故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
次の朝、僕はまたしても冷たいコーヒーとマドレーヌを食べ、すこしだけ記憶の甦りを待ち、諦め、昨日たっぷり金髪のマリアや義妹と過ごして若干元気になったらしい祖母と、緩慢で、とても会話とは呼べない小声のやりとりをした。取り出せる意味はごくわずかで、鳴き交わす動物のような具合だった。しばらくするとカルメンが仕事から戻り、銀行へ行って来たのだと言って僕に封筒を渡した。
「これはお祖母ちゃんからよ。お祖父ちゃんやパパの遺産だと思って受け取りなさい」
封筒には三千ユーロ入っていた。
「ありがとう」
僕は祖母にわかりやすいようスペイン語で言った。
「近いうちにまた四千ユーロほど送金したいから、口座番号を書いておいて」
とカルメンは続けて言った。
受取った分と送金予定の金額を合わせると、だいたい百万円くらいになる。それは僕には大金には違いなかったが、「遺産」と聞いて思い浮べる額よりは控えめだった。だが畑を耕し、肥料を売り、兎を飼った祖父と、貿易商として一時期それなりの成功を収め、やがて無惨に敗走した父が残した財産という名目で僕の手に渡る金額としては、実に妥当であるようにも思えた。もちろん計算式を組み替えてみることもできる。僻村とはいえ、家屋敷と田畑を相続する権利が本来なら僕にあったということであれば、それを放棄する見返りとして百万円はあまりにも少なくはないだろうか。百万円は、僕の当面の生活費と、もし勉強を続けることになれば、学費の一部にはなる。だが母にこの金額を報告するわけには行かない。父のために家財を差し押さえられ、離婚の条件として慰謝料をもらうどころかむしろ借金の大部分を肩代わりした母に、その利息分にも満たない端数のような金額を報告しても、母は馬鹿にしていると思うだけだろう。ママを殴ったパパが、家を出てゆくときにママの払ったお金から、百万円だけ返すと言っているよ。
問題はここに残る理由が何もなくなってしまったことだ。旅程はあと二日あり、このアパートには飽き飽きしており、航空券の予約を変更するのは面倒だ。三千ユーロあればどこにでも泊まれるが、モデルサに三千ユーロを使いきれるホテルがあるかどうかは疑問だった。食いついた餌を呑み込んでしまった僕が、残りの時間をどのように過ごすか、カルメンは僕を試しているのだろうか。僕は寝室へゆき、虎の子の三千ユーロを鞄にしまい込む。そして餌の残りの四千ユーロをもらい損ねることがないように、海外からの送金に必要な複雑な数列を、手帳から紙切れに書き写す。そうしている間に、残りの二日間をどう過ごすかの妙案が出るのではないかと思ったが無駄だった。だがその必要はなかった。居間へ戻ると、ラウラがいたからだ。
ラウラはこの十三年で、少なからず母親のロサ叔母さんに歩み寄っていた。何度か届いた写真のなかでのように、ぶすっと眉を顰めているわけでも、思春期の到来とともに襲いかかった脂肪の波の下で息を殺しているわけでもなかった。膜を張っていた脂肪は脱ぎ捨てられたワンピースのように消え去り、その脱皮に伴ってくるくる巻いた髪は胸の下まで伸びていた。馬に乗ったジプシー娘が、巻き毛の渦から駈け出したのだ。耳、小鼻、襟ぐり、何本かの指、手首、そして腰に銀の装飾品を身につけたラウラは、十三年ぶりに従兄に会っていくらか恥ずかしそうに見えた。それは僕がやおら足拍子を打ち、銀の装飾品を鳴らしながら徐々に上半身を揺らしはじめるラウラの幻を見たせいかもしれなかった。
「握手する? それとも抱き締める?」
ラウラはカルメンを介して尋ねた。カルメンは親切にも十三年ぶりの従妹の言葉を伝えてくれたのだ。僕はすぐに大股で従妹をつかまえにゆき、まるで日本人の女の子のように細い腰を抱いて頬をつけた。
僕は念のためにハイメから英=カタルーニャ辞典を借りて家を出た。ハイメが辞書を持っていることも、ハイメがこうして僕の役に立つことも意外だった。階段の下ではパブロ叔父さんが待っていた。兄と妹からかわるがわる馬鹿にされた反動で兄より頭一つ大きく育った叔父は、十三年のあいだに見事な太鼓腹を育て上げていた。しかしそのお腹は人並以上に厚い筋肉の層で吊るされていて、だらしなく垂れ下がっているようなことはなかった。ましてあの人なつこい笑顔と、ずいぶん白くなってしまったが頭上にこんもり盛り上がった髪は健在なのだから、何のことはない、引退した相撲取りだと思えばよいのだ。
叔父は忙しくギアを前後させながら、この県の中心都市であるレイダを目指した。前の車に追突する寸前にブレーキが一つ叫んで停まる度に、窓の外は都会的になっていった。
「いまは何をしているの?」
叔父が大声で尋ねた。数分前の再会のときもほとんど口を開かなかった叔父の突然の大声に、僕はほとんど「貴様は何をしているか」と詰問されたように動揺した。僕は叔父の娘をすでに裸にしていたので、後ろ暗かった。だが誤解は禁物だ。叔父の話し方はこの国の、この地方の男としては充分に大人しいものだった。僕にはそれでも大声なのだ。
「今度の春から修士をやろうかと思っています」
反対に僕がそう答えた声は、蚊の鳴くような声、あるいは妙に気取った性倒錯者のような声と言われても仕方がなく、「そうか、修士か!」と叔父が念を押す必要を認めたのも無理からぬことだった。大学院に進学することは、カタルーニャではそれだけで充分に倒錯的なのだ。
「専門は?」
「文学です」
専門というからにはただ「文学」というよりも細かいものを研究する予定だったが、「パブロは本を読まなかった」という祖母の証言もあり、辞典を繰ってまで説明する気にはなれなかった。僕自身、何を研究するのか検討もつかなかった。要するに僕は本を書く時間が欲しかっただけだし、その時間を与えてくれるのであれば何をしても構わなかった。ところが職業というものは時間を奪う。報酬が時間の対価であるなどというのは社会がその構成員につく際限のない嘘のなかでも最大のものの一つで、実際には僕たちの時間は犯罪的な安値で買い叩かれている。その点、修士課程の学生という職業は、自分の時間を売る場合よりもさらに安い金額で同じだけの時間を買うことができる稀有な職業だった。修士や博士という名称が錬金術を想起させるのは偶然ではないのだ。あとはその時間を使って本を書けばよいのだが、困ったことに何について書くのかは決まっておらず、しかも錬金術師に弟子入りをした以上はその幻の本と並行して論文も書かなければならない。僕は不安になり考えるのをやめる。すると車も完全に停まり、叔父は何かを取ってくるというようなことを言い置いていなくなってしまった。ひとまず叔父には説明の必要がなくなったのだ。僕は車のなかに取り残され、ミラーのなかで、それまで叔父と僕をかわるがわる見ていたラウラと目を合わせた。まだかつてのロサ叔母さんほどは赤くない唇が開く。
「いまいくつ?」
「二十三」
「私は二十歳」
「そう」
そんなやりとりをして今度は直に目を合わせると、どちらからともなく微笑んだ。
「私、車って嫌い。がくがく揺れるんだもの」
それは明らかに叔父をはじめとする南欧人の荒々しい運転に起因しているのであって、揺れない車がたくさん走っている国からやって来た人間としては、異を唱えることもできただろう。しかし僕は黙っていた。
「バイクのほうが好きだわ。息苦しくないし」
ラウラは付け足した。若いカタルーニャ人の運転するバイクは、さぞかし危険に違いない。だからといって「あまり乗らない方がいいよ」などと野暮なことは言えなかった。十三年前までのやんちゃなラウラ、遠くから見ているくらいでちょうどよかったラウラが、三十分前の再会の瞬間から、拡大鏡を通して細部まで観察することを強いている。僕はなるべく話のわかる従兄でいたかった。視線をミラーに戻し、また黙っていた。
車は再び動き出し、すぐに小さな洋服店に着いた。ここがパブロ叔父さんとロサ叔母さんが経営するブティックで、もう中等教育を終えているラウラの勤め先でもあるのだ。ラウラはとうに自由で、錬金術師の力を借りるまでもなく時間を飼い慣らしている、ということになるだろう。店は決して広くはないが狭くもなく、婦人向けの肩肘の張らない衣装を取り揃えていた。試着室も二つあり、立派な構えと言ってよかった。あとは客さえ入れば、何も怖れることはない。僕とラウラは、昼休みまでここで店番をするのだ。
「今日はパパが家でパエリアを作ってくれるの。世界一おいしいのよ」
このようにラウラは客入りよりもパエリアのことで頭がいっぱいだった。父親の手料理を想像して唾液を分泌することができるのだから、ラウラは幸福なのだろう。僕の口腔にも、つられて唾液が滲んだ。
「ねえ、煙草喫わない?」
すこしばかり落着きのないラウラは、もう次の話題に移っていた。気づいたときには言い終えていたので、僕は過ぎ去った数秒間が記憶の世界に入るまえに糸を手繰り、その言葉がもういちど耳元を通り過ぎるように誘導しなければならなかった。そしていざ内容を理解すると、僕はできることならゆっくりとその言葉を噛みしめ、それこそ煙草のように火をつけて胸の奥まで余韻を届けてやりたかった。唾液はすっかり干上がった。
店の軒先で煙草に火を点じて、ようやく深く吸い込んだ煙をゆるやかに吐き出すと、僕はまるで自分がこの地方都市で生活する人間、叔父夫婦と従妹とともにブティックを経営する青年のように思えて来た。煙はときおりラウラの巻き髪にたゆたい、昇天する前にもう一度だけ庇のところで道草を食った。
「ママと心配してたんだけど、おばあちゃんにお金もらった?」
「さっきもらったよ。三千ユーロ」
「三千! よかったわ。だってもらうべきお金だもの。あの悪魔に出し抜かれちゃだめよ」
悪魔が誰を指すのかを理解するには二秒とかからなかった。あと二分もしたら、僕のほうからその言葉を使っていたかもしれない。だが合計で七千ユーロもらう予定であることを咄嗟に白状しなかったのは、僕も悪魔の親戚だからだろうか。むしろその文脈に乗るならば、僕は魔王になっても構わない。下っ端の悪魔を踏み潰し、夢魔の幻に酔い、こうして小悪魔と煙を吐いている。
「昨日は悪魔の恋人にも会ったよ」
「ホアン? あいつ、ひどい馬鹿よ」
「日本にはたくさん中国人がいるのか、って訊いたよ」
「ほらね、ひどい馬鹿!」
大野露井
(第10回 了)
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