スーパーヒーローズ、口にするだけで赤面し蕩けるような響き。死に最も近く最も遠い存在。純粋な力の源。好きでたまらない男たち女たち、わたしのヒーローズ。わたしはその世界に浸り溶け込みやがて排除される。叩きのめされ地に伏して絶望するまで彼らを追い求め、愛す・・・。第8回金魚屋新人賞受賞作家の衝撃のデビュー作。『モナリザとセックスする夢』から改題。
by 金魚屋編集部
ある朝、いつもより早く学校に着いた私は後ろの席に座っていた男子から声をかけられた。
「早いね。おはよう」
彼が自分でない誰かに話し掛けたのではないかと、後ろを振り返りそうになった。私はそれほどまでに目立たず地味な存在だった。しかし今、彼の目は確かに私を見ている。
「……おはよう」
低い声が出た。
彼の目に私が確かに見えているのだという事実、そして日に焼けた肌に浮く彼の白い歯が私を舞い上がらせた。頬が火照り、身体中に活力が湧いてくるのを感じた。
彼はクラスでも人気がある岡野という男子だった。前後の席だったが、話したのはこれが初めてだった。
それから私たちは早朝の教室で顔を合わせる度に、おはようという挨拶と一言二言交わすようになった。
「おはよう」
彼を見ると、私は息が出来るようになった。
また息が出来る。また息が出来る。
私は自分を無謀だとは思わなかった。
「おはよう」
突然愉快な気持ちになった。突然大丈夫な気分になった。
この世に「おはよう」という言葉以上に美しい響きがあるだろうか? 私は中学に入学してから、これほど美しいと思える音を聞いたことがなかった。
そしてある日帰りの電車の中で、ふと、重要な事実に気が付いた。誰の目にも留まらない、鬱屈した毎日の苦痛が半分になっていた。そして私は大丈夫になっていった。勢いよく大丈夫になっていった。
教師から配布物を渡す時に岡野に触れる指先を、椅子をきつく引いた時に後ろに当たる机の固い感覚を、何よりも楽しんだ。私は岡野の日常の仕草や言葉が引き出す感情を逐一竹本に報告した。そしてどれだけそれを好きかを伝えた。
「うーん、完全に恋してるね」
竹本はにやけながらそう言った。
私は間違いなく恋をしているのだ。嬉しかった。私は間違いなく女に近づきつつある。
この恋の中に私は再び天国を見た。生き返った気分だった。すでに松田の時に知っていた通り、恋の味は素晴らしかった。窒息しかけた喉に酸素を運ぶのだった――その一点のために、私は女になることの素晴らしさを噛み締める。
そしてもし、このような恋愛の果てにセックスに至れば、その素晴らしい行為にいたれば、私の胸に巣食う黒い靄はたちまち浄化して飛散してしまうだろう。彼を愛するということは、彼とセックスをする第一歩だった。恋が叶うかはどうでもよかった。私は、そのはじめの第一歩だけを、何度も、何度でも踏みしめた、私はそこへ向かっていると知る為だけに、彼をひたすら愛した。
学校が教室の電球を明るく変えたのかと錯覚する程、教室が明るく見えた。世界中がこぞって私にセックスを示していた。黒板の上に見下ろすように佇む四角い時計は官能的な色を帯びた。授業中は艶めかしい男の四角い首に指を這わせるような秒針の動きを見ていた。こうして呼吸をする私のすぐ後ろに岡野がいて、私の姿が彼の目に入っているのだと思うと嬉しくて堪らなかった。
一方で、岡野がもたらしたものは幸福だけではなかった。彼は今まで目を逸らし続けた真実への目覚めを促した。
岡野に恋をしてからというもの、私は自分の容姿について頻繁に考えるようになった。多くの男の気を惹くのが容姿であるとすれば、岡野の気を惹くものもそれであるはずだった。こうして、自分の容姿というものが初めて自分事として女の私に迫ってきたのだった。 必然、鏡を見る回数が増えた。
鏡に映った私はやはり美しくはなかった。瞼は腫れぼったく眠そうで、唇は厚すぎ、生意気な印象を与えた。前歯は飛び出していた、得意でない笑顔を作ると否応なしにその大きさが目に入り、ぎこちなさと相まってあまりに痛々しく見えた。鏡の中を覗き込み、どこか一つでも長所を探そうとしたが無駄だった。私は事実として自分は醜いのだと結論づけざるを得なかった。
私はファッション雑誌を大量に買ってきて、紙面を埋め尽くす混血のモデル達と自分の顔とを見比べ始めた。モデルたちと私の顔立ちの違いは残酷なほどだったが、イベットは雑誌を飾るモデルの誰よりも美しかった。私は雑誌のモデルや芸能人などよりよほど、イベットのポスターを部屋に飾りたかった。
雑誌とは特殊な本だった。買ってきた雑誌は読んだそばから老いていく。少し放置するとみるみる内に老いて、特別古くなくても皺だらけの老婆のようになる。紙面の上のカラフルな華やかさは、時間が経つと、白け切った何かへと変わる。私はその古さを嫌い、新しい雑誌を常に買い足した。新鮮さが命なのだ。いつも新しいものを取り入れて自分を着飾る。
鏡を見るのに疲れるとすぐにベッドに潜り込んだ。
私は頭が七つに分かれた、特撮番組の悪役と思われる醜いドラゴンの人形をいつも枕元に置いていた。雑な作りで、糸が何本も黄色の体から飛び出ていた。(子供の頃に父親が買ってきてくれたはいいものの、あまりに醜くて泣き出してしまった。捨てることも出来ずに私の部屋に残っているのだった)
私はいつからかこの人形に親近感を抱くようになっていた。私の容姿より醜いと即答できるそれは、私の裏切らない友人だった。
眠りにつく寸前は幸せだった。ほんの数秒だけ、私は完全に自由になれる。その数秒、私は死に向かっていた。セックスの夢と死の夢は不思議とよく似ていた。
『ビートルズにリンゴという名前の人がいたらしい。みかんはいないのだろうか?』
取り留めのない思考が湧いて来たら体が眠りにつく合図だった。
『この体を空に投げ出してくれ。宇宙を漂う塵になり太陽を近くで見てから死なせてくれ』
目を閉じると体が重くなる。自慰の時女性器に指を入れた時の心地いいうねり、遊園地から出る時のどうしようもない寂しさ、カラフルなアイスクリームが全部いっしょになった生物になった。全てが完全に溶けはせず独立して私の世界に存在し一つの生き物を作っていた。
私は毎日眠るたびに死んでいた。少なくともそう信じた。
死。
若い私にとって、死とは老いと最も遠いところにあった。
私は歴史の教科書の中でいつまでも若いまま生き続ける重要人物たちに憧れた。死んだ者にはある種の清々しさがある。もう二度と彼らの印象は更新されない。彼らには負けを認めた勝負師のような潔さがあった。
私の教室で息をするイベットは、歴史の教科書に出てくる偉人よりも意味のある存在だった。私は授業中、イベットの顔をいつも盗み見ていた。黒板を見る上目遣いの目はしきりに瞬きをしていた。無邪気な顔は自分が誰からも見られていないと信じ切っていた。
ある夜、見るともなしに見ていた点けっぱなしのテレビからレオナルド・ダ・ビンチのモナリザ特集をやっていた。モナリザの隠された謎に迫るなどと銘打った番組だった。
ナレーションはモナリザの美しさについて色々と語っていたが、絶世の美女とか言われる彼女の顔はどうにもぴんと来なかった。能面のように表情が薄く死人のような顔をしたこの女より、私はイベットの方がずっと生気に溢れた美女だと思った。
絶世の美女のモナリザより美しいなら、イベットより美しい女はこの世に存在しないはずだ。そう確信した時、私は奇妙にも誇らしかった。
私はイベットを憎みながらどうしようもなく憧れていた。毎日彼女の凹凸の少ない体から波打つ息遣いを感じるほど彼女を眺めた。私は彼女になりたくて仕方なかった。
イベットの話す日本語に私は魅せられた。英語の持つ独特のリズムを努めて平坦にしている跡がそこかしこに感じられる、ロボットのように聞こえる発音。自分の語彙への完全な自信を持てないせいか、難解な単語を口にする時は所々に声が小さくなる。感情的になる時は日本語に不釣り合いな抑揚が付き、口が縦に横によく動くようになる。イベットの唇を通ってくることで、その奇妙な響きは特別なものになった。
あらゆる表情の中で、イベットのしかめ面が最も美しいと気が付いたのはいつのことだろう。教室に差し込む太陽の光を仰ぐイベットの栗色の髪は光に当たった部分だけ線がいくつも入ったように黄金に輝く。彼女は顔をしかめる。角度のはっきりついた形の良い眉を寄せ、前歯を軽く剥きだしてうらめしそうに光を見る。そこに感情は無い。純粋な無感情だ。
彼女の日焼けした頬には無数のそばかすが浮いている。イベットの顔にただ一つ見つけられる、私の顔と共通の特徴。私はその共通点を頬ずりしたいほどに猛烈に愛した。そばかすは鏡を覗いた時に私が手放しで愛せる唯一のものになった。
中学に入学してから数か月が過ぎた。始めは明確に分かれていた男女の壁も、それを超えていく人数は増え始めていた。
生徒達が異性に対する妥協点を知り始めたということなのか、単純に同じ空気を吸うのに慣れてきたせいなのか、許される人数は明らかに増えた。嗜好品や重要な研究の成果が強い者の独占を経た後一般にも門戸が開かれていく歴史があるが、それに近い変遷だった。
私は常に自分がそれを飛び越える機会を伺っていた。何でもないことのように男子と気安く会話するのは私の夢だった。
私はより一層容姿を磨く努力をした。せっせとファッション雑誌から学んだ化粧や髪の毛のアレンジを模倣した。そうすることで、輝かしい青春の正当な取り分を与えられるのかもしれなかった。同じように、竹本の瞼の上にも微細な輝きの粒が加えられるようになった。それは毎日色を変え、私を緊張させた。新しい色を見る度、初めて彼女の顔を見るかのような気分になった。
私たちの淡い希望に冷水をぴしゃりと浴びせるような事件はすぐに起こった。
ある日、地味な女子がクラスで一番人気の男子のジャージの裾を引っ張っていくのをクラス全体が目撃した。すぐにほうぼうから冷やかしの声が投げかけられた。それは主に人気者の男子へかけられたものだった。彼は弱り切った、しかしどこか楽しそうな笑顔でそれに対応した。反対に地味な女子の方は口をきゅっと真一文字に結び、何かを決意したような表情を浮かべていたのが対照的だった。違和感のある組み合わせに、クラスメイトは皆好奇心を丸出しにして二人の行方を見守った。
その後、地味な女子が人気者の男子に告白をしたのだという噂がクラス中に広まった。まるで威力の強い伝染病のようだった。その語られ方に真剣な色が含まれることは殆ど無く、大して関わりもないのに人気者に告白をした少女の愚かさを嘲笑する論調が主だった。
彼女はそれ以降、クラス中の男子から酷い虐めに遭うようになった。彼女の隣りに座っていた男子は、両手で抱きしめるように自分の机を引き寄せ、彼女が汚物であるかのように思い切り彼女の机から離した。このようなクラスメイトたちの態度には、底の知れない恐怖が湧いてきた。竹本と私はこのような状況を目撃する度に、言葉少なに「怖いね」と言い合った。私は自分が岡野を好きだということを決して誰にも悟られまいと思った。
またこんなことがあった。竹本と私にはリジーというお気に入りのアメリカ人の美人歌手がいた。二人で彼女の新曲が出る度にチェックし、放課後にはカラオケに行って延々と彼女の歌を歌い続けた。
ある日の情報の授業でパソコンをいじっている時、竹本と私は二人で先生の目を盗みリジーのウェブサイトを見ていた。竹本は英語で彼女の情報を検索し、リンクを辿って私の見たことのないような海外のファンサイトの中にまで入り込んでいた。リジーの写真がたくさん載っている英語のファンサイトを眺めていると、『More Lizzy』というおどろおどろしい赤文字のリンクがあった。
そこを何気なく竹本が押すと、唐突に赤と黒の画面に変わり、三つの写真がでかでかと現れた。どれも、幼いリジーと思われる少女の写真だった。その顔立ちが、現在の美しいリジーとかけ離れていた。丸くて縁の太い眼鏡をかけ、顔中ににきびがあり、鼻が今よりずっと低かった。
「何これ……」
竹本が呆然と呟いた。私はキャプションされた文章を読んだ。
「……リジーの整形前の写真だって」
竹本は三枚の写真の脇に再び出てきた”More Lizzy”の文字をほとんど自動的に押した。
その度に別の写真でリジーの過去が暴かれる。竹本は何度も連続で、その悪意に溢れた『More Lizzy』をカチカチと押し続けた。
「……いやだ」
竹本は泣きそうな声で言った。竹本の声の中には衝撃と共に恐怖が宿っていた。その「いやだ」は、リジーという自分の偶像が醜かったことへの失望なのか、過去に容姿が悪かったというだけでこれほど残酷な仕打ちを受ける現実への恐怖なのか、私にはわからなかった。
「私、もう整形しようかな……」
ぽつりと竹本が呟いた。私は今しがた目にした毒に疲れ果て、無言のまま彼女の顔を見つめた。
「韓国では普通のことだし」
感情の読めない声で竹本は続けた。
「お母さんも、叔母さんもみんなやってる」
「ダメだよ。私たちまだ中学生だもん。まずは、メイクとかで頑張ってさ…」
「……そんなの焼け石に水だよ。私、いつまでブサイクでいなくちゃいけないの?」
竹本の声は彼女らしくない悲壮感に溢れていた。
美貌のイベットや混血のモデルに憧れを抱きながら、それ以上に歯ぎしりするほど私が強く憧れていたのは、取り柄もない普通の女子たちだった。少しずつ透明の壁を飛び越えつつある「普通」の層だった。
全ての女を不細工と美人の二つに一つでくくるなら、僅差で美しい方に入るであろう女子たち。自分の容姿が完璧から程遠いことを理解しており、それを補う為に決して手を抜かない女子たち。笑うと顔が崩れ、端正さから多少離れるかわりに、匂うように愛嬌がふっと浮かび上がる。劣等感に苛まれイベットを異様な目で盗み見るということもない、自分が女だと一度すら疑ったこともないあの女子たち。あの女子たち。
ある日の休み時間、他の教室に教材を運ぶように頼まれた女子が唸りながら段ボールを運んでいた。
「これ、重すぎる」
「力無さすぎでしょ」
彼女は荷物を下ろすと、顔を歪めて手を振った。その子の友達はそばにいるが、笑うだけで手伝おうとはしない。
「良かったら私がやるよ」
私は彼女に代わって段ボールを持った。大して重くない。片手でも軽々と持ててしまいそうだ。
「すごーい、力持ちだね」
「あ、そうだ。それからクラス番号を書いといてって言われたんだけど……」
荷物で片手がふさがっていたので、歯でマジックを咥えて片手でキャップを外す。そばにいた別の女子はそれを見て困ったように笑った。少し間を置いてわざとらしい声で言う。
「……かっこいーい!」
その笑顔の皮を被った軽蔑の表情を見てようやく気がついた。女は普通、歯でマジックを咥えたりしないのだ。彼女たちは褒めるような形を取りながら、私をやんわりと排除していた。
私が求めていたのはイベットの美貌ではなく、ほんの一匙の幸福、普通の女子として、普通の男子を愛するという体験だった。
私は生まれる前に流産しかかった「女」というアイデンティティーを救う道を考えていた。男への扉はとっくの昔に閉ざされた。女としての扉は叩き続けても開かない。私にはいつも何か足りないのだ。
くすくすと笑い合う普通の女子たち。非力でありながら強大な力を持つ、あの輪の中に私はどうしても入れなかった。それは私にとって、女であること、ひいては、セックスから拒まれているのだということを意味していた。
夏が来ると、喉に切なくてかゆくて悲しくて愛おしいものがつかえた。それは湿った空気ではなく夏への期待だった。
……ひょっとしたら、私にだって夏は恋人が出来るかもしれない。学校では透明人間でも、他の場所で出会いがあるかもしれない。……
こんな甘い期待があった。しかしその夏、私に恋は訪れなかった。代わりに私が手にしたのは、とっくに秋が来た後に部外者の立場から知る、無味乾燥なゴシップとしての夏の恋だった。
私の片思いの相手である岡野とイベットは、お互い人気者同士ということもあり元々仲が良かったのは知っていた。夏休み明けにイベットと岡野が夏休みに泊りがけで旅行へ出かけたという決定的な噂が一斉に流れた。
このスキャンダルは多くの生徒にとって寝耳に水だった。女子がそれを内緒声で話すのを誰かが聞きつけ、違うグループに伝えるのをそこかしこで目撃した。
私はこの噂を不思議な落ち着きを持って受け入れた。岡野に恋をしていた筈なのに、このスキャンダルに対して胸の痛みは殆どなかった。私は他のクラスメイトと変わらない態度をとった。つまり、竹本といつものようにマクドナルドに籠りきり、二人が付き合っているのか、泊まった日に関係を持ったのかと下世話に噂した。
岡野への気持ちを知っていた竹本は私に同情したが、彼女の慰めの節々には、イベットが相手では仕方がないという言外の窘めがあった。小さく短い棘が喉に刺さったような痛みを、セットメニューにつけたコーラで流し込む。(この頃ストレスが溜まるとコーラを出鱈目に飲み続ける癖がついていた。おかげで大量の虫歯が出来るようになった。イベットと岡野がセックスをしていたであろう夏休み、私は週に一度歯医者に行っていた)
泊まり込みで旅行へ行くなんて、なんと大人っぽいのだろうと思った。スクリーン上のロマンスを眺めるような気分だった。笑顔の眩しい岡野と美貌のイベットが、緑あふれる公園でキスをする絵はどれほど美しいだろう? 私はその「絵画」に憧れた。それは高価な額縁に入っていた。
その中に私も入りたいと願った。二人がキスする、体を繋げる、その場所に私もいられたらいいのにと思った。それは嫉妬ですらなかった。彼らの眩しさの欠片を手に入れたいという純粋な野次馬根性だった。
私は二人を応援すらし始めていた。岡野への恋心の代わりに胸を覆ったのは、イベットと付き合うような岡野に身の程を知らずにも恋をしていたという恥の感情だった。
しかしながら、イベットにとっては、このスキャンダルは彼女の地位を陥落させる結果に繋がった。クラスメイトに二人の恋を祝福するムードはなかった。アメリカに彼氏がいるのにどっちつかずのまま岡野と付き合うことを責めているのが表向きの論調だったが、実際には裏の理由があった。
イベットの親友が岡野に片想いをしていたのだ。その恋破れたイベットの親友は、自分の気持ちをイベットには伝えていなかったが、彼女は当然イベットがその気持ちを分かってくれていると思っていたという。その期待が裏切られた時、友情は強烈な憎しみに変化した。
イベットは急速に孤立しはじめた。
彼女に密かな劣等感を抱いている者もあったのだろう。女子たちは掌を返したようにイベットを「本当は大して可愛くないよね」と僻み半分の悪口を言いはじめた。男子たちは変わらず――少々おろおろとしながら――イベットに話しかけるが、女子はそれを遠くから見ては「男好き」と意地悪く影口を叩くのだった。
ひょっとすると、恋の相手としての岡野を失った悲しみはイベットへの憐れみによって相殺されたのかもしれない。私は肩を落とすことが多くなったイベットの小さな背中を憐れみながら、これまでと変わらぬ憧れで見ていた。苦悩のため息をつく時すらイベットは美しかった。
私は小学校の頃女子更衣室が大嫌いだったが、この時にはすでに、女子更衣室で違和感なく呼吸するようになっていた。この部屋は無臭であった試しがない。誰かのヘアコロン、香水、汗の匂い、全てが混ざり合って独特の匂いを放つ。昔は息を止めねばならない程苦しかったのに、この溢れるほどの匂いを平気で吸い込めるようになっていた。
私はよく着替えをするイベットの体を横目で盗み見ていた。イベットは例のスキャンダルの後、居場所がなさそうに、身を屈めるようにして端の方で着替えるようになった。私はこちらに向かないと知っているイベットの姿をより大胆に見つめるようになった。太ももから脹脛まで長さが同じ小麦色の脚、ほとんど板のような胸と尻。多くの生徒と似た体つきでありながら、それはイベットのものであるという点で、他のものとは全く異なっているのだった。岡野がこの体に触れたのだと思った。それは蝉の鳴き声を背景に、どこまでも澄み切った行為であったに違いない。
イベットへの感情は複雑だった。私は変わらず彼女に憧れていたし、スキャンダルによって彼女を軽蔑することもなかった。しかし周囲から村八分にされ、居場所を失い続けるイベットを見て、だんだんと妙な感情が湧いてくるようになった。
それは彼女をもっと貶めてやりたいという気持ちだった。とはいえ悪感情は微塵もなかった。私は憧れの存在の凋落をむしろ愛おしんでいた。彼女が私に近づいてきてくれている気がして喜びすらしたのだ。
日本人としてのアイデンティティーが取ってつけたように湧き上がってきたのはちょうどこの時期だ。ナショナリズムの萌芽は奇妙な道を通って達成された。それはイベットの為、正確には、日本人ではないイベットを攻撃する為に始まった。私の日本人としての意識はイベットと自身を比べ彼女を見下すことによって強まった。私がこの場所でイベットよりも優っている可能性があるのは「より日本人である」という一点のみだった。
歴史の授業や道徳の授業で戦争のことが扱われ始めていた。それを受けて、竹本の韓国人としての自覚もかつてないほど高まっていた。
「それで日本人が韓国人にしてきた過去の酷い仕打ちを、フミはどう思ってるの?」
竹本はこんな風に事あるごとに戦争の話を持ち出すようになった。
「私がやってもいないことに対して私が罪悪感を持たなくちゃいけないの?」
「フミはそれでいいよ。日本人だから、過去のことを忘れたってどうってことない。でも私の中の韓国人の部分は、過去のことだからって無視は出来ないよ」
竹本は白い肌を赤く染めて強い語気で言う。
「この気持ちは日本人のフミには絶対わからない。韓国人が日本人を嫌いなのは、日本人がそうやって関係ないみたいに被害者の気持ちを軽く無視するからなんだよ」
この一見不毛な会話には意味があった。私たちはそのやり取りを繰り返すことで、お互いに日本人、韓国人という意識を強めていた。私たちはぶつかる以外の方法で自分のアイデンティティを確認する方法を知らなかった為、このような口喧嘩はお互いにとって必要なものだったのだ。私は急速に日本人になり竹本は急速に韓国人になっていった。
「フミは、ホンット、典型的な日本人だよね」
国が違えば同じ歴史でも見方は変わる。日本人の私にとって、戦争と聞いて栄光のイメージは湧かない。戦勝国から来たイベットにとっては、戦争とはあるいは栄光に輝いた王冠なのかもしれない。それとも、彼女の中の日本人の血がそう単純にはさせないのだろうか。少なくとも、私とは違う考えを持っているに違いなかった。私はイベットの考えを聞いてみたくて堪らなかった。
イベットの中のその二つの血がまだ戦争をしている
その戦いがイベットの体を引き裂く
彼女の美しい体は二つに食い破られる
私は四角い旗を背中に背負った
兵士がやってきてわたしの背中をブスリと刺した
私は前のめりに倒れこむ
私の背中を男は踏んだ
鼻で笑って蹴り飛ばしていく
私は恍惚として死んだ
日の丸を背負いながら
(第06回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『スーパーヒーローズ』は毎月5日のアップです。
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■