故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
次の朝、僕は冷たいコーヒーを飲みマドレーヌを食べながら、実は父が生きていたことを思い出し、今日という再会の日に備えた。「パパ、借金が重荷だからって、死んだふりまでするのはやり過ぎじゃない?」という台詞を舌の上で転がすことに抵抗を感じないほど、僕は父のことを知らない。もう人生の半分以上、僕と父は離れ離れだ。
荷物をまとめ、居間の椅子で細かく頭をふるわせている祖母と何度か控えめな言葉を交わしているうちに昼食の時間になり、カルメンとハイメが戻った。四人で車に乗り、町の中心の広場からすこし外れたところにあるレストランまで向かった。
天井の高い、現代的な内装の店で、よく手入れされた白髪を軽やかにまとめた女主人が、気取った作り笑いで迎えた。ラウラたち三人はすでに席に着いていた。祖母を筆頭にカルメン、ハイメ、僕が壁側に坐り、通路側のパブロ叔父さん、ロサ叔母さん、ラウラと向き合った。ホアンは抜きだ。
食事を選んでしまうと、ラウラは手持ち無沙汰になった。というよりも、できるだけカルメンのそばにいたくなかったのだ。
「煙草を喫いに行かない?」とラウラは訊いた。
「いいよ」と僕は答え、席を立った。
「やめなさいよ、もう来るから」
カルメンは声を荒げた。僕たちは無視して外へ出た。
「ああ、本当にいやになっちゃう」
「仕方ないよ」
実際、仕方がないとしか言いようがなかった。僕と違って、ラウラはこの先もしばしばカルメンと顔を合わせなければならない。
それでも煙草を喫ううちに、ラウラは機嫌を直した。
「いい季節ね。春に来たことないでしょ?」
「うん。日本よりいいね」
「そうなの?」
「だって僕は花粉症だから。日本は花粉がひどいんだ」
「そう。―それにしても、あなたスペイン語ができてるじゃない!」
確かに、僕たちの会話はずいぶん自然な往復を見せていた。
「何しろ頭がいいからね」
僕は顳顬をつつき、おどけて見せた。父ならやはりそう答えるだろうと思った。
「本当にそうよ」
「二週間もあれば、すっかり話せるようになるかもしれないよ」
だが僕は今日でスペインを離れる。
店に戻ると、間もなく食事が運ばれてきた。前菜はみんな同じで、何やら海産物を使った揚げ物だった。
「シュロンプよ」とカルメンが得意げに説明した。
「ああ、シュリンプですね」と僕はもっと得意げに納得した。ロサ叔母さんとラウラは顔を見合わせて、意地悪な微笑を浮べた。
次にはそれぞれ頼んだ品が運ばれてきた。僕の皿には付け合わせにサーモンのパテとクラッカーが乗っていた。おいしかったので、僕は先日獲得した伊達男の地位を発揮して、ロサ叔母さんとラウラにおすそわけした。
「ありがとう」
「優しいのね」
僕のふるまいは好評を博し、ロサ叔母さんはお返しにやわらかい貝柱の蒸し焼きを差し出した。
「半分だけいただきます」
「半分でいいの?」
こんなやりとりが、しかもフランス語を交えて行われていたので、カルメンが青ざめたのを僕は見逃さなかった。僕とロサ叔母さんに共通の言語が存在したことに、カルメンはこの瞬間まで気づいていなかったのだ。レイダでたっぷり過ごした一日のあとでレストランに集まったとき、どうして身振り手振りと通わない意思のために疲れ切っているはずの僕が仏頂面をしていなかったのか、冷静に考えてみるべきだったのだ。それなのにカルメンはホアンの相手をするのに夢中だった。
それからというもの、カルメンは落着きを失ってしまった。自分だけが僕と会話することができ、つまり僕に与える情報をすべて取捨選択、あるいは捏造する権利があるという確信は、わずか数秒のにこやかな場面のために砕け散ってしまったのだ。父の最期や、自分や息子の評判、そして祖母との関係についてなど、カルメンは何一つ僕に知らせる必要はないと思っていた。ところが僕はすっかりその辺りの事情に通じているのだ。
僕は便意を催して中座した。それはしばらくぶりの大きな波で、生理的欲求が生活上の文脈を超越したことを示していた。便所は狭かったが、客も少ないので気兼ねはない。もとよりもうすぐそこまで来ていたので、事はあっという間に済み、僕は肛門がわずかに裂けたことにも頓著しなかった。問題は水圧の弱さで、優しいさざなみは石切場から切り出してきたばかりのような、ピラミッドの建設にも使えそうなその塊のまえに、あまりにも無力だったのだ。この手の便器は水を溜めるのにも相当の時間を要するし、溜まったところでまたさざなみなのだから、とてもではないがこれ以上時間を無駄にする気にはなれなかった。一般的に日本の便所がまだしも清潔なのは、国民性云々ではなく、単に水圧が安定しているからなのではないか、という学説を立てながら、僕は座席に戻った。
テーブルではもうデザートを食べ終え、コーヒーに取りかかっていたが、天敵が窮地に立たされたことに気を良くしていたラウラは、今度は店内で煙草に火を点けた。
「やめなさいよ、喫わない人もいるのに」
カルメンはさっきよりも大きな声を出した。ラウラを援護してやらなければならない。僕は席から手を伸ばし、隣のテーブルに置いてあった灰皿を取り上げた。ラウラはもういくらか灰を床に落としていたが、吸い殻まで捨てる必要はなくなった。
「ありがとう」
「いいえ」
ところがそこへ店主がやってきて、まるで自分はカルメンの味方をしよう、と決めたかのように手荒に灰皿を片づけると、もっと大きな、水の入った蓋つきのものに取り替えていった。
「あれ、釣り銭を入れるお皿だったみたいね」
ロサ叔母さんが謎を解くと、僕たちはどちらからともなく、気の抜けた笑い声をあげた。カルメンが席を立ったのは、ちょうどそのときだった。
「こんな連中とは一緒にいられないわ」
そのような意味のことを言ったのは、何語が母国語であっても察しがついただろう。僕は痛快だった。そこで自分でも煙草をとりだした。 すると今度は、母親思いのハイメが席を立った。一言も発しなかったが、若い力で叩きつけられた店の扉が大きな音を立てた。僕は最後の最後でようやく従弟の癇癪を見ることができた。
「見た? いまの」
ロサ叔母さんはそう言ったが、必ずしも非難しているわけではなかった。母親の立場が悪くなったことに居たたまれず店を飛び出した少年を、放っておくわけにはいかない。叔母さんは立ち上がって会計をすませた。もはや一刻も早く帰ってほしいという顔をしている店主に向かって歩くロサ叔母さんのお尻の大きさは、まさに彼女の慈愛の大きさだった。叔母さんはまるで、河馬の下半身に人間の乳房を持つエジプト辺りの地母神のようだった。
残された僕とラウラは、黙って静かに微笑んだまま、天井高く煙を吹き上げた。すくなくともこの場で僕たちは勝利を収めたのだ。二人の力で勝ち取った白星を煙にして、僕たちは味わっていた。パブロ叔父さんはさっきから何一つ発言していなかった。叔父さんの人生の大半は沈黙のうちに過ぎたのだし、そうすることで叔父さんは幸福になったのだ。するとこのときまでほとんど口をきいていなかった上座の祖母が、急に楽しそうにこんなことを言った。
「おや、あんたも煙草を喫うのかい」
パブロ叔父さんの性格が祖母ゆずりであることに、僕はようやく気がついた。
外へ出ると、がなり立てるカルメンをロサ叔母さんがなだめていた。ハイメはすでに車に乗っていた。
「ほんとに嫌だ、あの悪魔」
ラウラはまた怒っていたが、いまは別れについて考えなければならなかった。
「あまり気にしないで」
そう言って僕は従妹を抱擁した。そしてパブロ叔父さんと握手をした。それから車のそばまで行くと、いささか慌ただしく、ロサ叔母さんとキスを交わした。
車はすぐに動きだした。
「ラウラをもっときちんと監督するように言ったのよ」
「そうですか」
大通りに差しかかったとき、カルメンはようやく口を開いた。それでも、あからさまにラウラに加担していた僕を責める様子はなかった。そんなことになれば僕にも攻撃する用意があることを、さすがに嗅ぎ取ったのかもしれない。だがどちらかと言えば、小癪なラウラに泣かされたことが悔しくて、それどころではないのだろう。そう、このときカルメンは明らかに泣いていたのだ。涙はほとんど流さず、そのかわりしばしば洟を啜り上げて。
一方のハイメはもうすっかり落ち着いたようだったが、道が混んでくると自動車が急停車するたびに「ホデー」という声を発した。「くそったれ」という意味だった。
そして僕はと言えば、ただもうすぐ別れることになるスペイン北東部の景色と、相変わらず静かに佇んでいる祖母の横顔とを、かわるがわる眺めていた。
部屋に戻って鞄を運んでも飛行機にはまだ間があったが、カルメンはさっさと僕を送り出して楽になりたいという気持を隠そうとしなかった。僕もまた、いまできることはすべてやりおおせていた。コーヒーをもう一杯、ゆっくり飲んでもよかったが、それは六時間後にロンドンの部屋に着いてからでも間に合いそうだった。
「じゃあ行きましょうか」
僕のこの言葉に、カルメンは無理に勝ち誇ったような笑顔を作った。皮肉な微笑を返すことは控えて、僕は祖母に最後の挨拶をした。
「今度は十三年もしないうちに来るんだよ」
「うん」
「それからスペイン語を勉強おし。カタルーニャ語でなくてもいいからね。スペイン語だけでもね」
「うん」
僕は「うん」しか言わなかった。それは十三年前までと比べても、いささかの進歩もない会話だった。だが、もし鳥の言語のようなカタルーニャ語を自在に操れたところで、「うん」以外の言葉を発したとは思えない。
車は走りだした。あっという間にアレクサンドラトリバネアゲハの触覚の先から飛び出した自動車は、すぐに僕を草地の寂れた空港へ送り届け、そこからは一羽の鳩が、僕を背中に乗せてかつての大英帝国の首都へ運ぶだろう。とても昆虫やペットには譬えられないその大都市で僕はもうしばらく暮し、やがて僕の唯一ではないが最も親しみのある故郷へと帰ることになる。東京というその石と土と硝子の箱庭は、ロンドンとも比較にならぬほど巨大なのだ。
こうした誇大妄想に彩られた風景の幻に襲われながら、もう一度モンシロチョウの幽かな姿を見たいと思ったのは自然のなりゆきだった。僕はスペイン人らしい強い口調でその希望を伝えてみようと思った。
「エル・ポアルを通って」
そう言えばどうなるだろうか。呆れたように進路を変更するだろうか。そしてまた僕に「手を焼いた」ことで、内心、自信を取り戻すだろうか。それともすっかりいつもの調子にかえって、「方向が逆よ」と突き放すだろうか。
カルメンがどう思うかは、もはやどうでもいいことだ。むしろ、実際にエル・ポアルを車で走り抜けることには、あまり意味がなさそうだった。それはすでに僕のなかにある村、僕のなかにしかない村だったからだ。その村でなら、僕は何でもできる。夜半、そっと村に戻り、頂点をアーチ型に整えた厚い木戸を慎重に開き、石の階段を登る。昼間でも暗く、夜には怖くてたまらない一階を、電灯も点けずにすり抜けた自分の勇敢さに惚れ惚れする間もなく、音もなく寝床にもぐり込む。すぐに夢の続きを見る。遠い国で成功し、妻と子供を、血と言葉の溶け合った子供を……。
大野露井
(第15回 最終回 了)
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