Interview:安井浩司
安井浩司:昭和11年(1936年)秋田県生まれ、能代高校卒。高校生の時、青森高校の寺山修司、京武久美編集の10代の俳句同人誌「牧羊神」に参加。昭和34年(1959年)、永田耕衣主宰の結社誌「琴座」に同人参加。昭和39年(1964年)より高柳重信主宰の「俳句評論」同人。昭和48年(1968年)、加藤郁乎、大岡頌司らと俳句同人誌「ユニコーン」を創刊。俳壇と距離を取り、徹頭徹尾、俳句を〝文学〟として考え、その可能性を探究し続けている希有な俳句作家。作品集に『増補 安井浩司全句集』、全評論集『安井浩司俳句評林全集』がある。平成二十九年(二〇一七年)に十七冊目の句集『烏律律』を刊行した。
安井浩司氏の俳句にはいくつも謎がある。その最も目立つ謎に安井氏の多作をあげることができる。安井俳句は難解で知られるが苦労して俳句を詠んでおられる気配がない。句集収録句の数も既刊句集の数も伝統俳句の俳人たちよりも多いだろう。八十三歳におなりになった今も旺盛に俳句を詠んでおられる。安井氏の俳句の詠みぶりには無理がないのである。今回はそんな安井氏の俳句創作の秘密を直截にうかがった。
文学金魚 詩部門アドバイザー 鶴山裕司 (インタビュアー)
■『烏律律』以降■
鶴山 二年ぶりにお会いしますが、『烏律律』以降も俳句は量産されていますよね。
安井 退屈ですから暇つぶしに書いています。だけどもう年で頭がちょっと弱ってきましたから、くだらない文字でも辞書で引かなきゃ書けなくなっているんですよ(笑)。
鶴山 それは普通じゃないですか。僕はワープロで書くようになってから、多分安井さんよりも手で文字が書けなくなっていると思います。難しい漢字はほぼワープロとかで変換して、お手本を見ないと書けないですね(笑)。
安井 簡単な漢字が思い出せないなんて、二年ぐらい前まではなかったんですけどね。ただ散文は書かなくなりましたが俳句は書いています。散文は書く気もないと言った方がいいかな。ただこれで詩を書かなくなると、自分の生命がなくなってしまうのと同じですからね。耕衣先生は最晩年まで散文も俳句も書いておられましたが。
鶴山 耕衣さんは「らしい」終わり方でしたね。崩れたような、崩れなかったような。衰弱も絵になっていました。
安井 最後まで自分の俳句を信じていたんですよ。
鶴山 耕衣さんとはどのくらいの頻度でお会いになっていましたか。
安井 耕衣先生の晩年まで、わたしは若い頃と同じくらいの頻度では神戸まで足を運びました。
鶴山 僕は震災のだいぶ前にお会いしました。大腿骨を骨折されてから二、三年後だったかな。正座は辛いとおっしゃっていましたが、それ以外はとてもお元気でした。
安井 今のわたしの心の支えは、師匠の耕衣先生だけなんです。師匠と同じように最後まで詩を書きたいと思います。
鶴山 結社誌「琴座」は耕衣さんがお亡くなりになる直前まで出ていました。さすがに最後の方は隔月刊とかになっていましたけど。耕衣さんが心の支えだというのはよくわかります。安井さんは師系で言うと永田耕衣、高柳重信系ということになりますが、重信さんに晩年はなかったですね。それに作品面でも重信系の前衛俳句は継承すべきものが少ないように思います。前衛俳句は結局は重信の「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」に尽きるんじゃないでしょうか。
安井 作品として重信さんの前衛俳句を受け継ぐんなら、壊すことも考えに入れないとね。重信さんが作った形式などを、有り難く継承するだけじゃダメです。
鶴山 重信の多行俳句は伝統俳句の破壊でありアンチテーゼだったわけですが、それをそのまま受け継ぐと前衛でなくなってしまう。
安井 自分と闘って、自分自身をやっつけるようなやり方が必要なんだな。
鶴山 重信門の俊英に加藤郁乎さんがいますが、郁乎さんは潔いと言えば潔かった。結局『えくとぷらすま』で前衛俳句に見切りをつけて江戸俳句に回帰した。郁乎さんはたくさん散文を書きましたが論の立つ人じゃなかった。でもとても勘のいい人だった。
安井 『えくとぷらすま』のあたりで郁乎さんは自分の中で、前衛俳句についての結論のようなものを持ってしまったのかもしれません。
鶴山 そうとしか思えないですね。中途半端に重信の前衛俳句を継承するよりも、郁乎さんの江戸俳句への回帰の方が筋が通っていたと思います。俳壇での前衛の試みは河東碧梧桐の新傾向俳句(無季無韻俳句)あたりから始まるわけですが、結局は伝統俳句と同じように主宰がいる結社を作って特定の俳風を継承していくことになるわけでしょう。前衛俳句も伝統俳句もやっていることは変わらない。
安井 結社を作り、主宰で先生になって子分を増やしていくんです(笑)。
鶴山 安井さんは弟子を取って結社などを作るつもりはぜんぜんないんですか。
安井 ありません。わたしはそういう俳句の世界での社長にはなりません(笑)。俳句の世界はあまり代わり映えしませんが、今、現代詩とかはどうなっているんですか。
■自選句について■
鶴山 現代詩はもう終わりましたよ。戦後詩は鮎川信夫、田村隆一らの「荒地」派から始まって、谷川雁、堀川正美、黒田喜夫の一九五〇年代から六〇年代で一つの山を超えました。六〇年代から長くて八〇年代初頭くらいまでは入澤康夫、岩成達也、飯島耕一、大岡信、吉岡実らの現代詩の時代があったわけです。当時自由詩を現代詩と呼ぶのはよかったんだけど、今になってみると現代詩と総称される前衛グループがあったと考えた方がいいですね。シュルレアリスム、モダニズム、戦後詩グループがあったのと同じです。これからも自由詩を、現代書かれている詩という意味で便宜上現代詩と呼ぶのはいっこうにかまいませんが、少なくとも詩人たちは現代詩は過去の文学動向だという認識を持たなければなりません。一方で明治維新以降、自由詩は一貫して日本文学における前衛で、これが自由詩のアイデンティティになっていたわけです。しかし今の詩人たちは現代詩以降の前衛文学のヴィジョンを見出せていない。自由詩は元気がないわけですが、アイデンティティを見失ったジャンルが衰退してゆくのは当然です。
安井 わたしは俳句というジャンルに携わっていたけれど、現代詩の詩人たちにはいろんなことを教えてもらいました。見事な作品世界だったと思います。現代詩は俳句や短歌だけでなく、小説や批評といった散文の世界にも影響を与えたでしょう。文学全般に大きな影響を与えた重要な文学動向だったと思います。
鶴山 ただ現代詩は一種の革命であって、革命であるからにはそれが二回、三回と続けて起こるわけがない。一回革命が起こって極端なことをやったら元に戻ってこなきゃならない。戻ってきた時に、何かが決定的に変わっていればいいというのが革命の意義だと思います。俳句の世界では高柳重信の革命があって、加藤郁乎は見事に江戸俳句に戻ってきたわけです。安井さんも前衛俳句の俳人だったわけですが、伝統俳句に戻ってきたとは言えませんね。
安井 それはもしかすると、わたしが最初から前衛ではなかったからなのかもしれない。
鶴山 重信系の、現代詩と同様に新しい表現を模索する前衛ではなかったという意味ではそうだと思います。
安井 わたしは前衛俳句よりも、もっと狂った世界にいるんでしょうね(笑)。
安井浩司句集『烏律律(うりつりつ)』
発行 平成二十九年(二〇一七年)六月五日
定価 三千九百円(税抜)
発行所 沖積舎
鶴山 安井さんの俳句を読み解くのに、みんな苦労しているのは確かです(笑)。ただ難しく考えてもしょうがない。僕は安井俳句を読み解くのに苦労するのは、実はちゃんと読めていないからだというのが一番筋が通った説明だと思うんです。なぜかと言うと安井さんは多作なんです。師の耕衣さんに迫るか、それ以上の冊数の句集を出しておられる。たくさん作品が書けるということは、作家は作品を生み出すのにそんなに苦労していないことを意味します。もちろん作家は誰だって作品を作るのに苦労しています。そういうことを言っているんじゃなくて、安井さんは、例えば富澤赤黄男や高屋窓秋など、どんなに頑張っても寡作になってしまう作家とは違う。安井さんは俳句を生み出すポイントを掴んでいるからたくさん句を詠めるんだと思います。そうすると、安井さんの句を読むのに苦労している読者は、安井さんが俳句で掴んでいるポイントを捉えていないだけなのかもしれない。
安井 わたしはちょっと変わっているんでしょうね。安井浩司が持っている実存が、ちょっと異様な性質のものなのかもしれません。でもそれは大切にしなくちゃならない。
鶴山 変わっているといえば変わっていますね(笑)。安井さんが師事した当時の重信の勢いは凄かったでしょう。実際重信に師事した俳人のほとんどが多行系の俳句を書くようになりました。でも安井さんはずっと一行俳句で押し通した。重信から受けた影響は最小限だったわけで、その点からしても安井さんは十分特異で異質だったと思います。
安井 重信さんに学ばせてもらうつもりで俳句評論に参加したわけですが、重信が持っていた根源的なものを、わたしはどこかで否定していた面があると思います。もちろん重信さんは素晴らしいですが、この年になって来し方を振り返ってみて、わたしは無意識も含めて誰に一番反応していたのかと考えてみると、二人の俳人の名前が頭に浮かびます。一人は永田耕衣先生です。耕衣先生に出会ったことは本当に幸運だったと思います。もう一人は西東三鬼です。三鬼俳句には秘密があって、それはシュルレアリスムだと思います。三鬼の俳句へのシュルレアリスムの受け入れ方に、わたしはどうもかなり影響を受けているんだな。年を取ってみて初めてそんなことに気づきました。
鶴山 それは意外ですね。安井さんは不思議で意外なことだらけなのかな(笑)。安井俳句の不思議さを単純にというか素直に考えてゆくと、自選俳句の選び方の意外さをあげることができます。例えば『安井浩司「俳句と書」展』冒頭に「安井浩司自選一三〇句」が掲載されています。「渚で鳴る巻貝有機質は死して」が代表句に選ばれるのは当たり前です。ただ俳人や一般読者は安井俳句を代表する句として、「ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき」とか「万物は去りゆけどまた青物屋」などを選びたがる。俳句らしい端正な句です。でも安井さんが本当に自信のある句はそんな句じゃないでしょう。
安井 そうですね(笑)。
鶴山 「死鼠を常のまひるへ抛りけり」でもまだまだという感じでしょう。どんな句が、安井さんにとって快心作で納得できる句なんでしょうか。
安井 それはなかなか難しい質問ですね(笑)。「旅人よみえたる二階の灰かぐら」とか「大鶫ふところの毬の中るべし」、「旅人へ告ぐたんすにスルメの頭」といった句は好きですね。
鶴山 やっぱり墨書で書いておられる句はお好きなんですね。
安井 そうなりますね(笑)。
鶴山 「法華寺の空とぶ蛇の眇かな」とかはいい出来でしょう。
安井 ええ大好きな句です。でもこういった句を誉めてくれる人はなかなかいません。
■絶対言語について■
鶴山 安井さんご自身が好きな句と、俳人が評価する句は違います。俳人は基本的に「菜の花や月は東に日は西に」の感覚で俳句を読みます。つまり端正で、現実に即した評釈が可能な句を好む。だから安井さんの句を読むと、いったいこれはなんなんだということになってしまう。もちろん安井さんは伝統俳句的な端正な句を嫌っておられるわけではない。だけど俳句生成システムの何かが根本的に違う。安井さんが前におっしゃっていて面白いなと思ったのは、「五七五の定型は崩れてもいいんだ。だけど季語がなくなるのは困る。季語はあった方がいいんじゃないか」いうことです。そんな考え方と安井さんの句の不思議さは、どこかで関係しているんじゃないでしょうか。
安井 わたしはもう散文を書かなくなって、俳句に対する考えは句集の後記でしか発表しなくなりましたが、句集『汝と我』(昭和六十三年[一九八八年])で、「はや絶対言語への信仰が始まっていることを隠すわけにはいかない」と書いたことがあります。わたしに言わせれば、季語は季語という名を借りた絶対言語なんです。季語は単に季節を表現する言葉じゃなくて、絶対言語だということです。そのレベルに達して初めて、季語は詩の言語として使えるようになるんだとわたしは考えています。確かに従来通りの方法で季語を使っても、季語は作家と作品を救済してくれます。季語があれば俳句になるのは本当のことです。だけどわたしは季語は絶対言語という高みに達して初めて、一句の俳句作品を本質的に救済してくれると考えているんです。句の中で絶対となるような言語でなければ俳句は救済されない。季語は絶対言語に一番近いから、俳人たちはずっと季語にすがって句を作り続けて来たんだろうと思います。わたしはそれを一歩先に進めただけですね。まあ。季語は絶対言語なんだと言っちゃうと、他の人にはわかりにくくて混乱を起こしてしまうかもしれませんが(笑)。
鶴山 おっしゃっていることはとてもよくわかります。そんなに高いレベルの話でなくても、俳人が俳句には季語が絶対に必要だと言うなら、季語を記号としてではなく肉体感覚で捉えなければ意味がないでしょう。それを推し進めてゆけば季語は絶対言語ということになるんじゃないでしょうか。
安井 単に俳句に季語を入れたんじゃ駄目なんです。根源的なものとして季語を捉えなければならない。
鶴山 季語を使うということは、世界が丸くなるような感覚ですか。一つの世界が出来上がるというような。
安井 とにかく季語を使うと救われますね。でも下手な使い方をすると季語に叱られることもあります。季語が怒るんです。季語が怒ると怖いんですよ(笑)。歳時記的な季語とわたしの考える絶対言語は違うんです。わたしにとっては絶対言語が季語で俳句の要なので、そういった絶対言語を見つけてゆく、創造してゆくことの方が大事です。絶対言語は従来的な季語を含むんです。
鶴山 「砂あらしエジプト十字となる人よ」(『空なる芭蕉』平成二十二年[二〇一〇年])は、歳時記で探すと「どれが季語ですか?」ということになりますね。だけど「砂あらし」が一つの季語、絶対言語であればいいわけでしょう。
安井 そうです。この句では「砂あらし」でなければ駄目なんです。ほかの言葉で書くと俳句に怒られちゃう(笑)。
鶴山 「天類や海に帰れば月日貝」(『空なる芭蕉』)の場合は、「月日貝」が絶対言語=季語に当たるのでしょうか。
安井 そうですね。絶対言語は歳時記の季ではないんです。安井浩司が生み出した、あるいはわたしが俳句と戦い喧嘩して生まれた、極めて肉体的な言葉が絶対言語なんです。
鶴山 俳句を書く時は、やはり一つの言葉を見つけてゆくことから始まるんでしょうか。
安井 言葉を呼ぶ、探してゆくしか方法はないですね。自由詩でも散文的な詩がありますよね。いいな、すごいなとは思いますが、自分の句では散文的な作品は書かない、書けないんです。散文的な作品は、どこか自分の身体、肉体とは合わないような気がします。散文的ではなく、詩としか言いようのない作品を書きたいと思います。
鶴山 「安井浩司自選一三〇句」をパラパラ見ていますと、『句篇』(平成十五年[二〇〇三年])のあたりは比較的端正な句が多いですね。「万物は去りゆけどまた青物屋」がありますし、「厠から天地創造ひくく見ゆ」などは自由詩の詩人が好きそうな句です。
安井 句誌「俳句あるふぁ増刊」の「いのちの俳句」(毎日新聞出版)で、俳人の大関靖博さんが「誰よりも永く生きんと蛇焼くや」(『宇宙開』平成二十六年[二〇一四年])を取り上げてくださいました。大関さんの解説によると、ギリシャの古代でも長生のために蛇を焼いて食べる風習があったようです。自分が作った句が、偶然かもしれませんがそういった古代的な精神に触れていたことがわかると「やった!」と思いますね(笑)。
鶴山 でも「誰よりも永く生きんと蛇焼くや」とか「ぶらんこに乗るや蛇を常食し」(『阿父学』昭和四十九年[一九七四年])を評釈しようとすると、なかなか難しいことになります(笑)。評釈は、俳人がいつ、どこで、何をして、何を感じたのかを、完全に説明する平明解釈のことですから。
安井 そうなんだけど、俳句を長いこと書いていると読者の力を感じることも多いわけですよ。いつも作者の方が読者より上ということはなくって、読者が意外な読み方や解釈をしてくれることもある。
鶴山 読者が作家の無意識まで読み解いてくれることがあるわけですね。安井さんの絶対言語はそれがないと俳句にならないわけですから、俳句の中で絶対で動かしがたい言葉ということになりますね。「山や川されど原詩の鱒いずこ」(『四大にあらず』平成十年[一九九八年])はちょっとストレートに絶対言語を詠ってしまった気配がありますが、「冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ」(同)などは〝決まった〟という感じす。この句で絶対言語を探すと、「冬青空」ではなく「総序の鷹」ということになるでしょうか。
安井 「総序の鷹」に絶対性のようなものを籠めたような記憶があります(笑)。
鶴山 普通に考えると「冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ」の季語は「冬」でいいんだけど、絶対言語の観点から言うと「総序の鷹」になるわけですね。
安井 そうです。
『安井浩司「俳句と書」展』
発行 平成二十四年(二〇一二年)
発行所 金魚屋プレス日本版
鶴山 季語は循環的世界観の表象ですから、原理的に考えれば季語は循環的世界観のメタファーでしかないということになります。だから安井俳句では無季でも循環的世界観=絶対言語が成立する。逆に言うと、俳人が季語に従属してしまっていると絶対言語には到達できないですね。
安井 そう。わたしは季語と闘っているわけだから(笑)。
鶴山 基本的に俳人さんは、死ぬと歳時記に入るわけですよね。それが一種の共同墓地になる。個性的な人生を送り個性的な句集を編んだつもりでも、亡くなるとそれが解体されて歳時記に数句が収録されるようになります。ある意味俳人というのは、俳句という大きな器、大きな物語に滅私奉公しているとも言えるわけです。でも安井さんはそういう俳人の道行きがイヤなんですよね。安井浩司という作品集でありたいと思っておられる。
安井 現代詩の詩人の先輩たちから、詩とは何かということを叩き込まれるように教えられましたから、どうしても普通の俳人が考えているような作品概念とわたしの作品概念は違うんだな。普通の俳句的作品概念では、どうしても満足できないんです。
■俳句のイメージについて■
鶴山 ただ俳人がみんな安井さんみたいになっちゃったら困ることもあるでしょう。歳時記に即して五七五に季語を絶対形式だと思って、淡々と詩のような詩でないような俳句を詠み続けている俳人たちがいるから俳壇は活気を保っている面がある(笑)。
安井 でも最近の若い俳人の中には、安井浩司的な俳句を詠む人が増えていますよ。
鶴山 そうなんですが、安井俳句は正しく理解しないと一過性の新し味で終わってしまいます。安井俳句の一番いい入門方法は、難しく難しく読むんじゃなく、楽しく読むことだと僕は思います。面白い表現だなと思い、それが俳句になっていることに驚くのが一番じゃないでしょうか。「化仏趺坐丸餅一個の残雪に」(『烏律律』平成二十九年[二〇一七年])などはとてもいい句です。「趺坐」は「丸餅」のイメージを呼びますし、「化仏」は「残雪」とどこかで繋がっている。それでいて、ある一定の意味にもイメージにも完全に還元できない謎めいた句です。安井さんが詩は非還元的な言語表現だと考えておられることがよくわかる句です。このくらい複雑で、いくら読んでも読み解けないような句を詠まなければ、ずっと俳句を書き続けていても退屈なんじゃないでしょうか。安井さんが句をお作りになるときは、音よりイメージが先になりますか。俳人さんたちは切れ字とかにうるさいですが。
安井 俳人はどうしても音に引っ張られてゆくんだな。だけどわたしはやはりイメージを重視します。わたしが東北人だということも関係しているのかもしれませんね。秋田からは土方巽という異形の舞踏家が出たでしょう。土方が踊っている姿、そのイメージに強く惹かれるところがあります。またこれはなんとなくの感覚ですが、関西の俳句と東北の俳句も違うように思います。親友の河原枇杷男の句を読んでも、どこか軽いなぁという気がしてしまう。それに比べると東北の、俳句を含めた芸術は泥臭くて質実な感じがします。
鶴山 安井俳句は意味でだけ読み解こうとしてはならない。まず句のイメージを捉え、それが喚起する意味を句全体の解釈として拡げてゆくのがいいと思います。安井さんの句は、目に見えるような形で具体的イメージが積み上がっている場合が多いですから。確かに突飛といえば突飛なイメージも多いわけですが、定型を否定しておらず季語も否定していないことは忘れてならないと思います。読み方の幅を拡げれば、新たな俳句経験としてスリリングに読めます。
安井 周囲に多行俳句を書く仲間が多いせいもあって、わたしは多行についてはあまり発言してきませんでした。でも心の中では、俳句を多行で書く必然性をあまり強く支持できないんです。俳句は一行でいいと思います。多行俳句の作家が、とても苦労して作品を書いているのはよくわかっています。だけど苦労して書くことが、必ずしも俳句作品の良さに繋がるわけではないですからね。
鶴山 多行俳句の作家に関しては、作品数が少ないことが決定的な問題だと思います。それは多行という俳句の書き方が、どこか決定的に間違っているからだと思います。高柳重信は最晩年に山川蟬夫名義で一行俳句を書いて伝統俳句に戻ろうとしたでしょう。重信系の多行俳句作家たちは重信の山川蟬夫の仕事をほぼまったく無視していますがあれはよくない。前に安井さんにおうかがいしたら、重信は一行俳句に戻っても失敗しただろうとおっしゃっていましたが、そうだとしても重信は多行に片足をかけながら伝統俳句も平行して実践しただろうと思います。安井さんが飛騨高山に転居しておられた時に、俳句が書けないで苦しんでいた重信がインスピレーションを求めてやって来たんですよね。で、「飛騨」連作が生まれた。作家は常に作品を書いていたいものです。安井さんは俳壇では冷や飯食いであまりいい目にあっていませんが、ほかの俳人より圧倒的に幸せなのは、バリバリ作品を書けることですね。創作方法に無理がない。
安井 物書きは物を書かなきゃ駄目なんです。書くことでしか詩は生まれないんですから。作家にとって作品を書くことが生きていることの証明です。
(2019/09/04 了)
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