金魚屋プレスより刊行予定の鶴山裕司著『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『夏目漱石論-現代文学の創出』(近刊)、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』が順次刊行されます。(文・石川良策)
by 鶴山裕司
Ⅱ 子規小伝(六)
■総合文学の時代――明治三十四年から三十五年(三十五歳から三十六歳)■
子規は明治三十四年(一九〇一年)一月十六日から日本新聞に『墨汁一滴』を連載し始めた。寒川鼠骨宛手紙に「僕ハ此頃横腹ガ痛ンデ筆ガ取レンノデソレガ残念デ不愉快デ誠ニツマラヌ。トコロガフト一策ヲ案出シテ毎日「墨汁一滴」トイフ短文(一行以上二十行以下)ヲ書イテ新聞ヘ出サウト思ヒツイテ一昨日ノ夜一文ヲ送ツテオイタ」(三十四年一月十五日)とある。鼠骨は松山出身で虚子や碧梧桐の友人だが、日本新聞俳句欄に投稿して子規の知遇を得た。三十四年当時は子規の推薦で日本新聞記者として働いていた。『墨汁一滴』は短文エッセイの意味だが子規は死ぬまで筆と墨で原稿を書いた。万年筆はあったが筆と墨の方が安かったのである。
子規の直感は、多くの場合彼を正しい方向に導く。まとまった原稿が書けず苦肉の策で始めた連載だが、それにより子規は俳句・短歌作品、それに俳論・歌論すべてを『墨汁一滴』にまとめることになった。俳句や短歌から生み出される精神の動きを『墨汁一滴』で表現したわけだ。子規が切実に散文を必要としていたからでもある。俳句短歌は基本的には独立した作品である。俳句で人間心理を表現しにくいのはもちろん、自我意識表現である短歌もまた短い。四六時中苦しんでいた子規は自己救済のためにも苦痛とそれを紛らわす愉楽を表現し発散する必要があった。また散文エッセイ執筆は子規がやり残した最後の仕事である散文革新と繋がっている。
明治三十三年(一九〇〇年)一月に子規は『叙事文』を発表して写生文の必要性を説いた。三月には小説『我が病』の連載を開始した。いつものように理論と実作を同時に実践したわけだが未完に終わった。ただ子規は『我が病』で写生文小説を書こうとした。明治三十年代の小説はまだまだ過渡期だった。作品完成度でも読者の支持という面でも文語体が主流で、幸田露伴が文語体小説の純文学作家、尾崎紅葉が文語体大衆小説作家の双璧とみなされていたが坪内逍遙と二葉亭四迷が始めた言文一致体小説も徐々に浸透していた。
言文一致体は単なる話し言葉の文章化ではない。新たな書き言葉の創出でありその定着には明治二十年代から三十年代末までの二十年以上の時間がかかった。文語体の歴史は古くその最高の形は古代から蓄積された修辞を駆使した雅文(美文)にある。文語体で書く以上、多かれ少なかれ雅文的修辞の影響を受けざるを得ない。だが文語体(雅文)と比較すれば言文一致体は無味乾燥で殺伐としている。文体の変化だけでなく言文一致体で何を書くか(テーマにするのか)も大きな課題だった。
子規の資質は俳句短歌にあり雅文と相性がよかった。ただ彼は時代の変化に敏感だった。写生文は俳句革新で見出した写生理論を援用したものである。目の前の風物や人間を執拗かつ緻密に描写することでその本質を表現しようとする。子規らしい地に足がついた原理的方法である。写生文で大きく変化し続ける明治現代を、単純なら単純なまま、複雑なら複雑なまま表現しようとしたのだ。また俳句での成果から純粋写生によって本質を描写把握できるという見通しを持っていた。散文での客観描写に雅文より口語体がふさわしいことは言うまでもない。
『叙事文』と『我が病』を発表してから約半年後の明治三十三年(一九〇〇年)九月、子規は子規庵で立て続けに二回「山会」を開いた。虚子、碧梧桐、鼠骨、阪本四方太が参加した。短い写生文を持ち寄って批評し合う文章会である。文章には山(盛り上がる箇所)がなければならないという子規の言葉から「山会」という名前が付けられた。山会は子規の健康状態がよい時に開催され伊藤左千夫らも参加するようになった。虚子や左千夫、長塚節が後年小説を書き始めたきっかけの一つに山会がある。漱石の『吾輩は猫である』も子規死後に虚子が引き継いだ山会用の文章として書かれ「ホトトギス」に掲載された。
山会での叙事文(写生文)は明治三十三年(一九〇〇年)十二月に早くも『寒玉集』第一編としてまとめられた。子規、虚子、碧梧桐の写生文を収録した本である。同十二月には「ホトトギス」読者から公募した写生文を『寸紅集』として刊行した。写生文は最初から作品という位置づけで、読者を巻き込んでその普及を目指していたわけだ。子規の『飯待つ間』(三十二年[一八八九年])に典型的なように基本的には何気ない日常を描写する文章である。
しかし明治三十四年(一九〇一年)に病状が悪化して痛みにのたうちまわるようになると子規は写生文では満足できなくなる。煩悶や苦痛を赤裸々に表現し始めたのだ。小説としては発展しなかったがここから新しい書き方が生まれた。
僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテイルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
(明治三十四年(一九〇一年)十一月六日付夏目漱石宛手紙)
漱石は決して付き合いやすい人ではなかったが帝大生を中心とする若者(漱石門の文学者)たちから父のように慕われた。その一方で妻鏡子や子供たちにとっては横暴で理不尽極まりない父親だった。漱石の中には人と人との無媒介的結びつきを求める強い指向があった。それが漱石文学の中心主題になっている。この指向が家族に対しては過剰な期待となって表れ怒りとなって爆発したようだ。一種の甘えである。しかし漱石の指向を敏感に感じ取った他者は、通常の人間関係より濃密な友愛を育むことができた。
地縁血縁の強い松山の友人知人に囲まれていたが、子規も学生時代から漱石に率直な心情を吐露している。日本新聞に入社して若い文学者たちを率いてゆかねばならない立場に立つとさらに漱石が心の内を明かせる友人になっていった。ただ明治三十四年(一九〇一年)十一月六日の手紙はそれまでにない率直さだ。泣き言を書き連ねている。
森鷗外が典型的だが明治男は痩せ我慢を美徳とした。特に元武士はそうで、松山藩士の息子を誇りとした子規が武士的美学を知らなかったはずはない。しかし病苦でもがく子規は逆の方向に進んでいった。死を怖れ生きたいと希求し、だが早く死んだ方が楽なのだと矛盾した心情を書き連ねた。それは直感によって「これが正しい」と意志的に選択された文章である。勤勉も明治男の美徳の一つだが、子規は新たに手に入れた文章で旺盛に仕事した。
『墨汁一滴』は明治三十四年(一九〇一年)七月二日まで四回休載しただけで一六四回日本新聞に掲載された。翌三十五年(〇二年)五月五日には『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)天使』の連載が始まった。子規最後の連載エッセイで、死の前々日まで一二七回日本新聞に掲載された。子規の状態を考えれば驚異的執筆意欲である。無理して書いたのではなく書き続けられる方法をつかんだのだ。この連載で子規の文章はさらに深みを増してゆく。
拝啓 僕ノ今日ノ生命ハ「病牀六尺」ニアルノデス 毎朝寝起ニハ死ヌル程苦シイノデス 其中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス 今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ 病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ ドーモタマリマセン
若シ出来ルナラ少シデモ(半分デモ)載セテ戴イタラ命ガ助カリマス
僕ハコンナ我儘ヲイハネバナラヌ程弱ツテイルノデス
(明治三十五年[一九〇二年]五月二十日頃古嶋一雄宛手紙)
古嶋一雄は日本新聞古参記者で子規と日清戦争従軍を共にした。後年衆議院選挙に当選して政治家になった。古嶋は子規の負担に配慮して『病牀六尺』を休載にしたが逆に懇願されて毎日掲載するようになった。
比喩的に言えば『墨汁一滴』から『病牀六尺』への変化は「我儘」の増大にある。自己の病苦を微に入り細に入り描写する子規の自我意識は肥大化している。自己中心的になっているのだ。明治三十五年には子規は筆を手にする力すらなく、妹の律や虚子、碧梧桐に原稿を口述筆記させていた。食事はもちろん排便も人の手を借りざるを得なかった。そうしなければ生きてゆけないのだ。
もちろん子規は世話してくれる人への感謝を抱いていただろうがそれを表現するのは二の次になった。ほんのささいな日常動作でも助けてもらわなければにっちもさっちもいかないのだ。だが他者は自分ではなく病者の欲求を全部理解できるわけではない。当然イライラが募る。子規は癇癪を炸裂させ我が儘になる。極端に肥大化した自我意識が他者を自分の従者のように飲み込んでゆく。
この極端な自我意識の肥大化は生前未発表の『仰臥漫録』でより赤裸々に表現されている。明治三十四年(一九〇一年)九月二日に書き始められ死去するまで断続的に書き継がれた。例によって依頼もないのに書き始められた文章である。
明治三十四年十一月三日 虚子記
先月上旬は子規君の病気宜しからず逆上甚たしく皆々心配致候所、下旬に至りて逆上やや安堵致申候。前号に御報申上候仰臥漫録は矢張絶えず執筆致し居られ候。其節遠からず乞ふて本誌上に掲載するの栄を得度き旨申陳候處、痛く子規君の叱責を受け閉口致候。それは仰臥漫録はすこしも情をためず何も彼もしるしつつあるなり。ホトトギス紙上に公にするなどといはれては今後は筆渋りて書くこと出来ずとの事に候。さういはれて見れば誠に申訳なきことを軽率に申陳べたる義と恐縮致候事に候。
(明治三十四年[一九〇一年]十月三十日「ホトトギス」消息欄)
虚子の文章から子規が『仰臥漫録』を「すこしも情をためず何も彼もしるしつつある」作品と認識していたことがわかる。一方で『仰臥漫録』の存在は秘密ではなく虚子を始めとする門弟らは内容を把握していた。虚子は「ホトトギス」編集者の視線で公表してかまわないレベルの作品と捉えていた。
晩年の子規病床エッセイは俳句的な客観的自己心理写生から短歌的自我意識描写へと進んでいる。家や家族や恋人といった狭い人間関係に限られるが短歌はそれを一つの世界として捉え、どこまでも自我意識を肥大化してゆける文学である。肥大化した自我意識が他者を飲み込んで濃厚な夢想空間を作り上げるのだ。極端に至れば世界=自我意識となり、逆接的だが自我意識にとらわれることなく自己と他者の赤裸々な関係性や、自己の恥ずべき愚行や心の動きなどをあたかも他人事のように描けるようになる。
子規が俳句革新から生み出した写生理論は漱石によって受け継がれ、欧米文学の模倣ではない日本的近現代小説の基礎となっていった。晩年の病床エッセイはその構造から言って――芥川龍之介が『仰臥漫録』を読んで気づいたように――私小説の原型になっている。たいていは狭い家の中で主人公の自我意識が極端に肥大化し、世界=自我意識となることで自我意識が客体化され、他人事のように自己心理と自他関係を描いてゆく短編小説である。私小説が日本文学独自の小説形態だと言われるのはその源流を短歌文学にまで遡れるからである。また近代以降で俳句がほぼ小説家を生んでいないのに対し、短歌が樋口一葉や伊藤左千夫、長塚節、岡本かの子らを輩出している理由もここにある。
晩年の病床エッセイを読んだ多くの人は子規の苦しみに同情する。しかし同時に子規の泣き言や繰り言に異様なほどの強さを感じ取るはずだ。書き方に確信があるからである。子規は病者である前に文学者でありすべてが文学に繋がっていた。高尚な理念が傑作を生むわけではない。俳句・短歌も病床エッセイもとっかかりは俗っぽいささやかな現実だ。作家に確信があれば作品はいずれ高いレベルへと飛翔してゆく。子規に残された時間は少なかったが俳句・短歌革新運動の成果を援用して散文でも新たな文学を生み出している。
日本新聞に加え「ホトトギス」にも書かなければならなくなったので子規の俳句関係文章は「ホトトギス」に、短歌関連や病床エッセイは日本新聞に掲載されるようになった。明治三十三年(一九〇〇年)十二月に子規は日本新聞に「旋頭歌を募る」を掲載した。旋頭歌は記紀、『万葉集』などに収録された和歌以前の原初的古代歌謡である。短歌の発生に遡ってさらに新たな試みを行おうとしたわけだが形にならなかった。見るべき旋頭歌の投稿がなく子規のわずかな実作が掲載されただけで終わった。
伊藤左千夫は頻繁に子規庵を訪れ子規の指導を仰ぐとともに、子規派(根岸派)歌人の歌誌を刊行したいと申し出た。しかし子規は許可しなかった。現在では「ホトトギス」は専門俳誌だが子規はあくまで総合誌を目指していた。子規死去の翌年、明治三十六年(一九〇三年)に伊藤左千夫中心に創刊された歌誌「馬酔木」が子規生前には総合文学集団だった子規派最初の分裂になった。
俳句では明治三十五年(一九〇二年)四月に『獺祭書屋俳句帖抄 上巻』が刊行された。評論集では『獺祭書屋俳話』などを刊行していたが初めての作品集である。これに先立って「ホトトギス」に序文「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」が掲載されたが子規の俳句理解の高さを示す優れた評論である。『蕪村句集』輪講会なども定期的に開催されており子規の俳句探求は徐々にまとまった形になりつつあった。しかし十全に表現する時間はなかった。
生きたまま身体が壊死してゆく地獄のような苦しみに呻吟していたが、それでも子規は楽しみを見出した。浅井忠に贈られた鳥かごで鳥を飼ったりした。鋳金家の香取秀真の指導で粘土細工も作ってもいる。最後の二年間は中村不折から絵具を贈られたのをきっかけに絵を描くのを楽しみにした。『果物帖』『草花帖』『玩具帖』と三冊の絵画帖を残した。皆川澄道所有の江戸後期円山派の画家渡辺南岳の『南岳草花画巻』を見て、どうしても譲ってほしいとだだをこねてもいる。肉体は滅びかけていたが精神は新しい刺激を求め続けていた。『南岳草花画巻』は子規が亡くなるまで貸与されることになった。
絵画といえば漱石も晩年絵を描いた。面白いことに近代的自我意識文学の確立者と言われる漱石は伝統的な南画(基本的には儒者が描く山水画)を好んだ。これに対し古典的俳句短歌を専門とする子規の絵は基本ヨーロッパ写生絵画である。二人ともプロの画家になろうという気はなく自分なりに優れた絵を描いてみたいと思っていただけだったが、楽しみと息抜きのための絵だからこそ自ずから専門分野とは違うタイプの絵になったようだ。なお絵も書もどう見ても子規の方がうまい。ただ南画はなぜかは老人にならないと魅力的にならない不思議な画である。五十歳(満四十九歳)で亡くなった漱石には酷かもしれない。
子規は病苦の最中でも来客を断らずお客は子規の書いた原稿類を好きに見ることができた。絵画帖もそうで譲ってほしいと言う人も多かった。富山の俳人山口花笠もその一人である。「実はナア一枚位譲つてもよいのだけれど、近頃の此の病身を慰めるものは殆(ほと)んど尽きて仕舞て居るので、病閑をぬすんで書いた其絵が一枚でも余計になるのが何より嬉しいのだ。(中略)君さう欲しいのならば、死だ後でやるから、好きなのに裏書をしておけよといはれた。有難うと謝して裏書すべく裏をみると、僕ばかりではない。左千夫君初めいろいろの人様々に、貰うつもり、貰ひましたなど鉛筆の走り書きもあれば墨痕あざやかなのもある。僕も五月三十一日貰ひましたと墨で書いて署名しておいた」(『子規先生追懐記』明治三十五年[一九〇二年]十二月)と回想している。
もうすぐ死ぬだろうことを、子規はもとより周囲の人々も覚悟していた。ただ誰もそれを隠そうとしなかったのは子規の死生観による。病床エッセイは生への希望と死への恐怖で満ちている。しかし日常の子規は痛みで泣き叫ぶことはあっても死に対しては恬淡としていた。
明治三十五年(一九〇二年)九月十八日、子規は朝から痰が切れずに苦しんでいた。かかりつけの宮本医師が駆けつけ陸羯南、碧梧桐、遅れて虚子が子規庵に集まった。子規は午前十一時頃律と碧梧桐に支えられて画板に貼った唐紙に三句の俳句を書いた。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
明治三十四年(一九〇一年)六月から子規庵の病室前に糸瓜棚がしつらえられていた。日除けと糸瓜の水を取るためである。糸瓜の水は昔から痰切りや咳止め薬として使われていた。子規の状態は重篤だった。母八重は松山の大原恒徳に「シキヤマイオモシ」と電報を打った。ただ誰も子規が死ぬとは思っていなかった。何度もこのような状態を乗り越えていた。
明治二十八年(一八九五年)に中国から戻って喀血して危篤状態になった時に、初めて『病床日誌』がつけられた。その後も何度も虚子と碧梧桐が同様の日誌をつけた。門弟が当番制で看病していたので必要事項の申し送りの目的があるが、あからさまに言えば子規臨終記を残すためでもあった。三十五年(〇二年)一月に危篤状態になったときも虚子と碧梧が『病床日誌』をつけた。しかし九月には『病床日誌』は記録されていない。
翌九月十九日の午前零時過ぎ、ときどきうなっていた子規が静かになったので八重が手をとるとすでに冷たくなっていた。結果として糸瓜の三句が辞世になった。羯南や碧梧桐はいったん家に戻り、子規庵には八重と律のほかに虚子が泊まっていただけだった。子規死去を電報で報せるために外に出た虚子は「子規逝くや十七日の月明に」と詠んだ(当日は陰暦八月十七日)。月が明るい夜だった。翌朝左向きになっていた遺体を八重と律が真っ直ぐに直した。八重が泣きながら「サア、もう一遍痛いというてお見」と言って碧梧桐を粛然とさせた。
子規は東京田端の大龍寺に葬られた。生前の意向で葬儀も墓石も簡素だった。ただ子規庵のある根岸鶯横町は会葬者で溢れた。今も大龍寺に墓がある。子規庵は八重と律によって守られたが昭和二十年(一九四五年)の東京大空襲で焼失した。原稿などの遺品は寒川鼠骨が建てた土蔵に保管されていて焼失をまぬかれた。子規庵も鼠骨らの尽力で昔の姿のまま再建された。松山に行くと坊ちゃんスタジアムに坊ちゃん列車と、「貴君(子規)の生れ故郷ながら余り人気(人間の気質)のよき処では御座なく候」(明治二十八年[一八九五年]十一月六日)と書いた漱石尽くしだが、昭和五十六年(一九八一年)に松山市立子規記念博物館が建てられた。子規の原稿や絵画、手紙の多くが現在博物館に収蔵されている。
鶴山裕司
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* 『正岡子規論-日本文学の原像』(日本近代文学の言語像Ⅰ)は毎月21日に掲載されます。
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