『カルメン故郷に帰る』ポスター
監督・脚本 木下恵介
主演 高峰秀子
映画館が苦手である。これは曲がりなりにも映画について語ろうとする立場にある者として、許されざる告白かもしれない。しかし本当なのだから仕方がない。
映画館には暗闇がある。その暗闇を際立たせ、中和し、あるいは裏返すやわらかな照明がある。びろうどを張った椅子がある。大きな銀幕がある。ポップコーンもある。どれも好きだし、映画館にあるという理由で、なおさら好きである。ところが映画館には人間もいる。これが曲者だ。彼らは不必要に食べ、貧乏ゆすりをする。変な臭いを出したり、最悪の場合には上映中から自説を披瀝しはじめたりする。小さな個体となると、いきなり奇声を発することもある。困ったことに、この人間というやつがある程度は集まらないと、映画館というものは成立しないらしいのである。どうしようもないので、なるべく映画に集中する。映画にもたいてい人間が出てくるが、こちらのほうはあまり気にならない。
おそらく、映画にはその外にもいろいろなものが出てくるからだろう。いま、いろいろ、と言ったが、色もそのひとつである。音が映画に加わったのは途中からだが、色は最初からあった。白と黒も色である。色は光である。光に名前を与えて、分類してみると、それだけでいくらでも物語になるようだ。
ところで映画に白と黒でない色がつくようになったことは、驚くほど最近までありがたがられていた。コール・ポーターのミュージカルを映画化した『絹の靴下』(米、1957)では、フレッド・アステアとジャニス・ペイジがこんな歌を歌う。
Today to get the public to attend a picture show,
It’s not enough to advertise a famous star they know.
If you want to get the crowds to come around
You’ve gotta have glorious Technicolor,
Breathtaking Cinemascope and
Stereophonic sound.
きょうび大勢に映画を観てほしいなら
有名スターを売りにしてもだめ
お客に群れをなして押しかけてほしいなら
きらびやかなテクニカラー
息を呑むシネマスコープと
ステレオフォニック・サウンドでなきゃ
この映画はMGMの製作なので、実はテクニカラーではなく、同社の技術であるメトロカラーで現像されている、というのは笑い話だが、テクニカラーはそれだけ色つき映画の代名詞であった。英国のキネマカラーに次ぐ二番目のカラー現像技術であり、1922年から1952年にかけて、ハリウッドで最も広く使われた技術である。アニメーションに新たな次元を与えた「白雪姫」(米、1937)もテクニカラー作品であることと矛盾しないが、テクニカラーの発色は彩度が高く濃密である。これは作品自体が白黒映画からカラー映画の橋渡しの意味を担っているとも言える「オズの魔法使」(米、1939)や「風と共に去りぬ」(米、1939)を観てもよくわかる。テクニカラーの色は場合によってはくどいほど華美であり、ハリウッドの金科玉条であるメイク・イット・ビッグを見事に体現している。
すべてが大きく過剰で、なおかつ能天気であることは、半可通がハリウッド映画をこきおろす恰好の糸口ともなっている。しかしハリウッドの隆盛は、アメリカから世界へ波及した大恐慌のさなかにあって人々の数少ない希望であった。銀幕には貧乏も絶望もない。仮にあっても、二時間後にはすべてひっくり返っている。ハリウッドは聖域でなければならないのだ。
このことはハリウッドの名前そのものにもよく現れている。ハリウッドはHollywood だから、直訳すれば柊林である。だが日本ではうっかり Holywood と読まれたために、そこから聖林と誤訳された。むろん、勘違いはすぐに指摘されたが、その後も訂正されることはなかったのである。日本だけではない。フランスでも、ハリウッドは同じく聖林 bois sacré と訳された。
ハリウッドという名はもとよりただの住所に過ぎないし、ハリウッドという土地が選ばれたことにも深い意味はない。だが映画業界の拠点がニューヨークから西海岸へ移ったのにはいくつか理由がある。まず、東海岸では発明王であると同時に守銭奴であったエジソンが映画製作にかかる特許を独占しており、映画を作ろうと思えば莫大な特許料が必要になったこと。そして感度の低い当時のフィルムを使った撮影には、不便でも気候のよい西海岸のほうが適していたこと。そして他業種から締め出しを食っていたユダヤ人の商人にとって、そこが約束の地と見まごうばかりの新天地であったこと、などである。つまりハリウッド映画が執拗に自由を表現することと、ハリウッド自体が自由の希求によって誕生した聖域であるということは、あながち無関係ではないのだ。映画を彩る色の数々も、あるいはその歓喜の反響なのかもしれない。
だがもちろん、映画はハリウッドの専売特許ではないし、色はなおさらである。日本映画に関して言えば、総天然色という小気味のよい言葉がある。この言葉を定着させたのは、木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』(日、1951)であった。戦前からカラー映画はあるにはあったが、いずれも短編である。『カルメン』は長編、しかも初の国産フィルムによるカラー映画であり、主演女優でも物語でもなく、「色」を売りにするにふさわしい一本だった。都会へ出てストリッパーとなったカルメン(高峰秀子)が故郷の村へ里帰りしたことで持ち上がる騒動を描いたこの作品は、どこまでも軽薄である。それはまさに戦後の自由な空気と、獲得されたばかりの自由に対する不安を表現しているように思える。だからこそ映画はどうしても、新しい「色」をしていなければならなかった。戦後六年目にして公開されたこの新時代の映画は、取るべくして大当たりを取ったのである。
映画に色がつくということが、洋の東西を問わず、観客を力づけるという映画の根本的な役割と密接に結びついているように思われることは興味深い。現実が白と黒で構成されているような時代にこそ、夢には色をつけなければならないのだ。言い換えれば、色をつけるという選択肢が夢を想起させた時代は、幸福だったということになるのかもしれない。現代にも相変わらず白と黒は溢れているが、映画にこれ以上、色を乗せることはできそうもないからだ。と、こんなことを言うのも、退歩史観から来るひがみに過ぎないのだろうか。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■