故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
新しい小さな空港の出口で煙草を喫っていると、同便で着いたらしい若いイギリス人が、身振りで火を貸してくれと頼んだ。「グレーシャス」と彼は英語訛りで言い、今度はタクシーの運転手に近づくと、バルセロナまで列車で行きたいので駅を教えてくれと質問した。運転手は最初から相手を馬鹿と決めてかかり、真面目に対応しようとしなかった。僕はすぐに彼を目で追うことをやめた。イギリスの青年の目に、スペインの地に立つ僕がスペイン人に見えた、ということのほうが重要だったからだ。イギリスの地に立っているときは、誰も僕をスペイン人だとは思わない。女だと思われたことは二度ある。マダム、いや失礼、サー。駐車場に滑り込んだ車からカルメンが身を乗り出す。僕はまだ喫える煙草をすりつぶす。
カルメンはちっとも変わっていない。見た目はもちろん変わっている。中身のほうは変わっていない。それが直感的にわかった。年相応に肉付きがよくなり、顔つきもやや中性的になって以前よりも父に似ている。笑顔は見せない。前髪が眉の上で乱雑な波形を描いている。自分で切っているのかもしれない。田舎臭い髪型だった。僕も物価の高いロンドン暮しで散髪代を節約して、すっかり無様な髪型をしていたので、他人の髪型には敏感だった。僕の髪は長く、ロンドンの硬水のせいか妙にまっすぐで、重力に逆らうことがなかった。だからなおさら女に間違えられたのかもしれない。マダム、いや失礼、サー。無様な髪型も、笑顔を見せないのもカルメンと同じだ。僕たちは似合いの叔母と甥っ子だった。挨拶は握手ですませた。
車は切り裂かれた山肌を見下ろす寂しい道を走った。大衆車には違いなかったが、十三年前に乗ったものより小ぎれいだった。しばらくすると道は二手にわかれ、僕たちは左へ進んだ。右の道はアンドラ公国へ通じている。陽の当たるレストランのテラスで食事をし、プールサイドで裸の娘たちを眺め、山の稜線を吹きおろす風の音を聞きながら眠ることができるその国には、いつかエル・ポアルのついでに立ち寄ったことがあった。父の友人の別荘に泊めてもらった。だが日本で父と親しくなったそのイタリア人は、所詮は父の友人でしかなかったし、父にとっても本当の友人ではなかった。父が借金を抱えたことを知ると、一切の連絡を絶ってしまったのだ。もう父が家を出たあと、商用で再び来日した彼と、一度だけ食事をした。僕は母の通訳だった。「家が借金の抵当に入っていたのです」と僕は説明し、「家が借金の抵当に入っていたのですか」とイタリア人は鸚鵡返しにした。商人の本能が働いたのか、一刻も早くその場を去りたがっているようだった。隣には娘がいた。プールサイドで眺めた娘の一人だ。陽に灼けて褐色になった髪、白っぽくなった乳首、尖った顎が首に翳を作っていた娘は、そのときのように微笑んではいなかった。
僕は沈黙に疲れていた。イタリアの商人と同じく、カルメンの英語も褒められたものではなかったが、未だにスペイン語のできない僕は彼女なしでは家族との意思疎通を諦めなければならない。ただでさえ自分が家族との意思疎通を望んでいるかどうか判断がつかないうえに、意思疎通というものが言葉さえ通じれば叶うのかどうか、という難問も待ち受けているというのに、遺産という餌に食いついた僕はまるで欲張り者の役を引き受けた役者のようにどきまぎしながら、退屈な脚本に書かれた台詞を思い出そうと必死だった。打ち解ける必要はない。そんなことは不可能だ。会話の習慣。これはあったほうがいい。そこで試しに、この日の朝まで僕を苦しめていたものを話題にしてみた。
「今朝までひどい腰痛だったんだ」
「このあたりじゃね、それはお天気のせいってことになるわ。このあたりじゃ、なんだってお天気のせいなんだから」
こうしてカルメンは、僕の腰痛に関して自分には一切責任がないことを強調すると再び沈黙にかえり、決して新しい話題を提供しようとはしなかった。カルメンの生れた年に大干魃や大寒波の襲来があったと知っても、僕は驚かなかっただろう。
車はエル・ポアルには着かなかった。標識にはモデルサとあった。衛星写真で見下ろすエル・ポアルが翅をたたんだモンシロチョウくらいの大きさだとすれば、この町は翅を広げたアレクサンドラトリバネアゲハほどの大きさがありそうだった。中途半端に拓けていた。背の低い建物が密集していて、いつでも空に手の届くエル・ポアルよりずっと息苦しい印象を与えた。僕は騙されたと思った。エル・ポアルを貫く一本の道、アダンさんやザラザラおばさんやソニアが歩いたあの道、決して征服できなかった石柱が屹立していた広場、頂点を丸く調えた、牛の血の色の木戸の向こう、階段を昇りきったところで展ける目の眩むほどの日差しに包まれた廊下、そしてもはや燃え上がるようなテラス、酸素ボンベとチューブ、食事ごとにきちんと洗われるテーブルクロス、コーヒー、曽祖母の吸い呑み、降り注ぐ葡萄酒、コリョンズ、こぼれた蜜柑汁、流線型の赤い車、蹴散らされる砂利、くるくる回る自転車、そういったものをすでに目前にしていた僕は、気づけばアレクサンドラトリバネアゲハの背中にくくりつけられ、カルメンに誘拐されたも同然だった。
非情な車はなおも走り続け、入り組んだ路地をかいくぐったところで石畳の地下に吸い込まれた。団地らしい建物の駐車場だった。車から降りる僕たちを見て、そこで遊んでいた中学生くらいの子供たちは興味津々だった。二人の男の子は煙草を喫っている。二人の女の子はガムを噛んでいる。人生に退屈しきっているように見えた。僕たちが視界から去れば、ときおり金属音が聞えてくるだけの人気のない駐車場で、彼らは落書きを再開するだろう。もっと暗くなれば紙袋に入った瓶からウォッカを飲み、すでに経験のある性行為をおさらいするだろう。カルメンは彼らのほうを見もしない。だがここで遊んでいるということは、すくなくとも彼らの一人はここに住んでいるのかもしれない。どんなに軽蔑しても、社会学者に言わせれば、彼らとカルメンは同じ階層に属しているのだ。もし彼らを睨みつけたり、追い払おうとすれば、たちまちその事実を認めることになる。それは無理な注文なので、黙殺するしかない。五歳の、八歳の、十歳の僕を、カルメンは無関心を装った憎しみの目で見たものだ。いま思えば、それは僕を人間扱いしていた何よりの証左でもあったのだ。
部屋は三階、つまり現地の感覚で言えば二階にあった。模造大理石の階段を四角く一周すること二回、木製の扉に金文字で番号が打ちつけてある。中へ入ると、食卓からすこし離した椅子に腰かけた祖母が、かすかな距離のあいだで忙しく首を上下させていた。背中はすこし曲がり、目にはいよいよ老いを自覚しはじめたひとの怯えが宿っていたが、肌はきめこまかく照り輝いて艶があった。要するに祖母はますます年を取ったが、なかなか元気そうだった。
「おばあちゃん」
僕は祖母を抱き口づけた。
「あんた、十三年ぶりだよ」
「そうだね」
「スペイン語できるようになったかい?」
幸い、フランス語とスペイン語はかなりよく似ている。だがここで「うん」と言うわけにもいかない。祖母はなんとなく「十三年ぶり」と言い、なんとなく「スペイン語ができるように」と言った。そのような答えにくい質問を、祖母がわかりにくい言語で投げかけてくれたことはむしろ有り難かった。「いや―だめだね」と諦めたような顔に向かって囁く。少なくとも十三年の時間が、ただ無関心のために過ぎたわけではないことを、そのようにして主張する自由が僕には残されていた。
それよりも、いったいどうして祖母がここにいるのだろう? 祖母は結婚してからというもの、エル・ポアルから出たことがない。そう僕は思っていた。あの家の、寝室の壁のキリスト像の視界に入るぎりぎりの位置には、祖父母の結婚写真が架かっていた。ヘルムート・バーガーに似ている、と母は言った。それに対して祖母は丸々として愛嬌があり、二枚目をうまいこと捕まえた村娘にふさわしい浮かれた笑顔をしていた。はっきりとした黒と白の濃淡のなかに祖母の質素な花嫁衣装だけが煙のように漂っているその写真を飾って以来、あの家だけが夫婦の居場所だったのだ。祖父母はおしどり夫婦ではなかった。エル・ポアルのような村におしどり夫婦などいない。子作りが打ち止めになると家計は徐々に苦しさを増し、それでも生活が破綻するところまではいかない。だが愛を確認する時間はなくなる。確認できないものに期待をかけるのは若者や芸術家の領分であって、そのどちらでもない村の夫婦は、むしろ啀み合うことで不安を覆い隠そうとする。啀み合いがすっかり習慣になると、夫婦は憎しみの影を見出すようになる。それは寝室の敷居や、台所の鍋を火にかける瞬間や、浴室でひとりで過ごすときに、徐々に明確な輪郭を持つようになる。そしていつの頃からか、妻は夫の死を待つようになるのだ。というのも、妻のほうが長生きをすると相場が決まっているからである。夫を送り出してしまうと、妻は永い年月のあいだで初めて、ゆっくりと家のなかを見回す。空っぽになった寝室や台所や浴室で、あの影が、今度はすこしずつ薄まってゆくのを懼れながら。それなのに、いま祖母はモデルサという、僕の地図はおろか、祖母の地図にさえ載っていなかったに違いない街で、まさに道に迷っておののく子供よろしく、椅子のうえで小さく頭を振っているのだ。
祖母は展示品のように、居間のちょうど真ん中に腰かけていた。僕は壁際の長椅子に腰をおろした。展覧会でもこんなふうに作品が観られればいいのだが、と考えながら、祖母の背後に屏風のようにひろがっている食器棚に目を移した。なかなか上等な棚だった。さらに見回すと、どの家具も決して値が張るというわけではなさそうだが、新しく、機能的で、清潔だった。それからカルメンに案内された洗面所も、滞在のあいだ僕の寝室になるカルメンの部屋も、どこもかしこもが小ざっぱりした陶器と石材と木材とで組み上がっていた。カルメンの愛車と同じように、スペインではあらゆる大衆向きのものが、一昔まえより上等になっているようだった。そんな感想を抱きながらも、僕はせっかく長椅子に腰をおろしたばかりだというのにカルメンに呼びつけられて、あまりいい気持ちではなかった。僕が閉じた戸は開けておくのだと言い、開いた扉は閉めておくのだと言っていたカルメンを思い出したからだ。なぜ祖母がここにいるのか、その説明さえしようとしない。
おまけに従弟のハイメが、そのときちょうど学校から戻ってきた。簡単に挨拶をすませると、もう食事の時間になった。思いがけず話し込んですぐに食事の時間になったのではなくて、食事の直前にハイメが帰ってきて、僕たちには話すことが何もなかったので、すぐさま食卓につくことになったのだ。僕はハイメがエル・ポアルの居間に据えられたサークルのなかでつかまり立ちをしている姿を、一度だけ見た記憶がある。それはカルメンが送ってきた写真のなかでだったのではないか、と言われれば否定できない。とにかく僕たちには面識がなく、言葉も通じないので、話を続けようがなかった。僕が話をするべきなのは、あるいは話をしないまでも、その気になれば話せるという状態にしておくことが望ましいのは祖母だけであって、知りもしない少年などはどうでもよかった。
「おばあちゃんがずいぶんたくさん作ったのよ」
とカルメンはそれが悪いことであるかのように言いながら、台所と食卓を往復した。確かに、嘘ではなかった。それはかつての献立の再現でもあり、強化でもあった。つまり僕はまたしても「さて大量のパンを片手に、イタリア風に言えばコンキリエ、つまり貝の形のパスタを浮べたスープを飲み干すと、昼食の献立の目玉が出る。またしてもイタリア風に逃げるならペンネをチーズで挟み固く焼き上げたラザニアや、ジャガイモを大量に包み込んだまろやかなオムレツ、そして今度はフランス風に逃げなければいけないが、野菜をとかしこんだ噛みごたえのあるキッシュなど」を食べる機会を得たのだ。いや、正確に言えば、最初のイタリアは完全に撤退していたが、第二次のイタリアとオムレツは健在、さらにフランスは勢力を四倍にしていた。すなわち今回はじゃがいも、ほうれん草、茸、じゃがいも、茄子、じゃがいも、鶏肉、じゃがいも、たまねぎ、じゃがいも、そしてじゃがいもを使った四種のキッシュが、決して大きくはない食卓を圧倒したのである。
僕のお腹はあっという間に膨れた。祖母はもとより食が細くなっている。ハイメも思春期のくせに、馬のように食べるというわけではないらしい。
「ばあちゃん、口!」
小食だから暇なのか、ハイメはこんな風に、砂時計の砂に合わせて落ちてゆく祖母の下顎が上顎から離れ、口のなかのものがほんのちょっと覗くたびに、鬼の首を取ったように注意した。ハイメは間違いなくカルメンの息子なのだ。あの女たらしのカルメロの血を引いているだけあって顔こそ優しげだったが、暗い眼の底には母の血管から流れ来んだ憎悪がいまにもこぼれ落ちそうに溜まっていた。カルメル山に現れたマリアを記念する名を持つカルメン。第三のカルメンであるカルメロ。その息子ハイメ。その名の源流にあるのはヤコブという名、つまりイサクの子だ。彼には峻厳すぎる。だがヤコブの語源は「足を引っ張る者」だ。僕は自分よりも年下というだけでハイメが嫌いだった。年下の家族を嫌うのは、ひとりっ子の義務だった。ひとりっ子はすべての愛情を注がれ、すべての財産を受け継ぐ。そこにはすべての憎悪を引き受け、すべての借財に怯えるという賭けが付帯するのであって、それこそひとりっ子の醍醐味なのだ。忘れた頃にやって来る、しかも従弟という贋の弟は、家系図をまたいでやってくる刺客であり、泥棒なのだ。足を引っ張らせるわけにはいかなかった。
もう満腹していたのだから、さっさと寝室に引っ込んでしまうこともできた。しかし不快なまま一日を終えることは避けたかった。僕はこの場を乗り越えるためだけにでも、スペイン語の訓練をしてくればよかったと思い直した。そしてスペイン人のように、とくに父のように、湧水のごとくこんこんと森羅万象に関する自説を開陳し、その場の誰にも発言権を与えないことに快感を見出すような、そんな性格でなかったことを悔やんだ。もっともそんな性格であったがために、父は離れてゆくことになったのだ。父の目的は相手を否定することだった。それだけが目的であったと言ってもいい。すると否定は目的から規則になり、悪癖になり、宿痾になり、ついには否定が先に立つあまり、実際に自分がその問題についてどう思っているのか、という点は置き去りにされるようになる。家を出ることになった前後、父はいつにも増して、あれだけ捲し立てていたというのに、何一つ意味のあることを言っていなかった。僕はもう十一歳になっていて、それがわかるようになっていた。十二歳になっていなくてよかったと思う。十二歳になっていたら、僕は父に向かってついに父の言葉には意味がない、と言ったかもしれないし、十三歳になったら、それを汚い言葉で伝えるようにさえなっていたかもしれない。十一歳のときに家を出てくれたおかげで、僕は父が死ぬまで、父を恐れていることができた。やはり僕は、捲し立てない側の人間でいたほうがよいのだ。だから満腹のまま、しばらく黙って食べつづけることにした。
大野露井
(第07回 了)
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