美しくなりたいと思うことがそんなに悪いわけ?」
強い視線が私を睨んだ。私はどきりとした。竹本は皮肉っぽく片頬を持ち上げた。
「整形だって必要だよ。私はイベットみたいに美人に生まれたわけじゃないんだから」
ああ、やはりイベットだ。私は思った。
イベットと一緒にいるようになってから、竹本は整形したいと言う願望をよく口にするようになっていた。あの美しいイベットさえ傍にいなければ、竹本が整形なんかすることはなかったかもしれない。
竹本が次に口にしたことは整形よりも衝撃的だった。
「ああ。それからこの休みの間に、ナンパしてきた韓国人の男の子と最後までしちゃったんだ」
どこか勝ち誇った声で、竹本は私を見つめる。
私は絶句した。
竹本がもう私の知る竹本ではなくなってしまったという感覚だけが強く残った。そして私はかつてないほど、濃度が強すぎて咽そうになる程、この私のままであるのだと感じた。
……私は、クラスの男子が竹本を気に入っていることをわざと伝えなかった。
イベットの元友人たちによるイベットへの攻撃の手は半年もすればいつの間にか緩んでいた。単純に飽きたのか、許す気になったのか。はたまた、一年間の交換留学の終わり、イベットとの別れの日が近づいているせいなのか。
また少しずつクラスメイトとイベットの会話が許されるような雰囲気になっていった。ただし彼女は今度は男子に話し掛けるのを一切やめた。『貞淑』になったのだ。それを女子は大いに喜んだ。イベットはもはや彼女らの立場を脅かすライバルではなくなったからだ。
元のグループに少しずつ戻っていく彼女の顔には『日本人は意味わからない』と馬鹿にしていたあのヘラヘラ笑いが――不安を隠すための、意味のない笑顔が――頻繁に浮かぶようになった。
イベットが痛ましいほどに『笑った』のは、男子が内輪で可愛いと思う女子トップ10ランキングをつくり、その順位の詳細が女子に漏れた時だった。
イベットは二位だった。イベットは一位でなかったことに安堵しているとも、二位にまで浮上してしまったことに恐々としているとも取れる、泣き笑いのような固まった笑顔を見せた。自分の異性からの人気がどれほど女子の反感を買うかこの時には理解していたのだろう。イベットは目を伏せ、神経質そうににやつきながら、温度のない小さな笑い声を発していた。
彼女が馬鹿にしていた日本人の表情をしているのを見て、私は幸せだった。彼女が日本人らしくなって行くのを見て、私は幸せだった。
私は彼女が泣くことを願った。何度も何度も願った。イベットが再びいじめられ、もっと日本人らしくなることを願った。私は彼女が私を理解することを願った。いつか彼女が日本人が笑う意味を真に理解する時、私がここに確かに存在していたのだと知ることを願った。
イベットがアメリカに帰る日は段々と近づいていた。私は英語の授業ではイベットと同じグループだったが、私はイベットにとって最後のグループ発表の日に学校をサボった。
次の日に学校へ行くと、イベットは意外にも真っ直ぐ怒りをぶつけてきた。
「そりゃ、体調不良なら仕方がないけど、休むなら一言言って欲しかった。他の子は英語さっぱりだし、フミを頼りにしてたんだから」
私は見慣れないものを見るようにイベットの怒った顔を見た。眉間の皺が薄く刻まれた様子が美しかった。私は数秒黙った後、「ごめん」とだけ謝った。いかにも心が篭っていない、適当な言い方だった。次いで軽薄な言い訳が口をついて出てくる。
「イベットがいれば大丈夫かと思ってさ。ごめんごめん」
イベットは眉を顰めてこう言った。
「……やっぱり、フミは意味不明だよ」
クラスで開かれるとかいうイベットのお別れ会も欠席した。するとその日の夜中にイベットからメールが来ていた。
『私のお別れ会があったの、知らなかったわけじゃないでしょう。どうして何も言ってくれなかったの? 友達なのに。』
この返信には唖然とした。
友達?
信じられなかった。イベットが、私を友達だと思っていた。気を抜くと胸に温かいものが溢れそうになる。
違う。イベットの傍で、噛み締めた口内炎から出た血の味を思い出す。
何を、今さら。
授業中にイベットに書こうとして、結局渡せなかった手紙を思い出す。
違う。違う。友達なんかじゃない。あの女は、一度も私を見ようとしなかったじゃないか。
私はその後イベットに直接謝ったが、彼女は無表情でうなずくばかりだった。それから殆ど話すことのないまま、イベットはアメリカへ帰国していった。
イベットはいなくなった。私は美しい絵画と頭痛の原因を失った。
「進路、どうしよう」
姉が学校から渡されたという進路希望紙を見て、私が三年生になった時に書こうと考えたのは以下だった。
『将来は死体になりたい。死体になって、その後死にたい、
進路希望 第一希望:死体』
イベットが日本を去って三か月が経っていた。わけも分からない憂鬱が胸中を覆っていた。
ある夜、私は衝動的に自殺を試みた。幼児の時に試みた一度目から再び、死に向き合う時が来ていた。
私が産まれた日は私のアンラッキーデーだった。あの日が一等、ついていなかったのだ。もっと早くこうしていれば良かった。
私はそう思いながら衝動的に風邪薬をありったけ飲んだ。これで死ねればいいと私は布団の上で静かに目を閉じた。
十分後、もの酷い吐き気を感じて、体を起こしてげえげえと吐いた。吐瀉物の匂いが充満する部屋に、私は急いで母を呼んだ。
「どうしたの!?」
母は悲鳴を上げて部屋を片付け始めた。バスルームに行ってそこでも吐き、便器の中に落ちる溶けかけの風邪薬をぼんやり眺めた。
二度目の自殺は、派手に失敗した。
「吐き風邪かしらね。明日も続くようだったら病院に行きましょう」
母はそう言い早く寝るよう私に言って聞かせた。私は大人しく頷いた。まだ嫌な匂いの残る部屋で、私は新しいシーツの上に身体を横たえる。気分は最悪だったが、眠りにつく前はいつでも幸せだった。
夢の中で、私は例の夢の男の子とセックスしていた。それは現実のセックスに無知ゆえに、結合部が白い靄に覆われて見えなくなっていた。内側から湧いてくる強烈な多幸感に包まれ、私はついに彼の顔をはっきりと見た。
彼の顔は、イベットの顔だった。しかし、本質はイベットとは異なることを頭が理解していた。彼の正体は、モナリザだった。ルーブル美術館にかかっているはずのモナリザが私に触れているのだった。
モナリザが女である常識は夢の中では重要ではなかった。彼は男だった。彼はイベットの顔をしたモナリザであり、私と夢のようなセックスをする男だった。
次の日の朝、私は感じたことのない昂揚感と真っ白な感覚と共に目が覚めた。そして、まだ生きる意味があると悟った。
死ぬには早い。そう。私はまだセックスをしたことがないのだから。
私の指はまたそこへ向かっていた。
イベットの顔をした、美しいモナリザ。その人が、必ず私を壊してくれる。直してくれる。
私は達した。遠く、遠く、遠く飛んでいく。どこまで行くのだろうと思った時、上昇は止んだ。終わった。衝撃で目尻から涙が出た。
私は自分が赦され、無敵であると感じた。
イベットと二度と会うことは無くなった今、私とイベットの関係が完成され、永遠に固定されたのだ。
もうここに平凡で無神経なイベットはいない。私の夢は完成した。
彼女は美しい絵だったのだ。私はイベットという人間のことを何一つ知らなかった。知りたくなかった。彼女はどこまでも表面的で、それゆえに美しい。
モナリザ。彼とのセックスはこの世で考え得る最も美しい行為だった。私は夢見る愛が完成した形を切に求めた。
「これが私の欲しいもの」
「これが私の欲しいもの」
「これが私の欲しいもの」
私は繰り返し呟きながら、幸福に泣いていた。今この瞬間、私が気にするものは表面的な魅力だろう。暴力も銃も血も意味を為さないだろう。
暴力と密接したあの粘着いた感覚は、夢のようなセックスだけが満たし、完璧に消してくれる。イベットはもういない。私は従順で、満たされ、何も不安に思わない。
「セックスは、男と女が裸でいちゃつくことだよ」小学校でセックスについて教えてくれた同級の声。
『頭がぼーっとなって、気持ちよかった』恍惚とした竹本の声。
あの従兄弟の指の動き。
いや、違う。セックスとは、それ以上の行為なのだ。そうでなくてはならないのだ。
私は夢を持った。鏡を見ながら、教室で透けていきながら、美しい絵画を見つめながら、夢を持った。
夢を見るのだ。生きていくために、果てない夢を。
(第07回 了)
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