金魚屋プレスより刊行予定の鶴山裕司著『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『夏目漱石論-現代文学の創出』(近刊)、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』が順次刊行されます。(文・石川良策)
by 鶴山裕司
Ⅱ 子規小伝(一)
■松山から東京へ――慶応三年から明治二十年(一歳から二十歳)■
正岡子規は慶応三年(一八六七年)九月十七日、伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に父隼太常尚、母八重の長男として生まれた(父と先妻の間に生まれた一男が死去したため戸籍上は二男)。松山藩士の常尚の役職は御馬廻加番、八重は松山藩では高名な儒者大原有恒(雅号観山)の長女である。
馬廻役は藩主の身辺警護を担う武士のことで、知行(藩主から与えられる俸禄)を世襲できる上士(上級藩士)だった。ただし加番はそれに準ずるという意味である。また幕末には数ある役職の一つとなり本来の役割が有名無実化していた。子規は父について毎日一升は飲む酒好きだったという以外、武芸や学問に秀でていたという話は聞いたことがないと書き残している。子規は武士だがさほど位の高くない父と高名な儒者の娘との間に生まれたのである。ただ生涯にわたって松山藩士の子、つまり士族であることを誇りとした。
子規が生まれた慶応三年は大政奉還の年であり、翌四年(一八六八年)九月に元号が明治に改元された。ただ変化はゆっくり起こった。明治四年(七一年)に廃藩置県が行われるまで大名は藩知事として引き続き藩を統治した。廃藩置県で大名は東京への移住を命じられ、以後は明治政府が任命した県令が各地に派遣されたのである。士族の家禄(世襲給与)も六年分を現金と公債で受け取る家禄奉還によって失われることになった。松山藩で家禄奉還が実施されたのは八年(七五年)のことである。そのため子規は八年前後までは従来どおり武士の子として育てられた。
子規は生まれてすぐ常規と名付けられ、明治政府最初の戸籍(壬申戸籍、明治四年[一八七一年])でも常規と記載された。ただしこれは元服後に名乗るはずだった名前で、出生当時は江戸の武士の慣習に従って最初は処之助、後に升という小字(幼名)が付けられた。そのため近親者や彼を幼い頃から知る者たちは終生子規を「のぼさん」と呼んだ。また祖父大原観山が西洋嫌いで斬髪を禁じたため、子規は九歳まで将来髷を結うための結髪(長髪)だった(以下子規の年齢は数え年で表記する)。八年になると子規の周囲で結髪の子供は二人だけになっていたので、子規は母に髪を切ってくれるようしきりにせがんだ。
明治五年(一八七二年)に父常尚が四十歳の若さで死去した(母八重はこの時二十八歳)。子規は後に酒の飲み過ぎによる肝硬変か脳溢血だったのではないかと書いている。父の死後は母方の祖父大原観山、その次男で大原家を継いだ恒徳が正岡家の後見となり子規一家を経済的、精神的に支えた。また観山の三男恒忠(雅号拓川)は養子となって加藤家を継ぎ、明治政府の外交官、政治家として活躍した。上京を切望していた子規に許可を与えたのは拓川だった。なお子規は妻帯せず妹の律にも子がなかったので、跡継ぎのいない正岡家は拓川の三男が律の養子となって継いだ。正岡忠三郎である。
大原観山は明治八年(一八七五年)に五十八歳で亡くなるが、幼い子規に強い影響を与えた。子規は六年(七三年)七歳頃から観山の私塾に素読に通った。朝五時に起きて塾通いしたのだという。江戸時代に漢籍の学習は武士の子弟はもちろん、裕福な町人の子供にとっても必須だった。江戸の庄屋の息子の夏目漱石も幼い頃から漢籍を学んでいる。
漢籍の勉強ではまず声を出して繰り返し漢文を読む。これを素読という。素読により四書五経などの基本書籍をあらかた記憶した後に、師による意味解釈の講義が行われるのである。子規は観山から贈られた七言絶句の軸を生涯大切にして子規庵の床に掛けたが、その結句は「終生不読蟹行書(生涯横文字のヨーロッパ書籍は読まないという意味)」である。後に子規が英語が苦手で帝国大学を落第した遠因は観山にあるかもしれない。
観山没後、子規は引き続き観山の弟子の土屋久明に漢学を学んだ。漢学では漢籍の勉強と漢詩の創作がセットである。漢詩は基本作者オリジナルの詩だが、中国の哲学書や歴史書である漢籍から得た思想・感情の実践的表現でもあった。子規は明治十一年(一八七八年)十二歳の時に久明から漢詩制作の手ほどきを受けた。同時に葛飾北斎の『画道独稽古』を模写し私家版文集『自笑文章』を書き始めた。漢籍だけでなく滝沢馬琴らの和本も乱読した。読むだけでなく気に入った本を模写するのが子規の読書流儀だった。絵を描くことを好み、依頼もないのに文集を制作し、片っ端から本を模写する子規の創作方法の基盤はこの頃にはできあがっていたわけだ。母八重は本好きの子規のために三畳の書斎を増築した。とにかく半紙を大量に使う子供だったと回想している。
子規は勝山学校(小学校)在学中の明治十二年(一八七九年)十三歳の時に、早くも回覧雑誌「桜亭雑誌」を刊行した。同級生から漢詩や漢文を募り、子規が書写した冊子を仲間内で回覧し相互批評を行う同人誌である。松山中学に進学すると竹村鍛、三並良、太田正躬、森知之、それに子規を加えた「五友」と頻繁に詩会を開き雑誌を刊行するようになった。
竹村鍛は黄塔と号し、後に芳賀矢一とともに国語辞書の編集に従事して女子高等師範学校の教授となった国文学者である。竹村の父の河東静渓が漢学者だったため中学時代の子規は静渓に漢詩の添削を乞うようになった。また竹村の弟が後に子規門俳句高弟となる河東碧梧桐である。碧梧桐は幼い頃に見た兄たちの詩会の様子を書き残している。三並良はキリスト者となりドイツ語学者として活躍した。
子規は学業そっちのけで創作に熱中した。中学時代に漢詩、漢文だけでなく和文創作をも含む回覧雑誌を十誌近く刊行している。また明治十五年(一八八二年)頃から自由民権運動の嵐が日本全国を吹き荒れ松山でもしきりに政治演説会が開催されるようになった。十四年(八一年)に国会開設の詔が発せられ、二十三年(九〇年)の衆議院選挙と帝国議会開設に合わせて自由民権を訴える板垣退助の自由党や大隈重信の立憲改進党などの政治運動が盛り上がったのだった。
子規も感化され、演説を聴きに行くだけでなく自身も同級生の前で演説するようになった。それと同時に東京に出て学びたいという強烈な志向が高まった。子規が頼ったのは加藤拓川だった。拓川に「今時日を空しく松山に費して一年間に一寸の智識を得んよりは寧ろ一年の時日を東京に費して一尺の智識を取らん事私の希望する所に御座候」(明治十六年[八三年]二月十三日)と書き送って上京を懇願した。
拓川からは上京を思いとどまるよう手紙が届いたが、子規は「松山中学 只 虚名/地 良師少なく 孰に従つてか聴かん」という漢詩を書いて中学を退学してしまった(明治十六年[一八八三年]五月)。一種の強行策である。子規の上京の意志の固いことを知った拓川は六月二日付の手紙で上京を許可した。子規は六月十日に早くも松山を出て東京に旅立った。
一朝 志を立てて 東州に向かひ
薄暮 船を繋ぐ 神港の頭
故国の慈親 空しく夢に入り
郵亭の小雨 亦 愁を生ず
嚢螢窓雪 幾年の学
落日征帆 万里の遊
錦を衣て 何れの時か 帰国の路
重ねて過らん 海岸 最高の楼
(「神戸港」明治十六年[一八八三年]原文漢詩)
上京途中の神戸で詠んだ漢詩である。大志を抱いて故郷を出て、学問を修めていつの日か故郷に錦を飾りたいという内容だ。初期の子規の漢詩は自然に遊ぶことで生じる東洋的平安の境地を描いたものが多かった。しかし上京前には幕末の志士のような〝述志〟(社会的・個人的な強い意志を表現する詩)が増えていた。上京して拓川に面会した子規は将来の希望を聞かれ、「朝ニ在ッテハ太政大臣、野ニ在ッテハ国会議長」にならんと欲すと答えた。当時の子規は野心に燃えた政治家志望の少年だった。ただ多くの青少年が子規のような野望を抱いていた。夏目漱石や森鷗外らも同様の大望を洩らしている。政治家ではなく文学者の道を進んだが、子規は生涯にわたって上京当時の大望を抱き続けた。
東京に出た子規は須田学舎や共立学校に入学して主に英語を学んだ。明治十七年(一八八四年)三月には常磐会給費生に選ばれ奨学金をもらえることになった。旧松山藩主久松家が松山の将来有望な子弟を援助する目的で設立した私設育英事業の一つで、実業家で叔父の藤野漸の推薦によるものだった(藤野の息子が俳人の古白である)。相変わらず英語は苦手だったが子規は十七年七月に東京大学予備門の試験を受け合格した。東京帝国大学進学の道が定まったのである。芳賀矢一、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同期だった。芳賀矢一は後の国文学の権威、南方熊楠は日本の民俗学と粘菌学の祖、山田美妙は尾崎紅葉らとともに硯友社を結成した言文一致体小説や新体詩(自由詩)の先駆者である。
明治十八年(一八八五年)七月に上京後初めて帰省した子規は、同郷の秋山真之の紹介で桂園派の歌人井出真棹に会い歌を学んだ。秋山は東京大学予備門でいっしょに学んだ仲だが学資のめどが立たず、授業料が免除される海軍士官学校に進学して海軍軍人となった人である。日露戦争の雌雄を決する日本海海戦で「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電したことで知られる。井出が属した桂園派は江戸後期の歌人香川景樹を祖とし、平明で素直な詠みぶりで人気があった。明治天皇が無類の和歌好きだったことから政府は二十一年(八八年)に宮中御歌所を創設して和歌を政府組織の一つに組み入れたが、初代所長には旧薩摩藩士で桂園派の高崎正風が任命された。桂園派は一世を風靡していたのである。
子規は「筆まかせ」で「余が和歌を始めしは明治十八年井出真棹先生の許を尋ねし時より始まる」と書いているので、井出との出会いが短歌に本格的興味を持った嚆矢である。子規は自作短歌を「竹乃(の)里歌」と題した冊子に記録したが、ここから短歌を読む際の雅号竹乃里人が生まれた。
子規はまた明治十八年(一八八五年)九月に坪内逍遙著の『一読三歎当世書生気質』を読んで衝撃を受けた。後にエッセイ『天王寺畔の蝸牛廬』で「これこそ今日から見ても明治文学の曙光で明治小説史の劈頭に特色大書せらるべきものである」と激賞している。子規は小説にも強い興味を持っていた。東京大学予備門受験前に進文学舎で逍遙に英語を習っていたので衝撃はより身近なものに感じられただろう。
明治二十年(一八八七年)七月、やはり松山帰省中に子規は三津浜に大原其戎を訪ね俳句の指導を受けた。後に寺内内閣で大蔵大臣を務めることになる勝田主計の紹介で、柳原極堂がいっしょだった。極堂は高濱虚子が引き継ぐ前の第一次「ほととぎす」を創刊し、伊予日々新聞を刊行した実業家である。
子規は『筆まかせ』に「俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」と書いている。其戎の主宰誌「真砂の志良辺」に投句した俳句が初めて活字になった子規作品だと言われる。二十三年(九〇年)八月まで子規は投句を続け計四十四句が「真砂の志良辺」に掲載された。其戎と頻繁に手紙を交わしてもいる。
子規は基本的にすべての自作俳句を冊子『寒山落木』に書き留めていた。明治十八年(一八八五年)の七句が最初に記した俳句である。全短歌は冊子『竹乃里歌』に記録したが十五年(八二年)の一首が嚆矢である。ただ中学時代から短歌、俳句を詠んでいたことが知られており、自作として認知した作品が俳句では十八年、短歌では十五年の作ということである。また井出真棹に短歌を、大原其戎に俳句を学んだが歌風や俳風の継承者という意味での弟子ではない。短歌・俳句の専門宗匠に会うことで本格的興味を持つようになったのだった。
子規は記録・整理魔であり句稿『寒山落木』、歌稿『竹乃里歌』以外にも漢詩は『漢詩稿』、散文は『文稿』『筆まかせ』などの私家本にまとめていた。明治二十年頃には後の子規文学の中心となる俳句、短歌、散文エッセイの基盤ができあがっていた。また子規は十九年(八六年)末頃からベースボールに興味を持ち、二十年(八七年)には盛んに試合をするようになった。守備ではキャッチャーを好んだ。後に子規派と呼ばれることになる俳人・歌人を強力に束ねていった子規らしいポジションである。
拓川に「今時日を空しく松山に費して一年間に一寸の智識を得んよりは寧ろ一年の時日を東京に費して一尺の智識を取らん」と書き送ったように、東京に出て様々な刺激を受けた明治十六年から二十年くらいまでが子規の青春時代だった。
鶴山裕司
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* 『正岡子規論-日本文学の原像』(日本近代文学の言語像Ⅰ)は毎月21日に掲載されます。
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 正岡子規の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■