スーパーヒーローズ、口にするだけで赤面し蕩けるような響き。死に最も近く最も遠い存在。純粋な力の源。好きでたまらない男たち女たち、わたしのヒーローズ。わたしはその世界に浸り溶け込みやがて排除される。叩きのめされ地に伏して絶望するまで彼らを追い求め、愛す・・・。第8回金魚屋新人賞受賞作家の衝撃のデビュー作。『モナリザとセックスする夢』から改題。
by 金魚屋編集部
良い意味でも悪い意味でも私の人生はシンプルになった。算数にも国語にも意味はない、彼の子供ばなれした四角い頬こそが意味を持った。窓の外から匂ってくるプールのカルキの匂いを嗅ぎ、今ではいくつになってるかも分からない先輩が書いた机の古い落書きを指でなぞりながら、自分の未来に思いを巡らせることはなかった。
ただ松田を見つめていたかった。松田が歯を見せて笑っている。松田と聞いた音楽が流れている。松田がオレンジのパーカーを着ている。私は学校に散らばったそれらを遠慮なくすすることにより、放っておくと萎えそうな元気を毎瞬取り戻して生きているのだった。私は穏やかな時、ただ彼と近所の花火大会を見に行きたいと願った。感情が高ぶった時、彼の太い腕が私を窒息させることを願った。
相変わらず松田と走り合いをしたし、腕相撲大会がある時には戦う時もあった。しかし、これらの勝負も、あの事件以来今までとは全く別の意味を持つようになった。彼と真剣勝負をする為ではなく、私は彼に何度でも彼に負かされる快楽の為だけに何度も彼に突っかかった。
彼が弱い私を鼻で笑うのを見ていた。負ける度に私は悔しそうな顔をしたが、心の中では喜んでいた。自分の非力さを、彼の数秒後にゴールする自分の足や、すぐさま地につけられる自分の右手を、素晴らしい贈り物のように思っていた。
彼が野球をやるのを遠くから眺めるのはもはや欠かせない私の日課になっていた。私はもうルールを勉強しようなどという気も失せていた。そしてそのゲームのルールを知らないことにより、野球の勝負はいつもは私に都合のいい饗宴の場に変わった。松田が投げる球も、振るバットも、人を傷つける為だけのものだった。
彼が打席に入る時、食い入るように前傾でどこへでも動けるよう緊張を強める野手たちは、一瞬の隙を狙って彼を殺そうとしている戦場の豪傑たちに見えた。打った後に一塁に走る松田は、決死の覚悟で敵の懐に入り込む侍のように見えた。
彼はただ他の人間を蹴り続ければいい。後ろを振り返らず、いつものように肩で風を切りながら、その歩を進めるべきなのだ。最も危機的な状況にいる時ですら、殺される時ですら、その目に力を込めるのだ。敵を睨むのだ。夢想の中で、松田は勝つこともあれば反乱軍の猛攻に遭い負けることもあった。しかし、最後はいつも同じだった。
傷つけ傷つけられ殺し殺された松田が、私の前に膝をつく。彼は諦めたように、この世のすべてを拒絶するように目を閉じる。首を傾げるようにしてのけぞらせ首を露出させ、そこに充てられる剣の冷たい感覚を待っている。私はどこかから剣を持っており、力強い彼の命を血をもって抜き取る。生を諦めて全身の力を抜く夢の中の松田はスーパーヒーローズの戦士の格好をしていた。
私は喜んで自ら平凡になり、多くの幻想を諦めた。私は弱くなった。あるいは、もともと持っていた弱さを隠すことが出来なくなった。それでも良いと思えるのが愛だった。弱さを意味もなく許す気になれるのが愛だった。
松田は正直で暴力的な男だった。愚かでいられる美徳。露骨に顔をしかめて相手に突っかかっていく無鉄砲さ。それこそが彼の特権だった。
彼が拳で喋ってくれれば、私は何も喋らなくて済むのだと感じた。何も喋らなくとも充分幸せでいられる。彼が私の代わりに雄弁に喋ってくれる。私は女で、私は思う存分、この世界の恐ろしい予感に怯えていられるのだ。
その日、私は思い立ってある言葉の意味を聞いて回っていた。『ショジョ』という松田が女子をからかう時に使っていたあの言葉への好奇心がついに抑え切れなくなったのだ。
甲高い声で騒ぐ子どもたちと、そこから一線引いて低い大人びた声で会話をする子どもたちが一緒に詰め込まれた空間の中、聞き回っていた私の肩を一人の女子が掴んだ。
「ねぇ、松田の言ってた言葉でしょ」女の子は声をひそめて言った。「アイツ、そういうことにばっかり興味深々なんだよ。最近インターネットにハマって、変な言葉ばっかり検索してるんだって」
この頃パソコンとインターネットは爆発的な普及が始まり、大変な厚みのある灰色のパソコンは一家に一台あるのが当たり前になりつつあった。松田の家はいち早く取り入れ、放課後に取り巻きの男子たちを招いては、インターネットでゲームや動画を見ていたらしかった。
「ショジョっていうのは変な言葉なの?」
「ちょっと、それ、あんまり大きい声で言っちゃだめだよ」
女の子は大人を模倣したような言い方で私を制止した。そして私の耳に口を寄せ、秘密を教えるように言った。
「・・・・・・処女っていうのはセックスしたことない女子のことだよ」
息を殺しながら、それでいて伝えるのを待ちきれないささやき声だった。
彼女は早熟で、博識で、外見もとても女っぽかった。唇を赤い色つきリップで常に湿らせ、高校生向けのファッション雑誌を毎月買っているという話だった。
「処女」とは違い「セックス」に関しては、ほんの少しだけ知識があった。たいした知識ではない。「何かいけないこと、でも面白そうなもの」「大人の男女」といった、継ぎ接ぎのような曖昧なイメージだった。
「セックスって、よく知らないんだけど…」
「うそぉ、知らないの?」
女子の声に、軽く見下すような色が差す。
「うん。どういう意味なの?」
「セックスは、男と女が裸でいちゃつくことだよ」
男と女が裸でいちゃつく……内容の異様さと不釣り合いな軽い物言いだった。一瞬、消化が出来なかった。
「何の為にそんなことするの?」
小学生だった当時としては当然の疑問を口にした。
「そう、そこなんだよね」彼女は頷いた。「私もそこが分からないの。裸でいちゃいちゃして、何が楽しいのかなぁ」
彼女は「そこ」と言う度に強調しながら言った。
「せっかくだから、今日、うちに来ない? みんなも誘ってさ。私の高校生のお姉ちゃんに直接聞いてみようよ」
願ってもない誘いだった。彼女の家に着き、早速私と友人数人は彼女のお姉さんの部屋へ行った。初めて会った彼女の細い眉と粉で隠したニキビの跡には妙な生々しさがあり、そのせいで大人びて見えた。私はすっかり疎遠になっていた従兄弟のことを思い出した。今は彼は大学生になっているはずだった。
「セックスは、子どもを作る為にするんだよ」
お姉さんは言い辛そうに、しかしどこか楽しそうにセックスの意味を教えてくれた。話を一通り聞いた私たちは、震えあがっていた。自分には想像もつかないような行為がこの世界に存在しており、それを自分がいつか経験するのだという事実に衝撃を受けた。一人の友達は嫌そうな顔をして言った。
「そんなの、絶対切れるじゃん」
「うん、切れるよ。血も出るらしい」
私は彼女の家からの帰り道をとぼとぼと歩きながら考えていた。セックスという行為がそれほどまでに生々しいものだったとは。
他人事のようにぼんやり考えていると、ある考えが閃光のように浮かんだ。小学二年生の夏、従兄弟の兄ちゃんが私にしようとした行為。あれはひょっとして、『セックス』の準備だったのではないか?
その考えに息が止まりそうだった。もう五時を過ぎており、夕闇が町にせまっている。紫と赤の溶け合った空から何かが襲いかかってくるような気がして、その日は早足で家に帰った。
約一か月後、私にも月経がきた。
松田に殴られ、体を崩し、唾液と低い呻きと共に、白本の口から出たのではない血が、それとはあらゆる意味で異なる血が、私の下着の中心を汚したのを見た。両親は赤飯を炊いて祝ってくれたが、それは砂のような味がした。
次の日の休み時間、トイレを出ようとした時に、あの家に招待してくれた女子が話しかけてきた。
「うそぉ、もしかして、きたの?」
私がナプキン用の小さなポーチを持っていたことに気付いたのだ。
「うん・・・・・・」
私は頷いた。その子は半笑いを顔に貼り付けながら私をじっと見る。
「やっぱ、身長とか関係ないのかな。身長が大きければ早いとかいうけど、フミは小さいしやせっぽっちなのにね」
私の体を見るその子を前に、私は床に目を落とした。洗面台で手を洗いながら彼女は呟いた。彼女が手を洗い終わるまで待つべきか先に出るべきか分からず、「きっと、すぐに来ると思うよ」と言った。
彼女の口に皮肉っぽい笑みが広がり、鼻を小さく鳴らす。
「胸が大きい人が早くくるっていうよね。フミ、そんなに小さいのにね」
彼女はいきなり私の胸に自分の両手を載せた。抗議の声を上げると彼女の手は離れ、彼女自身の胸に移動する。
「私の方が大きいじゃん」
彼女は意地の悪さを含んだ声で吐き捨てると、振り返りもせずトイレから出て行った。今のやり取りを見ていたのか、すぐに嫌われ者のハナが近づいてきた。
「ねえ、どうしたの。なにかあったの?」
ハナはいつでも、誰かが他の人と喧嘩して一人になったところに現れ、近づいてくる癖があった。
「なんでもないよ・・・・・・」
私は何かを期待するように私を見るハナを睨んだ。相変わらず身体が大きかった。胸元は大きく成長し、もはや乳房というよりは腹の肉と同質のものになってしまっている。
「うっとうしいから、話し掛けないでくれる?」
私は先程の彼女と同じ口調で言った。
誰が早いか、遅いか、これ・それをするのか、しないのか。これから私はそういった戦いの中に身を置く。血を欠いた、世界を動かすことのない戦いの中に身を置く。でも、これでいい。これでいい。自らに言い聞かせるように、体の奥に染み込むまで何度も心の中で呟いた。
松田が白本を殴る強烈な光景がまだこの目に焼き付いている。私と同じ高さにある巨大な夕焼けの中に、あの映画の1シーンのような光景を鮮やかに思い出すことが出来る。
これでいい。必要なら、私もあの子のように他の女子を見下そう。唇を赤く染めよう、幻想の中の喧嘩が激しくなるのと裏腹に現実の喧嘩を止めに行って涙を流そう。違和感に耐えよう。違和感とはごく仄かな痛みのことだ。傷の残らない痛みのことだ。白本のような激しい痛みは決して訪れない。鈍い、靴ずれのような違和感。従兄弟が私の女性器を見るために下着をずらした時の違和感。私は傷跡なく死ぬ。その代わり、あの日の天に登る悦びは私のものだ。
最終学年の中盤になると、曖昧ながら生徒の中にだんだんと違いが出るようになってくる。私立受験をする者と地元の中学に進む者の過ごし方が変わるのだ。私は前者、松田は後者だった。私は放課後に進学塾に通い、松田は地元の野球チームで本格的に野球をやり始めた。こうした生活の変化から、卒業のずっと前から私は別れの気配を感じていた。
進学塾の中には学校とは別の文化があった。そこは文化人たちが寄せ集まったような場だった。四六時中一緒にいるわけではないから、純粋な相手への興味のみで友人関係が維持される。癒着と愛想笑いだらけの小学校の人間関係とは違う。
私は自意識を苦しめたスーパーヒーローズを長年後ろめたい過去の恋人のように考えていた。ほとんどの友人がその存在を知らなかった。それは私にとっては自身の悪の種のように思えたから、誰にも知られていないことを密かに感謝していた。
月経を機に性別の本格的な移行が起きていた。明るい子供時代を彩る健康的な記憶に混じり、松田への憧れが増すのと共に、何度もスーパーヒーローズのあの白く発光するテレビ画面が頭をよぎった。
しかし、スーパーヒーローズが一般的に若い十代にとってどれほど童心を刺激される作品であるかも理解しつつあり、それに関心を持っていること自体が恥だと感じる自分がいた。月経が私の感じ方を急に改まって規定してしまったかのようだった。
「スーパーヒーローズっていうアメリカのアニメはすごく面白いんだよ」
不意を突かれて塾の仲間にこんなことを言われた時、私は頰が熱くなるのを感じた。秘密を急に丸裸にされたような気分だった。
「スーパーヒーローズって、あのムキムキの男が殴り合うやつでしょう。私はそんなものを見たりしないよ。汗だらけだし、暴力ばっかりだし、気持ち悪いじゃない」
成長するにつれて、内面とかけ離れた発言を本当らしく言うのが上達していった。私はスーパーヒーローズがいかに低俗かといった弁論をしながら、罪を隠す犯罪者のような気持ちだった。
決してスーパーヒーローズを見たりなどしない。肉体を駆使する彼らの冒険の目的に興味を持ったりもしない。女だから。
・・・・・・これからは紛うことなき女になる。
そんな決意が湧いてきた。まだ馴染まないその感覚を、すぐに自分のものにしてみせる。子供にありがちな極端さと潔癖さで私は密かに誓った。
受験がいよいよ近づいてくると、進学塾では来たる世紀末がにわかに話題に上がった。ある男子が、2000年を迎えればノストラダムスの予言が当たり、私たちはみんな破滅をするのだと尤もらしく吹聴し、他の生徒にもその考えが一気に伝染していったのだ。
破滅を恐怖しながら待ち望む矛盾した心理、受験勉強からの逃亡を望む心境が一緒くたになって、私たちは熱心に『最後の時』の過ごし方を議論した。家族や友人と過ごすという子もいれば、富士山の頂点で最期の時を迎えたいというような強者もいた。
私は他の子どもと同じように、世紀末を楽しみにしていた。
『では、もう生きていかなくて良い』
これは不思議に心躍る考えだった。
しかし、その次の瞬間には大人になれずに人生が終わるやりきれなさが襲ってきたりする。純粋に怖くもあった。死ぬ瞬間は怖いだろうか、どれほど痛いだろうか。
世紀末への恐怖と興奮は、シーソーのように片方に重心が傾けばもう片方が薄くなりながら、何度も心の中に上がってきた。恐怖が強い時は松田のことを思った。松田なら世紀末が来て死ぬ瞬間も堂々と、いつものようにふてぶてしくいるのではないか。
当時に流行っていた映画の影響か、ゾンビが襲いに来る映像が頭にくっきりと浮かんだ。濁った眼をした恐ろしいゾンビに、みんなが体を食いちぎられてしまう。ゾンビが、吸血鬼が、黒い恐ろしい裂け目からやって来る。私たちは今、どんなに努力をしたって、みんな死んでしまう。
・・・・・・しかし、松田とは離れずにすむ。
さんざん考えを巡らせた後、落ち着いた結論は幼いロマンチシズムだった。
『死んだっていい。世界が滅亡すれば、松田と別々の中学に行かなくて済む』
物事の重さを測る量りをまだ私は手に入れていなかった。死が分かつ永遠の別れよりも、別々の中学へ行く別れが重いものと感じていた。
世紀末が来たって、何かの間違いで松田だけ死なないかもしれない。彼だけは生き残り、私のことをずっと憶えていてくれるかもしれない。そのように考えると恐怖は少しずつ薄れていき、シーソーは徐々に興奮の方に傾き、やがて、人類の滅亡を楽しみに待つようになった。
しかし、1999年12月31日が終わっても、一日経っても、一週間経っても、世界は一向に滅亡する気配を見せなかった。予言は当たらなかった。それは、私と松田は予定通り離れることを意味していた。
卒業の日には全く別れの実感が湧かなかった。バイバイと先生やクラスメイトを抱きしめて回りながら、彼らと離れるなど現実とは思えなかった。きっと何かの嘘に違いないとすら思った。
寂しさを現実のものとして感じたのは、私が卒業後五日ほど経って、何気なく学校に立ち寄り校門の外から校庭を見に来た時だ。桜はまだ咲いていなかった。この白い校庭の中に、私は松田を全て置いてきてしまったと感じた。私の手元に残ったものはただ一つだった。
『元気でな』
彼らしいぶっきらぼうな文字で、書かれた卒業アルバムの寄せ書きコーナー。それが私に残された全てだった。すでにその文字の上を何度人差し指でなぞったか知れない。
私は校庭を眺めながら、低学年であろう生徒が駆ける時に足元から立つ白い砂埃を見た。それがまとも口に入った時の生々しく懐かしい砂の感触を思い出しながら、私はもう一度だけ、ここで松田と真剣勝負を出来たらいいのにと思った。呆れるほど走った校庭で、松田と本気のかけっこをしたいと思った。
私よりずっと足の速い松田は、追いついて、私の肩を掴んで引きずり下ろし、そこで私の力を奪う。もう来ないであろう世紀末のゾンビのように噛みつく。私は逞しい肩に押し潰されそうになり、ぼろぼろと泣きながら、あの輝かしかった未来を諦める。
私は強い松田に言いたかった。スーパーヒーローたちを殺してくれ。金髪の主人公を殺してくれ。パンダを操る中国人のキャラクターを殺してくれ。赤い肌の怪人を殺してくれ。皆殺しにしてくれ、君の腕で。あの美しい肉体を持つ者を全部。
そして小さな夢の全てが皆殺しにされた後、残された私は、愛を追いかけよう。もうここで出来る楽しいことは、それしかないようだから。血は不本意に私の股間から流れ出て、私は殴られても、血が出なくなってしまった。もう、駄目になってしまった。だから、今度は女になって、愛を見つける・・・・・・。
家に帰ると、耐えきれなくなって卒業アルバムや今までの写真引っ張り出して眺めた。リビングで眺めていると、家事をやっていた母がそれに気が付いて、近くに寄って来た。
「卒業してから全然学校のこと話さなかったけど、やっぱり少しは寂しくなってきた?」
優しい声。
「うん」
私は松田が言うように、ぶっきらぼうな、突き放すような言い方で答えた。母は気にした様子もなく私の手元の写真を覗き込むと、松田の顔を指さした。
「これ、松田くんだ。学校で一番やんちゃな子だったね」
松田はいつも周りを威嚇するように睨んでいた。しかし卒業写真の中、茶色の睫毛に縁取られた目の中には何の敵意も浮かんではいなかった。
「嫌な男だったよ」
私は切り上げるように言いながら、次のページをめくる。教室、プール、野球部の写真、課外学習で行った軽井沢などの美しい写真が次々と目に飛び込む。給食の独特の匂い、放課後に流れてくる放送部の音楽、教室に響くけたたましい笑い声を昨日のことのように感じる。私は目だけ写真のうえに残しながら、魂をはるか遠くに飛ばした。
あの教室の中、彼を見つめた日々のことを思い出した。その記憶を目に浮かべたまま、私は母にも聞こえない程の声で呟いた。ずっと愛していたと。
・・・・・・しかし、彼を愛するのは私が思っていたような限られた者の特権ではなかったことを、卒業後しばらくしてから知ることになった。皆が上手く隠していただけで、かなりの数の女子が密かに松田のことを好きだったのだと聞いた。
私は心底驚いた。女子は皆、彼の悪口を言いながら、私と同じように密かに彼に惹かれていたということだ。
『彼を好きなのは私だけだと思っていたのに。私は自分で思っていたよりも、ずっと平凡な女だったのだ』
その事実は初めに私をひどく傷つけ、その後は生ぬるい安堵をもたらした。良いではないか。むしろそうして平凡なのは今後の女としての人生の追い風になるかもしれない。
私は卒業した後に一度、松田をスケッチに描いてみようとした。図工の授業でドーナツ型の瘤のある大きな木を描いた時、見たものを正確に写しとれた喜びに満たされたのを思い出したのだ。
しかし、松田の影は、スケッチブックの上で曖昧だった。彼の特徴を掴めず、とってつけたような少女漫画風のハンサムな男を何枚か描いた後、苛立って破り捨ててしまった。あれほど毎日話していた彼は離れた瞬間から色あせ、ついには影さえ取り戻せないものになっていた。
私はその日、思い立ってあの茶色のマンションを実際に上ってみようという気になった。そう決意した時から急に晴れやかな気分になり軽い口笛が口をついて出た。私はほとんどベッドに横たえるだけだった体を勢いだけで持ち上げた。
Tシャツとジーンズに着替えただけで息が切れる痩せこけた手足を何とか動かし、電気のついていない部屋を後にする。
例のマンションにはすぐに着いた。住人に不審に思われては計画が丸つぶれだ。私はマンションの周囲に人影がないことをさり気ない仕草で確認した後、そこの住民であるかのように堂々と中へ入っていった。
エレベーターは使わなかった。階段を登って苦労すればそれだけ行くのにも価値が出るだろうという願掛けめいた考えだった。最後にまともに運動したのがいつだったかも思い出せない脳の指令を受け、最上階へと一段一段登っていく。三階と四階を繋ぐ階段の踊り場で微動だにしない緑のカメムシめいた虫を見つけ、何の気なしにそれを蹴ると、それは想像よりも軽い感触で飛んで行った。それはすでに絶命しているようだった。
たっぷり十分ほどかけて、私はマンションの最も高い場所に着いた。空とマンションを隔てる白い柵は大体私の腰ぐらいの高さだ。
冷たい鉄の柵を両手でまざまざと掴む。恐る恐る下を覗き込むと、流石の高さに太ももの辺りに痺れによく似た震えが広がって、そこから力が吸い取られるような錯覚に襲われた。
隣のスーパーの大型看板の上辺とほぼ同じ高さで、視界を遮るものはほとんど無く、下は硬そうな黒いコンクリートだった。当日ここまで来たら、後はもう身を投げるだけだ。それで死ねる。
完璧な高さだった。足がすくんで飛ぶ気力も萎えてしまうほど篦棒に高くもなく、飛び降りて無事でいられるほど低くもない。万一即死が出来なかったとしても、絶命をしくじる可能性はまずないだろう。唯一気になることと言えば、飛び降りる軌道とは少し外れたところに、もろい屋根のようなものがあることだ。あそこに当たったら衝撃が緩和されてしまうだろう。本番では気を付ける必要が有りそうだ。
緑の匂いを含んだ風が頬を撫でていく。それに揺られて軽く眩暈がした。地面に当たった時に聞くであろう骨が砕ける音を想像して怯えたり、死に場所のセッティングを完成出来た達成感を噛みしめたりしながら、しばらくその場に留まっていた。
ふと、遠くの方からお囃子のような音が耳に入った。首を傾げる。始めは気のせいかと思うほどに微かだったその音は、こちらに向かって徐々に近づいてきているようだった。
ココホレ、ココホレ
ココホレ、ワンワン
低い声で繰り返される奇異な響きに思わず軽く吹き出した。何の音だろうか、私はその音源を確かめるべく柵から身を乗り出す。すると丁度真下で、ココホレ、ココホレ、ワンワンと激しいお囃子を繰り返し歌いながら、大神輿の集団が前の道を通っていくのが見えた。
こんなもの先程まではいなかったのにどうしたことだろう。そう思った時、急にその神輿が巨大な炎で燃え上がった。
これほど高い所からでも、その炎を受けて瞳が熱を感じているのが分かった。燃える神輿をふんどし姿の男たちが運んでいる。ある者は近くで踊り狂い、ある者は必死で神輿を担ぎ、炎の周りを盛り立てている。
しばらくその光景の異様さに呆然としていたが、我に返った。何のお祭りだか分からないが、あんなに大きな炎を無防備に運んでいたら火事になってしまう。携帯電話を取り出し、震える指で救急を押していた。
『どうされましたか?』
「多分、火事です・・・・・・」
私は曖昧に言いながら、神輿の集団をもう一度確認しようと下を覗く。
「え?」
息が止まった。ほんの数秒目を離した間に炎を積んだ神輿の集団は跡形もなく消えていた。
『住所はどこですか?』
右を見て、次に左を見る。いくらなんでもこんなに速くどこかに移動できる筈がない。では、あの神輿は? あの炎は・・・?
『・・・・・・もしもし、もしもし? 聞こえていますか?』
声が聞こえるが、耳から入る傍から抜け落ちていく。
私は縫い付けられたように神輿のあった場所から視線を剥がせないまま、やっとのことで重い右手で電話を切る。
そもそも、アメリカに御輿がある筈がないではないか。なぜそれにもっと早く気が付かなかったのだろう。
背中の全てが抜け落ちてしまったかのような心もとない感覚がした。私は階段に向かった。一段、二段とよろよろ階段を下る度、確信が強まる。
あのアメリカ人の男の子の名前を、思い出せるだろうか。
背中の後ろでそんな疑問が浮かんでいることに気が付いてしまったら、もう知らぬふりは出来なかった。体中から力が抜けていく。一歩一歩、踏みしめるようにして下りないと、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
フ、フー。音の感じはすぐ思い出せた。長い名前ではない。フ、フー、というような二節の音。
確信がない。彼の名前は確かにどこかにあるのに、霧の中にあるように遠く、掴むことが出来ない。
ぬるい涙がぼとぼと数滴零れ落ちた。深呼吸をすると息が震えている。ざるの網目のように大切なものが簡単に抜け落ちていく。その内、彼がこの世に存在していたことをすら思い出さなくなるかもしれない。私が愛した彼は本当にいなくなってしまうかもしれない。いや、ひょっとしてはじめからあんな少年はいなかったのか。
恐ろしさを振り切るように、階段を一気に駆け下りて行った。長いことまともに外出していなかった足の骨が軋み、酷使に悲鳴をあげる。
涙が滝のように頬を濡らし、もはやこの生暖かい液体が自分の涙だとも感じられない。何か不気味な液体だ。これは目薬を大量に点すか何かして零れたのだと信じることにした。悲しいことは何もない。何もない。たとえあったとしても、すぐに無くなる。すぐに無くなる。
「あ」
ジョ、ニー、だ。キャッチボールの球のように、ごく緩やかな軌道を描いて記憶が戻ってきた。
良かった。まだ、思い出せた。
今度は安堵の涙が出た。
お囃子の声がまた遠くから響いてくる。私を追いかけるように、少しずつ声は大きくなっていった。
ココホレ、ココホレ。
ココホレ、ワンワン・・・・・・。
(第04回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『スーパーヒーローズ』は12月以降は毎月5日のアップです。
■ 金魚屋の本 ■