金魚屋プレスより刊行予定の鶴山裕司著『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『夏目漱石論-現代文学の創出』(近刊)、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』が順次刊行されます。(文・石川良策)
by 鶴山裕司
Ⅱ 子規小伝(五)
■短歌革新の時代――明治三十一年から三十三年(三十二歳から三十四歳)■
明治三十一年(一八九八年)二月十二日、紀元節の翌日に子規は日本新聞に『歌よみに与ふる書』の第一回を発表した。以前から短歌革新(改良)に意欲を見せていたが、いよいよそれを実行に移したのだ。しかし意外なところから批判の矢が飛んできた。
江戸時代から和歌(短歌)は貴族や高級武士の趣味、俳諧(俳句)は庶民のお遊びという不文律的区分があった。明治になり天皇の肝煎りで宮中御歌所が創設されたことでさらにその傾向が強まっていた。子規短歌革新運動はいわゆる不敬とは無縁だが、そのセンセーションを狙う過激な論調には日本新聞社内の短歌愛好家たちからも疑問が呈された。最大の問題は庇護者である日本新聞社主陸羯南が論調を緩めるよう要請してきたことだった。
従来の俳句を非として新俳句を作りはじめ候は恰も今日の和歌を非として新和歌をものせんとすると同一轍に出でしものなれど俳句は社会の或一部に行はれて士君子の間には行ハれ居らざりしを以て殆ど反対の声なしに世にのり出し申候。(中略)然れども(中略)和歌に付きての愚論愚作を発表致し候ハバ攻撃四方に起り可申候。勿論外部の攻撃を恐るるやうな弱き決心にては無之候へども恐るる處は内部の攻撃に有之候。(中略)最早歌を出すことが出来ぬといふやうな始末にては余りに残念に存候に付予め御願ひ申上候わけに御座候。私がつくり候歌なる者を続々新聞へ載せてもよろしく候や。右御許を得候はば外の諸氏の攻撃あるとも構わずやる積リに御座候。旧政府を倒して新たに新政府を組織する際に攻撃を受くるは当然の事にて且つ新政府に必ず伴ふべき多少の欠点も有之候べけれどそは漸次改良致すべき考に御座候。
(明治三十一年[一八九八年]二月二十三日付陸羯南宛手紙)
子規は羯南に長文の手紙を書いて短歌革新運動の許可を得た。羯南という理解者がいなければ子規の短歌革新は実現できなかった。ただ『歌よみに与ふる書』執筆時点では子規の短歌に関する思考は俳句ほどは熟していない。短歌革新運動を御維新になぞらえているが「改良致すべき」「欠点」があるというのは正直な言葉である。
よく知られているように『歌よみに与ふる書』は「仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉集以来実朝以来一向に振ひ不申候」で始まる。原理主義者の子規は『万葉集』から『古今和歌集』『新古今和歌集』、そして源実朝の『金槐和歌集』に至る古典は読んでいた。簡単に言えば『万葉』から『金槐和歌集』に至る短歌史を延長することで新たな短歌文学のヴィジョンを得ていたのである。このヴィジョンに従えばいわば短歌を俳句化することが革新の第一歩のはずだった。
『歌よみに与ふる書』に先立つ明治二十七年(一八九四年)の『文学漫言』で、子規は「先ず改良の第一着として和歌俳句の調和を謀らざるべからず。其調和を謀るには先ず和歌の言語に俳句の意匠を用いるを以て第一とす。和歌の言語とは単に雅言を用い古文法を用うるの謂に非ず。俳句の意匠とは固より俗情を穿つの謂に非ず。一言にして之れを云はば三十一文字の高尚なる俳句を作り出たさんとするに在るなり」と書いた。
初期の短歌革新運動はほぼ『文学漫言』の言葉どおりに進んだ。有職故実的な規則でがんじがらめに縛られていた短歌に俳句的な俗語を取り入れ、口語や外来語を使うことも可とした。また俳句と同様に写生を奨励した。子規の文学手法は地を舐めるような写生にあるので当然のことだが、『万葉集』から約五百年にたどりついた『金槐和歌集』の短歌に、いずれも単純素朴で力強い写生歌が多いこともその理由だった。
しかし短歌革新は当初のもくろみ通りには進まなかった。子規は明治三十一年(一八九八年)三月二十五日に子規庵で初めて歌会を開いた。松山版「ほととぎす」で「予等の俳句に成功したる力は、また和歌に於ても成功すべきを疑はず、諸君斯道の為を思はば揮つてまたその団坐に交われ」と参加者を公募した。だが集まったのは虚子、碧梧桐、石井露月、福田把栗、竹村秋竹、梅沢墨水の俳人ばかりだった。子規は俳人たちが詠む短歌に愕然とした。「俳人の作りし歌は俳句の下に十四文字を添へたる如き観あり。いと見ぐるし」(『歌話』三十二年(九九年)と強い不満を漏らしている。
現代でも同じだが俳句と短歌の垣根を越えることができた作家はほとんどいない。子規がジャンルを超越できたのは俳句と短歌の本質を原理にまで遡って理解しようとしたからである。しかし子規門俳人に子規と志を同じくする作家はいなかった。誰もジャンルの垣根を越えられなかったのである。子規は『歌よみに与ふる書』の批判に答える評論『あきまろに答ふ』『人々に答ふ』などを書き、自作短歌を旺盛に日本新聞に発表した。しかし明治三十一年中にはもう歌会は開かなかった。
状況は翌明治三十二年(一八九九年)に変わり始めた。矢継ぎ早に発表した短歌と歌論が一定の影響力を持つようになったのだ。二月初旬に香取秀真と岡麓の二人の歌人が子規庵を訪ねて来た。秀真は東京美術学校(現東京藝術大学)の鋳金科を出た工芸作家だが若い頃から短歌を好んだ。後年鋳金の大家になるが子規を訪ねた頃はまだ貧乏な無名作家だった。岡麓も無名歌人に過ぎなかった。三十三年(一九〇〇年)一月には伊藤左千夫が子規庵を訪ね、三月に長塚節が門人となった。左千夫は今の東京錦糸町で牛を飼い牛乳を製造販売していた。江戸時代の歌人ではあり得ない職種についていた人だ。当初子規短歌革新に懐疑的で繰り返し批判を書いていたが、業を煮やして子規庵を訪ね議論するうちに考えを改め師事したのである。節はまだ白面の文学青年で自ら短歌の指導を受けにやって来た。
彼らは子規を中心とした根岸短歌会の主要メンバーとなり、子規没後に根岸派の歌誌「馬酔木」を創刊した。「馬酔木」が廃刊になると左千夫は歌誌「アララギ」を創刊し、そこから島木赤彦、斉藤茂吉、中村憲吉など大正・昭和時代を代表する歌人たちが育ったのは衆知の通りである。なお秀真は明治七年(一八七四年)、麓は十年(七七年)、節は十二年(七九年)年生まれで子規より年少だが、左千夫は元治元年(六四年)生まれで三歳年長だった。
俳句でも短歌、写生文(小説)でも子規文学は渦巻のように周囲の文学者を巻き込んでゆく。秀真らが現れてから短歌革新運動は急速に変化し深化し始めた。子規は当初の短歌文学ヴィジョンに沿って明治三十二年(一八九九年)に『万葉集十六』や『曙覧の歌』を書いた。短歌文学の基礎を確認し、橘曙覧の短歌にいわゆる万葉的な〝ますらをぶり〟を見出したのである。曙覧は最幕末の歌人で率直で質実剛健な歌を詠んだ。
子規は短歌は「万葉集以来実朝以来一向に振ひ不申候」といささか乱暴な断定を下したが、それは源実朝以降の室町・江戸の短歌をほとんど読んでいなかったことの裏返し表現でもある。幕末国学を代表する本居宣長や賀茂真淵、同時代に一世を風靡していた桂園派の歌は読むに値せずと切って捨てていたわけだ。しかし短歌を本格的に作り始めればそれでは済まない。実朝以降で現代と繋がる歌人が必要になる。子規はそれを曙覧や田安宗武、平賀元義らの歌に見出した。宗武は江戸中期、元義は最幕末の人である。
また子規の短歌創作(指導)は俳句と同様に連作(即詠・多作)を基本とした。写生も基本である。しかし同じ方法でも短歌と俳句は自ずから異なる表現にならざるを得ない。
愚庵禅師御もと つねのり
みほとけにそなへし柿のあまりつらん我にぞたびし十あまり五つ
柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬしぶきぞうまき
籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん
世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柿くひて猿にかも似る
おろかちふ庵のあるじかあれにたびし柿のうまさのわすらえなくに
あまりうまさに文書くことぞわすれつる心あるごとな思ひ吾師
発句よみの狂歌いかが見給ふらむ
(明治三十年[一八九七年]十二月二十九日付天田愚庵宛手紙)
天田愚庵は磐城平藩(現福島県)の武士の息子で臨済宗の僧侶で歌人だが、戊辰戦争で父母妹と生き別れになったことから明治新政府を深く恨み、前半生は肉親探しと数々の反政府活動に明け暮れた。徳川家達(徳川宗家十六代当主)に随従して静岡にいた山岡鉄舟に見出され幕末明治の侠客清水次郎長の養子となり、『東海遊侠伝』を書いて博徒狩りで刑務所に収監されていた次郎長の嘆願運動をしたことでも知られる。『東海遊侠伝』を種本に数々の次郎長物語が作られた。子規とは歌を通して交流があり短歌は愚庵から柿を贈られたことの返礼である。
愚庵宛短歌は柿をテーマにした連作である。写生俳句では自我意識を希薄にし、目の前の事物(風物)を元にして様々な言葉を取り合わせてゆく。いわば意識と無意識のはざまで選ばれ組み合わされた言葉が、日本文化のある本質を的確に射貫く瞬間を待つのである。しかし短歌は異なる。写生は写生的方法と言った方が正しく、事物を目の前にした自我意識の諸相を次々に詠んでゆく。その意味で短歌は原初的な世界分節文学である。
子規は言語表現としては短歌に俳句的なボキャブラリを持ち込みその基層を活性化させた。限られた雅語や古文法しか使ってはいけないという不文律から短歌を解き放ったのである。俳句での成果を踏まえ思想・感情表現の道具ではない写生的な歌を一つの理想とした。その一方で短歌が日本文学における原初的世界分節文学であることにも気づいていた。『短歌の調子』(明治三十一年[一八九八年])、『歌話』(三十二年[九九年])、『短歌愚考』(三十三年[一九〇〇年])などを書き、次第に歌の〝調〟についての思考を深めてゆく。
俳句より七七多い短歌では五七五/七七で切ってもよいし、五七/五七/七、五七/五七七で切ってもよい。五七五七七と続けるのべつ調もある。ほかの切り方も可能だ。この切り方が世界文節になる。俳句が外界を客観描写して世界原理そのものを表現する文学であるのに対し、短歌は自我意識中心に世界を分節してゆく文学だということだ。短歌は自我意識と世界内要素――つまり自他の関係性から成り立つ文学である。
十四日、オ昼スギヨリ、歌ヲヨミニ、ワタクシ内へ、オイデクダサレ
上根岸八二
正岡升
(明治三十二年[一八九九年]三月十三日付岡麓宛葉書)
岡麓宛葉書は子規庵で開催される歌会の案内状である。俳句には挨拶の句と呼ばれる作品がある。慶弔の際に書き送ったり親しい友人との長い別れの際に句を交換したりする。子規は自在な作家であり挨拶の句の名手でもあった。漱石英国留学の際に贈った留別の句「秋の雨荷物ぬらすな風邪引くな」などがよく知られている。挨拶の句では作品意識をいかに押さえ込むのかがポイントになる。文学作品という意識があると嫌味になるのだ。相手との関係を前提にサラリと心情を風物に流してやるのである。
しかし岡麓宛の短歌には関係性しか表現されていない。短歌の調子で書かれた連絡文だと言えないこともない。だが子規は同じ質の短歌を「はがきノ歌」と題してまとめて発表した。はがきノ歌で歌集を作ることも構想していた。例によって書きまくることで偶然に生まれた短歌だが、それが短歌の原理的なあり方の一つだと気づいたのである。平安短歌とは修辞的に全く異なるが相手との関係性を全面に押し出した歌である。子規はこのミニマルな短歌的関係性をヒントに最晩年のエッセイを書くようになる。
俳句では柳原極堂が松山で出していた「ほととぎす」を虚子が東京で引き継いで刊行するという大変化が起こった。新聞経営で多忙な極堂は「ほととぎす」編集作業にまで手が回らなくなったのだ。「ほととぎす」を引き受けてほしいという要請に子規は難色を示したが、松山に帰省していた虚子が極堂と話し合って東京で出すことが決まった。虚子は当時二十五歳で仙台の第二高等学校を中退して新聞社などで働き始めていたが、社会人としても文学者としても未熟だった。
今一つ気になって居るのは「俳諧」といひ「小日本」といひ小生の関係した物は尽く失敗に終つた 尤も小生が自ら発起した者は無い 小生自ら発起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生は中々発起などせぬ 併し幾ら他人に誘はれたものでも三度となると少しは小生の男にもかかる 「ほととぎす」は三度目ぢやけれ代りの雑誌が出来りや格別さうでなければどうかして倒さぬやうにと心がけて居る それであるから今度の計画に就いても二の足を踏む次第ぢや 併し男ぢや只貴兄の決心次第ぢや
貴兄はたやすく決心する人でなかなか実行せぬ人ぢや(中略)小生ひとり必死でやるのに貴兄が存外冷淡であつたり疲労して寝てしまつたりせられては困る(中略)一旦志を決した上は貴兄にも碧梧桐にも頼まぬ自分一人でやらいでと思ふてやつて居る 苦しい事は話にならぬ 試みに恨をいふなら貴兄等は存外冷淡な 今度雑誌を出したら貴兄は必死にならるるであらう 極堂と同日の論ではあるまいと思ふけれども今迄の事を思ふと何やら心細い處もある
それから文学の区域の事ぢやが初は俳句が主になること勿論であるが少くも韻文だけは包含して置きたい 今少し小生をして望ましめば初めから新体詩と歌と俳句と平等にやつて行きたい(小説抔はあつてもなくても善い事として)併し俳句さへ困難なのだからとても其外は覚束無い 矢張り俳句八分其他二分位で始めねばなるまい
(明治三十一年[一八九八年]七月一日付高濱虚子宛手紙)
『俳諧』は椎の友会の伊藤松宇が中心になって明治二十六年(一八九三年)に刊行した俳誌だが二号で廃刊になった。子規は全面協力する予定だった。松山版「ほととぎす」も実質的に子規主筆だが子規は比較的気楽に構えていた。しかし虚子が東京で引き継ぐとなると話は別だった。ジャーナリズムが未熟で印刷製本も大変だった当時、雑誌を出すのは費用も労力もかかる大仕事だった。出版事業にはほぼ素人の虚子に子規は当然不安を抱いた。ただやるなら決死の覚悟で臨むとも書いている。道灌山で後継者になることは断られたが、虚子は子規が最も将来を期待する文学者だった。だが当時の虚子の力では雑誌をまとめ上げられなかった。子規が精力的に書かざるを得なかったのである。
子規はまた雑誌を最低でも詩の総合誌にするというプランを抱いていた。短歌、俳句、新体詩(自由詩)を平行して創作し、評論でその諸問題と可能性を探究したいと考えていたのである。この総合文学的姿勢は子規死後も一定期間継承された。子規周辺にいた文学者は多かれ少なかれ彼の総合文学的姿勢に影響を受けている。
東京版「ホトトギス」(松山版と区別するためカタカナ表記するのが通例)は明治三十一年(一八九八年)十月十日に刊行された。子規は九本もの原稿を掲載した。子規の不安は結果としては杞憂に終わり評判も売り上げも上々だった。三十二年(九九年)十二月上旬には虚子のはからいで子規庵にガラス障子が取り付けられた。ほぼ仰臥状態で一日を過ごす子規には太陽の光が差し込み外の景色が見えるだけでも大きな喜びだった。三十三年(一九〇〇年)一月からはホトトギス発行所から毎月十円をもらうことになった。
ただ本業の日本新聞記者の仕事に加え短歌と歌論を書き、「ホトトギス」に俳句と俳論を発表するのは病身の子規には大きな負担だった。頻繁に徹夜して原稿を仕上げていた。明治三十三年(一九〇〇年)八月十三日朝、子規は喀血した。日清戦争従軍からの帰国以来の大喀血だった。喀血後の疲弊は甚だしかった。漱石が寺田寅彦とともに子規庵を訪ね、イギリス留学の暇乞いの挨拶をした八月二十七日夜、伊藤左千夫が静養のため静岡県興津への転居を勧めた。左千夫はこの年師事したばかりだが情に厚く子規を心から尊敬していた。子規も心動かされた。少しでも長く生きて仕事をしたかったのである。
この興津転居は虚子、碧梧桐、鳴雪、左千夫、麓ら主だった子規門弟はもちろん叔父の加藤拓川をも巻き込んだ大問題となった。金がかかるという実際上の障害はあったが、それ以上に通信手段が貧弱な当時、子規が身近にいなければ歌人も俳人も途方に暮れねばならなかった。何度も会議が開かれ十月十六日、興津移転は廃案となった。翌十一月に伊藤左千夫が子規庵に暖炉を据え付けてくれた。子規は健康状態を考えれば驚くべき量の仕事をこなしていたが、十一月以降、子規庵での歌会、句会はすべて廃止することになった。
子規は明治三十二年(一八九九年)までは人力車を使ってしばしば外出していた。しかし三十三年(一九〇〇年)末には布団から動けなくなった。三十年(一八九七年)三月二十八日付虚子宛手紙で「小生ハ感情の上にては百年も二百年も生きられるやうに思ひ居候故に病気のために遠大の事業をやめる抔申ことは無之候 併シ道理の上よりは明日にも死ぬるかと存候(中略)感情が正しきか道理が正しきかといはばいふ迄もなく道理正しく候 それにも拘らず感情正しきやうに思ふハ即ち凡夫の凡夫たる所以に候 人間が凡夫でなかつたら楽もへちまもあつたものにハ無く候」と書いた。子規の精神は活発で健康だった。しかし肉体の方が先に滅びかけていた。
鶴山裕司
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* 『正岡子規論-日本文学の原像』(日本近代文学の言語像Ⅰ)は毎月21日に掲載されます。
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 正岡子規の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■