金魚屋プレスより刊行予定の鶴山裕司著『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『夏目漱石論-現代文学の創出』(近刊)、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』が順次刊行されます。(文・石川良策)
by 鶴山裕司
Ⅱ 子規小伝(二)
■喀血と雅号子規――明治二十一年から二十四年(二十二歳から二十五歳)■
明治二十一年(一八八八年)七月に第一高等中学校予科を卒業した子規は松山には帰省せず、東京向島の長命寺内にある桜餅屋月香楼で一夏を過ごした。雅文集『無可有洲七草集』(『向島七草集』)を書くためである。「蘭之巻」(漢文)、「萩之巻」(漢詩)、「をミなへし乃巻」(和歌)、「尾花のまき」(俳句)、「あさかほのまき」(謡曲)、「葛之巻」(向島地誌)、「瞿麦の巻」(小説)の七篇から構成される。秋の七草を篇名にしているのでこの書名がある。これに友人たちに回覧して求めた批評「七草集批評」を加えて一冊にまとめた。口絵に絵葉書十六枚を貼り、手描き地図なども含む遊び心に富んだ冊子である。
若書きだが『七草集』の漢文、漢詩、短歌、俳句、謡曲、エッセイ、小説という構成は当時の文学状況の反映である。また当時の子規の文学的興味のすべてでもあった。維新後も日本の伝統文学である短歌と俳句は当然のように書き継がれた。江戸時代からほとんど変化しなかったと言ってよい。漢文・漢詩は子規のような幕末生まれの子弟には必須の教養だったがすぐに不要になった。欧米言語の習得がより重要になったのだ。
日本は有史以来中国を文化的規範とし、漢文によって先進文化を朝鮮半島経由で受け入れ続けた。ヨーロッパでは中世までラテン語が書き文字の共通言語だったが、東アジア圏では漢文がその役割を担った。漢文が読めなければ最新知識を得られなかったのである。しかし明治維新で日本の文化的規範はあっさりヨーロッパに変わった。短く見積もっても千五百年に一度の大変革である。漢文は急速に廃れ欧米言語がそれに代わった。またこの激変に呼応して、漢詩に代わってヨーロッパ詩を模倣した新体詩(自由詩)が新たな文学ジャンルとして誕生した。
漢詩が中国経由の最新思想のアンテナ表現だったのと同様に、現代の現代詩に至るまで自由詩はヨーロッパ最新文化・思想のアンテナ的前衛表現だった面がある。子規もじょじょに新体詩の創作に手を染めるようになった。ただ明治二十一年当時はまだ新体詩の揺籃期で詩といえば漢詩を書く作家が多かった。小説は幕末の滝沢馬琴らの登場でピークを迎えたが、これも維新後のヨーロッパ文化の大流入で変化を余儀なくされていた。だが『七草集』執筆当時は文語体で書くか言文一致体で書くかという方向性すら定まっていなかった。
檐のはにうゑつらねたる樫の木の下枝をあらみ白帆行く見ゆ
隅田川かりのすまゐに三たひまでミちたる月をなかめてしかな
(「をミなへし乃巻」より 雅号「うすむらさき」)
世の塵を水に流すや向島
夏の夜のあけ残りけり吾妻橋
(「尾花のまき」より 雅号「眞棹家丈鬼」)
『七草集』所収の短歌と俳句で平明な写生作品である。子規が仮寓した長命寺は隅田川沿いにあり川を行き来する船がよく見えたのだろう。子規文学は写生短歌・俳句で知られるようになるが、『七草集』を読むと写生が文学理論を超えた子規の基本的資質だったことがよくわかる。「葛之巻」は地名を元に向島界隈の歴史を解明しようとしたエッセイで、「瞿麦の巻」は狂女が人さらいに連れ去られた我が子を隅田川べりで探す能の『隅田川』を題材にした文語体掌編小説である。あらかじめ書きたい作品が念頭にあったわけではなく、向島に滞在して初めて『七草集』という作品集が生まれた。子規は場所や状況が変われば水のようにそれに沿って文学作品を生み出せる作家だった。それは雅号の使い方にも表れている。
『七草集』で、子規は文学ジャンルごとに完爾少年(漢文)、獺祭漁夫(漢詩)、うすむらさき(和歌)、眞棹家丈鬼(俳句)、無縁癡仏(謡曲)、野暮の舎蕪翠(向島地誌)の雅号を使い分けている。雅号は江戸時代まで、貴族や武士が本業以外の趣味的芸事を行う際の別名だった。本名を出すのがはばかられる立場だったのである。現代的に言えば雅号はペンネームということになるが、江戸時代には雅号を使えば違う人の生という暗黙の了解があった。雅号はまた封建社会の改名とも関係している。
江戸は厳格な身分社会だった。子供の頃の扱いは同じでも、元服すれば医者の息子は医者、家老の息子は家老の道を歩み始める。改名はそのような人生の節目で行われた。改名によって当人は家ごとに与えられた自己の社会的使命を自覚し、周囲の人間も、たとえ相手が年下であっても改名と同時にその地位に応じた慇懃な対応に改めたのである。
子規の雅号の使い方は基本的に江戸の人と同じである。わたしたちは今日、本名・正岡常規の作品すべてを子規の仕事と捉えている。しかし正岡が短歌や短歌関連評論を書く際の雅号はすべて「竹乃里人」であり、厳密に言えば短歌の仕事で子規という人格(雅号)は存在しなかった。俳句、短歌、小説といった違うジャンルの文学に手を染める時、正岡は基本的には別人格を仮構している。最晩年に至るまで複数の文学作品を書くマルチジャンル作家でいられた由縁である。正岡文学が子規の名の下にまとめられたのは俳句が彼の主要な仕事だったからである。また彼の人生における一大事に直結した特別な雅号だったためだ。
子規は七月から九月まで向島に滞在したが、八月に佐田八次郎に誘われて鎌倉に小旅行に出かけた。大雨の中鶴岡八幡宮の頼朝の墓に詣でたが、鎌倉宮に向かう途中で暴風雨となり子規は冬のような寒さを感じて二度喀血した。この時の喀血はそれきりで治まり医者にも診せなかったが、翌明治二十二年(一八八九年)、旧松山藩主久松家が松山の子弟のために建てた常磐会寄宿舎で子規は再び喀血した。この顛末を子規はエッセイ『子規子』にまとめている(生前未発表)。
被告「五月九日に突然(何の前兆もなく)喀血しました。(中略)翌十日は学校に行かんと思ひましたが 朝寝して遅刻しましたから友達の勧めに従ふて医師の處へ行き診察を請ふと 肺だといふので自分でも少し意外でありました 医師はまた其日は熱が出るから動くなといひましたが 據なき集会があつて其日の午後には本郷より九段坂まで行き 夜に入りて帰ると又喀血しました それが十一時頃でありましたが それより一時頃迄の間に時鳥といふ題にて発句を四五十程吐きました(中略)これは旧暦でいひますと卯月とかいつて卯の花の盛りでございますし 且つ前申す通り私は卯の年の生れですから まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして『卯の花をめがけてきたか時鳥』『卯の花の散るまで鳴くか子規』などとやらかしました 又子規といふ名も此時から始まりました 箇様に夜をふかし脳を使ひし故か翌朝又々喀血しました 喀血はそれより毎夜一度づつときまつていましたが 朝あつたのは此時ばかりです
(『子規子』「喀血始末」明治二十二年[一八八九年])
雅号の由来を書いた『子規子』は序文に「喀血始末」「血の綾」「読書弁」の三篇構成とある。「喀血始末」は閻魔大王と子規の対話である。「四五十程」の俳句は「血の綾」に収録されていたようだが原稿は散逸した。この時詠んだ句でわかっているのは「喀血始末」にある二句だけである。子規は明治二十年(一八八七年)に大原其戎の指導を受けて俳句に本腰を入れたが、この頃には即座に四、五十句を詠む力を蓄えていた。
雅号「子規」はホトトギスの口の中が赤く、鳴くたびに血を吐くように見えると古くから言い伝えられてきたことからの連想である。「喀血始末」は戯作調の軽い文章だが、結核と診断されたことは子規の人生に暗い影を投げかけた。当時結核は治療方法のない死病だった。空気が綺麗で温暖な場所への転地療養くらいしか治療方法がなかったのである。しかし子規は学業を中断して療養に専念しなかった。ただこの時から俳句の雅号・子規が定まったのは喀血が人生の一大事だったからである。
子規は上京以来叔父藤野漸の家を手始めに下宿を転々としていたが、明治二十二年(一八八九年)十一月に常磐会寄宿舎に入った。以後日本新聞入社が決まり、松山から母八重と妹律を呼び寄せて東京根岸に居を構える二十五年(九二年)十一月まで腰を据えた。この常磐会時代に後に子規派と呼ばれることになる俳人たちとの本格的交流が始まった。
初期の子規の俳句仲間は従兄弟の藤野古白、それに五百木瓢亭、新海非風、大谷是空、内藤鳴雪らだった。古白、瓢亭、鳴雪は松山人である。瓢亭は医者で日清戦争に従軍し、退役後はジャーナリストとして活躍した。三宅雪嶺創刊の「日本及日本人」を引き継ぎ主宰を務めた国粋主義者としても知られる。非風も軍人だったが若くして結核で亡くなった。是空は岡山県出身だが東京大学予備門時代に子規と知り合った。俳句はもちろん小説の実作でも切磋琢磨し合った仲である。
古白らが子規とほぼ同世代だったのに対し、鳴雪は弘化四年(一八四七年)生まれで二十歳も年長だった。武士として育ったが若い頃から文芸を好んだ。子規との交流は明治二十二年(一八八九年)五月に常磐会監督となったことから深まった。子規派は宗匠制を採っておらず子規を中心とした緩い繋がりの文学者集団だったが、鳴雪は息子くらいの年の子規に実質的に入門したのだった。寄宿舎監督を巻き込んでから子規らの文学熱はますます盛んになった。また翌二十三年(九〇年)から子規高弟となる河東碧梧桐との本格的交流が始まった。最初は手紙を介しての俳句の添削指導だった。
東京で知り合った最も重要な友人は言うまでもなく夏目漱石である。子規と漱石は東京大学予備門に同時に入学したが、付き合い出したのは明治二十二年(一八八九年)一月からである。漱石は共に落語好きで寄席の話をしたのがきっかけだったと回想している。漱石はまた「非常に好き嫌いのあつた人で、滅多に人と交際などはしなかつた。僕だけどういふものか交際した」(『正岡子規』漱石談話 四十一年[一九〇八年])と述べている。
子規と漱石の人生は、要所要所で不思議なほど重なり合っている。代表作は俳句と小説に分かれたが、共に文学専門の新聞記者となった。漱石は子規死後に入れ替わるように文壇デビューしたが、子規の実質的活動期間は約十一年、漱石は約十二年間である。子規は肺から血を吐く結核で亡くなり、漱石は胃から出血する胃潰瘍で亡くなった。子規は室町中期から幕末までの俳句を分類するという、ほとんど無謀な『俳句分類』によって俳句文学の本質を掴んだが、漱石は約一世紀にも渡る英米文学研究『文学論』によって小説文学の骨格を体得した。晩年に絵を描くのを趣味としたことも共通している。親友として交わるべき因縁を持った二人だが、それは出会いの時から始まっている。
漱石は子規の雅文集『七草集』に批評を書いた一人でその時初めて「漱石」の雅号を使った。子規と漱石の雅号は共に明治二十二年(一八八九年)に定まったのである。漱石は『晉書』「孫楚伝」の「漱石枕流」から取った雅号だ。孫楚は「石に枕し流れに漱ぐ」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤ったが、間違いを指摘されても「石に漱ぎ」は歯を磨くため、「流れに枕す」は耳を洗うためだと言い張って誤りを認めなかった。そのため「漱石」は頑固者、変わり者を意味する成語となった。子規を「非常に好き嫌いのあつた人」と評したが、学生時代の漱石もあまり人付き合いのいい青年ではなかった。
また明治三十八年(一九〇五年)一月に「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表するまで漱石は英文学者であり、文学者としては子規派の群小俳人の一人に過ぎなかった。子規没後に漱石と最も密に交わったのは虚子だが、虚子ですら漱石が爆発的に小説を書ける作家だとは予想していなかった。しかし子規は、彼が生きている間にはほとんど文学的才能を発揮していない漱石に一目置いていた。
漱石は子規の『七草集』に刺激を受け、明治二十二年(一八八九年)八月の房総半島旅行を題材に九月に漢詩文集『木屑録』を書き上げ友人たちに回覧した。子規は「余、以為えらく、西(ヨーロッパ文学)に長ぜる者は、概ね東(東洋文学)に短なれば、吾が兄も亦た当に和漢の学を知らざるべし、と。而るに今此の詩文を見るに及んでは、則ち吾が兄の天稟の才を知れり」(原文漢文)と直ちに漱石の文才を認めて激賞した。漱石は若い頃から高い詩才を持っていたわけだ。それは最晩年に『明暗』連載のかたわら、日々の日課として書いた漢詩に遺憾なく表現されている。
またデビュー作『吾輩は猫である』から『虞美人草』あたりまで、漱石は写生文派、低回派と呼ばれていた。子規写生文を受け継いだ作家という意味だが、描写が一箇所に固着して動きのない退屈な小説を書く作家たちと揶揄する呼び名でもあった。しかし漱石は「写生文は短くて幼稚だと言ふのは誤りで、幼稚どころか却て進歩発達したものと云ふても然るべき事と考えている」(『談話(文章一口話)』明治三十九年[一九〇六年])と自信に満ちた言葉を述べている。写生文作家を自認しただけでなく、その日本文学における独自性を確信していた。
残された作品だけを読めば子規と漱石の文学的交流は淡い。しかし漱石は子規文学の本質的意義を的確に理解していた。写生文(子規写生理論)の発展的継承者という意味で漱石は子規派から現れた最大かつ最上級の小説家である。子規もまた決して多作とはいえない漱石の俳句を読んで、「滑稽を以て唯一の趣向と為し、奇警人を驚かすを以て高しとするが如き者と日を同じうして語るべきにあらず。其句雄健なるものは何処迄も雄健に真面目なるものは何処迄も真面目なり」(『明治二十九年の俳句界』明治三十年[一八九七年])と評した。漱石のユーモアとそれとは相反する真摯な観念的資質を見抜いていたわけだ。子規も漱石も勘の良い作家だった。
子規は明治二十三年(一八九〇年)七月に第一高等学校(東京大学予備門から改名)を卒業すると九月に文科大学哲学科(後の東京帝国大学)に入学した。翌二十四年(九一年)一月には国文科に転科した。子規の資質から言って当然のことだが、松山を出た時に抱いた青雲の志は文学に絞り込まれるようになっていた。ただ最初に哲学を専攻したことは子規が文学を原理的に極めたいと志向する作家だったことを示している。
明治二十四年(一八九一年)五月には、子規派最大の俳人である高濱虚子との手紙を介した交流が始まった。子規派俳人の主な文学者が揃ったわけだ。子規門双璧は虚子と碧梧桐だが、碧梧が生前から子規を絶対的師として畏敬したのに対し、虚子は時に反発しながらその俳句を継承した。面白いことに子規は反抗心いっぱいの虚子の方をこそ愛した。後年「碧梧虚子の中にても碧梧才能ありと覚えしは真のはじめの事にて小生は以前よりすでに碧梧を捨て申候」(二十八年[九五年]十二月十日頃付五百木瓢亭宛手紙)と書いている。文学者の才能はその強い意志と不可分なところがある。子規は最後まで子規派の頂点に君臨したが、自らを脅かす若い力を疎まずむしろ歓迎した。
また明治二十四年(一八九一年)には子規の俳句作品が飛躍的に増大する。自筆句稿『寒山落木』収録俳句は二十三年(九〇年)に五十三句だったが、二十四年には二三四句に激増した。すでに二十二年(八九年)に原理的俳句研究『俳句分類』に着手しており二十四年には甲号、乙号を終え丙号の編集に進んでいた。二十四年にはしっかりとした俳句の基礎ができあがりつつあった。
子規が幕末俳句を「月並」と批判したことはよく知られている。幕末には月に一度景品を賭けて句の優劣を競う句会が大流行した。点取俳句や月並俳句と呼ばれる。子規はそういったお遊びの俳句を激しく批判した。俳句を文学として捉え直そうとしたのである。そのため月並俳句は子規周辺で低レベルのお遊び俳句の意味となり、やがて世間一般に広がって月並=凡庸を意味する明治の新しい成語となった。
月並俳句を嫌ったことからわかるように、子規は従来的な俳句制度に頭から従順ではなかった。実際子規は室町時代から現代に至るまで俳壇の常識となっている宗匠制(結社主宰制)を採らなかった。にも関わらず子規派は集団的営為である。この集団的営為の場を俳壇は宗匠を頂点とする結社制として制度化したわけだが、子規文学に即せば集団的営為は俳句・短歌独自の文学的問題であり必ずしも現実結社制度とは関わりがない。子規派は子規中心だが、俳句・短歌の実作において常に子規が最も優れた作家だったわけではないのだ。明治二十四年に子規の俳句熱が高まったのは、虚子と碧梧桐という俳句の集団的探求に不可欠な才能が揃ったからでもある。
さらに子規は明治二十四年(一八九一年)十二月に常磐会寄宿舎を出て東京本郷駒込の離れに仮寓し、小説『月の都』を執筆し始めた。いわゆるカンヅメになって小説を書き上げ文壇に打って出ようとしたのである。子規の小説執筆意欲は二十三(九〇年)頃から始まっていて同一月には掌編小説『銀世界』を書いていた。ただ『月の都』は手慰みではなく悲壮と呼べるほどの覚悟で臨んだものだった。子規文学の中核を為す俳句、短歌、散文エッセイ、小説の試みが出揃ったのである。ただし結果を言えば『月の都』は失敗に終わった。それが帝国大学を中退し日本新聞に入社するきっかけとなった。
鶴山裕司
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* 『正岡子規論-日本文学の原像』(日本近代文学の言語像Ⅰ)は毎月21日に掲載されます。
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 正岡子規の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■