Interview:安井浩司
安井 浩司:昭和11年(1936年)秋田県生まれ、能代高校卒。高校生の時、青森高校の寺山修司、京武久美編集の10代の俳句同人誌「牧羊神」に参加。昭和34年(1959年)、永田耕衣主宰の結社誌「琴座」に同人参加。昭和39年(1964年)より高柳重信主宰の「俳句評論」同人。昭和48年(1968年)、加藤郁乎、大岡頌司らと俳句同人誌「ユニコーン」を創刊。俳壇と距離を取り、徹頭徹尾、俳句を〝文学〟として考え、その可能性を探究し続けている希有な俳句作家。作品集に『増補 安井浩司全句集』、評論集に『海のアポリア』などがある。
いわゆる前衛俳句は富澤赤黄男を嚆矢とし、戦後になって高柳重信によってその理論化が図られた。重信は「俳句評論」「俳句研究」といった雑誌を主宰し、数多くの前衛俳句作家を育てたが、加藤郁乎、安井浩司、大岡頌司はその代表的俳人である。本インタビューは大岡頌司没後十年記念として行われたが、一九六〇年代から七〇年代の前衛俳句運動の中心にいた安井氏に、当時の機微や、現在も続くその問題点(アポリア)について自在に語っていただいた。
文学金魚 詩部門アドバイザー 鶴山裕司 (インタビュアー)
■大岡頌司との出会いについて■
―――今年は俳人で、句集専門の出版社・端渓社社主でもあった大岡頌司さんの没後十年にあたります。大岡さんの句業や出版人としての功績については、今後少しずつ研究が進んでいくと思いますが、金魚屋ではささやかではありますが、大岡さんの没後十年を記念する連続インタビューを行いたいと思います。まず親友であった安井さんにお話をおうかがいしたいのですが、大岡さんが懇意にしておられた俳人は、安井さん以外にどなたかいらっしゃるんでしょうか。
安井 そうですねぇ。大岡君の唯一の弟子が酒卷英一郎君です。大岡君を文学的な意味で語った人には、川名大さんとか高橋龍さんなどがいます。彼らは高柳重信主宰の「俳句評論」の仲間でもありましたからね。でも私と大岡君の間柄みたいな親密な関係の人は、ほかにいないんじゃないかな。
―――昨年十月の、『安井浩司「俳句と書」展』オープニングパーティでご挨拶していただいた武田伸一さんが、京都で大岡さんと親しくしていたと話しておられましたね。
安井 彼は私と同じ秋田の能代高校出身で、私の一年先輩です。
―――武田さんが親しくしておられたのは、大岡さんの京都時代だけですか。
安井 そうだと思いますよ。ちょっと待っていてください。アルバムを持ってくるから(写真アルバムを取りに行く)・・・。
これは貴重な写真ばかりを集めたアルバムで、私の宝物なんです。この写真は昭和四十三年(一九六八年)五月に撮影したもので、左から私、大岡君、それに河原枇杷男です。私は加藤郁乎以降の戦後の俳句を、この三人で支えてきたと思っています。枇杷男の家の前で撮った写真で、確か大岡君と私で枇杷男の家に泊まったんだよな。
右から河原枇杷男、大岡頌司、安井浩司氏
―――枇杷男さんは骨董がお好きですか。室内の写真には、李朝とか信楽らしい壺が写っていますが。
安井 うん。骨董に関しては、枇杷男や永田耕衣先生が、黙っていても向こうから色々私に教えてくれた(笑)。
―――昭和四十三年五月というのは、俳句同人誌「Unicorn(ユニコーン)」が出た時期じゃないかな(「Unicorn」の奥付を調べる)・・・。そうだそうだ、「Unicorn」創刊は四十三年五月ですから、ちょうどその頃ですね。
安井 そうかぁ。それじゃあ最も張り切っていた時期だな。これは貴重な写真なんだ。三人で写ってる写真はこれしかないからね。当時は今みたいに気軽に写真を撮る時代じゃなかったんです。これは枇杷男の奥さんが撮ってくれたんじゃなかったかな。
―――大岡さんは、寺山修司と京武久美が青森高校で出していた俳句同人誌「牧羊神」の同人でした。安井さんも同人だったわけですが、この時期はまだ会っていませんよね。
安井 会ってません。簡単な文通はしてましたけど。でも当時は離れていると手紙しか交流の手段がないから、たくさんの俳句好きの青年と文通していました。大岡君に実際に会ったのは、私が東京に出てきてからです。
―――安井さんが大岡さんと実際に会った時期を特定しましょう(『大岡頌司全句集』の年譜を開く)・・・。大岡さんは広島出身ですが、昭和三十一年(一九五六年)、十九歳の時に京都から上京されています。前年の三十年(五五年)には、京都で野呂田稔さんと俳句同人誌「黒鳥」を創刊しています。
安井 その時期は、大岡は私よりも野呂田と親しかったんです。野呂田は能代高校の私の同級生です。
―――昭和三十一年に上京して、新大久保中央病院に寺山修司を見舞うと年譜にありますから、大岡さんはこの時初めて寺山に会ったんですね。
安井 私はその時はまだ大岡と会ってないな。
―――昭和三十二年(一九五七年)二十歳の時に、大岡さんは処女句集『遠船脚』を出版しておられます。
安井 その時もまだ会ってない。
―――どんどん記憶をたどっていきましょう(笑)。翌昭和三十三年(一九五八年)二十一歳の時に、大岡さんは高柳重信主宰の「俳句評論」同人になっています。
安井 まだ会ってない(笑)。私が会った頃は、大岡君は既に俳句評論の同人で、将来を嘱望されていましたから。
―――昭和三十七年(一九六二年)二十五歳の時に、大岡さんは第二句集『臼處』を出版しています。
安井 その頃もまだだね。『臼處』の頃は、大岡君は加藤郁乎にくっついていたんです。
―――翌昭和三十八年(一九六三年)二十六歳の時に、大岡さんは「俳句評論」に評論「攀登棒風景」を発表して、第三句集『花見干潟』を出版しています。
安井 『花見干潟』出版前あたりから、大岡君と仲良くなったんです。
―――じゃあ安井さんが大岡さんと実際にお会いになったのは、昭和三十八年頃ですね。特定できました(笑)。
安井 実際に会ったのはその頃だけど、大岡君とは若い頃から文通していたから、もうずいぶん昔から友達だったような気がしていました。不思議だよね、大岡君とは、なにか相性が合ったんです。
―――物書き同士の相性の良さは、かなり微妙なものです。特に同じジャンルの書き手同士だと、性格的に相性がいいだけでは続かないでしょう。
安井 そこのところは非常に難しいね。うーん、結局は相性が良かったという言葉でしか説明がつかないなぁ(笑)。基本的にお互い独立した一人一人の俳人ですから、言い出せばそれは色々ありますよ。私の文学と彼の文学は、やっぱりどこかで違っているわけですから。それでもなおかつ合うっていうのは、なにかね、肯定ではなくて、否定する面が私と大岡君にはあったんだな。自己否定も含めて、文学をやっていると、否定精神というものがあるでしょう。否定精神はものすごく大切なことなんです。あれはダメだ、これはおかしいではないかというポイントが、私と大岡君はピッタリ合ったんだ。〝安井、これはダメじゃないか〟〝そうだ〟という感じでね。だから自然と共同意識が芽生えた。これは誰にでも感じることではないんです。誰と共同意識、共同精神が生じるかは、ちょっと神秘的なところがあります。
―――寺山修司とは合わなかった(笑)。
安井 合わなかったね。寺山が好きなものは、私はたいてい嫌いだった(笑)。でも私が好きなもの、嫌いなものは、だいたい大岡君も好きだったり嫌いだったりしたんです。心の深いところで共鳴し合っていた。だからもう、あっという間に親友になりました。
―――その機微はよくわかります。とりわけ同じジャンルの物書きの場合、ある時期は仲良くしていても、結局、道が分かれていくことが多い。喧嘩別れすることもあるし、なんとなく疎遠になることもある。文学に本気であればあるほど、生ぬるい付き合いはできなくなりますから、それぞれ孤立した道を行くことになる。安井さんと大岡さんのように、お互いの〝文学観〟を中心に据えて、終生の友でいる方が珍しいと思います。
安井 後に唐門会の中心になった金子弘保も加わって、三人で仲良くしていたけど、金子君は俳人ではなかったからちょっと別ですね。俳人として私が最後まで仲良くしていたのは大岡君だけです。
―――十代から二十代の友達は特別ですよね。損得抜きで付き合うから、相手の底の底まで見える。人が何と言おうとあいつは素晴らしいんだ、あいつはダメなんだってことが、手に取るようにわかるし確信を持てます。安井さんも大岡さんも、若い頃からの文学的信念を最後まで曲げなかった。出会った頃と同じような純粋さを保ってお互いの期待を裏切らなかったから友情が続いたわけですね。
安井 それは最後まで変わらなかったです。大岡君が亡くなる一週間くらい前かな、彼の方から電話がかかってきたんです。彼と最後に話をした俳人は私なんです。
―――意識ははっきりされていましたか。
安井 亡くなる直前までしっかりしていた。逝く時はぽっくり逝っちゃったっていう感じでしたね。いろんなことを振り返って、大岡君は〝俺たちはいい仕事をしたな〟って言いました。その時の話は生涯忘れることができない。私も〝俺たちはいい仕事をした〟って信じてるんだよ。同世代では私と大岡君と枇杷男の三人が〝いい仕事をした〟と思っています。枇杷男は私より六歳年上で、ちょっと先輩格だけどね。
■歌仙「窮童集」について■
―――枇杷男さんはなぜ「Unicorn」に参加されなかったんですか。
安井 うーん、それはね(笑)。枇杷男は耕衣先生の弟子でしたから。
―――でも枇杷男さんは、耕衣さんの元を飛び出してしまったわけでしょう。
安井 そうなんだけどね(笑)。でもまあ、枇杷男は「Unicorn」に参加することはなかった。私と大岡君で酒を飲んだ時は、よく枇杷男を誉めたり、悪口を言ったりしましたよ(笑)。だけど私と大岡君の間ではそういうことがなかった。真の友達だった。でもやっぱり枇杷男を入れないと、私の同世代の文学は成り立たないと思います。
話はちょっと変わりますが、今、安井浩司について語る人が多くなっているようなんです。昨日送られてきたばかりなんですが、「現代詩手帖」九月号で「詩型の越境─新しい時代の詩のために」という特集が組まれていて、依頼されてここに新作句を発表しました、まだよく読んでいないんですが、安井浩司論も掲載されているようです。
―――(「現代詩手帖」を手に取って)ああ、珍しいですね。詩誌のほぼ巻頭に俳句が掲載されているなんて。でもいい待遇で安井さんの作品が掲載されていて良かった(笑)。
安井 なにか俳句と短歌と自由詩のジャンルを越境して、新しい詩の形を探るといった特集のようです。安井浩司について論じる詩人が多いので、作品を寄稿してくださいって編集部から頼まれましてね。
―――文学金魚は小説や詩といった文学ジャンルにとらわれない総合文学サイトですが、詩の世界でもジャンル越境的な指向が定着しつつあるのかな。で、安井さん、今日はぽんぽん飛びながら、いいかげんな話をしましょう(笑)。
安井 難しい話は抜きにしてね(笑)。
―――短歌で思い出しましたが、「Unicorn」第三号(昭和四十四年[一九六九年])で、歌人の須永朝彦さんと安井さんと大岡さんの三人で、歌仙「窮童集」を巻いておられますね。この三人の取り合わせは、個人的に仲が良かったからですか、それとも郁乎さんの紹介でしょうか。
安井 いや、須永はあんまり郁乎が好きじゃなかった。
―――須永さんは、耕衣さん主宰の「琴座」の安井浩司特集にも書いておられます(「琴座」昭和四十六年[一九七一年]十一・十二月号 第二五六号 安井浩司『中止観』特集)。
安井 ああそっか。私は須永と仲がよかったんだ。私と知り合った頃は、塚本邦雄のところにいてね。その前は彼は、山中智恵子に師事してたんです。智恵子さんのルートで彼と知り合ったんじゃないかな。智恵子さんは年上で、お会いしたことはないですが、手紙をやりとりしていた。だからまず私と須永が仲が良くて、それに大岡君を加えて歌仙を巻くことになったんです。
―――この歌仙での大岡さんは冴えていますね。
安井 連歌なんかでは、大岡君はいかにも見事に句を詠んじゃう。私は迷っちゃうんだなぁ(笑)。
―――安井さんと須永さんは、どちらかというと繋げようとしておられますが、大岡さんは転調の役割を担っている感じです。「耳の中なる茶柱の寺院」「銭湯の富士をわづらふ貰ひ泣き」とか、ぽんと突飛なイメージが出てくる。
安井 そうそう、大岡君はこういう時は思いきりがいい(笑)。
―――安井さんや大岡さんには歌仙を巻くイメージがなかったんですが、けっこうやっておられたんですか。
安井 いや、ぜんぜんです。これも行き当たりばったりで、完全な即興です。
―――今の若手の俳人がやっても、「窮童集」レベルの歌仙ができるものなんでしょうか。
安井 できるかもしれないよ(笑)。というのはね、今の若い連中は、こういうことをやらせるとけっこう頭がいいんだ。若い連中は、オモチャををいじくるような作業については、なかなか才能があります。あ、オモチャって言葉を言ってはいけなかったかな(笑)。でもオモチャをいじくるような句作に関しては、私はかなわないところがある。
―――「窮童集」のような超前衛歌仙はなかなかできないと思いますけどね。
安井 でもさ、大岡君には怒られちゃうかもしれないけど、歌仙はやっぱりオモチャだからね。はっきり言えば遊びなんだ。安井浩司はこういうのは苦手なんです。今の俳人は遊びに長けているから、得意かもよ(笑)。
―――最近、句集をまとめる際に、あるテーマを設定して、パッと書き下ろしちゃうことが流行になっていませんか。
安井 そうね。遊びの要素がある。そういった器用さは、私はちょっとかなわないかな(笑)。
■「Unicorn」と加藤郁乎について■
―――今日は『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍を作成するために安井さんからお借りした資料を、ほぼ一年ぶりにお返しする目的もあってうかがったわけですが、「Unicorn」と「琴座」安井浩司特集号はまだ読んでいなかったので、お返しする前に目を通したんです。「Unicorn」は面白い雑誌ですね。薄いからすぐ読めるだろうと思って取りかかったんですが、すごく時間がかかった。皆さん難しい、七面倒くさい議論をしておられる(笑)。
安井 読むのに時間をかけなきゃならないような要素がありましたか。
―――ありました。この時代、酒井弘司さんは切れていますね。
安井 切れ者だったよ。金子兜太がすごく可愛がってたんだから。
―――あのくらいの切れ方だと、懐刀になれます。
安井 「Unicorn」をちゃんと読んでいただいて、誉めてもらって嬉しいです(笑)。この雑誌はたった四号で終わっちゃったからね。
―――優れた同人誌は空中分解するものですよ(笑)。
安井 でも、「Unicorn」の時代、郁乎さんはちょっとおかしかった。
―――「Unicorn」を創刊した時は、安井さんは第二句集『赤内楽』を出したばかりで、まだ試行錯誤されていた時期ですよね。第三句集『密母集』あたりで方向性が定まるわけですが。
安井 そうです。まだ固まってない時期で、こっちにぶつかったり、あっちにぶつかったりしていました。
―――この時期、郁乎さんは正念場だった。
安井 でも郁乎さんは、その正念場を逃げちゃってね。「Unicorn」に郁乎さんは、一句も作品を発表していない。詩を載せてるけど、創刊号の一篇だけだね。あとは全部評論を書いている。だからさすがの私も、心の中で癇癪を起こし始めていたんです(笑)。『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍掲載のインタビューでも申しましたが、「Unicorn」は〝純粋な文学運動〟だという気持ちがありましたから。
―――それは「Unicorn」を読めば、手に取るようにわかります。
安井 「Unicorn」からは、当時の俳句が置かれていた状況の、秘密みたいなものを嗅ぎとることができると思います。
―――「Unicorn」刊行当時、郁乎さんは第二句集『エクトプラスマ』(昭和三十七年[一九六二年])から第三句集『牧歌メロン』(四十五年[一九七〇年])を刊行するまでの時期です。「Unicorn」を読むと、彼が『エクトプラスマ』以降の俳句の方向性をどうしようかと考えていたことがわかります。でも彼はその時、作品としては句を書かずに自由詩を書いていた。『終末頌』(四十年[六五年])、『形而上學』(四十一年[六六年])、『荒れるや』(四十四年[六九年])などの詩集を立て続けに刊行しています。
安井 『牧歌メロン』を出したあたりから、郁乎さんはおかしいんです。
―――終わりの始まり、と・・・(笑)。文学史的な事実としてお聞きしますが、「Unicorn」はみなさん郁乎さんが中心だったとおっしゃる。でも実際に誌面を見ても、郁乎さん中心だという痕跡はどこにもありません。それはどういうことですか。
安井 「Unicorn」が、加藤郁乎を中心に集まったグループだったのは確かです。
―――それがどうしてここまで誌面から読み取れないんですか。
安井 だから郁乎さんがいつまでたっても前面に出てこないんで、私も変に思い始めたんです。
―――郁乎さんを担いで「Unicorn」を創刊したわけじゃないでしょう。
安井 いや、担ごうとしたことは確かだ。加藤郁乎が中心だったんだ。
―――誰が加藤さんを担ごうとしたんですか。
安井 それはそういう雰囲気だったんです。当時は加藤郁乎がいなければ始まらなかった。
―――郁乎さんは、安井さんより七歳年上ですね。
安井 郁乎さんは、高柳重信門下から現れた本当のエリートで、当時の新しい俳句の象徴的存在だった。だからそこへ新しい俳句を求める若い俳人たちが集まっていくのは当然だったんです。それで「Unicorn」をやり始めたのはいいけど、あなたがさっきおっしゃったように、実を言うと加藤さんは正念場だった。自由詩の方は書いていたけど、俳句には積極的ではなかった。
―――あれは時間稼ぎだと思いますよ。郁乎さんは作品は自由詩を書くかたわら、盛んに評論を書いておられる。でも詩論といっても、ほぼ全部俳句論です。散文で俳句について考えている雰囲気が濃厚にある。でも新たな方向を見出せていない。
安井 我々は「Unicorn」を新しい文学運動の拠点にするつもりだったけど、中心になる加藤さんが機能しなかった。
―――「Unicorn」は、郁乎さんがもうやりたくないと言って休刊になったんですか。
安井 加藤さんも、やろうとは口で言っていたんだけど、「Unicorn」第一号が出たあたりから妙に影が薄かった。雑誌の裏の方に引っ込んでしまった感じでね。加藤さんにしてみれば、私たちの世代に席を譲ったつもりだったのかもしれませんが。
―――「Unicorn」に安井さんは、いわゆる〝もどき論〟の中核になる「邑やっこ追伸─美について─」を発表しておられる。大岡さんも彼の文学では重要な論文「うたせの郷里」を書いています。島津亮さんも、相変わらずきつい文章を掲載しておられる(笑)。
安井 その頃は私も大岡君も一番恐い時代でね。飲むと喧嘩ばっかりしていた(笑)。
―――じゃあ「Unicorn」は、誰かがはっきりやめると言ったわけではないんですね。
安井 そう、自然消滅です。で、加藤さんは「Unicorn」の終わりかけの頃に、第三句集『牧歌メロン』を出したんです。久しぶりに俳句に戻ってきたわけだけど、かつての輝きを取り戻せなかった。
―――そのあたりの経緯は、「Unicorn」に表れていますねぇ。
安井 それで大岡君が「俳句研究」の書評に、厳しいことを書いたんだな。『牧歌メロン』は〝才能の浪費〟だってね(笑)。加藤さんは、自分の弟子筋の大岡君にそう言われちゃったものだから、心穏やかじゃいられないわね。〝君は文体を読んでいないんだ、文体の面白さや大事さを『牧歌メロン』から読み取っていない〟ということを、大岡君に言って寄こしたようです。でも私と大岡君は酒を飲んでいて、〝いや、そんなことはないんだ、やっぱりダメなものはダメなんだ〟って、青筋立てて、喧喧諤諤やり合ったことを今でも思い出します。『牧歌メロン』が出てすぐに、あれはダメだって気がついたのは、さすが大岡君だと思います。当たってるからね。あの句集を契機に、加藤さんはだんだんダメになっていった。
―――間違いなく『牧歌メロン』が転機です。
安井 その前の『エクトプラスマ』では、私もずいぶん衝撃を受けたんだけども。
■高柳重信について■
―――「Unicorn」が出ていた昭和四十三年(一九六八年)から四十五年(七〇年)あたりは、前衛俳句にとっての大きな曲がり角の時期だったと思います。高柳重信主宰の「俳句評論」や「俳句研究」の全盛期であり、作品を書くだけだった富澤赤黄男の前衛俳句を、重信が誰の目にもわかるように理論化した時期に当たります。でも〝その次〟が求められていた。
安井 私や大岡君にとって、高柳さんは親父のような存在だったんだ。高柳さんは「Unicorn」が出た時に、猛烈に「Unicorn」の悪口を言ったけどね(笑)。
―――でも六八年当時に重信の次を狙えたのは・・・。
安井 加藤さんだ。加藤さんしかいなかった。
―――郁乎さんという人も、勘のいい方ですね。『球體感覺』と『エクトプラスマ』の二冊ですものね。このたった二冊で、ある意味で重信的な前衛俳句の限界まで来ている。
安井 そうです。でも逆に言えば――こんなこと言っていいのかな(笑)、でも年とっちゃったから言っちゃうけど、加藤さんの二冊で重信の前衛俳句の限界が照射されちゃったということは、重信の前衛俳句が抱えていた根本的な弱さの問題でもあるんです。本当に奥の深いものであったなら、加藤さんの二冊で限界が照射されるなんてことは、あり得ない。
―――でも重信も凄い人で、晩年には伝統俳句への回帰を目論んでいたでしょう。
安井 うん・・・。せっかくアルバムを出してきたから、私が高山にいた頃に、重信さんが訪ねてきた時の写真を見せますね・・・(アルバムをめくる)。これだこれだ。〝高山に招く〟って書いてあるでしょう。名古屋で「俳句評論」の大会があって、その後に重信さんが高山に来たんです。
―――安井さん、重信さんが写っていますね。重信さんの隣はどなたですか。
安井 三橋敏雄。こっちの写真は重信さんと私と折笠美秋です。
右から三橋敏雄、高柳重信、安井浩司氏
―――「Unicorn」時代の美秋さんは、冴えなかったですね。
安井 冴えなかった。この頃、美秋は重信さんの「俳句評論」の編集をやっていたんだけど、その前はずっと俳句を止めていたから、時流に乗り遅れちゃったのよ。なぜ重信さんが高山に来たかというと、あまり公にはなっていませんが、この頃、重信さんは俳句を書けなかった。いわゆるスランプだったんです。それで安井のいる高山に行けばなにか書けるんじゃないか、スランプ脱出のきっかけにしたいと彼は言っていた。実際、重信さんは高山訪問をきっかけにして、『飛騨』を始めとする一連の作品を書いた。やっぱり才能がありますね。高山に一日くらい来て、あれだけの作品を書くのはたいしたものだと思います。でもそれ以降の重信さんは、句集『日本海軍』に収録される作品を書くようになった。あれはあれでいいんでしょうけど、もうかつてのように、左肩が突っ張ったような鋭い作品は書けなくなった。
右から折笠美秋、安井浩司、高柳重信氏
―――吉岡実は『日本海軍』が大嫌いだと言ってましたよ。重信は戦争に行かなかったから、ああいう句集が書けるんだって(笑)。
安井 ああそうか、うまいこと言うなぁ(笑)。でも我々もそう思っていました。それで最後は山川蟬夫になって、一行俳句に回帰していった。
―――あれは微妙な試みですね。一行俳句に回帰する途中で重信さんは亡くなったわけですが、失敗に終わったような気がします。
安井 それはそうですよ。
―――でも重信さんのことだから、〝為になる〟失敗をしてくださったかもしれない(笑)。
安井 大岡君だって同じような道筋を辿っていますからね。彼は第六句集『寶珠花街道』(昭和五十四年[一九七九年])から一行俳句を書き始めたわけです。
―――句集にはならなかったですが、大岡さんは最晩年の『山海経』連作で、再び四行俳句を書いておられますが。
安井 あれは高柳重信を擬(もど)いた遊びですよ。作家はお世話になった先輩に向けて書くことがあるでしょう。オマージュというか、恩返しみたいなものかな。
―――タイトルからして重信さんを意識した連作ですね。
安井 大岡君が多行から一行俳句に変わったことに関しては、私はいろいろ言いたいことがあるんだよ。でもそれを言うと、大岡君のファンから袋叩きにされちゃうような雰囲気があってね(笑)。でもせっかくいらしたんだから、本当のことを言いますが、大岡君だって自分でわかってたんだ。
大岡君が多行から一行俳句に変わった時期に、一緒に酒を飲んだんです。その時、彼はしみじみ言ったよ。〝多行形式は面白くない〟って(笑)。これはなかなか公にしにくい彼の言葉でね。私だけが知っている言葉だけど、〝安井、多行形式は面白くない〟〝そうだろ、やっぱり一行は面白いだろ〟って言ったら、大岡君は〝そうなんだなぁ、一行俳句には解きがたい謎がある〟って言いました。私はそれを俳句の構造という形で捉えていったけど、俳句の一行にはなんとも解き明かしがたい謎が、魅力があるんです。言葉を変えれば多行俳句はどこか浅いんだ。形式の仕組みの装置が早々と見えやすいんだ。
大岡君のように、物を作るのが上手で、いろんなものを弄って、さっきオモチャなんて言葉を使っちゃったけど、オモチャを弄って、でも複雑で立派な物に仕上げるような才能のある人は、やっぱり多行では物足りないんだよ。彼は一行に帰ってきたけど、でも時遅しなんだな。若い頃に多行に才能を使ってしまったものだから、一行俳句では十分な仕事ができなかった。結局大岡頌司の作品の代表作は、多行俳句になると思います。大岡頌司と言えば多行なんだな。
■大岡文学について■
―――高柳重信と大岡さんの多行形式は質が違いますよね。重信さんの多行は理知的ですが、大岡さんにはそれが感じられない。それに大岡さんには、俳句の師がいないでしょう。多行なので、なんとなく重信系の前衛俳句作家だと思われていますが。
安井 だけどやっぱり高柳重信が師だと言わなきゃダメなんだ。それを恥じてしまえば、大岡君も重信さんもかわいそうだよ。実際、大岡君は最後まで重信の弟子だったと思いますよ。
―――大岡文学を論じる人は、まず十中八九、彼の故郷広島と、大岡さんを産んですぐに亡くなった実母を大岡文学の主題だと捉えます。でも大岡さんは吉田一穂の詩を引用して、望郷というのは「つねに遠のいていく風景」だと書いておられる。また「私の場合、すでに在郷の頃から、いわば「居ながらにしての望郷」めいたものを書いていたような氣もする」とも述べておられる。大岡文学の主題が故郷と母にあったのは確かだと思いますが、それはかなり早い時期に観念化されていたんじゃないですか。
安井 今、吉田一穂の話が出て、私も〝あっ〟と思ったけどね。そうなんだ、一穂に繋がるような観念的傾向が大岡君にはあった。私も大岡君から吉田一穂について教わったところがある。一穂さんは、加藤さんの先生ですが。
―――加藤さんの「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」も、捉え方によっては一穂的な象徴主義詩から観念を取り払った、審美的かつ痴呆的な句だと読めないことはないですよ。郁乎さんはあれはあれで、一穂さんの弟子かもしれない(笑)。
安井 そうかもしれませんね。でもあの句が発表された当時は、あの詩が持っている世界観は鋭い武器だった。あの一句は研ぎ澄まされたような何かを持っていたんです。発表から時間が経ってしまい、また一穂の作品と比較したりすれば、ちょっと影が薄くなってしまうようなところがありますが。
―――大岡文学の故郷と母の主題を、完全に実人生に重ねて理解するのは、ちょっと危険なのかなという気がしますが。
安井 私はそうは思いたくないなぁ。もう少し広く捉えておきたいね。生まれ故郷の広島の海岸が、大岡君の心象風景だった思います。ただ加藤さんや吉田一穂に巡り合ったことで、そういった主題が大きな観念的な拡がりを持っていったんでしょうね。シンボリックな世界を拡げて、彼自身の中で大きな象徴風景に育て上げていった。
―――それを考えると、大岡さん晩年のユダヤ神秘思想への傾倒も、何を言いたかったのかがおぼろに見えてきますね。
安井 そこは汲んでやって欲しいんだな(笑)。おぼろであれ、そこを理解しないと大岡君の俳句は生きてこないと思います。
―――大岡さんは生粋の俳人だっと思いますが、型にはまりにくい方だったのも確かだと思います。処女句集『遠船脚』の巻頭に自由詩の作品を置いたりしておられる。安井さんなら熟考されるところを、大岡さんはパッとやってしまわれる(笑)。
安井 私は少し、自分を切り詰め過ぎたところがあるんだな(笑)。
―――安井さんも自由詩を書いておられて、大岡さんや郁乎さんと同じような試みをなさっている。でも安井さんは詩を書く時は詩に集中されますが、大岡さんは何も考えず、句集に詩を入れてしまったりされるしょう。
安井 当時は寺山なんかが、恥も外聞もなく、いろんなことをやった時代でもあるからね。
―――僕が読んだ俳人の詩の中では、安井さんの詩が一番優れています。安井さんは、詩が観念を核として成立することを把握しておられる。書き続けていれば、詩人になれたのは安井さんだけですね。
安井 そうかなぁ。自分では自信ありませんが(笑)。でも私は、今でも大岡君に、ちょっと頭が上がらないところがあるんです。
―――どんなところですか。
安井 〝魔術師〟といった言葉は使いたくないんだけど、大岡君の作品には、なにか魔としか言いようのないものがあるような気がするね。
―――でも大岡さんは、それで失ったものも多いですよ。大岡さんにすれば、安井さんはうらやましい面があったんじゃないですか。大岡さんは方法的には徒手空拳ですが、安井さんはレンガを積むように作品を仕上げ、理論を作り上げて先に進んでいくわけですから。
安井 去年の『安井頌司「俳句と書」展』公式図録兼書籍を大岡さんの奥さんにお送りして、返礼の手紙をもらったんです。その中に書いてあったんですが、大岡君は〝安井浩司はよかった、安井浩司だけだ〟って言いながら死んでいったそうです。大岡君が亡くなって十年の歳月が経ってから、そう奥さんが言うんですよ。それは間違いなく、本当の大岡君の言葉だったと思います。
―――大岡さんは、そういうことで嘘をつく方ではないですよ。
安井 逆に言えば、私だって大岡君の言葉に対する姿勢には、かなわないところがある。ちょっと待っててね・・・(端渓社の本を持ってくる)。大岡君は、こういった本を自分で作っちゃうんだからね。自宅の風呂場で和紙を漉いて、自分で活字を拾って製本までしちゃう。こういった本を専門に作る人はほかにもいるかもしれませんが、俳句を書きながら、これだけ素晴らしい本を作れるのは大岡君だけです。
端渓社版・大岡頌司著作 右から句集『花見干潟』『渤海液』、評論集『攀登棒風景』
―――大岡さんが作った本からも、言葉に対する〝魔〟的なフェティシズムを感じますね。書も独特です。今、安井さんの書斎に大岡さんの書が数点掛けられていますが、立派な字を書かれることもあるし、人を食ったような字も書く(笑)。
安井 うん、大岡君の書の真贋鑑定は難しいと思いますよ(笑)。
大岡頌司氏の書
―――安井さんは、歯医者というご自分の職業についてあまり語りたがらないですが、それは大岡さんが四六時中、俳句に関わる生活をしていたことと関係がありますか。
安井 いや、ぜんぜんない。それについては私の個人的な事情でね。言葉にするのも恥ずかしいような辛い思いがあるんです。それに大岡君だって酒を飲むと、〝安井、社会に出れば、俺は単なる職工だぜ〟って泣いてたことがあるんだから。でも彼が造った本は素晴らしい。ホント、神の業だよ。
■永田耕衣について■
―――この前の墨書展のインタビューで、大岡さんは永田耕衣さんの書展に刺激を受けて書を書き始めたとおっしゃっていましたね。耕衣さんと大岡さんの関係はどうでしたか。
安井 耕衣先生の弟子には私と枇杷男がいたから、大岡君は自分から接近してくることはなかったです。やっぱり遠慮していたところがあるんじゃないですか。ただ耕衣先生の書や作品を見て、間接的に自分を励ましたことは確かでしょうけどね。直接的には耕衣先生と関係を持たないように、大岡君は気を遣っていました。もちろん耕衣先生の方も、大岡君に流し目を送るようなことはありませんでした。
―――自由詩の世界には師弟関係がありません。ただ僕らは吉岡実に可愛がってもらって影響も受けましたから、吉岡が師だと言ってもいいわけです。でも師と弟子の関係も一筋縄ではいかない。時には〝吉岡なんてたいしたことないぜ〟と思ったりする。しかし時間が経つと〝やっぱり吉岡は偉かったな〟としみじみ考えたりします(笑)。耕衣さんについても、そういう感覚はありませんでしたか。
安井 それはそうですよ。耕衣先生は神じゃないんだから(笑)。
―――以前、耕衣さんと、安井さん、枇杷男さんは親子の関係で、父と子は喧嘩するんだよっておっしゃっていましたよね。
安井 そうね(笑)。枇杷男と耕衣先生は喧嘩して、最後まで仲直りはしなかった。
―――何が原因ですか。
安井 枇杷男は耕衣先生の元を出たかったんだろうね。耕衣先生の元にいたら、ずっと耕衣の衣を被っているような印象を持たれてしまうから。大岡君だってそうだよ。彼も重信の「俳句評論」を辞めたんですから。重信の元を飛び出ちゃったんです。枇杷男が飛び出した時は、耕衣先生は怒ったですよ。私が神戸の耕衣先生の家に行くと、機嫌が悪いんだな。耕衣先生の家を辞した後に、枇杷男の家に行くとわかってるから。それで〝枇杷男に言っといてくれ〟と言って、辛辣な枇杷男批評を始めるんです(笑)。だけどそれは仕方のないことで、文学の本質的な問題としてはそんなに争うことではないです。
―――僕は最晩年の耕衣さんに合計三回ほどお会いしています。で、正直に言いますね。耕衣さんとお話ししていて、なぜこの方の弟子である必要があるんだろうと思わないこともなかった。耕衣さんの〝文学悪魔ぶり〟は凄まじかった。決して嫌味ではないんですが、ご自分が今書いている俳句にしか興味がないということが、手に取るように伝わってきました(笑)。
安井 私が耕衣先生の弟子になった当時は、別の意味で耕衣さんは燃えていたからね。俳壇的な意味でね。
―――俳壇的な意味というのは。
安井 はっきり言えば、耕衣先生は俳壇から疎外されていましたから。変わり者で、嫌われ者だったわけです。
―――でも「天狼」は耕衣さんを同人に迎えているでしょう。
安井 耕衣先生は、結局「天狼」を辞めちゃうけどね。でも「天狼」同人は、みんな永田耕衣の悪口を言っていた。西東三鬼とか平畑静塔とか、さかんに耕衣先生の悪口を言っていたわけです。耕衣さんを多少とも慰めてくれたのは、石田波郷くらいのものだよ。〝耕衣よ、嘆くな。たった一人でも理解者がいればいいんだよ〟と言ってね。
―――山口誓子はどういう対応だったんですか。
安井 誓子はなにも言わない。あれは神だから(笑)。「天狼」では誓子は神なんだ。その下に三鬼や静塔、秋元不死男、橋本多佳子、榎本冬一郎などそうそうたる同人がいてね。その人たちが全部、立派な自分の結社誌を持っている。だから当時の「天狼」は大変なものだったんです。「天狼」の同人というだけで、はーっと思っちゃうような感じでね(笑)。
―――なんで耕衣さんが「天狼」同人になったんでしょうね。
安井 それは謎だな(笑)。だけど耕衣先生は「天狼」同人になって、直接、誓子の悪口は書かなかったけど、「根源俳句」論で独特の誓子論を書いた。だから誓子も〝出て行け〟とは言えなかった。
―――「天狼」は三鬼が誓子を担いで作った雑誌で、三鬼と耕衣さんは仲が悪かったはずなんですけどね。
安井 まあいずれにしても、当時の耕衣先生は、どこに行っても〝あいつは癖があって〟と言われていた(笑)。
―――でも耕衣さんは王道的な俳句をお書きになったでしょう。
安井 最後から見ればそうですけどね。そこに辿り着くまではすごく苦労された。だから私や枇杷男など、俳句で苦労している人が耕衣先生の元に集まったんです。吉岡さんだって、詩ですごく苦労されたから、耕衣先生の作品を高く評価されたわけでしょう。そういう一握りの詩人の評価によって、だんだん耕衣先生の評価が上がっていった。一番耕衣先生の悪口を言ったのは山本健吉かな。山本さんは当時最高の俳句批評家で、すごく権威があった。でも山本さんは晩年に耕衣さんの句を取り上げて、文句を言いながらも批評しています(笑)。耕衣先生は本当に冷や飯食いだったから、我々のような不良的な俳人が耕衣先生の所に行くのは、心情としてもあり得たんです。
―――耕衣さんは処女句集『青年経』の序文で、安井さんは「超関係的関係の創造、つまりカオスの創造に、苦楽の日々を責めている新奇な好漢である」と書いておられます。その後、耕衣さんの〝カオス〟という言葉が安井論のキーワードになっていった(笑)。普通、カオスは混乱・渾沌としているという意味です。でも正確に読めば、耕衣さんは安井文学の特徴は〝超関係的関係の創造〟にあるのであり、それを簡潔に表現すると〝カオスの創造〟になると書いておられる。別の言葉では〝前関係の創造〟――現実として現象する前の世界の本質的様態――が安井俳句の特徴だともおっしゃっている。『青年経』百五十三句を読んだだけでこの洞察を為し得るのは、やはり大変な俳人だと思います。
安井 うん、さすがです(笑)。でも耕衣先生はいわゆる〝前関係〟を、当時はまだはっきり把握していなかったと思います。そうじゃないかなという、モヤモヤした、でも正しい感覚でそう言っている。なぜかと言うと、耕衣先生の世界もそうだったから。耕衣先生も〝カオスの創造〟を目指していたんです。東洋的無とか言っているけど、それが本質なら永田耕衣の作品は面白くもなんともない。なんだかわからないカオスだから面白いんです。
告白しますと、私も最近ようやく〝前関係の創造〟とは何かがわかってきた。でもいざとなるとぜんぜん遠い世界でね。最後のところ、理論は役に立たない(笑)。その意味で、いまだに耕衣先生の〝カオスの創造〟という言葉が活きています。
―――耕衣さんは本当に勘のいい方だと思います。郁乎さんとはまた違う、俳句の本道に即した勘ですけどね。
安井 本当に俳句で苦労しているからね。吉岡さんだってそれがわかっていたから、耕衣先生とくっつくのよ。わかっている人たちだけが、わかり合っていたんです。そうでない人は、どんなに俳壇的に偉い人でも、耕衣先生とは仲良くなれない。私だって耕衣先生に、これはなんだろう、なんだろうって、解きがたい魅力を感じていたんです。だから高柳重信の元にいましたけど、それ以上に耕衣先生を師と仰いでいるわけです。
秋田の安井氏書斎に並べて掲げられている永田耕衣の色紙と高柳重信の写真
―――耕衣さんは「琴座」の『密母集』の特集で、安井さんには哲学はあるが人生観が見えないと書いておられる。ただそこから勘を働かせて、一見、人生観が空に見えるけど、それは作品に全部表現されているんじゃないかとも推察されている。これは面白いですね。耕衣さんには人生観があるように見えますが、実際には空洞化されています。耕衣さんは、ぜんぜん悟ってなんかいないでしょう(笑)。
安井 問題はそこにあるんだな。空なんだけど、それは簡単な空じゃないんです。何かで満ちている空なんです。
―――師弟逆の方向から、同じような境地に達しておられる(笑)。
安井 耕衣先生はご自分に近いものを感じて、私の俳句について〝カオスの創造〟ということを言ってくださったんじゃないかな。こういう面白いことを言ったのは、俳句の世界では耕衣先生くらいだと思います。「天狼」の同人など、ほかの方はみなさん一元的だった。もちろん素晴らしい俳人たちですけどね。
■師弟関係について■
―――もの凄く乱暴なことを言いますと、文学である限り師弟関係は必要ないと思います。文学者は一人で立っていけばいい。ただ俳句や短歌には、現実制度という意味ではなく、本質的な位相で師弟関係があった方がいいと思います。
安井 私は師弟関係はなくてもいいと思います。ところが共鳴するんだよ。〝真〟であるものは〝真〟にあるものに共鳴するんです。これは耕衣先生がおっしゃっているけど、〝真〟にあるものは孤独なんです。孤峰なんだな。でも孤独なものは、孤独なものにしか見えない。共鳴し合うと外からは、師弟関係に見えるかもしれないけどね。私は正確に言えば、耕衣先生と共鳴し合ったわけです。
―――それは制度としての師弟関係とは別ですね。
安井 世間にはいろんな利害関係があるからね(笑)。これは俳句だけでなく、詩や小説の世界も似たようなものだろうけど、文学というだけでは立ち行かない面がある。まあはっきり言えば、見苦しいものが絡み合っている。耕衣先生はそういった現実的利害関係に巻き込まれることを、すごく嫌がっていました。そういった仕組みがよく見えていたんでしょうね。我々はあまりそういう現世的利害的関係は意識しなかった。純粋な思いで師弟関係が成立していた。
―――俳句では〝俳句の実体〟のようなものを措定できるから、師弟関係が成立するんでしょうね。つまり〝核〟があって、そこから演繹的に俳句が生成される。もちろんこの〝核〟は多面的なので、見え方が違うと思いますが、同じ見え方をする俳人が師弟として共鳴するのだと思います。自由詩の世界には〝詩の実体〟のような〝核〟はありません。〝核〟は詩人個々の思想であり、それは完全に異なります。でも作品が、俳句とは逆に、帰納的にある〝求心点〟を指し示す。それが自由詩と呼ばれる共同体を形作っている。これは現世的な結社や師弟関係とは関わりのない、文学の話ですが。
安井 大きな俳句結社での師弟関係は、これはもう私の関心外の事柄です。私はそういうのは嫌で認めないからさ。
■今後の安井浩司の仕事について■
―――最初の話に戻りますが、「Unicorn」が刊行されていた昭和四十三年(一九六八年)から四十五年(七〇年)にかけて、前衛俳句は正念場だった。前衛という言葉を使わなくてもいいんですが、根源的でありかつ新たな表現を開拓する文学としての俳句は、あの時期に正念場を迎えていたと思います。それは小説や自由詩の世界でも、実は同じだったんじゃないでしょうか。俳句では加藤さんがそれを超克しようとして果たせなかった。郁乎さんの力不足を責めるつもりはありませんが、誰にとってもそれは、非常に重く、困難な課題として、今でものしかかっているんじゃないでしょうか。
安井 まだ尾を引いていると思います。ここでは簡単に重信以降と言ってしまいますが、私は私と大岡と枇杷男くらいが重信以降に見るべき仕事をしたと思っています。ただこれは現象的な話だけど、先ほど安井文学について論じる詩人が増えていると言ったでしょう。私と枇杷男について論じる詩人が増えているんだな。残念ながら、大岡君について論じる人は少ない。文学は厳しいものです。
―――枇杷男さんはあまり書いていないでしょう。書けない詩人に対する評価は微妙だな。特に年を取ってから書けなくなる詩人には、なにか根本的な問題がある。年を取って恐いものなしに書けるようにならなければおかしいわけです。でも安井文学を論じる詩人が増えている理由はよくわかります。作品においても理論においても、また実社会での身の処し方を見ても、安井さんはほぼ完璧に〝文学としての俳句〟を貫いておられる。こういう俳人は安井さんしかいない。文学として俳句を考える人は、必然的に安井さんに注目すると思います。
安井 でも今でも重信以降の俳句のアポリアは、完全に解消されたとは言えないと思う。なぜかと言うと、安井浩司の仕事はまだ完成してないじゃないかという思いで今も作品を書いているからです。現世で評価されなくて、未来から振り返ってもらってもかまいませんから、重信とも、郁乎や金子兜太とも違う作品を書いておきたい。〝ああ、安井浩司がいたじゃないか〟と思われるような仕事を残しておきたい。それが自分に対してはもちろん、大岡君や枇杷男や「Unicorn」の仲間たちに対しても、私の責任としてあるような気がするんです。これはもちろん私の内々の思いですけどね。
―――もう独自の仕事が積み上がっていると思いますよ。ただ僕は安井さんと同時代人で、同じ時代の空気を吸っています。小説では戦後文学、詩では戦後詩や現代詩が超克できていないように、俳句の世界でも、いわゆる前衛俳句の遺産の超克は困難な仕事です。最終判断は後世の人に任せるしかないですが、僕は安井さんは正しいと思います(笑)。
安井 あと一歩がなかなか大変なんだよ。これは冗談だけど、今日はちょっと泣き言を言うために、わざわざ来てもらったんだけどね。そろそろ飲みに行きませんか(笑)。
―――行きましょう。実際の俳句の世界を知ると、吉岡実の『「死児」という絵』で叩き込まれた〝俳句文学〟が正しいのか、現実に存在する大結社中心の俳句界が正しいのか迷ってしまうことがあります。吉岡は「自己か他者/「いずれかが幽霊である」」と書きましたが、あえて二項対立的な捉え方をして、どちらかが〝真〟でどちらかが〝偽〟だと考えなければこの迷いを断ち切れないところがある。安井さんとお話していると〝俳句文学〟が正しいと確信を持てます。安井さんがいてよかった(笑)。新句集、楽しみにしております。今日は長時間ありがとうございました。
(2013/08/27)
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