金魚屋プレスより刊行予定の鶴山裕司著『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『夏目漱石論-現代文学の創出』(近刊)、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』が順次刊行されます。(文・石川良策)
by 鶴山裕司
Ⅰ 子規文学の射程(前編)
正岡子規は厄介な文学者である。学校の国語の教科書に必ず出てくる作家であり明治文学の偉人の一人だ。近代小説の祖は夏目漱石と森鷗外が代表格で、子規は近代俳句、短歌の基礎を作り写生文によって漱石らに多大な影響を与えたとされる。俳句、短歌、散文の三つのジャンルで特筆すべき仕事を残したと評価されているわけだ。しかしその説明はたいがい曖昧模糊としている。死後百十年以上経つが、子規の仕事にピタリとフォーカスが合ったためしがない。
図式的に(教科書的に)子規の仕事を総括すると、俳句では『獺祭書屋俳話』を嚆矢に俳句革新を行った。では俳句革新とは何かというと幕末月並俳句(月例で賞品などを賭けて行われていたお遊びの俳句)を否定し、神のように崇められていた芭蕉を批判して蕪村俳句を称揚した。それにより感情を素直に表現する写生俳句を生み出したということになる。しかしそれは革新なのだろうか。
子規代表句は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」である。最高の俳句はこういった客観写生句になるのではないかという議論をひとまず措けば、子規俳句の多くはわたしたちが思い浮かべる〝革新〟とはほど遠い。むしろ古典的だ。そうすると子規俳句革新とは状況的なものだったのではないかということになる。明治初期の俳句にはお遊びの要素が多かった。それを文学の本道に戻したということである。
短歌革新も俳句と似たようなものである。室町から江戸、そして明治時代に至るまで短歌は低迷していた。茶道や華道と同様の趣味的家元芸として伝承され、王朝和歌を至高の作品とみなしてその模倣に明け暮れていた。子規はそのような短歌を旧派と呼んで厳しく批判し、固定化した用語や文法から短歌を解放した。子規の短歌革新も――ジャーナリスティックなセンセーションを伴ったにせよ、明治現代を踏まえた状況的マイナーチェンジだったと言えないことはない。また俳句で蕪村を称揚したように、子規は歌道の聖典『古今和歌集』ではなく『万葉集』を重視し、源実朝短歌を一つの理想とした。ここでも子規は未知の表現を探求する前衛ではなく古典主義者である。
子規短歌最大の特徴は写生にあると言われる。短歌は平安時代に至って〝わたしが何を思い、何を考えたか(夢想したか)〟を鮮烈に表現する自我意識文学として黄金期を迎えた。それ以降短歌はずっと自我意識表現として継承されてきたわけだが、子規はそこに写生表現を加えた。取り戻したと言った方が正確かもしれない。それは短歌の俳句化でもある。子規の代表歌は「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」で写生歌である。決定的に新しい要素があるわけではない。
また同時代には与謝野鉄幹・晶子の『明星』派がおり、浪漫主義文学として強い影響力を持っていた。『明星』短歌は従来通りの自我意識表現だが、晶子の「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」に典型的なように、江戸時代までは考えられなかった強い個の自我意識を表現した。明治維新以降の近現代文学がヨーロッパ的自我意識文学に進んだことを考えれば、『明星』派の方が現代的で斬新だったと言うこともできる。子規は「子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらず」と激しく鉄幹を批判したが、子規の方が非現代的で後ろ向きだったと捉えることもできる。
散文が後世に与えた影響はさらに曖昧模糊としている。子規が本格的に写生文(『叙事文』と呼んだ)を提唱したのは死去三年前の明治三十三年(一九〇〇年)一月である。高弟の高濱虚子や河東碧梧桐らとともに「山会」と呼ばれる勉強会を開き写生文を持ち寄って相互批評した。しかし子規は病気のため一作も写生文小説を完成させられなかった。短文の写生文の習作があるだけでその数も決して多くない。
写生文が注目されるのは、端的に言えば子規死後に虚子が引き継いだ山会用文章として夏目漱石の『吾輩は猫である』第一回が書かれたからである。『猫』は明治三十八年(一九〇五年)一月に「ホトトギス」に掲載された。漱石は俳誌で作家デビューしたわけだ。また当時は虚子らも小説を書いていた。彼らは写生文作家、あるいは彽徊派と呼ばれた。彽徊派は現実を写生的に描写するだけで、ダイナミックなストーリー展開のない退屈な小説を書く作家という意味である。
ただ漱石は世間の揶揄的評判を知りながら写生文作家を自認した。写生文は日本独自の誇るべき文学だとすら言っている。漱石ははっきりと子規写生文を受け継いでいる。しかし漱石文学は重箱の隅をつつくほど研究されているのに、子規文学との影響関係はいまだ曖昧だ。写生文が子規文学の代名詞である写生俳句(写生理論)に基づいているのは確かである。だが俳句で有効だった方法を、漱石がどのように小説で活用したのかは解明されていない。
子規文学が今一つ明確な像を結ばない原因は、簡単に言えばわたしたちの文学ジャンル別思考方法にある。おおむね大正時代頃から日本文学は、ジャーナリズムの発展とともに短歌、俳句、小説といった文学ジャンルに分かれていった。創作者が専門歌人、俳人、小説家になっていっただけでなく、批評家も一つのジャンルを専門とするようになった。現代ではそれはもはや常識化していて、小説はわかる(読解できる)けど詩はわからないと公言する文学者もいる。しかしそれでは文学の本質をつかめない。文学は哲学や心理学とは異なる方法で〝人間とはなにか〟を探求する人文学の一つである。詩と小説はアプローチ方法が違うだけで目的は同じだ。文学ジャンルを総合的に捉えなければ文学の存在理由や目的は認識できないのである。
文学ジャンルはそれぞれ固有の存在理由を持っている。しばしば〝ジャンルの越境〟ということが言われるが、現実問題として詩と小説の両ジャンルで突出した仕事を残した作家はいない。ジャンルの壁を越えるのは非常に難しいのだ。なぜ越えられないのかと言えば、自己の専門以外のジャンルの存在理由を把握していないからである。確かに傑作と呼ばれる作品には散文的な詩や詩的な小説がある。しかし詩のノウハウで小説を書いても、小説のノウハウで詩を書いてもモノにならない。ジャンルの本質を捉えていなければ中途半端な作品になる。読者は敏感に作家の確信の有無を読み取るのでまがいものの小説や詩を嫌うのである。
幕末生まれで明治二、三十年代に活躍した文学者たちは、少なくとも現代人よりも幼い頃から複数の文学ジャンルに親しんでいた。文学好きの子供たちは漢文や小説を読み、俳句や短歌、漢詩を手始めに創作を行っていた。各文学ジャンルの存在理由を肉体感覚で把握していたのである。子規や漱石、尾崎紅葉や幸田露伴といった慶応三年生まれの文学者たちは表現したい内容や状況に応じて文学ジャンルを使い分けている。彼らが後年詩人や小説家として認知されるのは本質的には資質による。文学者には持って生まれた資質が抜きがたくあり、成長するにつれて自らの長所を伸ばそうとするのである。
ただたいていの作家はいつの時代でも作品を書きたい、作品を書き急ぐ人々である。紅葉や露伴はそういった文学者であり、手当たり次第に使える材料すべてを使って作品をまとめあげていった。言文一致体を模索した坪内逍遙や二葉亭四迷も同様である。しかし子規や漱石は違った。彼らは激動の明治初期において文学ジャンルの存在理由を探求した。それが紅葉ら明治三十年代でほぼその文学的使命を終えた文学者たちと、三十年代以降の現代文学の基礎となった子規や漱石の違いである。
鶴山裕司
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* 『正岡子規論-日本文学の原像』(日本近代文学の言語像Ⅰ)は毎月21日に掲載されます。
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 正岡子規の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■